語り部
2025年の夏、好司から携帯電話にメッセージをもらった。航太の発病後、それまでにも何度かメッセージをもらったが、航太の病状を確認する遠慮がちな内容であった。航太も病状を伝えるだけで、積極的に会う機会を探るようなことはしなかった。航太の心境としては、相手次第というスタンスで、相手から「会おうよ!」という呼びかけを断るようなことはしなかったが、積極的にそのような呼びかけを行うこともしなかった。今回の好司のメッセージは、久しぶりに「会おう」というものだった。航太は、退院後既に何人かの人と会っていたが好司とはまだ会っていなかった。『好司とはそろそろ会うべき時期なのだろう』という航太の感覚的な想いもあり、会うことを約束する返信を送った。この年の夏は暑かったので、暑さが和らいでから会うことにしたので、会うのはそのメッセージから1ヶ月後になった。会う場所は、好司が航太の住んでいるところまで来ると言うので、茅ヶ崎駅の近くの小さなイタリアン・レストランで昼飲みをすることにした。航太の住んでいる平塚でもよかったのだが、そのレストランは、茅ヶ崎駅の近くにあり航太が自力で行き、酒を飲んでも自力で帰ってこれることを経験している場所でもあり、その頃頻繁に利用していた。好司に会ったのは発病前で三年ほど経っていたが、会ってみるとそんな時間の隔たりなど感じさせない雰囲気でった。会ってみると、毎日会っているような感じで自然に会話が進んだ。会話は、まずは航太の発病当時の病状の話から始まり、リハビリの成果を賞賛する話から世間話へと移っていった。その頃流行っているテレビドラマの他愛もない話をきっかけに好司がその頃の見たテレビニュースに関する真面目な話が始まった。
「最近さぁ、第二次世界戦後80年ということなのか、第二次世界大戦を扱うニュース番組が多いよね」。
と言う話を口火に、好司の話はさらに続く、
「そんな番組の中でもやたら『語り部」』が減っていると話が多いけど、当然だよね80年も経ってるんだから」。
その流れで航太が半分おどけて言う。
「俺が生まれた年は確か明治91年だから、江戸時代を生活した人から体験談を直接聞くということはなかったもんね」。
そんな航太の話を受けて好司は、
「よく『明治91年』って知ってたな」。
と切り返し、航太がその問いに答える間も無く好司は話を続けた。
「それはともかく、俺らは『昔の話は教科書で学ぶか時代劇や映画、書物で知るもの』だと思ってたよな。時代が変わってもせいぜいそれらにインターネットや漫画、アニメが加わったようなものじゃない」と話を進めた。航太は、『こんな話、久しぶりに会った友人同士が交わす内容なのか?』と思ったが黙っていた。
そんなことを思っていた航太であったが、少し真面目に考え出し、酒が入ったせいもあり力説が始まった。
「アニメはいいよね。小説だと固い苦しい印象があり敬遠ぎみだけど、アニメはいいよね。見るきっかけさえあればすぐに入り込める。まずはそのテーマに興味を持つことが重要だね。興味を持てば、その興味に引きづられそのテーマのアニメなどに入り込める。良質なアニメなどに出合えばそのあとはそのアニメなどがリアルに戦争の悲惨さを伝えてくれるんだと思うよ』。
第二次世界大戦に関する話には、航太には思うところがあった。その一つは航太の両親の戦争体験者としての話だ。航太は、話を続けた。
「俺の場合、子供の頃、第二次世界大戦に興味を持ったんだけどそのきっかけはオヤジだな」。
「オヤジは、第二次世界大戦末期に旧制の中学を卒業し、大学進学を辞めて海軍の予科連航空隊に志願兵として入隊したと言ってた」。
「特攻隊予備兵だったんだけど、当時の物資不足で飛行機には乗ったことがなかったんだって」。
「出撃の一週間前に終戦になったらしいんだけど、当時のオヤジは、戦争で戦って死ぬことは名誉なことであり、それこそが日本男児の大和魂なんだと信じていたように思うよ」。
「でも。本当のところは分からないな。本音は聞いていないから。オヤジの言ってることは第二次世界大戦中に政府や軍部が行った洗脳なのかな。おじいちゃん、あ、オヤジのお父さんも一緒に暮らしていたけど、おじいちゃんからは何も話を聞いていないし。オヤジの特攻隊志願をどう思ってたんだろうね」。
当時の航太の父親の考えや想いは、航太も理解できる部分があると思ったいる。
『若い頃には、何かに掻き立てられ盲目的に自分を犠牲にしてでも何かをなしとげなければならないと思い込むことがある』と航太は思った。
航太も、このような考え方や洗脳は危険であると思っているのだけれど、航太が父親を肯定的に考えられる考え方でもあった。
また、航太の父親は第二次世界大戦中の日本を美化している部分もあるように航太には感じられた。
『悲惨な結果、例えば敗戦や玉砕や被曝に自分が直接関わりがないを感じることができるのであれば、自分が過ごした若い頃の時代を否定的に語ることは自分が否定されるように感じ、肯定的に語れるその時代の部分のみが自分が生きてきた時代を美しい思い出とすることができ、その結果、部外者からはその時代を美化しているように捉えられてしまうのではないか』と航太が考えるところであった。
そんな父親からの影響で航太を第二次世界大戦の戦記物の書物に向かわせた。戦記への航太の興味は、戦争の悲惨さを知るというものではなく、戦闘機を巧みに操り多数の敵機を撃墜する英雄的パイロットの話や機転を発揮し不利な戦況を逆転する凄腕の司令官の話など、どちらかといえばと武勇伝的な話であった。「語り部」の目的とは真逆である。ところがある日、航太が『ゲシュタボ』と題する書物で『アウシュビッツ捕虜強制収容所』の話を読んだ。その本に描かれたあまりに残酷な内容に第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の話を描いた書物を読むことを航太から遠ざけていった。以降、本棚にあるその書物からは、気持ち悪さを誘うようなうな空気が放っているように感じた。その一方で太平洋戦争の戦記物は読み続けていたが、『アッツ島』の玉砕の書物に出会すことになる。『アッツ島』の本を読んでいる途中、気分が悪くなるのを感じそれ以降その書物を読めなくなった。玉砕の話はそれまでもサイパン島の戦いや硫黄島の戦いなど多くの本を読んでいたが、この『アッツ島』の戦いを描いた本は玉砕までの悲惨な過程の描写があまりにもリアルだったので航太は途中でその本を読むに耐えられなくなった。このようにリアルな描写を含む本などは、「語り部」の話す内容のようにリアルな悲惨さを伝えることができると航太は思った。
航太は、母親からも東京大空襲の話や疎開先の生活の話などを聞いてた。その中で東京大空襲も悲惨な話であった。当時、東京の下町でお店を営んでいた母型の祖父は、幸運にも東京大空襲の前日に母親姉妹が生活していた疎開先を訪れていた。そこで「東京で大きな空襲があったらしい」との話を聞いた祖父は、お店の様子が心配だったので東京へとんぼ帰りした。店には二人の使用人がいたそうである。祖父の数日に及ぶ捜索にも関わらずその二人の消息はわからなかったらしい。
また疎開先の話の一つにアメリカ軍機による機銃掃射の話がある。疎開先で田んぼの畦道を歩いていた人が雲の中から突如として現れたアメリカ軍の戦闘機に機銃掃射され命を失ったという話である。もし目前の人を銃剣で刺すとしたら、銃剣を刺す人はその銃剣に刺される人と目を合わせることになるであろうし、刺したときの返り血を浴びることは容易に想像できるであろう。少なくとも平穏な暮らしを営んでいる人には、その光景を現実なものにしたいとは思わないに違いない。しかし、下界を歩く人を機上から見と単なる無機物な動く物体にしか見えないのであろう。戦争という異常な時期に戦闘機というおもちゃを与えられた若者には、下界を動く物体が笑ったり悲しんだりしながら日々を懸命にこの世の中を生きている人間だと想像力を働かすことはないのであろう。
「俺が戦記物を読んだ動機は不純かもしれないが、オヤジの話がきっかけとなって『アウシュビッツ』と『アッツ島』の話にたどり着き反戦意識が芽生えた。反戦運動に参加したことはないけどさ。母親の話は、戦争の悲惨さを伝えるというよりも現在では考えられないような悲惨で険しい時代を生き延びたという自慢話のように聞こえたけど結果的にはこれでいいのではないかと思うよ」と航太は語った。
「でも、あの当時、俺らが小学生の時だけどさぁ、戦争を体験した世代と戦後生まれの世代とは、対立しているように見えたよね」と航太は続けて語り続けた。
戦争という悲惨な体験をくぐり抜けて当時の日本を牽引していると自負している世代と、その世代のもとで平和が維持され、ぬるま湯に浸かっているような生活を送っていた若者達という構図である。
一方で、航太は当時を、『多くの戦争体験者が戦争の事実を過去のものとして見えないところへ押し込もうとしている』ように感じており、『戦争体験者の多くは、戦後も軍国主義を引きずっている』ようにも感じていた。
航太はそんな過去に受けた印象が頭を巡り、酒の酔いがまわってきたのか学生ように好司に語りかけた。
「戦後生まれの人達、俺らよりちょっと年上の人達、戦争体験者に対して「戦後は終わった」とか言って反抗心を露わにしていたよね。今と違って親とその子供達が仲良よくしていることはあまりなかったし。『戦争を知らない子供たち』というフォークソング流行ったじゃん。あの歌、若者の戦争体験者に対する反抗心を表したもののように思ってるんだけど。渋谷や上野に『傷痍軍人』と呼ばれていた旧日本兵らしき人が軍服を着て街頭集金活動をしてたよね。大抵、片足や片腕がない人達だったけど。通行人はそれらの人たちから少し距離を隔てて歩いてたよね」と当時のことを振り返って航太は語った。
航太は話題を変えようと話のまとめに入った。
「戦争が過ぎ去った後の数年は、ひとそれぞれの個人的思いがその時代と交錯し客観的な事実を認識できなかったり素直に受け止められなかったりしているたように思う。だから、過去の戦争を客観視できるようになるのは、『語り部』という人たちが消え去ろうとする今みたいな時代になってからなのかもしれないね」と好司の同意を求めるように語った。
好司からの明確な同意が得られないまま、航太は話題を変えることを試みた。
「話は変わるけど、知り合いにオランダへ長期出張に行った人がいるんだ。その人は、オランダの街中で突然非難じみた言葉を投げかけられたらしいんだ。そのあと、オランダと日本との関係を調べ、第二次世界大戦中オランダ人捕虜に対する旧日本軍の蛮行について知ったらしいんだ。俺は、小学生の時に読んだ戦記物の書物でそのような事実を知っていたので、『まだオランダでそのことで非難されることもあるんだ』と思うくらいで特に驚くこともなかったけれど、その人はそんな歴史があるのなら学校の歴史の授業でしっかりと教えるべきだと憤慨していたよ。俺が感じるところでは、日本の学校に歴史の授業は、時系列に歴史上の出来事を並べその出来事が起きた年号を暗記する暗記力を養う科目だと感じてる。歴史学者になるならそのような情報も重要かもしれないけれど、ほとんどの人は歴史学者にはならないから、暗記力を養う科目になってしまい数学のように理論的思考を養うものでもないように思うよ。俺が思っている通りなら、歴史は、生徒が社会に出た時に役に立つような情報に重点を置いて教えるべきだと思うよ。例えば、『なぜ、パレスチナのユダヤ人とアラブ人はいがみ合っているのか?』とかね。ユダヤ教やイスラム教の発症から中東の領土問題までテーマの目的に沿った歴史的事項をストーリーのように学ぶ方が、役に立つし面白いんじゃない?このような内容に興味を持ち更に深掘りするがいれば、俺のオランダに行った知り合いのように不意打ちを喰らい不快な体験をすることもないように思うんだけど。」と自説のようなものを好司に語り続けた。
久しぶりに会った友人同士が、こんな話がでよかったのだろうか。次は、もっと楽しい遊びの話でもしたいけど、航太は、『将来一緒に遊ぶことはないだろうから、将来遊ぶ話などができないからこんな話になるんだろうな』と思うのであった。
でも、航太は好司と会ったことで、何か一つの予定されていた行事が終わったような感じがした。




