(第32章 多重人格に逃避したワケ)
誰からも愛されている悠一だが、心の奥に闇を抱えて苦しんでいた。他人とは距離を持って接していたし、たとえ親友なるものができたとしても、永井財閥の凄さに目を丸くして、普通の付き合いができないのだ。しかも、お金目当てのいじめもあって、いつも余計に彼女や友人たちを遠ざける羽目になった。守られていたが、孤独だった。世話をしてくれる女中はいたが、食卓では一人ぼっちで誰とも話すこともない。心に空虚な穴が空いて、それはどんどん大きくなっていた。夢中で勉強したり、スポーツに励んで、その穴に落ちてしまわぬように頑張っていた。
父が兄だと知るまでは。父の苦悩、母の残虐な死、祖父の非人道的な生き方に憤怒し、どこにその感情をぶつけたらよいのかわからなかった。いつの間にか、記憶のないことが多くなった。最初は、悪い先輩たちに囲まれ暴力でねじ伏せられた時のことだ。気がつけば、家に帰っていた。ただ洋服が泥まみれになっていた。きっと、あのいじめっ子たちにボコボコにやられたのだと思っていた。いつもよりは傷が少ないのが不思議だった。「まあ、悠一様、喧嘩でもなさったんですか? 膝も顔にも傷があったから……そういえば、右手が痛い。コンクリートの壁でもぶつけたのかな?」と思っていた。
しかし、次の日、学校に行くと、昨日悠一を囲んでいた先輩たちが皆いなくなっていた。しかも、その先輩たちの腰ぎんちゃくのように偉そうにしていた同級生たちが、その日以来悠一を遠巻きにして近づいて来なくなった。「永井、昨日は大立ち回りしたそうじゃないか? どこかで武道でも習っていたのか?」と言われ、首をひねった。それから、しばしばチンピラや他の中学の暴走族たちが挑んで来たが、毎回意識を失い、次の日は英雄だった。
奥野弁護士に相談したら、催眠療法で別人格の隼人が現れたという。彼は幼い頃から、たまに出ていたのだと言っていたらしい。あの3歳の悲劇のこともよく覚えており、それがきっかけで生まれた別人格だったと診断された。他にもマコという女性の人格もいたらしい。奥野弁護士も、このマコとは何度か会ったことがあった。「悠一君が、てっきり性同一障害なのだと思い違いしていた」と言うのだが、どんなことをしたのかは教えてくれなかった。
他にも省吾というオタクがいる。しかし、用心深いので、出てこない。ハッカーをしたり、当時は誰もできなかったSNSを駆使して、様々な情報をゲット。幼い頃から、投資家としても活躍していた天才だった。もう一人、三上悠馬というジェンダーらしい麗人もいたが、成人するまでは身を潜めていた。ネイティブな英語で話し、当時珍しいカラーコンタクトをしてファッションも奇抜なので目立っていた。多くの人の記憶には残っているのに、悠一は、この頃は一度もその存在を認知したことがなかった。ソルボンヌ大学に留学してから、その存在は花開くのだが、この時にはほとんど出現しなかった。「ドレッサーに女物や、僕のものではない趣味の悪い洋服がかかっているのを、いつも不思議に思っていたんだ」と悠一は、この4人の別人格のことなど知らない様子で困惑していた。
奥野は、それぞれの人格が話す映像を見せられて、俊一もかかっている精神科医に、その後の治療をお願いすることにした。あの『美しい、何の汚れもない悠一の意識の外に、これだけの多重人格を抱えていたなんて』という現実に、永井家の背負わなければならない重責と、持てる者の苦悩に心が痛んだ。
奥野にも、何度かマコという女性になって迫って来たことがあった。それはそれは怪しくも美しく、女性好きな奥野でさえ2度ほど過ちを起こしたくらいなのだから。「どうりで、あんなに深く愛し合ったというのに、次に会った時は幼い子供のように無防備で明るい目をして奥野に何事もなかったかのように話しかけて来たはずだ」と合点がいった。しかし、どんな精神科医も悠一の多重人格を治せなかった。




