8話
その日の夜。私は夕飯と入浴を済ませ、自室のベッドに飛び込んだ。相変わらず、今日も父とは大した会話もしなかった。
にしても今日は色々あって疲れたなぁ。色々と言っても、時間の止まった世界を満喫したこと以外、最悪なことばかりだったけれど。
『今さらだけどよぉ。お前はあれでよかったのか? 時間を止めるの禁止って言われて、わりとすんなり受け入れてたけど』
クロノスが私のデスクチェアに座りながら言う。
「……だって。殺されるなんて言われたら、……従うしかないじゃん」
ぽつりと出た言葉は、自分でも驚くくらい、生気の感じないものだった。
「……私だって、心底不本意だよ。なんでこうなるわけ? 今の私には時間の止まったあの世界がどれだけ大切なものだったか。なのに、それをなんで急にやめさせられるわけ? 時間管理局だかなんだか知らないけどさ。マジでくそ。どいつもこいつもくそ! ……なんなの? 神様は私のこと嫌ってんの?」
『おお、お前だいぶたまってんなぁ!』
皮肉屋の悪魔の言葉なんか無視だ。
それよりも今はイライラが止まらない。本当に何もかもがクソだ。どいつもこいつも、私の邪魔ばかりしやがって! ああもう、あの茶髪クソメガネ。マジでムカついてきた。
『でも意外だなぁ。殺すなんて脅しにお前が屈するなんてよぉ。気の強いお前のことだから、てっきり反抗すんのかと思ったけど』
「そりゃあ、反抗したかったわよ! ……でも、私はまだ死にたくない」
『自分の未来には希望がないって言ってたのにかぁ?』
皮肉屋悪魔が体を宙に浮かして、ぷかぷかとこちらまで飛んできた。嫌な笑みを浮かべながら、顔を近づけてくる。
「……それとこれとは別よ。まだ時間の止まった世界を満喫したいし、読みたい本だってたくさんある。だから、今は我慢するしかないの!」
時間停止を使った時点で、私は管理局に消される。そう約束してしまった以上、もう時間停止を使うことはできない。だから次に使う時は、本当に死を覚悟した、最後の最後だろう。
それに―。
「生きてさえいれば、またそのうち時間停止を使えるチャンスがあるかもしれない」
『お前、案外前向きだな』
「前向きっていうか、事実そうじゃない? 希望は薄いけど、あなたの悪魔パワーでどうにかしてもらえばいいんだし。まあ、最終手段だけど」
『なんで俺がテメェに協力する前提なんだよ!』
「ケチくさいわねー。いいじゃないそれくらい。私はあなたの契約者なんだから」
『ケッ。図々しい女だぜ』
そんなふうに、いつも通り皮肉屋の悪魔としばらく軽口を叩きあった。そう。今は時間停止を使えなくても、そのうちどうにか使える手段が見つかるはずだ。
そんな柔い希望を胸に、私はベッドに横たわって、就寝の体制に入った。
『俺は寝る習慣がないから、お前の文庫本でも読んでるぜ』
寝る必要のない悪魔のクロノスは、私が寝ている間はいつも起きている。クロノスの見た目は人間の成人男性そのものだ。悪魔といえど、成人男性の見た目をした人物が、寝ている間も自室にいるというのはなんだか気持ちが悪いし落ち着かない。でも、契約を結んでしまった以上は我慢するしかない。そこら辺はすでに割り切っている。
それに、今までこの悪魔に寝込みを襲われたこともないし、それなりに信頼はしている。……癪だけど。
「好きにしなさいよ。じゃあ、私は寝るからね」
そう言って部屋の電気を消し、私は深い海の底に沈むように、眠りに落ちた。
数時間後。私はベッドの上で唐突に目を覚ました。突然左胸の辺りが、激しい痛みに襲われたのだ。私はベッドから上半身を弾かせた。
ほんの一瞬だったけど、直接心臓を握られたかのような激しい痛み。あまりの苦痛に、思わず悲鳴じみた声も出てしまった。
「……はぁ、はぁ。……ぐっ」
『どうしたぁ?』
明かりを消した暗い部屋で、デスクチェアに腰掛けて文庫本を読んでいたクロノス。こんな暗闇でも本を読めるのは、なんらかの悪魔の特性なのだろう。
「……別に。……なんでもない」
こんな悪魔に心配されるのは癪なので、私は平然を取り繕ってそう告げた。
……いったい、今の激しい痛みはなんだったんだろう。
数秒の間を置いたけど、それ以降胸が痛むことはなかった。気にしても仕方がないし、今はもう痛みも引いていたから、……たぶん大丈夫だろう、と思うことにした。
「……おやすみ」
『おう』
私はそう言って、再び眠りについた。
*
喫茶店で時守に話を聞いたあの日から、一週間が経った。あれから私は時間停止の力を使っていない。再び訪れた時間の進む世界での生活に、いい加減ストレスが溜まってきた。
時間の止まった世界……。
あの世界の居心地を感じられなくなってから、心の中にぽっかり穴が空いたように、虚しい気持ちになる。まるで胸の中が真空になったみたいに。
そして私は、今日も時間停止を使うことなく、憂鬱ながらも朝から学校へと登校した。
朝のホームルーム前の教室内。クラスメートが揃いつつある教室に、みんな友人達と他愛もない話をして盛り上がっており、いつも通り変わり映えしない風景が広がっていた。
無論。私はその間も一人で読書に精を出している。
ただ、外は雨が降っており、心なしか室内はどんよりとしていた。
『ぷぷぷー。お前は相変わらず今日もぼっちだな』
クロノスが余計な茶々を入れてくる。相変わらず口の減らない性悪っぷりだ。
「鬱陶しいからしばらく黙ってて」
生徒の話し声で包まれている教室内なら、多少喋っても目立たないだろうと思い、私は小声でそう言い返す。
対するクロノスは『おぉ、怖い怖い』と、私を煽るような態度で、少し距離を置く。
それを無視し、私は読書を再開。
『……なぁ、ちょっと真面目な話なんだけどよぉ。お前なんか最近、高井ってやつに絡まれなくね?』
クロノスが、一番後ろの席に座る高井玲奈に目をやりながら、私に指摘する。ちなみに高井は今、自席で取り巻きたちとワイワイ話していた。
クロノスのその指摘には、私もここのところ違和感を覚えていた。時守と喫茶店に行った翌日くらいからだろうか。そのあたりから、高井は少しずつ、私に悪がらみをしてこなくなった。
けれど、その理由の心当たりはなんとなくわかっている。
話は、時守と喫茶店で話した翌日に遡る。朝、教室内に入ろうとした時、高井とその取り巻きたちが、自席に座る白雪小春を囲んでいるのが扉越しから見えた。一瞬何事かと思ったけど、聞こえてきた会話の内容からすぐに理解できた。
「あんたさ、昨日の昼休み。夏凪と一緒にいたよね?」と高井。
「……いたけど」
白雪が、怯えたような声で答える。
「あいつに絡むとか、あんたもけっこう変わってんねー。まあ、友達いない同士お似合いだけどさー。……まあ、これからはあんたも夏凪と同類ってことにしとくわ」
今中に入ったら絶対に面倒だと思って、私はそっと教室の扉から離れ、朝のチャイムが鳴るギリギリまで、いつもいる屋上前の踊り場スペースに場所を移した。
『さっき囲まれていたやつ。昨日お前に話しかけにきたやつじゃね? お前が冷たく追っ払ったやつ』
傍でクロノスがそう言う。追っ払ったなんて人聞きの悪い。……まあでも、間違いではないか。
「うん」
時守と喫茶店で話した日、昼休みに私がここで腰を下ろしていた時のことだ。白雪小春が友達になってほしいと話しかけにきた。
それを踏まえて、状況は概ね理解できた。たぶん高井か取り巻きか、はたまた他の誰かが、昼休みに白雪が私と話しているのを見たんだ。ぼっちな私に嫌な意味で執着している高井からすれば、私が誰かと一緒にいることが面白くないんだと思う。
故に。私と一緒にいた白雪小春が、高井からすれば気に入らなかった。
その結果。白雪小春も、高井に目をつけられ始めたのかもしれない。
それからというもの、ここしばらくは高井が私に嫌なちょっかいをかけてくることは減り、代わりにその矛先が白雪小春に向かうようになった。
だから、今ではもう高井が私に絡んでくる時代は終わり、白雪が絡まれる時代になっている。
おかげで私が高井に絡まれることは、ここ最近は極力なくなってきていた。
たった一週間でこうもあっさり状況が変わってしまうのだから、学校の人間社会というのは恐ろしい。
『あの高井ってやつ、お前に絡むのはもう飽きたのか? 最近は白雪ってやつに絡むようになったし』
自席で読書をしている私の傍。クロノスが私に訊いてくる。
「かもね。まあ私からすれば嬉しい限りだけど」
『そういえば、その白雪っての、昨日から学校来てなくね?』
クロノスが白雪小春の席に目をやる。その席に白雪の姿はない。
「そうだね。風邪じゃない?」
『いや……ふつうに高井たちにいじめられて気を病んでいるだけだと思うが?』
私の冗談混じりのセリフに、クロノスがまともな指摘をしてくる。
クロノスの言うことは、的を得ていると思う。
白雪小春は高井にターゲットにされて以来、かなりハードな要求をされていたから。
自販機でジュースを買ってこいとパシらされたり、移動教室の際に荷物を持たされたり。他にもいじめに近いことをいろいろと。
今まで私がそういうのをシカトしていた分、なんでもいいなりになってしまう気の弱い白雪が、高井からすれば新鮮でコケにしやすかったのかもしれない。
それもあり、白雪にたいする嫌がらせは、次第にエスカレートしていった。
「私からすれば、そんなことどうでもいいわ。っていうか、メンタルが弱すぎるだけでしょ」
『なーんか他人行儀だけど、いじめを見て見ぬ振りするお前もどうかと思うぜ? そもそも、白雪がいじめられ始めたのはお前のせいだろ?』
「は? なんでよ」
『だってお前と話したせいでいじめられたわけだろ?』
「そうかもだけど。にしてもその理屈はおかしいでしょ。そもそも、白雪が勝手に話しかけてきたんだから。私からすれば知ったこっちゃないわ」
『かーっ。冷てぇやつだぜー。まあ、別に俺からしてもどうでもいいけどな』
だったら読書中に余計なことで話しかけないでほしい。
放課後。ホームルームを終え、私は鞄を背負って帰宅しようとした。けれど、教室の扉を開けて、一階まで降りようと廊下を歩いていた時、背後から声をかけられた。
「夏凪さーん!」
女子の声。それも、私の大嫌いな声だ。
振り返ると、そこには高井玲奈がいた。彼女の存在を彩り強調させるように、取り巻きたちもいる。
「お友達の白雪さん、昨日からお休みだけど大丈夫―? 唯一のお友達がいないんじゃ寂しいでしょー?」
高井は相変わらず小馬鹿にするような笑みを浮かべ、私に迫る。どうやら、わざわざ私にちょっかいをかけるがためだけに来たらしい。なんて暇な奴らなんだろう。
っていうか白雪は友達じゃないし、一緒にしないでほしい。
「……何の用?」
「は? 何よその態度。こっちはわざわざぼっちなあんたに話しかけてやってんのに」
「頼んでないし。あと、白雪は友達じゃない。勘違いしないでくれる?」
「うわっ、ひっど! 白雪さんかわいそー。あんた最低だね」
高井が嘲笑する。取り巻きたちも、くすくすとそれに協調するように笑う。
「悪いけど、用がないんならどこかに行ってくれない? 私はあなたたちみたいに暇じゃ―」
と、私が言いかけた時。高井のさらに後ろから、男子の声がした。
「ちょっと、何事?」
そこには、時守監志がいた。思わぬ参戦に、高井たちがギョッとした顔で時守を見る。
「もしかして、いじめ? もしそうなら松崎先生に言いつけ―」
と、時守が言いかけた瞬間。高井がそれに反応して、彼に弁解しだした。
「ちょっ! 言いがかりはよしてくれる? 別にいじめてなんかないから! ちょっとお話ししてただけよ!」
あらあら。クラスの女王たる高井玲奈様が、随分と慌てていらっしゃいますね。
実にいい気味だ。
「ね? 夏凪さん?」
高井が私の方へ向き直り、同意を求めるように、笑顔で言ってきた。顔は笑っているけど、その表情の裏に脅迫じみた圧を感じる。
こんなクズに話を合わせてやるのは心底不本意だけど、合わせなければ話が長引いて、かえって面倒だ。
「……そうね。ただ話していただけよ。なんせ、高井さんが私にかまいたくて仕方がないって言うものだから。仕方なくね」
私はやれやれといった気持ちで、仕方なく高井の主張に合わせてやった。私の最後のセリフに高井は一瞬苛立った表情をしたが、場を穏便に済ませるために、すぐに抑えた。
「……ならいいんだけど。じゃあ、僕は夏凪さんと約束があるから、ちょっと借りるね」
「えっ、ちょっと!」
時守は私の腕を引っ張り、私を連れてその場を後にした。あまりに急だったので、私はつい声が出てしまった。けれど彼はそれに構うことなく、その場から私を連れて去っていった。
高井たちも急な展開に、私を引き止める余裕などなく、その場に立ち尽くしていた。
*
時守に引っ張られ、廊下をしばらく歩く。高井たちの姿が見えなくなったため、私はそろそろ時守に握られた腕を無理やり振り解いた。
「ちょっと、もういいでしょ。どこまでいくのよ」
「あっ、ごめん」
時守の考えは、何となくわかっている。
「……もしかして、私を助けたつもり?」
「……助けたっていうか、僕の都合かな。君が気落ちして、また時間停止を使うんじゃないかって、心配になったから」
「あのねぇ……。私が高井たちにちょっかいかけられるのはいつものこと。いまさら気落ちとかするわけないでしょ。余計なお世話!」
つい、大声が出てしまった。別に時守に助けられたことが嫌だったわけじゃない。……嫌じゃないけど。……ただなんか、時間停止を禁止されているこいつに手助けされたことが、癪に触るというか、自分が情けなく思うというか。……なんだかもやつく。
要は、大嫌いな敵に借りを作ってしまった、みたいなむず痒さがある。
『素直じゃねぇなぁお前は。素直に助けてくれてありがとう、って言えばいいだろ。もう高校生なんだからよ』
傍でクロノスが痛いところをついてくる。もう高校生なんだから、だとか、もう大人なんだから、と言われるのが、私は大嫌いだ。自分がいつまでも子供のまま立ち止まって、甘えてしまっているような劣等感を感じてしまうから。
なんだか時間の進みを感じてしまって、嫌になってくる。
「……あぁもう。わかってるわよ。……ありがとう」
まあ、助けられたのは事実だ。ここは素直にお礼を言っておこう。
「おぉ……。夏凪さんに素直にお礼言われるの、なんか新鮮で嬉しいね」
「……なんかキモい」
そんなふうに、しばらくあーだこーだと話していた。すると―。
「あっ、時守! いいところにいた!」
そうこうしているうちに、また誰かに声をかけられた。いや、今度は私にではなく、時守にだけど。
「あっ、松崎先生。どうしました?」
時守が反応する。そこにいたのは、私たちの担任である松崎。何やらA4サイズほどの封筒を腕に抱えて持っている。
「いやー、すまん。お前に少し頼みがあってな。白雪のやつ、昨日から欠席しているだろ? それであいつの家に今日の課題を渡しに行って欲しいんだが、頼めるか?」
なんともめんどくさい頼みだ。まあ、頼まれたのは時守だし、私には関係のない話だけど。
「それはかまいませんが、どうして僕に? 白雪さんとはあまり話したことがないのですが……」
「クラスで家が一番近いのお前なんだよ」
「マジですか」
たしか、時守はこの時代で生活するにあたって、拠点としている家があるって、前の喫茶店の時に言っていた。聞く話によると、家賃の安い普通のアパートらしい。
どうやらその拠点の家が、白雪の家とたまたま近かったようだ。
「わかりました。あっでも……」
時守は私に向き直り、何かを言いたげな顔を浮かべる。……なんだか、嫌な予感がする。
「ねぇ夏凪さん。男一人で押しかけるのは気が引けるし、夏凪さんも一緒に来てくれない?」
「は!? なんで私が!?」
嫌な予感が的中し、心臓が跳ねた。もちろん嫌すぎて。
「嫌よ! 私はさっさと帰りたいんだから!」
「えっ、ちょっと……」
私の拒絶と主張を聞いた時守は、気まずそうな顔で松崎の顔色を窺う。
私もつられて松崎の顔を見ると、顔を顰めていた。
うわぁ。やってしまったかも……。
「夏凪! クラスメートに届け物をするのがそんなに嫌か!」
「……あ、いや。別にそういうわけでは……」
気の利いた言い訳も、すぐに思いつかない。……もう、断れる状況じゃなさそうだ。
「……わかりましたよ。行きますよ」
「すまないな。じゃあ二人とも、頼んだぞ」
「はい。わかりました!」
「……はい」
松崎は時守に封筒を渡して、忙しなく去って行った。担任にもなると、仕事が忙しいのだろう。
「あっ、あと―」
松崎は何かを思い出したように立ち止まり、私の方に振り向く。
「夏凪。お前もういい加減、進路希望ちゃんと出せよ!」
松崎の大きな声が、廊下中に響き渡った。あぁ……また進路の話か。そんなことを言われるたびに、現実から逃げたくなる。また、時間の止まった世界で過ごしたくなる。
……あぁ、もう。白雪に届け物をするにしろ、進路希望にしろ、面倒なことが多すぎる。どうやら神というのは、つくづく私を嫌っているようだ。




