3話
ポツポツと言葉を紡ぐ少女。青年はその言葉に耳を傾けることしか出来なかった。
「物心がついた頃から、私は病気にかかっていたの。墓荒らしさんは“悪魔の吐息”なんて知っているかしら?」
青年は首を横に振った。
「……そう。この国では、私の罹っている心臓の病がそう呼ばれているわ。過呼吸状態の声が、まるで悪魔が泣いているようだから……って理由だったかしら。忌み嫌われているのよ」
「……大丈夫、なのか?」
青年が恐る恐るの口調で聞くと、少女は胸元に手を添えた。
「幸い、今日はすこぶる体調が良いの。発作だって起きていないわ」
「……そうか」
「そんなに心配しないで頂戴。少なくとも、今日くたばることはないでしょうね」
少女の声に青年は小刻みに首を振った。
「物心がつく前に父上は死んでしまったわ。母上は……あの人は、私の存在が許せなかったみたいなの。そそくさと屋敷を出ていってしまわれたわ。結局残ったのは、屋敷が1つと最低限の使用人だけ。 ……むしろ、それだけ残ったことを喜ぶべきかしら」
少女は吐露を続ける。
「使用人は何事もないかのように接してくれていたけれど、恐らく……私のことを嫌っていたでしょうね。誰とも打ち解けられないまま、誰をも頼れないまま私は15の誕生日を迎えたわ……それがちょうど2週間前のお話。 ――それでね」
………………。
そこで、突如黙り込んでしまった少女。青年は口をわななかせながら訊いた。
「だ、大丈夫か?」
「……ええ。少しつっかえただけよ」
青年には、もう少女の一挙手一投足が気が気でなかった。
「それでね……その時お医者様から聞いてしまったのよ。もう私の命は長くないらしいの。よくて、1ヶ月」
「1ヶ月……」
たったそれだけなのか? 1ヶ月も経てば……月の満ち欠けが終わってしまえば、目の前にいる少女は死んでしまうのか?
「そんな悲しそうな顔をしないで。私はもう、受け容れているのよ」
「受け容れるって……死ぬのが、怖くないのか?」
「……少しだけ怖いわ。死んだらどうなるかなんて分からないもの。目の前の父上だって、私には白骨となっていることしか分からないわ。生きている人からは、本当にそれだけしか分からない」
青年の目線が自然と棺へ注がれた。蓋を外してしまえば、少女が言うような景色が広がっているのだろう。
「……でもね、墓荒らしさん。私にはもっと怖いことがあるのよ。それはね……誰の記憶にも残れないことよ」
心なしか、少女のそんな声が上擦っているように青年には聞こえた。
「だってそうでしょう? 生まれてこの方、まともに屋敷を出たこともなければ、ほとんど一人で塞ぎ込んで生きてきたのだもの。頼る宛てだってどこにもない……一体私は今まで何をしてきたのかしら? 何が出来たのかしら? こんな私のことを、誰が覚えていてくれるのかしら?」
青年は少女を見上げた。目と目が合う。少女の目は蒼色に透き通っている。 ……涙で濡れて、透き通っている。
「死んで、何事もなかったかのように忘れられて……私はそれが怖いの。今まで生きてきたこと全てを否定されているみたいで……私は怖いのよ」
「…………」
青年は何も言うことができなかった。かける言葉なんて見つからなかった。今まで人を不幸にすることでしか生きてこれなかった青年に、目の前の少女を励ますナニカなんて……そんなものがある筈なかった。
青年が何も言うことができないまま、徒らに時間は過ぎていった。少女もそれ以上に何か言葉を溢すことはなかった。
「……ごめんなさいね。こんなしんみりした空気にするつもりはなかったのよ」
しばらく腰掛けていた少女は立ち上がった。そして大きく伸びをする。空高く伸びる華奢な腕は、すぐにでも折れてしまいそうだった。
「じゃあ私行くわ。流石に長く居すぎたもの。あなたの為にも良くないわ」
そう言って、少女は笑みを浮かべた。無理して作った笑みだった。
「ま……」
青年は少女を引き止めようとした。しかし腕が伸びるだけで、身体が前傾になるだけで、そこから先が続かない。
「色々とありがとうね。お話に付き合ってくれて、私楽しかったわ。 ……ここでのことは口外しないわ。では」
ひらひらと揺れる少女の手。間もなくして少女は歩き出した。丘を下っていく。少女が遠ざかっていく――
一人残された青年。荒らした墓の中で立ち尽くす青年。死者の尊厳を踏みにじった青年。
「……本当に、いいのか?」
青年は悩んだ。本当にいいのか? このまま少女を返してしまっていいのか? こんな救いのない話があっていいのか?
――人を不幸にするだけだった青年に何かできることはないのか?
「待て!!!」
腹の底から叫んだ声。掠れきった痰絡みの声。叫ぶだけで青年は満足できず、土塊の山へと手をかける。
「くっ……ガ……!」
疲弊しきった腕は相変わらず回復をしてなんかいなかった。それは自身の身体を持ち上げられないほどに。
「上がれ……! 上がってくれ……!」
その腕で土を掴む。その足で土を蹴る。その身体で土を這う。青年は地上を目指す。少女と話をするために。
懸命に力を絞った青年。ようやく、彼は穴から這い出ることができた。
「待て……待ってくれ!!!」
満身創痍の身体をなんとか持ち上げる。傾く身体を倒すまいと地面を踏み締める。
しかし、ぐらつく視界が捉えた少女の影は限りなく小さくなっていた。
「頼む……まだ、いかないでくれ!!!!!」
「おいお前! ここで何をやっている!」
返ってきた返事は明らかに少女のものではなかった。振り返るとそこには大柄な男の影が。男は怒気の篭った声で青年に言った。
「あの墓は……お前が荒らしたのか!?」
「くっ………!」
青年は駆け出した。棒になった足で身体を引き摺る。それは墓守の男から逃げるためではない。少女の影を追いかけるためだ。
しかし、疲弊しきった青年の身体が逃げ切れるなんてことはなく。
「ガッ…………!」
呆気なく青年は地面に伏せられてしまった。
「待ってくれ! 待ってくれ!」
「待つわけがないだろう!」
「待って……くれ……」
遠ざかっていく少女の影。もう見えない。緩やかな丘の向こうに広がっているのはただの墓地だけだ。この場に少女は居ないのだ。救われない少女は、もう居ないのだ。
※※※※※
結局のところ、生きるとは何なのだろう? 死んでしまうと終わりなのだろうか?
そんな問いに対する答えなんて、きっと山ほどある。そしてどの答えを聞いてもそれが正解に聞こえてしまうと思う。なぜなら、真実は誰も知らないのだから。死人は何も、語らないのだから。
ある国の少しはずれにある、穏やか起伏の丘は墓地だった。これまで死んでしまった者が土の中に埋められている。それは丘のてっぺんだって例外ではなかった。
今日は生憎の霧だった。視界がどうも不明瞭で……だから、こんな日に墓地を訪れる人なんていないだろう。一人の男はそう考えてこの墓地を訪れた。
「墓碑に花を添えることを献花というらしい。死んだ人への思いとか気持ちを花に込めるんだとさ。花屋の店主が言ってたよ」
男が取り出したのは一輪の花だった。
「これはシオンという花だ。紫の花は献花にあまり向いていないらしいんだけど、色々調べてさ。どうしてもこれにしたかったんだ」
花を墓碑の前に添えた。それだと風に飛ばされてしまいそうだったから、男は茎の部分に石を置いた。
「……よし、やることはやった。漸くやれた」
ふぅと一息つく男。彼は背負っていた重荷から解き放たれる感覚に襲われた。
「ここからはさ、俺の独り言なんだけど……」
男は軽く深呼吸をした。
「生きるというのはたぶん、足跡をつけるってことなんだと思う。君と出会って、それから色々あってさ。俺はそう思うようになったんだ」
男は自身の右手へと目を移した。痙攣を繰り返す右手は、傷つきすぎた後遺症だ。
「足跡って、歩いたら出来るだろう? 当然だけどさ。でもずっと長くは残らない。浜辺の足跡は波に攫われて消えてしまうし、道路の足跡は轍に塗り替えられてしまう。長くなんて、残らない。 ……でもさ。足跡がついた事実は確かなんだ。歩いている方はそんなこと気にしないよな? 一々後ろを振り返ったりなんてしないから。振り返ったって、もう見えなくなっているかもしれないのだから。 でも――」
青年は自身の胸に震える右手を添えた。
「足跡がつけられた方は、結構覚えていたりするよ。忘れられなくて、ならないんだ。だからこうやって足を運んだ。もう一度……君と話がしたくてね」
上擦る声で話す男。こみ上げてくる嗚咽を必死に押さえ込む。
「そっちは……どうだい? 死後の世界ってあるのかな。そんなの生きている方は分かんないし、もし無くて、君の意識とか存在が跡形もないんだったら……今俺がやってることは全部エゴなんだろうね。君に届いて欲しいなんて、こんな気持ちだって」
青年は墓碑に手を触れた。 ……ザラザラとした感触。青年は何度も撫でた。何度も、何度も。
「……自己満足なんだよな、たぶん。死者を弔うのって。生者の自己満足なんだよ」
――霧深い丘の上。昔、人を不幸にするだけだった男の背中は妙に小さかった。
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