(第38章 かけおちして貫いた恋の結果)
田中美子の父親は、ここ数年、姿を見せていなかった。近所の人は口々に不安を煽る噂話を拡散していた。「きっとマグロ漁船に乗せられたか、過酷な肉体労働の末に病床に伏せているかも。それとも、保険をかけられ、今頃、殺されているのかも?」などと、無神経な噂話に花を咲かせているようだった。
中学生にもなれば恋をして彼氏のいる友人もたくさんいたし、高校生で好きな人がひとりもいない女の子などほとんどいないだろう。しかし、そんな恋を夢見ても仕方ないと諦め、過酷な環境で生きている女の子も存在する。
こんな豊かで平和な日本で、そんな状況下にいる人がいるなんて信じられないかもしれない。しかし、美子は今まで一度も恋をしたことがなく、男の子と付き合ったことももちろんない。本で読む恋の痛手など、お子様のオママゴトのようなもの。男女の愛憎劇を身近に見てきた美子には、男性は野獣のようにしか思えず、恋する心など別世界の出来事だった。
毎日、無事で何事もトラブルに巻き込まれないよう生きていくだけで精一杯だった。人間は環境の生き物だと言われているが、目の前で展開される残酷な仕打ちは、美子の目から希望の光を奪っていた。女は奴隷。金づるで、男の情欲のはけ口でしかない。幸せな恋愛など見たこともない。いや、貧乏暮らしの美子たちには、そんな悠長な夢話は他の世界の出来事にしか思えなかった。
不幸を身にまとい、人目を憚り、コソコソと隠れるように生きていた。自分を綺麗に着飾り、スイーツを食べながら友人たちと歓談したり、恋人同士で映画やテニスに行ったりする同世代の子の話が耳に入っても、自分には関係のないことだと気にもしていなかった。
ハシが転んでも笑う年頃。賑やかにおどけたり、盛り上がる場を避けるように家路を急ぐ。何年も切っていない長い髪と伊達メガネで顔を隠し、お下がりでヨレヨレの、アイロンのきいていない制服に、ボロボロのカバン。靴だって剥げていて、靴底もすり減っている。
美子の周りにはバリアのようなものが張り巡らされているかのように、誰も声をかけようとしなかった。一緒に帰る友人もいない。クラス全員が笑っていても、美子だけは暗い目をして反応すらしない。話しかけても返事は返って来ない。いつの間にか、そこにいるのに存在がないかのように扱われ、それが本人にとって居心地よかった。家のことや両親のことを質問されたら困る。住んでいる家が知られたら、もう学校には行けない。「お願いだから、誰も自分にかまわないで。気にしないで。名前も忘れてほしい」と、いつも祈るように思っていた。
美子の父は優しく家族思いの誠実な人だった。しかし、借金の連帯保証人にされ、逃げた友人の代わりに多大な借金を背負わされた。その後は、平凡な家庭が奈落に落とされるお決まりのパターンとなった。ヤクザのようなガラの悪い借金取りに追われ、職も失った。そして数年前から父の姿が見えなくなり、代わりにヤクザ者が家に住み着いた。
美しかった母が狙われていたのだと、後でチンピラたちの噂話で知る。か弱い母と娘が、こんな極道たちに囲まれ、逃げ出せる方法はなかった。セクハラや
パワハラを受けながらも、一向に男に媚びない母は立派だった。どれだけ言い寄られても、父を愛し帰ってきてくれるものと信じ、疑わなかった。
母の実家は、かなりの富豪だったらしいが、一人っ子だった母に自由はなかった。嫌な男を婿にされそうになったため、母は父と駆け落ちした。「家のために身売りするつもりはない」というのが両親に対する最後の言葉だったらしい。その時、母は毅然と振る舞い、「子の方から親を勘当したのだ。だから、美子も親の犠牲になんてならなくていいからね」と言った。
母はどれだけ貧困に喘いでいても、実家に頼れないと歯を食いしばって頑張っていた。身の危険も感じ始めた母は、美子のためにと一瞬弱気になったこともあった。しかし、実家にお金を借りに行ってしまったら、二度と父とは会えないことを覚悟しなければならなかったのだろう。母も一人娘ということで、幼い頃からの重圧はかなりのものだったようで、そこに戻る勇気はどうしても湧かなかったらしい。
富を持つ者の辛苦は経験した者しかわからないだろうが、「人格を破壊するほどの地獄の日々だった」というくらいなのだから、今の地獄の方がマシなのかもしれない。
母は学があり、本が好きで、ゲーテの「私は肉体的な暴力なら許せるが、精神的な暴力は許せない」という言葉を好んでよく使っていた。しかし、周囲に溢れる悲惨な暴力沙汰を見ていると、「精神的な暴力では死なないよなぁ」と密かに反発も覚えていた。
シングルマザーの母は、よく働いた。強くて美しい母だったが、借金のせいでヤクザ者の言い成りにならざるを得ないこともあった。そんな時、母はいつもゲーテの言葉を呪文のように言って自分を励ましているかのようだった。「たとえ体を征服されても、心だけは自由にはさせない」と。しかし、泣きはらした母の背中は細く、か弱かった。
それでも、母は美子を命がけで守ろうと必死だった。年頃になると、舐めまわすように見る男たちが行動を起こさないよう気を配ってくれていた。しかし、数人のヤクザ者が家に乗り込んできた時、美子が目的だと悟った母は、「お酒を買ってきてくれる?」と言って、財布を持たせた。その中には数十万円の現金が入っており、メモ書きで「逃げて」と書かれていた。何事もないフリをしていたが、その目には母の深い愛情と、二度とは会えないだろうという決断がみなぎっていて、悲しかった。
あの男たちに、もて遊ばれた女たちを見たことがあった。服を剥ぎ取られ、数人に痛めつけられ、降伏して男たちの言いなりになるしかない。逃げようとすると、情け容赦ない暴力と精神的追い詰めで絶望の中で狂い死にする女もいた。コンクリートに固められ海に沈められることもあると、男たちは笑いながら話していた。
あの頃より、逃げて捕まったら命がないと痛感していた。青い果実が熟れるのを待っているかのような男たちの卑猥な言葉に、美子は今朝も逃げるように学校に行ったのだった。
進路指導の先生が「奨学金も、君の成績なら取れる大学もいくつかあるけど、親御さんはどう言ってるの?」と、家の事情も知らずに能天気に言ってくる。
高校を卒業したら、きっと風俗で働かされる。「高く売れるから、すぐに借金も返せるよ」と、母に男たちが言っているのも聞いたことがあった。しかし、美子が逃げたら母はどうなるのだろう? 家に入り込んでいる男はヤクザ者らしく、チンピラたちが「兄貴」と呼んで数人来ているのを見ると、幹部なのかもしれない。母にぞっこんらしく、他の女たちのように雑に扱われていなさそうなのが、せめてもの救いだった。
高校卒業まで、周囲の男たちの情欲を退けられるのも、あの男に力があるからだと美子はわかっていた。しかも、男は美子や母に優しい一面も見せる。口紅や香水を母と美子にもプレゼントしてくれたりするが、その小指が無いのが気になった。そして、嬉しそうな顔を作ってお礼を言うものの、男のプレゼントを美子は一度も使ったことがない。事情を知らない友人には売ったり、お世話になっている叔母たちにあげたりしていた。




