それは苦しむ暇もなく真っ直ぐに洗面所の中に落ちて死んだ
ジーパンのポケットに手を突っ込む。
いつも左のポケットには携帯電話が入っていて、右のポケットには家の鍵と小銭が入っている。
こうして家に着く前に無意識にポケットの中にそれがあるかを確かめてしまう。
それはまるで不安な時、子供が爪を噛んだり女が髪を触ったりするのと同じように。
―――目の前のエレベーターの窓に薄暗い蛍光灯の光が舞い込む。
今日もバイト帰りに行きつけの弁当屋で一番安いのり弁を買って帰る。
左手には茶色いビニールの袋にのり弁が2個。
あぁ母親が家で待ってる、でも帰りたくねぇや。
それでもエレベーターのドアは開く。
エレベーターのこの空間の中に自分の心だけを置いて、身体だけが開いたドアの先に向かう気がした。
午後10時半、エレベーターを出た後のホールにある蛍光灯は今日もチカチカと点いたり消えたりを不規則に繰り返してしていて、その周りを楽しそうに気持ち悪い蛾が踊っている。
チカチカした明りの下、その鉛色したホールを一人の男が歩いていった。
ここは市営住宅の10階。
ホールを抜けるとそこはみんなの家路への大切な通路。
―――ガチャガチャ、キュルン。
鉄製のドアを開ける。
ドアポストには今朝の新聞が挟まったままだ。
「ただいま」
リビングの電気はついているが、それ以外の電気はついてない。
俺の心と同じだ。
黒のオールスターを丁寧に脱ぎ、ダイニングへ向かった。
俺はもう一度ダイニングの椅子に座る母親に言った。
「ただいま」
母親は煙草を吸いながら、右手の先に日本酒の入ったマグカップを置いたまま一人沈黙していた。
かすかな声でおかえりと言ってくれた気がした。
左手に携えた茶色のビニール袋をダイニングのテーブルの上に置く。
「…のり弁買ってきたよ」
母親は俺とは目を合わさず、斜め下を向いている。
よく見るとまつ毛のマスカラが滲んでいてボロボロになっている。
俺はそれには触れることなく淡々とのり弁を袋から取り出しテーブルに並べた。
「ごめんな、今日も遅くなっちゃって。ほら部屋の中寒いし、わかめスープでも一緒に飲むか?」
目の前の母親は黙ったまま、そして微かに怒りをこらえながら頷いた。
テーブルの脇にある冷蔵庫を開け、この前弁当を買ったときに店員がサービスで付けてくれたわかめスープの素をちょうど2つ出した。
ガスレンジでお湯を沸かすと光熱費が掛かるから、こうやって即席のスープを作る時はマグカップに素を入れてから、水を注ぎレンジで温める。
こうした方が早く出来上がることも知っている。
「今日はバイト何時からだったの?」
家に帰ってきてから母親が初めて俺に口をきいた。
俺は少しホッとする。
「あー、5時からやってたよ」
「そうなの」
部屋の空気が少しだけ動いた気がした。
俺はレンジの窓に反射して映る母親の姿を見ながら、同時にいま調理中のわかめスープの入ったマグカップを眺めている。
母親の機嫌とわかめスープの具合に気を取られている。
「あんた部屋の掃除したの?」
ダイニングの蛍光灯もチカチカしていた。
「あー忘れた。今日家出るギリギリ前まで寝てたんだ」
「掃除しなさいって言ったでしょ!」
エレベーターの中に置いて来たはずの心に棘が刺さった。
「ごめん、明日するよ」
「あんたはいつもそうやって後伸ばし、後伸ばしにする。そんなんだったら部屋使うな!」
まるで俺を十字架に張り付けにするように棘は刺った。
そしてレンジの動きが止まる。
俺の心の動きも止まる。
「…」
俺は黙ったままレンジからマグカップを取り出した。
熱くて持ちにくかったが、そのマグカップをこの女の前に置いた。
「いらない!自分で飲みなさい」
十字架に架かったキリストが泣いていた。
「ごめん、先に食べていいよ。俺風呂沸かしてくる」
風呂桶の中を覗いたら昨日の残り湯がある。
ガスの元栓を開け、火をつけた。
湯沸かし器の小さな窓に青い炎。
今の俺にはそんな冷静さと怒りが必要なのかもしれない。
そしてしゃがみ込んでいた体勢から立ち上がり、洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめた。
昨日の顔よりも今日の顔の方が良い気がするのは気のせいだろうか?
少しだけ強くなっていた気がした。
昨日よりも少しだけ強くなっていた気がした。
それなのに何故か俺はそんな自分の顔が嫌いだった。
―――洗面所の窓の隙間から一匹の蛾が入り込んでくる。
ゆらゆらと俺の目の前にやってくる。
俺は必死になってその蛾を手のひらで振り払おうとした。
後の壁に掛かったバスタオルを持ち出し、必死になって蛾を振り払おうとした。
蛾は俺のタオルが描く軌道をすり抜け、ゆらゆらと馬鹿にしながら飛ぶ。
「死ね!」
タオルがまるで野球のバッドの様になって気持ち悪いそれを打ちつけた。
…ポトっ。
それは苦しむ暇も無く真っ直ぐと洗面所の中に落ちて死んだ。
それは苦しむ暇もなく真っ直ぐと洗面所の中に落ちて死んだ。
「風呂沸かしたからあと20分くらいしたら入れると思う」
ダイニングに戻ってきた俺の目に映った女はさっき買ってきたのり弁を食べている。
弁当用の短い割り箸が女の幼さをより一層引き立てていた。
「俺、スープだけでいいわ。弁当後で食べるから置いといて」
そして掃除をしていない自分の部屋に戻る。
壊れたパイプベッドに横になり、天井に染る模様をじっと見つめていた。
やがてその模様が悲しい形に見えるから、目元がじんわりと滲んでゆく。
俺が感じているこの心はこの女の心なのだということをようやく認めることができた。