序
夜の帳を裂くように、白い光が噴き出している。マグネシウムに火を着けたときのような眩しい光は、網膜に巨大な蝶のような残像を焼き付かせた。
街灯もない田園には似つかわしくはないほどの光量に、うすぼんやりとした蛍光たちが驚いたように散っていく。四方八方に飛び去った赤い頭の甲虫たちは、しかしなぜか白い蝶のような光の羽に吸い込まれるように集っていく。そして集まった蛍たちは白い光の羽に触れると、バチリと誘蛾灯にぶつかったような音を立てて、ぼとぼとと畦道に亡骸を曝していった。
地面に落ちた蛍たちの死骸をちゃんと確認してみれば、用水路に落ちている野猫の亡骸や水田で腹を見せている鮒と同じように目玉を破裂させて死んでいることだろう。あの羽から放たれる光はおそらくそういう作用を持っているのだから。
街灯もない田舎の夜としてはあまりにも強すぎる光量だが、どういうわけだかそれに違和感を覚えて起床してくる村人も居ない。いくらボケた爺さん婆さんばかりだとはいえ、朝日よりも眩しい明りに誰も気づくことがないということなどあり得るのだろうか?
目を細めながら地面に伏せ、あの光に触れたいという欲求に抗う。コンバイン1台がやっと通れるような狭い車道の上にふわふわと漂っている光の蝶は、道幅をゆうに超えるほどの巨大な羽を広げたままその場にじっと佇んでいる。ところで、止まっているときに羽を閉じるのが蝶、開いているのが蛾、なんて話を聞いたことがある。そうするとこの光の羽は蛾のものなのだろうか?
ふいに下敷きにするように庇っている腹の下がもぞもぞと動き出す。彼女もまた、光に惹かれてしまったのだろうか。見慣れぬものはなんでも識ろうとする彼女にも、アレだけは教えてはいけないと思う。生命を奪う禍々しくも眩しい光の羽。あの羽がどういう事象なのか俺が教えてほしいぐらいだが、世界には知らない方が良い物があるのである。そして、おそらくアレはそれに該当するものだろう。
カーテンを掛けるように垂らしていたファスナー式のパーカーから短い手がはみ出してくる。視界を遮るように保護しているつもりだったのだが、彼女にとってはさぞかし窮屈だったことだろう。暖簾を潜るように這い出して来る彼女をなんとか止めようとするが、先ほど後頭部を打ち付けた際に出血してしまったようで力が入らない。
あれよあれよという間に這い出してきた少女は、立ち上がってワンピースの裾に付いた砂を払うと、心配そうに俺の後頭部をぺしぺしと叩いた。そして、小さな掌にべっとりと付いた血の感触に、不思議そうに首を傾げた。
「ば…、ばっちいから…、宿に、か、帰って…、洗おうな…。」
くんくんと血液の匂いを嗅いでいる彼女に対し、声を絞り出すように伝える。こんな状況だが、物理的に下がった血圧によってそんな間の抜けたような言葉しか浮かばなかったのだ。そして、それを聞いた彼女は分かったのか分かっていないのか、蝶の光と同じぐらい白い髪をさらさらと流した。それから、ようやく気付いたかのように巨大な光の蝶へと目を向けた。
眩しそうに小さな両手で桃色の瞳を覆った彼女は、躓きそうになりながらも光の蝶へと歩み寄って行った。幼い好奇心と直情により、死出への道が踏み出されてしまったのだ。あぁ、このままでは幼い彼女の運命はあの蝶に命を奪われた者たちと同じである。眼球を奪われ、体の内側から高圧電流で焼かれ死ぬのだ。
「だ、駄目…だよ…、ひ、比奈。行っちゃ、駄目だ…!」
ゾンビのように腕の力で這うが、この速度では目隠しをしてふらふらとしている彼女の歩みにすら追いつけそうもない。手を伸ばそうとも既に手の届かない位置にまで行ってしまった。ここから届けられるものなど、死にかけた男の震える声ぐらいの物である。だからこそ、せめてできることを、と。必死で呼びかけ続けたのだ。
まあ、そんな掠れ声などあの光の誘因力を前にしては無いも同然だ。彼女は蛍と同じように吸い込まれるかのように蝶へと惹かれていった。そして、蝶の前でふと立ち止まると、蝶に背を向けておもむろにこちらを振り向いた。そして両目から手を外すと、まるで俺の声に答えているかのように腕を前に伸ばした。
突然、光が掻き消えた。
毎週月曜17時更新、20話以内に収めることを目標にします。