(第1章 祖父との思い出)
冬の富士山は、頭に白い雪をかぶり、堂々として日本を代表する山の風格を、見る者に与えていた。
「じいじい、あれが富士山? 本で見たから、すぐわかるね」
永井悠一は、まだ三歳だというのに、まるで大人のように、しっかりとした言葉を発した。
「本当に賢い子よなぁ。お父ちゃんの俊一が幼い頃とは全然違う。お前の父親は今もだけど、何も喋らん。帝王学くらい教えてやりたいのに、話をするキッカケすらくれない。
まぁ、アイツは経営者の器じゃあないかも知れん」
そう言って首を振り、悠一を抱き上げる。肩の上に乗せると、
「高い、高い。お前も、あの富士山のような男になれ。じいじの全部は、お前のものじゃ。大きな男になれ。誰もが、どこからでも見上げるような、凛々しく悠然たる富士山のような男になれ」
と言って、空を見上げた。粉雪が二人の上に降り注いでいた。
「きれい。積もるかなぁ? あのね、雪だるまでしょ。それから雪合戦するんだよ。そりとか、大きなお山を作って、中をくりぬいて……」
名前がわからず、助けを頼むような目を母親に向ける。
「かまくらって言うんだよ。中でお餅を焼いて食べたりできるんだけど。東京の雪は、そこまで降らないから、ママの田舎に行かないとね」母は笑って答えてくれた。
雪よりも白い肌、長い黒髪と大きな瞳が印象的な、雪女のように美しい人だった。
父に抱かれた記憶はない。いつも可愛がってくれたのは祖父だった。どうしてだろう。祖父と母は、いつも一緒だった。どこへ行くのも、遊ばせてくれたのも。祖父と母が仲良しだったからかも知れない。しかし、祖父を見る母の目が、なぜかいつも潤んでいたのが気にかかる。
ある夜、寝苦しくて目が醒めると、そこには白い母の背中が、荒々しい呼吸とともに激しく動いていた。地響きのような、そして野獣のような声がしていた。重なり合い、苦しそうに呻く母を見て、「助けなければ」と思い、叫び声を上げた。
「ママ……」怖くて体は動かなかった。
やがて、泣き腫らした悠一を、柔らかい母の裸の胸で抱きしめてくれた。華麗な花の蜜のような甘い母の香りに包まれ、安心して眠りについてしまった。
今ならわかる。母と祖父が何をしていたのか。そして、父の冷たい態度の意味が。いつも母は祖父ばかり見ていた。食事をしていても、居間でくつろいでいるときも。
そもそも、社交的な祖父とは違い、父は寡黙な人だった。近づいても、触れもせず、どこかに消えてしまう。物心ついてから、父が笑った顔を見た記憶はない。一度も抱きしめてくれた覚えもなかった。祖父とも母とも喋らない。もちろん、子供の悠一にも。
そして、中学二年生のときに祖父が亡くなり、喪主として挨拶していた父の声は、初めて聞いたかのような気さえした。しかし、祖父が亡くなってから、父の顔に笑顔が戻ってきた。偉大な父への畏敬の念が強すぎたせいか。それとも、自分が永井財閥の頂点に立ったという自信からか。悠一に対しては、以前と変わりはなかったが、多くの人を家に招いてパーティを開いたり、社交的で饒舌になった。本来の実力を思いのまま発揮できるようになったのか、まるで祖父のような威厳すら感じられるようになった。
「ますます亡くなったお父様に似て、何だか迫力というか、存在感が増したようですね」
「いやいや、お父様よりも博識でご立派かも知れませんよ。さすがに海外の大学に留学経験があるだけのことはある。今の時代はグローバルな意識で、ネットワークは世界ですからね。奥様も、居間は中国人とのハーフで、しかも共産党幹部のお家柄だそうですし。そのへんの企業が入手できる情報とは格が違う。総理の秘書官たちも、よくアドバイスをもらいに来ているでしょう。これからは中国の動向を見逃せませんからな」
「しかも、ここだけの話だが、愛人はアメリカのスパイだったって言うじゃないか。国に強制送還されて、行方知らずだとか」
「ああ、あの美人秘書の話か。バイリンガルで、本当はロシア人だと聞いたことがあるが、アメリカ人だったのか?」
さまざまな噂が、悠一の耳にも入ってきた。とにかく当時の父は、飛ぶ鳥をも落とす勢いだった。『プレジデント』やダイヤモンド社の雑誌にも、毎回のようにゲスト出演していたし、テレビ局からのオファーも途切れることがなかった。
美人秘書たちは、そんな依頼に大忙しだった。相手は世界なので、二十四時間対応を求められ、秘書も国ごとに配置され、出勤時間もまちまちだった。そのすべての情報をまとめて報告するチームの学歴も、錚々たるものだった。
家には一流の人も物も集まり、バブルという日本の最も良い時代を謳歌していた。
それなのに、父はまた離婚し、若い女の子と突然結婚した。父よりも悠一のほうが同年代と言っても差し支えない年齢だったため、「お嬢様もいらしたんですか?」と、娘だと誤解されることも多かった。




