(第39章 貧困からの脱出)
美しく成長した美子に迫りくる危機を、退けるのはそろそろ無理だと感じた母は、全財産を入れた財布を持たせてくれた。美子は何事もないような顔をして、母親に頼まれた買い物に出かけるフリをする。
家を出ようとした美子は、ヤクザの幹部らしきスキンヘッドの怖そうな人物に、顎で使われている男と鉢合わせした。男は「ゴメン。今日は偉い人が厄介になるよ」と、美子から目を反らしながら申し訳なさそうに言った。スキンヘッドの男のサングラス越しの視線が怖かった。あのまま母に家から逃してもらえなかったら、どうなっていたのだろう。想像するだけで、足がガタガタと震えた。
『できるだけ遠くに逃げよう』と思ったが、大阪梅田に着くと、どこを目指せばよいのか、これからどうしたらよいのか、わからなくなった。
とりあえず、お店にでも入ろうかと思ったが、店員に「お待ち合わせでしょうか? 9時過ぎの未成年だけの入店はお断りしています」と言われ、自分が制服姿で何も持っていないのを怪しまれたのだと思い、入店を諦めた。地下街をウインドーショッピングを装って歩き、安住できそうな場所を探したが見つからない。そもそも関西にいながら、梅田に来たのも初めてで、見るものすべてが珍しく、人込みに紛れていたら安心できた。
周囲の人々は忙しそうに歩いており、浮浪者やみすぼらしい人がいても気に留めていない様子がわかり、少し安心できた。都会は、人が多い分、他人には興味がないのかもしれない。特に、かわいい女の子なら別だが、見るからに陰キャラで不幸を纏った女子とは関わりたくはないだろう。視線が合っても、気まずそうに目を反らされる。笑顔で客に接していた店員でさえ眉をひそめるのだから、居場所もなかった。
少しでも知恵があれば、ショップで私服を買い、安いビジネスホテルに泊まっただろうが、この時は世間を知らなさ過ぎた。歩き疲れてバス停近くの椅子に座ると、もう動けなくなった。夜9時を過ぎるとカフェやレストランから18歳未満は追い出されるなんて知らなかった。せめて私服ならよかったのだが、急だったためどうしようもない。どこにも行く場所がない。泊めてくれる友人や知人もいないし、いたとしても迷惑をかけるのがわかるので頼ることもできない。
大阪駅のバス停のベンチに座り、何度もバスが発車するのを見送る。まるで誰かと待ち合わせしているかのように装った。でないと補導されて家に戻され、母の努力も無駄になってしまうからだ。しかし、時間だけが過ぎ、最終バスも行ってしまった。体も冷え切り、指先は凍って感覚すら麻痺しているかのようだった。『マッチ売りの少女には温かいマッチの火があっただけマシだよね』と、意識が遠くなりそうだった。
バス停には誰もいなくなり、皆が電車へと急いでいる。最終電車に乗ろうと小走りで行く男性が、ふと足を止めた。「バスに乗り遅れたの? 家どこ? 送って行こうか?」と笑顔で話しかけてくれた。その一瞬、あたたかな風が吹いたように美子は目を細めた。「行くところがないんです。事情があって家には帰れないし、こんな格好だとどこの店にも入れてもらえないんです」と涙が頬を伝っているのに気づいた。泣くつもりなどなかったのに、優しい声と笑顔に胸に刺さったトゲのようなものが溶けていく。必死で気丈にしないといけないと思っているのに、この見知らぬ男性ならどうにかしてくれそうな気がして、頼ってしまった。
「そうか。じゃあホテルまで送ろう」と言って、近くに止まっているタクシーに乗るよう促された。
このままここにいるのは目立ちすぎる。悪い人ではなさそうだし、家に帰ることを考えると、男とホテルに行った方が安全だと考えた。タクシーに乗ると暖かく、やっと血が体中に行き渡るのがわかった。運転手には行き先を告げた。「多分、今日は平日だし空いていると思います」と言いながら、ホテルを予約してくれた。「シングルでいい?」と聞かれ、本当にホテルまで送るだけだとわかり、安心したと同時に少し落胆した。清潔そうでお洒落で、男らしいフレグランスの香りが漂い、声も素敵だった。出来る男という印象で、見れば見るほど男前だと思った。
「一人でチェックインするのは面倒そうなので、フロントのチェックは同行した方が良さそうだな」と独り言を言い、タクシーから一緒に降りてくれた。内心ほっとした。
ホテルは真っ赤なフカフカの絨毯がフロントまで続き、その豪華さに気後れするほどだった。フロントでは顔見知りの様子で、「親戚の子なんだ。いきなりこんな遅くに来られても使用人は寝てるだろうし、仕方なくここへ連れてきた。明日はモーニングも付けてあげて」と言われた。「いつまで大阪にいるの?」と聞かれ、「まだわからないけど、1週間くらいかも」と小さな声で答えた。男性は鍵を渡し、ポーターを呼んだ。「この子を部屋まで案内してくれる? 部屋の中とか、わからないことあると思うので教えてあげて。ルームサービスがあれば、何か食べさせてあげて」とチップを渡して去って行った。「好きなものを食べていいから。お腹が膨れたら少しは気分も晴れる。ブティックも入っているから、お洋服も買った方がいい。明日、女の子のファッションに詳しい使用人を呼ぶから、一緒に選ぶといい」とも言っていた。
ホテルに泊まるのは初めてだった。部屋の中でウロウロしていると、ルームサービスのサンドウィッチとカフェオレが届けられた。注文していなかったが、さっきの男性が頼んでくれたらしい。美子は夕食を取っていなかったことに気づき、お腹が鳴った。厚焼き玉子はまだ熱々で、トマトとの相性も絶妙。温かいカフェオレと一緒にいただくと、心まで温まる気がした。この時、名も名乗らず去って行った男性に淡い恋心が生まれたのかもしれない。
お風呂に入りたかったが、どうやってお湯が出るのかさえわからなかった。試行錯誤してやっと体を温め、安堵してくつろぐことができた。高級そうなシャンプーやリンスで髪を洗い、ボディシャンプーも初めて使い、異世界に旅しているような気分になった。脱いだ下着や靴下を洗い、ドライヤーで乾かす。制服にあった化粧品を試してみて、『これで少しは匂いをごまかせるかな?』とドレッサーにかけた。こんなに綺麗で贅沢な場所に来たのは初めてだった。ベッドも広くフカフカで、下着は洗ったので部屋にあった浴衣を着て布団にもぐり込むと、今日の出来事がまるで映画の一シーンのように思えた。『こんな夢みたいなこと、ありえない。きっと朝、目が覚めたらあの小さな自分の部屋かもしれない』と考えながら、すぐに眠りに落ちた。
かなり疲れていたのだろう。振り返ることのできない過去が悪夢のように美子を追いかけてくる。思わず大声をあげ、ベッドから跳ね起きた。そこは眩しい陽光に包まれており、自分がどこにいるのか、今が何時でこれからどうするべきか、頭の中が整理できるまで呆然と柔らかいベッドの上に座っていた。




