40 失い得るもの
二人の間に、言い知れない沈黙が流れる。
その間も、ユウトはアキラの顔からずっと目を離せずにいた。
「やだなあ、ユウト。オレの顔見過ぎだよ」
その沈黙を破るように笑いながらそう言うと、アキラは静かにユウトの方へと身を乗り出してきた。
ユウトの顔に自分の顔を近づけると、その瞳を覗き込んでくる。
「ユウトの瞳の中にオレがいる。『男』の自分の顔を見るのも、きっとこれが最後だね」
ユウトは無言だった。
口を開こうにも、まるで金縛りにあったかのように、身体が言うことを聞こうとしなかった。
そのままアキラは、コツン、とユウトの額に自分の額を当てた。
そして、そっと静かに目を閉じる。
身体は動かないのに、ユウトのその瞼は自然にゆっくりと落ちて行った。
「じゃあね、ユウト……さようなら」
その言葉に、ユウトの胸がズキンと疼いた。
自分の顔が強ばるのを感じる。
そんなユウトに、アキラはそっとキスをした。
唇が触れるだけの、軽くて優しいキスだった。
数秒のキスの後、アキラの唇が静かに離れて行くのを感じた。
ユウトがゆっくりと目を開けると、そこには自分を見つめながら微笑む『女』のアキラがいた。
それは少しだけ寂しそうな笑みだった。
「……アキラ……」
声が出る。自分を縛っていた何かが解けた。
ユウトはゆっくりとアキラの方へと両手を差し出した。
静かにアキラを抱き寄せると、その腕の中へすっぽりと収めた。
なぜだろう。言い知れない虚無感に駆られている自分がいる。
「ごめん、このまま……しばらくこのままでいていいかな」
抱き締めるその手に力がこもる。
今はアキラに自分の顔を見られたくない――そう思った。
「いいよ……ユウトの気が済むまで、このままで」
アキラはそのまま、ユウトへとその身を任せた。
二人はまるで時が止まったかのように、いつまでも抱き合ったままでいた。
◇◆◇
気が付くと、いつの間にか日が暮れかけていた。
穴の中に差し込んでいた光も、いつしか夕焼けの赤に染まっている。
ここへ来てから、どのくらいの時間が経過したのか。
ユウトはようやく顔を上げて、そんなことを思った。
「ユウト、大丈夫?」
アキラに声を掛けられると、ユウトはまたその肩に顔を伏せた。
「ごめん、俺、何か変かもしれない。今も頭の中が矛盾してる」
「変って? 何が矛盾してるの?」
さっきは『男』のアキラに申し訳ないと思っていた。
今は『女』のアキラに罪悪感を感じている。
「すごく勝手な話だけど、さっきお前に『さよなら』って言われて、実際の喪失感が半端なかった。ずっと『女』になってくれることを望んでいたはずなのに、今俺の頭の中は『男』のお前のことでいっぱいになってる。すごい傲慢だ、俺」
アキラを抱き締める腕が震えている。
その震えを感じながら、アキラが口を開いた。
「でもそれって、オレにとってはすごく嬉しいことだよね? ユウトはオレの全部を好きでいてくれてるって、そう思っていいの?」
その言葉に、ユウトは頭を起こして自分の腕の中にいるアキラを見た。
ユウトの顔にアキラがそっと手を触れて言葉を続ける。
「ごめん、オレのせいだね。オレが『さよなら』なんて言っちゃったから」
後悔している。そんな顔だった。
「だから訂正していい? これからもずっとオレはここにいるって。だって『女』になってしまっても、過去の記憶は全部『男』のオレのものだから。昔の思い出話だって、ユウトとは今までと変わらず一緒にすることが出来るんだよ」
ユウトに対して、それはまるで子供をあやすような口調だった。
「でも、この先の未来は『女』のオレと作ってほしい。そうしないとオレ、何のために『女』になったのか分からなくなっちゃうし。もう戻らないって決めたのに、ユウトがそんなんじゃ困るよ。ね?」
こぼれるような優しい笑みを浮かべる。
その笑顔に、ユウトはどうしようもない程の愛おしさが込み上げて来た。
自分でも頭では分かっていたことだった。
けれど改めてアキラの口から聞かされることによって、ユウトは急激に心が軽くなるのを感じた。
「うん、そうだった。俺は今日ここへ、お前を『女』にする為に来たんだよな。もう大丈夫だ、ありがとうアキラ」
その言葉に、アキラはほっと胸をなで下ろした。
そしてふと自分を見つめるユウトの瞳に、さっきとは違う『女』の姿をした自分を見た。
そうだ。これから、自分は何があってもこの姿で生きていかなければならない。
ユウトと生きていく上での、自分に課した条件だった。
「……オレ、本当は……すごく怖いし、不安なんだよ。だって『女』は弱い……嫌と言う程自覚させられた」
『女』になってからの、これまで自分に起こった出来事を思い出すと、思わず身震いがする。
こんな世の中では『女』であることを選ぶのは危険極まりない行為だと言えるだろう。
けれど、アキラにとってユウトは自分の全てだった。
ユウトがいなければ、決して選ぶことの無かった選択だった。
「でも……この先の世界がどんな暗闇の中だったとしても、ユウトさえそばにいてくれれば、オレはきっと迷わないし何も怖くないって……だから」
アキラの言葉を遮って、ユウトはたまらずにまたアキラを抱き締めた。
「俺がお前を守る。絶対に迷わせない。だから、これからも俺について来てほしい。ずっと……ずっと一緒にいよう、アキラ」
真っ直ぐな態度で言われたこのユウトの台詞に、アキラの顔は真っ赤になっていた。
そんなアキラの胸の高鳴りは、ユウトにも伝わっていた。
「ユ、ユウト……あのさ……や……あの、気のせいなのは分かってるんだけど……」
アキラがもごもごと口ごもる。
「何? どうかしたか?」
「今のって……何かちょっと……プ、プロポーズみたいじゃなかった?」
ユウトは一瞬キョトンとすると、
「え……? ええっ!?」
思わず、慌ててアキラから身体を離した。
「い、いや、さすがに今のはそんなつもりで言ったんじゃ無かったんだけど」
場の空気に流されて、自分が口にしてしまった言葉に今更赤面するが、アキラの言うことはあながち間違ってはいなかった。
「でも……そうだよな、結局はそう言うことなんだ。男と女になるんだから、お前とは今までとは違う意味での本当の家族になりたいって、そう思ってる」
アキラは大きく目を見開いて、ユウトを見た。
「さっきの、プロポーズだと思ってくれていいよ。どうせ俺の気持ちはこれから先も変わらないし、よく考えたら今まで散々それっぽいこと言ってきてるよな。でもまあ、そんなに急ぐつもりは無いんだけど……」
ユウトはふとアキラを見るなりギョッとした。
アキラの潤んだ瞳からは、ポロポロと大粒の涙が溢れ出していた。
「お、おい、ほらまた泣く! お前ホンット昔から泣き虫なんだよな」
「だって……ユウトのせいだよ。ユウトが、オレが泣いちゃうようなことばっか言うから」
「あー、はいはい、俺が悪かった。だから泣くなって」
こんなの、もう放って置けない。
さっきまでは、自分のことを母親のように説いてくれていたかと思えば、今はもういつもの無邪気な子供に戻っていた。
(普段は子供っぽいくせにどこかしっかりしてて、馬鹿なんだけど本当は馬鹿じゃないっていうか。ギャップが激しいんだよな、こいつ)
今は目の前で泣きじゃくっているアキラを、愛おしげに抱き締める。
なかなか止まりそうにないその涙を、ユウトは自分の唇で拭った。
「ホントに、こんなの置いて何処かに行こうとしてた俺が馬鹿だったよ。でも、もう絶対にそんなことでは、お前を泣かせたりしないから。だから安心しろ」
「も、もう! ダメだよ……そんなこと言われたりしたら、また涙が……」
「泣くなって言ってるだろ、馬鹿」
そう言葉を遮って、ユウトはアキラの唇に自分の唇を重ねた。
完全に日が暮れていた。
差し込んでいた赤い光は、いつしか冷たい月明かりへと変わっていた。




