4話
二章 時間管理局
「時恵、そろそろ起きないと学校に遅れるよ?」
悪魔であるクロノスと契約を結んだ翌日の朝。私は、仕事に向かう父に起こされ、家の自室で目を覚ました。
「父さんそろそろ仕事行ってくるから、時恵も遅刻しないようにな」
「……うん」
私は目をこすりながら身を起こし、父に返事をした。まだまだ眠い。
けれど今日は、いつもより少し気持ちが晴れやかだ。なぜならば、昨晩にクロノスと契約を結び、時間停止の力を得たからだ。
やがて父は玄関から外へと出て行き、「行ってきます」と私に言い残し、仕事へと向かった。
昨晩、結局私は家を出て行った後に、自宅へと帰った。本当はもう帰る気なんてなかったのだけれど、悪魔と契約を交わした私は気持ちが軽やかだったのも手伝い、家へと帰ることにしたのだった。
父は心底安堵したように、泣きながら私を抱きしめた。「すまない、すまない」と、父はずっと言い続けていた。あまりに泣き続けられるものだから、少し罪悪感を感じてしまったくらいだ。
それはさておき、父が職場へ向かった今、私は家に一人となった。いや、厳密にいえば一人じゃない。私の傍には今まさに、昨晩出会った悪魔がいた。悪魔は私の机のデスクチェアに座りながら、ベッドで身を起こした私を眺めている。
『やっと起きたか。早く学校へ行く支度をしねぇとな!』
クロノスはデスクチェアに座ってクルクル回りながら言う。朝から声が大きくて、ちょっとイラッとする。
「……あんまり朝から大きな声出さないでよ。気分悪いから」
『そうか? まあ悪魔は寝る習慣がねぇから、その感覚はわからんけどな』
へぇ、そうなんだ。寝る習慣がないということは、この朝の眠気との戦いの苦痛を味わうこともないのだろう。羨ましい限りだ。
けれど、昨晩結んだ契約のおかげで、今日からの私はもうそんな朝の苦痛を味わうこともない。なんてったって、時間停止の力を得たのだから。
ベッドの傍らに置かれた自身の携帯で、今の時間を確認。七時三十分だ。あと十五分後には家を出ないと遅刻する時間だ。
けれど私は、焦りはしない。
そう。時間停止の力を得た私には、時間に支配されるようなことは起きない。登校時間ギリギリに力を使えば、あとはのんびりと、誰にも邪魔されることのない、時間の止まった一人の世界を満喫できる。そして、充分満喫できたのなら、学校の教室付近の人のいなさそうな場所までやってきて力を解けば、なんの問題もないのだから。
しばらくして、学校の支度が整った。時刻は登校時間の五分前。朝食のトーストを食べ、歯磨きも完了。
制服のセーラー服を着用し、父が作ったお弁当も入った黒のリュックサックを背負う。
あとは普通に玄関で靴を履いて部屋を出て、ドアに鍵をかけたのなら、準備完了だ。そのままエレベーターで一階まで降り、外へと出る。
外は夏の日差しが痛いくらいに強い。その上、暑さが活力を氷のように溶かして、気力も無くなってくる。
おまけに蝉の声が絶え間なく響き、それが夏に対するイライラをさらに増大させた。もう本当にうるさいしやめてほしい。今すぐに握りつぶしてやりたい衝動に駆られる。
あぁ、これだから夏は嫌いだ。
「じゃあ、さっそく力を使ってみようかな」
私は手のひらを空にかざす。時間停止の発動方法は、昨晩契約を結んだ際に、悪魔から教わっている。まずは今したように空に手のひらをかざし、合言葉を唱える。いざ使うとなると少しドキドキするけど、モタモタしていると学校の登校時間に間に合わない。
「時よ、止まれっ」
私がそう唱えると、突然目の前が白い光に包まれた。いや、目の前というよりかは、世界全体が光りだしたような感覚だ。けれどそれは一瞬のことで、すぐに光はおさまり、視界も少しずつ安定してきた。
そして、目をこすりながらあたりを見渡す。最初に感じたのは、合言葉を唱える前とは打って変わった違和感。
それはわかりやすいもので、要は世界から、音という音が消えたのだった。昨晩、悪魔に助けてもらった際と同じ感覚。まるで自身の聴覚を唐突に失ってしまったかのようで、一瞬焦ったくらいだ。
「……え、……すごい」
私はすぐに理解した。本当に、時間が止まったのだと。
先ほどまで目障りなくらいに鳴いていた蝉の声が一切聞こえなくなったのが、非常にわかりやすい。空を見上げると、風で空を泳いでいた雲も、今では静止していた。
本当に時間が止まっている。昨晩に同じ経験はしていたけど、自分で実際に時間を止めてみると、なんとも爽快というか、気分が高揚する。
「……なにこれ、凄すぎ! マジで止まってるじゃん! めっちゃ興奮するんだけど!」
なんだかワクワクしてきて、笑みが止まらない。
時間が止まっているのが関係しているのかはわからないが、さっきまで鬱陶しいくらい眩しかった日差しも、今では全く眩しさを感じない。日差しは確かに見えるけど、まるでそこに存在しないような感じ。もっといえば、日差しは当たっているはずなのに、全く暑さや眩しさを感じない。
時間が止まったことにより、日差しに対して何らかの科学的要素が働いたのかはわからない。まあ、なんにせよ好都合だ。おまけに夏の蒸し暑さも全く感じない。涼しいとまではいかなくとも、春のような快適な気温に感じる。
『お前もそんな楽しそうな顔ができるんだな。まさかそんなに喜んでくれるとは』
傍にはクロノスが立っていて、笑いながら茶化してくる。まだ昨日出会ったばかりとはいえ、いちいち癇に触るようなことを言ってくるこの悪魔を、私はすでに嫌いになりつつあった。
まあそんなことはどうでもいい。今はとにかく、思いっきりはしゃぎたい!
私はクロノスを無視して、時間が止まったこの世界を走り回った。
やがて通学路を外れ、ビルが立ち並び、普段なら車が走りかう都内の街へとやってきた。
驚きだった。道路を走っているはずの自動車という自動車全てが、完全に静止していたのだから。
自動車一台一台に走行していた残像が見られる。もともと停車していたのであろうものは、無論、残像はなくて、普通に止まったままだ。
歩道を行き交う人々も、みんな固まったように停止しており、他にも空を飛ぶカラスや洗車をしているホースから出る水など、目に映る一切のものが全て一貫して止まっている。
まるで、写真の世界にでも入り込んだかのようだった。
『おいこらてめぇ! 俺を置いていくな!』
後ろからクロノスがやってきた。けれど今はそんなことどうでもいい。
それよりも、あまりにカオスすぎる光景に、私は興奮が抑えられないでいる。
「なんだかまるで、私以外の人間がみんなこの世界から消えちゃったみたい……」
『あ? まさかちょっと怖くなってきたのか?』
「まさか。笑わせないでくれる? むしろ最高よ! 私ずっと、こんな世界で過ごせることを望んでいたの!」
今この世界には、私しかいない。その事実に、全く恐怖心はなかった。むしろ今まで体に巻き付いていた重い鎖が一気に解けたような、そんな清々しさを感じる。
土砂降りの雨の中、傘も刺さずにやっと帰宅し、びしょ濡れになった衣服を全て脱いで、暖かいシャワーで全身の汚れを洗い流した時のような心地良さ。
平日の金曜日に、やっと最後の授業が終わった時なんかとは比べ物にならない、人生単位で全ての邪念が消滅したような、神秘的な喜びと幸福感。
ずっと追い求めてきた夢が叶った時って、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。
もうこれからは、将来や未来のことなんて気にしなくて良いんだ。だって、時間を止められるんだから。今まで私を無視して進み続けていた時間を、私は止めることができる。
これからは、いつでも立ち止まれるのだ。なんて素敵なのだろう。
さて、この時間の止まった世界で何をしようか。
「あっ、そうだ!」
『ん? どうした』
私は咄嗟に思いついた。この世界でやってみたいこと。
ただ、そのやりたいことをやる場所へ行くには、ここからだと少し距離がある。歩いて行けなくもないけど、たぶん徒歩だと二時間くらいはかかる。
時間はもはや無限だけれど、私自身の身体的時間は止められない。そのため、体力はしっかり削れるし、お腹も空く。だから、空腹で死にそうになったら、一度力を解除しなくちゃならない。しかも時間停止は一日一回しか使えないので、一度力を解除すれば、時間の進む元の世界で、日付が変わるまで時間停止が使えない。
よって、あまり移動に無駄な体力を使いたくはない。その分お腹空いちゃうし。
だから、この悪魔に頼るのは心底不本意ではあるけれど、
「ねぇ、クロノス。ちょっとお願いがあるんだけど」
私は隣にいたクロノスに向き直り、満面の笑みと上目遣いで訊ねた。
『は? 何だよお願いって』
「あなた、空とか飛べないの? 飛べるんならさ、私を抱き抱えて、ここから南にある海浜まで連れてってよ」
『はぁっ!? 何で俺がんなことしなくちゃならねぇんだよ!』
案の定クロノスは、めんどくさそうな表情を浮かべて拒絶した。
「止まった海の上を一度歩いてみたいの。なんか面白そうだし、そんな経験なかなかできないじゃない? 絶対映えるって!」
私は手をパチンと合わせて、クロノスに頭を下げてお願いした。
『ざけんな! たしかに空は飛べるが、んなことしたって俺に何のメリットもねぇじゃねえか! お断りだな』
クロノスは知らん顔をして、私から目を背けた。なんて冷たい悪魔なのだろう。まあ、悪魔が優しかったらそれはそれで鳥肌ものだけど。
「あのねぇ。女の子がこんなに懇願してんのに断るとか正気? マジ器小さすぎ……」
『悪魔相手に大した度胸だぜ……』
「じゃあさ。あなた、好きなものある?」
『何じゃそれ? まあ、りんごは大好物だが、それがどうした?』
「お願い聞いてくれたら、帰った時にりんごをあげる。それならどう?」
さすがに釣り合いがとれないかな?
『ふーむ……。悪くない提案だな』
……いいんだ。思っていたよりもこの悪魔、扱いやすいかもしれない。
「よし、交渉成立ってことで。それじゃあよろしくね」
『へいへい……、よっと』
クロノスは私を抱き上げ、宙へと浮いた。状況的にはお姫様抱っこ状態だ。正直あまり気分のいい態勢ではないけれど、これ以上わがままも言えないので、我慢する。
『じゃ、とっとと行くぜぇい』
「うおっ!?」
クロノスは私に構うことなく、一瞬にして南の方角へと空を飛んだ。
そしてほんの数分後、私が指定した目的の海浜へと着く。
クロノスは砂浜に足をつけ、私を下ろした。
「ちょ、ちょっと、急に飛ばないでよ! 危うく舌を噛むところだったじゃない!」
『るっせーなぁ。注文が多いんだよ』
「まったく……まあいいわ。ありがとうね」
いろいろ言いたいことはあるけど、目的地には着いたし良しとしよう。
「うわぁ、ちゃんと止まってる!」
海の方へ目を向けると、やっぱり潮の流れも止まっており、まさに海全体が固まったような状態だった。なんというか不思議な光景で、心がふわふわする。
私は足を動かし、海へと向かう。文字通り、海の上に足をつけて、海面の上を歩き回った。本当に素敵な経験だ。私は生涯、この感動を絶対に忘れないだろう。
「すごい! 私、海面を歩いてる! ねぇクロノスも来なよ! マジ感動なんだけど!」
『お前、こんなはしゃぐやつだったんだな』
私が呼びかけると、クロノスは宙を舞い、すぐさま私の近くまでやってきた。
「うるさい。ほっといて。ってか、下やばい!」
下に目をやり海面の底を覗くと、そこには魚たちが海面の底で固まっていた。まるで氷漬けにされているかのように。ただ、結構遠くまでやってきたので、海が深い分海面の底が暗くてよく見えない。
「ふー……」
しばらくして、私は海の上に寝っ転がった。ひんやりしていて気持ちがいい。波の揺れが固まったでこぼこもあり、多少背中が痛いけど、そこまで気にはならなかった。
「……私初めて、生きててよかったって、思えた気がする」
今まで、時間が進み続ける現実が、嫌で嫌で仕方がなかった。私はずっと、立ち止まっていたかった。未来に向けて頑張りたくなんてなかった。けれど、時間が進み続ける以上、未来というのはいずれやってくるものだ。その必ずやってくる未来に、早く大人になれと急かされているみたいで、いつも胸の中が締め付けられた。
周りの同級生達は、みんな進路希望を書いて将来のことを考えているのに、私だけは何も考えられないでいた。なんだか自分だけ、周りから置いて行かれているような劣等感もあって、私だけ遠い海の底へと押し沈められていくようだった。まるで、今上に寝転がっている、真っ暗な深い海のように。
『こんなことでそう思えるなんて、お前の人生はちっぽけなもんだな』
「なんとでも言ってよ。どうせそんなのわかりきってることだし」
『ははっ、どんだけはしゃいでいても、根暗で卑屈なのには変わらねぇな』
「いちいち一言多いのよ、クソ悪魔」
『お前、マジで強いな……』
クロノスと言い合っているうちに、なんだか眠くなってきた。……少し寝ようかな。なんてったって、どれだけ時間を浪費したところで、実際の時間は止まったままなんだから。
気の済むまで、一人の世界を楽しもう。……願わくば、いつまでもこの安らかな時間が、続きますように——。




