プロローグ
「おはよう、今日も来たよ」
少年は目の前の巨樹に向かって、そう声を掛けた
『少年』と呼ぶには、まだ幼すぎるかもしれない。
この樹は桜だったが、ここ数年花を咲かせたことがないらしい。他の桜が花を咲かせようとしているこの時期に、もうすでに葉桜と化していた。
少年は花の咲かないこの桜の木が妙に気になり、そして気に入っていた。
くねくねと曲がった根に腰掛け、巨樹に背を預けると、少年はおもむろに木陰での読書に浸り始めた。
時々本を開いたまま、休息を取るべく目を閉じる。
さわさわと駆け抜ける春風が、一層心地よく感じられた。
本のタイトルは
『植物と人間との調和』
どう考えても、子供には不釣り合いな本だった。
ふいに、ざわざわと周りの木々が騒ぎ始めた。
「誰か来た」と、活字を追っていた目をあげる。
「おーい、ユウト~」
小柄な影が、少年の名前を呼びながら、ハアハアと山道を駆け上ってくる。
「なんだ、アキラか。何か用?」
アキラと呼ばれた少年も、またユウトと同じ年頃だった。
「別に用はないけど、どこに行ったのかと思って捜してたんだ」
そう言って、アキラはユウトの隣にストンと座った。
「何その本、すごい難しそう! ユウト読めるの?」
「別に。ひらがなさえ分かれば読めるよ。ルビが振ってあるし」
「『るび』? なにそれ」
子供は知らなくて当然であるが――
ユウトは人並み外れた学力の持ち主だった。
一方のアキラはと言えば、まったく文字を覚えようという気もないらしい。
「お前な、ひらがなくらい読めるようになれよ。俺たちもう、来月には小学生だぞ」
そんな感じで、いつもユウトに釘を刺されている。
「分かってるって。あ~、ユウトと一緒に学校行くの、楽しみだなあ!」
アキラは無邪気にただそれだけを喜んでいる。
そして気分が乗ったのか、今流行りのJポップを歌い出した。
これがまた上手い。大人ぶった歌い方でもなければ、子供じみた感じもしない。何とも言い難い、絶妙な歌声だった。
(こいつ、俺と出会った時には、しゃべることすらできなかったのにな……)
自分にはないアキラの才能に、ユウトはいつも感心させられる。
周りの木々たちも、そんなアキラの歌に聴き惚れるように、さわさわとその枝を震わせていた。
一曲歌い終わると、アキラはまた話し出す。
「ユウトはよくここに来るの?」
「たまにね。一人になりたい時とか。ここ、意外に誰も来ないから」
「へえ、そうなんだ」
そう言って、ふと何かに目を付けると、興奮して聞いてきた。
「ねえねえ、ユウト! あれなに、あの穴! 中はどうなってんの?」
「は? 穴?」
ユウトはアキラの指差す先を見た。この樹の根元に、それはぽっかりと口を開いていた。
(え、嘘だろ? こんな穴、今まで気付かなかった……いや、絶対に無かった……と思う)
訳が分からずに呆然とした。
「わー、すごい! いいね、ここ!」
アキラは穴の中を覗き込んで、更にヒートアップしている。
ユウトも穴を覗いて観察をしてみる。幹の中は空洞化が進んでいるようだ。
(かなりの老木なんだ。それで花が咲かなかったのか)
穴は地下に続いていて、まるで樹の根に抱きかかえられているかのような洞穴になっており、思いの外広かった。
二人は中に入ってみた。樹の根が頑丈に張り巡らされている為か、崩れてくるような気配はない。
「そうだ、いいこと考えた! ユウト、ここをオレたちの秘密基地にしようよ!」
「え、うん、いいけど……」
ユウトは自分の中の疑問を打ち消すようにそう言った。
本当に、自分が今まで気が付かなかっただけかもしれない。昨日今日出来た穴とは到底思えなかった。
数日の間に、その秘密基地はアキラの手によって、非常に充実した居心地の良い空間へと生まれ変わっていた。
またしても意外な才能を見せるアキラに、ユウトは更に舌を巻いた。
それから二人は、毎日のようにその場所へ入り浸って、学校のない日は一日の大半をそこで過ごした。
人があまり来ないとはいえ、こんなに目立つ巨樹の根元に秘密基地とは――どうせすぐ誰かに見つかってしまうに違いない、そうユウトは思っていた。
しかし、それが大きな間違いだと気付くのも、そう先の話では無かった。
ある力によってこの秘密基地の存在が、この先十年間、一度も人に知られることはないのだということを。
そして二人は、そこで『あの日』を迎えることになる。
この時点では、まだ誰もそのことを知らない。