これだから冬は。
音を立てたのは、テーブルに置かれたグラスだった。山歩きの最中に聞こえる薪割りのような、あるいは縁側に座っている時に聞こえる鹿威しのような。そんな存在感で、締め切られたダイニングに響いた。
「ああ、まったく」
そのグラスから手を離すこともなく、男は呟く。
「これだから冬は……」
瓶に左手が伸びた。コップに再び液体が満ちていく。既に男の肌は赤らんでいる。
椅子にもたれかかり、天井を仰ぎ見た。
環状の蛍光管の二本あるうちの、内側に陰が差している。それはいつからだっただろうか、男は考えているが、割と前からだった気がしていた。そのうちに、視線を再びテーブルへと落とした。
「眠いなら寝たら?」
男の対面にいた女がそう声をかけた。その声に咎の色はなく、まるで装飾のない思いやりだった。
「まだ眠くない」
「ちゃんと寝ないと困るのはお父さんだよ? そうだ、湯たんぽでも沸かそっか?」
「いらん」
女の手が瓶を引き寄せる。男よりも幾分か丁寧にそれをグラスに注いだ。一口だけ飲み、今度は皿に広げられているミックスナッツを食べ始めた。それを見た男は箸を取り、漬物に手を伸ばす。
テーブルにはスプーンやフォークの入った食器立てや、半分ほど残っているスナック菓子が何種類か、それから新聞やハガキなどが置かれている。ふたりで使うには充分すぎる大きさがあるテーブルだが、それをずぼらな使い方で狭めている。
「美雪はどうだ、仕事の方は」
「ん? うーん、楽しくやってるよ。大変ではあるけど、自分で決めたことだし」
「そうか。ならよかった」
「お父さんの方こそどうなのさ」
「そうだな、ま、ぼちぼちかな」
不満や不服なんて慣れてしまっていた。それをどうだと訊かれても、いつもどおりとしか言いようもない。
「じゃあ彼氏はどうだ。昼間に言ってたろう、いいのがいるって」
「葛城くんのこと? かっこいいけど、彼女さんいるって話だしね」
「他によさそうなのはいないのか」
「狭い世界だもん」
「ならもっと外に出てだな」
「普通は父親って、娘を嫁にやりたくないもんなんじゃないの? お父さんなんかは特に」
「あ? ……まあ、そりゃそういう気持ちもあるが、嫁の貰い手がないのも、それはそれで困る」
「父親って大変だね」
「ふん。他人事みたいに」
女がセミロングの髪を弄りながらそう言ったのを聞き流し、男はまたグラスを呷った。
食器棚の横に絵が二枚かけられている。下のはクレヨンを使って、原色のままベタベタに描かれた落書きのような絵だ。草原に大きな人がふたり、その間に小さな人がひとり。それは五歳の少女がキャンパスに乗せた、彼女にとって屈託のない原風景だった。
「普通、男より女の方が現実を見て生きると言うがな」
「大丈夫だって。そのうちいい人連れてくるから」
「もう子どもじゃないんだぞ」
上の方の絵も同じようにクレヨンで描かれたものだが、柔らかな風合いと洗練された色使いを湛えている。絵の中に奥行きがあり、まるで別世界を映す窓のようだった。しなやかな手に握られたリンゴが上から下へ、それを求める横顔が下から上へ。奥には星空とそれを映す海。その海は、星空から落ちる雫の水たまりだった。こちらは二〇歳の女性が描いたものだ。
その二枚の絵は、同じ人物が描いた。
男は「よっこらせ」と声を出すと、椅子を立ち、部屋の戸に手をかけた。
「寝るの?」
「ただの小便だ」
目もくれずに見送ると、女はテレビの方に目を移した。
画面に映っているのはニュース番組だった。生活面では事故で子どもが犠牲になったとか、誰かが恋人を刺したとか。政治経済面では日本の景気上昇が望み薄だとか、外国に遺憾の意を表したとか。
そんなテレビ画面のすぐ横に、小さな写真立てが飾られている。写真は家族でテーマパークに行ったときに撮ってもらったものだ。綺麗に笑うお母さんと、不器用に笑うお父さん。そして写真を撮るということを理解しているのかいないのか、どこか明後日の方を見ている少女。
ぼんやりとした彼女の意識を現実に引き戻したのは、男によるドアの開閉だった。ただ部屋に入るだけなのに、そのドアの動かし方がけたたましかった。
「うぅ、冷える」
手をこすり合わせて、歯と歯の間から息を漏らす男は確かに、とても寒そうにしている。
「せっかく温まった体が冷えちまった。また温めんといかん」
「とか言って結局、お酒飲みたいだけでしょ」
「まったく、これだから冬は」
「こっちのセリフだよ。んもう、いっつも冬は飲み過ぎるんだから」
男はそして勢いよく酒を入れた。浮くような感覚。体がかっと熱くなる。
「ハァァ…………」
椅子にもたれかかり、覚束ない指先がミックスナッツを手に取る。そしてまた酒を飲む。上体が重く感じて、頬杖を突く。
「しかし美雪も社会人になったか」
「いきなりなに?」
「いやあ、時の経つのは早いと思ってな」
ふと、視界の端に旅行雑誌が映った。郵便物の下敷きになってしまっているそれは、いつからあるものなのだろうか。既視感がある。はて、どこかで見ただろうか。
「この間なんて、自転車にだって乗れなくて」
「いつの話さ」
「それにスキーだってうまくできなくて」
いろいろと思い出すことはあるが、旅行雑誌のことだけが思い出せない。
思い出そうとすると左の腕が痛み、震える。その手でどうにか酒を入れて、頭の中の不純なものを洗い流した。
もう思い出そうとするのはやめた。
「それから、逆上がりも」
あれはいつの頃だったか、彼女が初めて逆上がりができたのは、確かこんな風に寒い冬のことだった。彼女の体を押し上げた自分の手は、彼女にはもう必要ない。その少し寂しいような、でも彼女の明るい表情が嬉しいような。その気持ちを自分はひとりで……。
ひとりで……。
「…………はっ」
気が付くとテーブルに突っ伏していた。
過去に戻っていた意識が、石油ストーブの警告音をきっかけに現実に戻ってきた。頭を上げると、右席に女性が座っている。
「依子……」
男が静かに、名前を呼ぶ。女性は男を見る。静かに見つめて、特に何かを言うでもない。彼女は足元にあるストーブの警告を止めると、またコンロの方を気にかけた。
「降りてきてたのか。いつからいた? 俺としたことが寝ちまってた」
目を軽くこすると、男はふと気づいたように立ち上がり、食器棚を漁りだした。がちゃがちゃと奥の方まで見ているが、しかし目的のものが見当たらないようだった。そんな彼を見かねて、女性は声をかけた。
「そろそろ寝たら?」
「いや、もう少し飲みたい。……変だな、お前の分のグラスがない。せっかく夫婦水入らずなのに」
とぼとぼと席に戻った男は気が付いた。
「美雪は? もう寝たのか?」
見れば対面の席が空席だ。そこには空のグラスが主を待っているだけだ。
「そうか……仕方ない」
気を取り直して、グラスを手にする。もうあまり彼の眼は開いていないが、それでも彼は酒を飲むことをやめない。女性の方はやはり、後ろのコンロの様子を見ている。
男はそれが気になった。
「なにを作ってるんだ?」
「煎り豆」
「そうか、煎り豆。そういや久しく食べてないな」
それを聞くと、もうミックスナッツなんて食べていられなかった。途端に色褪せてしまうのだ。ただの大豆なのに、何種類かのナッツの入ったロングセラーを押しのける。実に不思議なことだが。
「できたよ」
「おお、これだよ、これ。酒のつまみにはこれでなくちゃあな」
お皿に盛られたのは、何の変哲もなく、煎った大豆。一応、心ばかりの調味料で味の調整はされているものの、ほとんど大豆のみだ。しかしこれが侮れない美味さを持っている。
「うん、うまい。やっぱりお前の作る煎り豆はうまいよ」
「大豆が好きなだけなんじゃない?」
女性はそう言いつつも笑った。その手で煎り豆をつまみ、口に運んだ。
「そういや、最近は美雪が料理を作ってくれてるんだが」
男が話し始めた。
「これがな、お前の味に似てきてるんだ」
「ふーん」
「最初こそ妙な味がしたものだがな」
「…………」
「それに美雪の言うことがお前に似てきた。ちゃんとしないと困るのはお父さんだよ、ってさ。まるでお前にそっくりに言うんだ」
「……そうなの?」
「ああ、背丈も同じくらいになったし、そういやお前と美雪で、誕生日も一〇日しか違わなかったっけか」
遠い目をして、男はどこか感慨深そうにそれを思い出しているようだった。
「思えばお前とふたりきりで過ごすのも、久々かもしれないな。美雪が生まれてからというもの、俺たちは美雪のお父さんとお母さんだ」
「…………」
「しかしなんだ、お前はいつまでも若いままだな。俺の方は老けたものだが」
「そんなこと」
「や、なんか、面と向かって言うと照れるな。俺みたいな、もう、いい歳したオッサンが。なあ?」
などと言って顎を撫でる彼の顔や手には、重ねた時の流れが刻まれていた。
「でもお前はやっぱりあの頃と変わりない。そのままだ。……綺麗だ」
「…………」
女性は目を逸らした。煎り豆をつまむ手が伸びる。
「そういや、お前は見たことがあったかな。美雪がな、逆上がりをできるようになったんだ」
「…………」
「ああ、ちょっと前の話だがな。お前にも見せてやりたいって言ってた。お前は見たことあったかな」
「……見てない」
「そうか……時間は経ったが、見てやってくれよ。きっと喜ぶ」
女性の方はあまりしゃべろうとはしない。男が話すのをやめると、急に場が静かになる。特に不安もなく、不快でもない。ただ、男の口は酒で滑りが良くなっていて、まだ言葉が出てくる。
「お前には苦労かけたな」
「ん?」
「思えば俺は仕事ばかりで、家のことはお前に任せっきりだった」
「…………」
「お前の誕生日に美雪が絵を描いて渡してたことがあったろ? クレヨンで描いたヘタクソなやつ。お前は知らないだろうが、その日の夜、美雪は俺に言ったんだ」
「なんて?」
「お父さんはお母さんに、なにもしたげないの? って」
「…………」
「言われて気づいたよ。お前は家のことも俺のことも大事にしてたけど、俺は仕事や自分のことばかりだった。お前のことを大事にしてなかった」
「…………」
「なにから始めていいか分からなかったんだ。だから、まず旅行にでも連れてってやろうと思ったんだ。久しぶりに、美雪のことはナシで、ふたりきりでさ」
「うん」
「ただ、それだけだったんだ……すまない。ほんとうに、すまない」
男は、寝間着の上から左の腕を握った。未だに力の入れ方が悪いと痛むが、医者からは、それは治らないと言われたのだった。
「なあ、いまはどうかな。俺、家のこともちゃんと気を遣えてるかな? やってみると難しいもんで、自分の娘なのに、どう接していいものか分からない時もあるんだ」
「正解なんてないよ」
「料理もそうだ、同じものを使っても同じ味にならないんだ。お前の味には」
「…………」
「それから洗濯だって、洗濯機に放り込んどきゃいいだろと思ってたもんだが、どれだけ色移りさせたか分からん」
「…………」
「俺が家でうまい飯を食べてたのは、お前が俺のために作ってくれたからだ。俺のシャツがいつもパリッとしてたのは、お前が毎日アイロンをかけてくれたからだ。お前がどれだけ家のために働いていたか、ようやく分かった」
「…………」
「遅いかな? ごめんな、お前がいるのが当たり前だと思ってたんだ」
「うん……ちょっと遅いかも」
何度も口を着けようと持ち上げてはみるが、グラスを持つ手は震えている。転寝してしまう前までは美味しかったはずのそれが、今は余計に思えた。対して女性の方は落ち着いている。
「そう、だよな……」
その失意はどれだけ酔っても塗りつぶすことはできず、心に空いた穴は酒では埋まらない。涙を絞り出し、震える手でそれを拭うだけだった。
「お前がいてよかった。お前が好きだった。お前がいて、娘がいて、このまま何ひとつも欠けることなく過ごせたらいいと思った」
「わたしもだよ」
そのまま男は、突っ伏した。その肩は震えていた。その様は涙を隠しているようでもあり、何者にも縋ることのできないひとりの男の末路でもあるようだった。
アルコールの重みが、彼の意識を沈めていった。
◇ ◇ ◇
もうコンロの前にいる理由のない私は立ち上がり、父の肩に毛布を掛けてあげた。
ちゃんと布団で眠りなさいって、いつも言っているのに。
「はぁ、まったく……」
父はまた私を母の名で呼んだ。
いつからだったか、冬のこの時期になるといつもだ。その度に私は照れ臭いような、どうしようもなく虚しいような、どうにも置き場のない気持ちがしている。決して居心地のいいものではない。ないのだが、部屋を出るのも違う気がする。
「あぁ、もう。これだから冬は」
私もそろそろ寝るとしよう。