(第25章 バラ園の記憶)
悠一が帰国した時、すでに父の俊一は日本には住んでいなかった。世界のあちこちに住まいを持つ父は、雲の上の存在になっていた。しかし、生まれ育った豪邸は残されていた。
そこは、悠一にとって苦い思い出しかない場所だったが、祖父の代から働いている者たちのことを考えると、処分する気にはなれなかった。管理人のように年老いたハル爺やも、悠一の姿を見ると若返ったかのように元気になった。父のことを知る家政婦も少ない。しかし、いつ帰ってきてもいいように、いつも綺麗に掃除をして待っていてくれる。父たちの部屋も、まるで住んでいるかのように磨かれている。そこに、幸せだったかけらがあった。
古くからいる使用人たちは、いつも優しい眼差しで悠一を見守ってくれた。どこを見ても懐かしい記憶が詰まっている。そこには悠一の求めてやまない父の姿はどこにもない。それでも、今なら確かに、自分を大事にしてくれた沢山の人の思いやりが、愛情があったと感謝できる。
目を細めてテラスに出ると、ハル爺やが庭先で土いじりをしていた。「相変わらず精が出るね」と声をかけると、「ほら、カスミお母様が、お好きだったバラは、あの時のまま綺麗に咲き誇っていますよ。ご覧になりませんか?」と言った。
「お母さんは、バラが好きだったの?」と聞くと、
「バラを嫌いな女性なんているんですかね?カスミ様はバラを引き立てる白い小花のようなお方でしたけれど、情熱の深紅のバラが一番好きだと仰っていましたよ。確かに清廉で純白なドレスがお似合いの美しい方でしたが、心に秘めた情熱は真っ赤なバラそのものでしたね」と、ハル爺やは遠くの虚空を見つめながら笑みを浮かべていた。
「綺麗な虹ですな」と眺める空は青いのに、小雨がそこだけ降っているかのようだった。
「キツネの嫁入りかな?」と悠一も眩しそうに空を仰ぎ見た。
『幸せだった頃が、父にもあったのだろうか?』と思うと、
「母と、こんな綺麗な庭を愛でながら一緒に散歩したこともあったのかなぁ」と悠一が呟くように言った。
ハル爺やの地獄耳は、その言葉を逃さなかった。
「ええ。いつもそのテラスで朝食を召し上がって、バラの香りに誘われて庭園で長い間散歩されていました。本当に幸せそうで、悠一様も確かベビーカーに乗せられて、気持ち良さそうに眠っておられました」と。そして、後ろを振り返って、
「ほんに大きく立派になられて。カスミ様に似て、美しい。本当に父親似でなくて良かったなあ。そこに立っていたら、カスミ様が帰って来られたのかと見まがうほどじゃ」と目をほころばせた。
「そんなに似てる?」と聞くと
「ほんに、女に生まれていないのが不思議な位じゃ」とハル爺やは笑った。
「でも、こんな大きな女はおらん。二人のええとこばかり取って生まれたんだから。守って大切にしてくれんかのう?この庭やバラ園を。そして、この家を」と悠一を見上げて頼み込むように覗き込んだ。
『小さくなったな』と思った。凛として、いつも怖いくらい厳しい人だった。祖父の古くからの知り合いだったと聞いていた。
「おじいちゃんは、どんな人でしたか?僕は小さくて、全然記憶が無くて。全財産を僕に遺してくれたと言われても、財産だけを受け継ぐなんて何だか嫌なんだ。おじいちゃんのしたかったこと、知っていたら教えてよ」と言うと、嬉しそうに
「長い話になるけど、大丈夫か?」と笑った。
「ハル爺やはお酒は飲むの?一杯やって、聞かせてよ」と言うと、
「強いぞ。若い者には負けん。亡くなった者は、思い出話をしてあげると喜ばれると言うから。さて、旦那様の好きだった大吟醸で一杯やらせて頂こうか」と笑った。いつの間にか、空は黄昏時の色鮮やかなショータイム。家に入ると、上手そうな日本食の香りがした。
「とっておきの大吟醸がある。年代物だ。本当は旦那様のために取り寄せた逸品だったんじゃが、到着する前に施設に行かれて、とうとう帰って来ることがなかったからのう。先日、悠一様が帰って来られると聞いて、お酒の貯蔵庫に行って見つけたんじゃ。泰三さんが、悠一様と一緒に飲みたいと言っているかのようで、冷蔵庫に冷やしておいたんじゃ。こんなに早く役に立てるとは思わんかった。これもお導きかな?オーイ、酒のつまみを用意してくれ」と、夕食の支度をしているシェフたちに大声で言うと、ダイニングから女中たちの快活な返事があった。
そして、盃を三つ用意して大吟醸を並々と入れ、
「旦那様、悠一様と一緒にお酒が飲めるなんて、長生きはするものですなあ。では、いやさか」と言って一気に飲み干した。
「旦那様も、きっと一緒に盃を傾けてくれているはずですから。滅多なことは言えませんねえ」と、顔を皺くちゃにして誰もいない席に目をやった。そこには泰三じいじが座っているかのように語りかけていた。




