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(第36章 天使の囁きは聞こえるか?)



社会の裏も嘘も知り尽くした悠一の前に現れたのが、家出少女の田中美子だった。見るからに貧困と不幸を身に纏った少女に、悠一は気づいて声をかけた。いつものことだったので、特に気にも留めていなかった。しかし、次の日、奥野弁護士との会食のときに現れた彼女は、別人のように美しく輝いていた。思わず胸が跳ねたのは、奥野先生も同じだったらしい。

貧困と避けがたい不幸から守るための社会法人を立ち上げたばかりの時の話だった。「シングルマザーや育てられない女性のために施設を作り、里親を斡旋して助けることの必要性を感じ、悠一が立ち上げた初めてのボランティアだった」。裏社会に蔓延していた、育てられない子どもたちの悲劇。そもそも繰り返されてきた女性蔑視と男尊女卑。風俗に売られ、奴隷のように体を売るしかなく、抜け出すこともできず、虫けらのように死んでいった女たち。

悠一の祖父の初恋の相手、つまり祖母となるのだろうか、ミカコがそうだったように、最初は借金のカタに売られ、売春を繰り返し、男の情念のはけ口となって人生を諦めていた。父親の違う子どもを何人も産み、育てられずに売り飛ばしたり、施設に預けたりして、奴隷のように生きていた。どれだけ美しくとも、いや美しいからこそ這い上がることのできなかった地獄。

そんなミカコから道徳心など教えられたことすらない母は、同時に祖父と父を愛し、二股をかけて悪ぶれもしない。そして生まれた悠一は、そんな母に放浪されてしまう。

「誰が、二人の人を愛してはいけないと決めたの?」と夢の中の母は、罪の意識ひとつもなく明るい目をして言う。

「だって、僕が俊一父さんの息子として戸籍上には書いてあるというのに、本当は祖父の子で、父とは兄弟だったなんて、ややこしいじゃないか?」と反論と、

「だって好きなんだから仕方ないじゃない?」と不思議そうな顔をして言う。

「僕は、あなたのそんな常識のないことに翻弄され、こんなにも苦しんでいるというのに」と非難しても、

「泰三さんの子供として相続して、残りは俊一さんの子供として、また遺産相続をする。これが一番相続税を安くできるし、泰三さんの偉業を構成美遺すことができるんだから」と言われ、悠一は納得してしまう。相続税など、無知な母が知っているはずなどない。

多分、祖父か奥野弁護士から得た知識を言っているにすぎないことは容易に想像できた。だから、それ以上、母の正義に文句をつけてもどうなることもない。そう、泰三氏にとっても、母のカスミは好きだった女の面影を求めて抱いただけの悲しい関係だったのだから。美しい女は山ほどいるのに、狭い人間関係の中で繰り返される修羅場。

富も地位も成功も得ても、それを受け継ぐ子孫がいないというのは? 今ここに多くの祖先がいて、続いた遺伝子たち。精子が異変を起こしているのも、種が淘汰されているのも、神の意思なのだろうか? 一人息子に種がないと知った泰三氏の苦渋の選択。カスミを妻にして悠一を息子にするという選択をしてくれていたなら、隠そうとさえしなければ悲劇は起こらなかったのではないか?

泰三氏の本当の気持ちはわからない。あれだけの頭脳と様々な苦境を乗り越えてきた逸人だったから、何か意味があったのだろうか? しかし、思い通りには物事は進まないものだ。ただ、息子の幸せだけを望んでいたと奥野先生は言った。特に、幼い悠一の後ろ盾になる父親がいたほうがいいと思っていた節がある。思いがけずできた子に対して、俊一が憎しみを感じないために。息子とカスミとの恋は、格好のチャンスだと飛びついたに違いない。秘密さえ守られたら、うまくいくはずだった。

泰三氏はリタイア前で、それほど性欲もあったとは思えない。留守がちだった夫に、カスミの方が堪え切れず泰三氏を求めてきたのかもしれない。この年なら、想像もできる。忙しすぎた俊一も悪い。性欲を抑えきれずに泰三氏と関係を続けたカスミ母も悪い。男は狩人。女も仕事も、目の前にあるとつい攻略したくなるものだ。そして、生まれた命。確かに愛し合って、この世に誕生した。

「社会に役に立つ人間になれ」とは泰三氏の口癖だった。財産よりも遺したかったのは、戦後の日本を復興させてきた自負と責任。富が救った多くの人々の顔。その喜びを子供たちに味わってほしい。財を成すまでの苦労よりも、富を活かすことの尊さ。そして、泰三氏の描く世界は、子供たちによって花開くことができるのだろうか。あるいは、「自分の子々孫々がたとえいなくなったとしても、育てた人材が世に役立つことができれば、本望なのだ」と奥野先生に語ったという。今、初めて自分の子をこの腕に抱きしめて、悠一は泰三氏の気持ちがわかった気がした。

「大きな男になれ。富士山のような。どこからでも見ることができ、皆の希望でもある富士山に」と、祖父の優しい声が聞こえた気がする。







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