語り部
このところ戦後80年という節目の年のせいか、テレビなどで第二次世界大戦のニュースが多く、その中でも「語り部」が減っているというニューズをよく耳にする。当然のことながら、昔ののことをリアルに伝える人はやがていなくなってしまうだろうと航太は思った。体験者がその体験をリアルに語るということは非常に価値があるものだと思うけれど、時の流れには抗えるものではないかと航太は考える。昭和生まれの航太の経験からは、江戸時代に生活がした人から体験談を直接聞くとうことはなかった。航太の時代は、遠い昔の話は教科書で学ぶか時代劇や映画、書物で知るものであった。今は、時代劇や映画、書物に変わりにインターネットや漫画があるように思う。
だとしたら重要なのは興味を持つ「菊花krである。歴史の教科書など、特に低年齢層の者が目に触れる機会が多いメディアに特定の戦争に興味を抱かせる役割を課し、教科書などにより抱いた興味に時代劇や書物、インターネットや漫画などが応えて、その戦争や災害の悲惨さをリアルに伝えることができれば、語部の一部の目的は達成できるように思う。
航太の場合、第二次世界大戦に興味を抱かせる父がいた。第二次世界大戦末期、当時旧制の中学を卒業した航太の父は、大学進学を辞め当時の予科連航空隊に志願兵として入隊した特攻兵予備兵であった。父は晩年になり、「大学に行ってれば」と後悔のような思いを吐露していたのだが、予科練入隊当時の父は、戦争で戦って死ぬことは勇気ある者の当然の行いのように思っていたことは想像に難くないところである。その父の影響を受け小学生の航太も戦争で命をかけて勇敢に戦うことは当然のことのように感じていた。
そんな環境が航太を第二次世界大戦の戦記物の書物に向かわせた。戦記への興味は、戦争の悲惨さを知るというものではなく、勇敢に戦う兵士や戦略、独自な性能を持つ数々の戦闘兵器へのあこがれのようなものを満足させるものであり航太を夢中にさせた。「語り部」の目的とは真逆のところにあった。ところが、「ゲシュタボ」と題する書物で「アウシュビッツ捕虜強制収容所」の話を読んだ。その時から第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の話を描いた書物を読むのを避けた。以降、本棚にあるその書物からは、気持ち悪くなるような悪臭を放っているような感じがた。その一方で、太平洋戦争の戦記物は読み続けていた。そんあな中のある日、アッツ島の玉砕の書物に遭遇した。その本を読んでいる途中、気分が悪くなるのを感じそれ以来戦記物の書物を読めなくなった。玉砕の話はそれまでもサイパン島の戦いや硫黄島の戦いなど多くの話を読んだが、このアッツ島の戦いを描いた本は、玉砕までの悲惨な過程の描写があまりにもリアルで途中で読むに耐えられなくなった。このように、リアルな描写の本などのメディアは、「語り部」の話す内容に匹敵するのである。要は、それを読む切っ掛けなのではないかと航太は思う。
戦記物の書物とは別に航太は、母親からも東京大空襲の話や、疎開先の生活の話なども聞いてた。東京大空襲も悲惨な話であったが、疎開先で畦道を歩いていた人が雲の中から突如として現れたアメリカの戦闘機に機銃掃射され命を失った話なども衝撃を覚えている。もし目の前の人を銃剣で刺すとしたら、銃剣を刺す人は、刺される人と目を合わせることになるであろうし、刺したら返り血を浴びることになるだろうし、これらのことは事前に想像できるであろうから、少なくとも平穏な暮らしを営んでいる航太には異常な行動としか思えなかった。しかし、機上見る下界を歩く人は単なる無機物な動く物体にしか見えないのであろうし、戦争という異常な時期に戦闘機というおもちゃを与えられた若者は、下界を歩く物体に親兄弟がいるかもしれないとは想像することはないのであろう。
上に書いた二冊の書物と母親の話が航太の反戦意識を抱かせたが、母親の話は、戦争の悲惨さを伝えるというよりも、悲惨な希少体験をしたという自慢話のように聞こえた。父親の話も、父自身の人生を肯定するために第二次世界大戦を美化していたように感じられた。当時、戦争を体験した世代とその人たちの上司や教師である戦後生まれの世代との間には、明らかに世代間ギャップのようなものが生じていた。戦争という悲惨な体験をくぐり抜けて当時の日本を牽引してた世代と、その世代の人の下で平和が維持され、軟弱な生活を送っている若者達という構図である、一方で、航太は、多くの戦争体験者が戦争の真実を過去のものとして見えないところへ押し込もうとしているように思えた。航太には、多くの戦争体験者が依然軍国主義を引きずっているように見受けられた。「戦後生まれ」は、戦争体験者との世代間ギャップにより「戦後は終わった」というスローガンのもとで反抗心を露わにしていたように思えた。航太は、後に流行ったフォークソングの「戦争を知らない子供たち」もこのような反抗的な意味と捉えて歌っていた。渋谷や上野には、「傷痍軍人」と呼ばれる旧日本軍の軍服を着た片足などがない傷病兵が街頭集金活動をしていたが、道行く人の多くは過去の遺物を見るような目で彼らから少し距離を隔てて歩いていた。
戦争が過ぎ去った数年は人それぞれの思いが交錯し、客観的な事実が伝わらなかったり、素直に受け止められなかったりしたように思える。過去の戦争を客観視できるようになるのは、航太は「語り部」という人たちが消え去ろうとする時代になってからなのかもしれないと思った。
話は変わるが、知り合いにオランダへ長期出張に行った者がいる。その者は、オランダの街中で言われのない非難じみた言葉を投げかけられたそうだ。その後、オランダと日本との関係を調べたら第二次世界大戦中オランダ人捕虜に対する旧日本軍の蛮行について知ったそうである。航太は、小学生の頃に読んだ戦記物の書物でそのような事実を知っていたので、『まだそんなこともあるのか』と思い驚くこともなかったが、その者はそんな事実があるのなら学校の歴史の授業でしっかりと教えるべきだと憤慨していた。航太が感じるところでは、日本の学校に歴史の授業は、時系列に歴史上重要な出来事を並べその出来事が起きた年号を暗記する暗記力を養う科目だと感じていた。歴史学者になるならそのような情報も重要であるように推測するが、ほとんどの人は歴史学者にはならない。暗記力を養う科目なので数学のように理論的思考を養うものでもない。だとしたら、生徒が社会に出た時に役に立つような情報を教えるべきだと思う。例えば、「なぜ、パレスチナのユダヤ人とアラブ人はいがみ合っているのか?」ということをテーマに教材を組めば、ユダ教やイスラム教の発症から中東の領土問題までテーマの目的に沿った歴史的事項をストーリーのように学ぶことができるのではないかと考える。このような内容に興味を持ち更に深掘りするがいれば、航太の知り合いのように不意打ちのような不快な体験をすることもないように思う。また、ビジネスがグローバル化する中、歴史的背景を踏まえたビジナス戦略を遂行する者も現れるかもしれない。他に教科書のテーマとして考えられるのは「近代戦争史」として、近代の重要な戦争をまとめて紹介するものでもいいかもしれない。古代の戦争を含めると悲惨さが近年から見ると異質なものになってしまい目的が違ったものになりかねないように思う。
この書で最も強調したいのは、戦争の悲惨さを知る取っ掛かりを提供すということであった。航太も、戦争の悲惨さを知るきっかけは父親と母親からの少しバイアスの掛かった情報であった。そこに正確な詳しい情報を記した良質な書物があったので、「語り部」がいなくてもその代役は書物が果たしてくれたように思う。




