42 桜散華
雲一つ無く澄み切った空に、もう陽は高く昇り切ろうとしていた。
地面に落ちた木漏れ日が、風のざわめきと共にきらきらと輝いている。
ユウトとアキラは、二人の思い出の秘密基地を後にしようとしていた。
「あ、そうだ。オレ持って帰りたい物があったんだ」
そう言って振り返った瞬間「え!」と、アキラは驚きの声を上げた。
さっきまで開いていた基地への出入り口である穴が、跡形もなくなっていた。
「お前が『女』になっちゃったからな。あいつが気に入ってたのは『男』のお前だから、もう入れてくれる気がないんだろうな」
「えー、そうなの? 同一人物なんだけどなあ」
アキラはがっくりと肩を落とした。
「今まで間借りさせてもらってたんだから、感謝しないと。お礼に歌でも歌ってやれば? あいつ、お前の歌も好きだったんだと思うよ」
「いいの? 声も変わっちゃってるけど」
「いいんじゃないか。気持ちが込もっていれば」
何を歌おうと、アキラは少し考えた。
「じゃあ、ここでよく歌ってたやつでいいかな……」
すう――と、息を吸い込んだ。
静かな澄んだ歌声がアキラの唇から紡ぎ出されていく。
木々のざわめきとリンクして、一緒にハーモニーを奏でているようだ――
ユウトがそう思った時、
「……あれ、開いてる――」
思わず声を漏らした。
「え、あ、ホントだ! もしかして、気持ちが通じて開けてくれたとか?」
「そうなんじゃないか。ほら、今の内に取って来れば?」
「ああ、助かった! ホントにありがとう!」
そう言ってアキラが慌てて目的の物を取りに入ると、ユウトもそれに続いた。
探し物はすぐに見つかった。
「よかったあ、あったーっ!」
「何を取りに来たんだ?」
ユウトが覗き込んだ。
見るとそれはアルバムだった。
「へえ。お前、こんな物作ってたんだ」
「そうだよ。オレが『男』だった頃の思い出になっちゃったけど。だからこそ、どうしても持って帰りたかったんだ」
アルバムの中には、二人の少年の記録が丁寧に刻み込まれていた。
「この頃は、まさかお前が『女』になるなんて思いもしなかったよな……」
「そりゃそうだよ。今だって信じられない」
「このまま何も起こらなかったら、俺たち今頃離ればなれになってたんだな」
「そうだね、そう考えると何か複雑だけど……でも、もうそんなこと考えたくないよ」
そう言って、アキラはユウトを見た。
それに応じるように、ユウトはアキラに顔を寄せる。
「大丈夫、離れないよ。そんなこと、オレの方がもう無理だ」
それを聞いたアキラは、はにかむように笑った。
アキラは、アルバムを大事そうに抱えて外に出た。
ユウトも続いて出ようとしたその時、ふと何か違和感を覚えた。
みしみしという微かな音を聞いた気がした。
外へ出て、その巨樹を仰ぎ見る。
特に変わりはないように見える。けれど――
「アキラ、こいつにお別れをしよう。俺たちはもうここには来ないって」
「え、どうして? もう入れてもらえないから?」
「違う。こいつがそう望んでいるから」
「よく分からないけど、ユウトがそう言うんなら……」
おそらく、この樹の寿命はもう尽きかけている。
そんな中、再び自分たちが訪れるのを待っていてくれたのではないかとユウトは思った。
きっとこの樹も、自分たちの目に触れることなく土へと還って行くに違いない。
アキラは名残惜しそうに、自分たちを見守り続けてくれた巨樹に別れを告げた。
ユウトも心の中で別れを告げて、その場を立ち去ろうとした。
その時だった。
桜の樹の枝先に、ぽんぽんと薄紅色の蕾が、いくつも早送り再生のように紡ぎ出されて来た。
それは見る間に次々と花開き、あっという間に満開となった。
「ええ、なにこれ? この樹って桜だったの?」
「お前、知らなかったのかよ……」
「だって、咲いてるとこなんて初めて見たんだもん! すごい、きれい……」
樹を知らない者には、仕方のないことかもしれない。
自分たちの知る限り、この樹は一度も花を咲かせたことが無かったのだから。
そうこうしている内に、その花びらは、あっという間に風に吹かれて舞い散りだした。
「えっ、そんな……今咲いたばかりなのに、もう散っちゃうの?」
「潔く散って終わりにしようとしてるんだよ。だから、ちゃんと見といてやろう」
『桜散華』とでも言うのだろうか。
この桜の最期を、こんな形で見届けることになるとは思っても見なかった。
この樹のおかげで、今自分たちはここにいるのだと、改めてそう思う。
目の前を舞う花びらが、微かに滲んで見えた。
「今まで本当にありがとう。さようなら」
ユウトは、もう一度別れの言葉を呟いた。
ばさっ――
突然、何かがユウトの目の前に落ちてきた。
ユウトはそれを拾い上げた。それは若い一振りの枝だった。
巨樹を見上げると、ユウトは笑いながら言った。
「何だこいつ……都合がいいな。結局俺たちと一緒にいたいんじゃないか」
「なに? どういうこと? 全然分かんない」
不思議そうにユウトと枝を見比べる。
「こいつは自分も連れて行けって言ってるんだよ。今まで世話になった分、恩返ししろってことなのかな。桜は挿し木でも育つから」
アキラは呆気にとられたように、ユウトを見た。
「ねえ、前から思ってたんだけど、もしかしてユウト、この樹と話せるの?」
「話せる訳じゃないよ。何ていうか……こいつの気持ちが分かる気がするだけだよ。『樹と気持ちを通わせろ』――俺の父さんの受け売りだ。父さんはそういう研究をしてた」
そう言えば、アキラにはまだ自分と教授との関係を話していなかった。
「実をいうと、父さんは教授の教え子なんだ。亡くなる直前まで同じチームで働いてた。俺も教授には小さい頃に一度会ってる。まあ、ついこの間まで忘れてたんだけどな」
そして、ふと思いついたように言った。
「なあ、アキラ。俺、教授に付いて父さんと同じ研究がしたいんだけど……どう思う?」
ユウトが何だか幼い少年のように活き活きとしている。
そんなユウトを見ると、アキラもまた嬉しくなった。
「どうって、いいんじゃないの? オレは今まで通り、同じことしてればいいんだよね」
「お前、小学生の頃からすでに主夫だったもんな。昔から女子力高いっていうか――すでにこうなる運命だったんじゃないか?」
「何?『女』になる運命だったってこと? だったら最初から『女』でよかったじゃん。途中からって、慣れないことだらけで大変だよ。何か痛い思いばっかするし。現に今だって――」
アキラは言いかけて、すぐに口を閉ざした。
「今? ああ、やっぱ痛いんだ」
恥ずかしくて言い出しにくかったことを、ユウトはさらっと理解した。
「………!」
アキラの顔がみるみる赤くなる。
「悪い、気が付かなくて」
「い、いいよ、ゆっくりなら歩けるから。でも、できたらなんだけど――」
そう言って、おずおずと手を差し出した。
「手、つないでくれる……?」
「ああ、いいよ、もちろん」
ユウトはその手を取ると、アキラに合わせてゆっくりと歩き出した。
「なんかさあ、こんな風に手を繋ぐのって小学生の低学年以来かなあ?」
懐かしそうにアキラが言うと、
「また……小学生と一緒にすんなよ。今は恋人同士なんだからな」
ユウトは少し憮然とした。
二人の感覚には少しズレがあるようだ。
どちらにしても、今二人が幸せであることに変わりはなかった。




