後篇
昔の英語、固いっすね・・・
うら若い学生は、小夜啼鳥の飛び去った芝生で、まだ横たわっていました。美しい両目を満たした涙は、まだ乾き切ってはいませんでした。
「喜びなさい」
小夜啼鳥が話しかけました。
「喜びなさい。貴方は薔薇を手に入れるのだから。月明かりの下で薔薇を咲かせ、心臓の血で薔薇を染めるの。貴方に真実の恋人になってもらいたい、ただそれだけが私の望み。その名も賢き哲学よりも、恋は叡智を秘めているもの。その名も強き権力よりも、恋は強さを秘めているもの。恋の翼は炎の色、恋の躰も炎の色。恋の唇は蜜の様に甘く、吐息は馨しい乳香の様」
学生は小夜啼鳥を芝生から見上げ、その声に耳を傾けました。でも、何を言っているのかは分かりませんでした。だって学生は、本に書いてあることしか知らなかったのですから。
しかし、常葉樫の木はそれを分かっていました。ですからとても悲しくなりました。彼は自分の枝に巣を作った、可愛い小夜啼鳥を好いていましたから。
「最後に一つ歌ってくれないか」
常葉樫は囁きました。
「君が行ってしまったら、とても淋しくなるだろうから」
小夜啼鳥は、常葉樫の木に歌いました。その声は銀の壷から、泡立ち湧き立つ水のようでした。
その歌が終わると学生は立ち上がり、手帳と鉛筆をポケットから取り出しました。
「あの鳥の声は美しい」
木立の中を歩きながら、彼は一人呟きました。
「あの鳥についてそれは否定出来ない事項だ。しかしあの鳥は感情を持っているだろうか?蓋しそれは否だ。実際のところ、あの鳥は大抵の芸術家と変わらない。容ばかりが美しく、誠実さは欠片も無い。あの鳥は他の何かの為に、自らの身を供えようとなんてしないだろう。あの鳥は単に音楽のことしか考えていない。そして誰もが知るように芸術は利己的なものだ。だとしても、あの鳥の声が何らかの美を持っているということは認められねばならないだろう。何と哀れなことだ、その声が何も意味を持たず、現実には何の役にも立たないなんて!」
そう言うと彼は部屋に帰り、藁敷きのベッドに身を横たえて、想い人のことを考えていましたが、程無く眠りに落ちました。
天空に月の輝く頃、小夜啼鳥は薔薇の木に降り立ち、その胸を荊に突き立てました。小夜啼鳥は終夜ら胸に荊を突き立てて歌い、凍る様に澄んだ水晶の月は、身を項垂れて聴き入っていました。夜を越えて歌いに歌い、荊は深く深く突き刺さり、生き血はその身から流れ出て行きました。
小夜啼鳥は初めに、少年と少女の心の間に芽生えた恋を歌いました。すると薔薇の木の一番高い小枝に、一輪の不思議な薔薇が咲きました。歌の流れて歌われるにつれて、花弁はふわりと花開いて行きました。初めのうちは、それは青白い薔薇でした。川面にかかる霧のように、青白い薔薇でした。朝焼けの裾野のように青白く、夜明けの翼よりも銀に輝く薔薇でした。銀鏡に映る影のように、水たまりの上の影のように、その薔薇は一番高い小枝に咲いたのでした。
しかし薔薇の木は、もっと胸を荊に突き立てるように叫びました。
「もっと強く突き立てて下さい、可愛い小夜啼鳥よ」
薔薇の木が言いました。
「さも無くば薔薇の色付く前に、朝陽が昇ってしまうだろうから」
小夜啼鳥がもっと強く胸を突き立てると、彼女は更に音高く歌い上げました。それは一人の青年と乙女の、魂の間に芽生えた恋を歌った歌でした。
すると花弁は幽かに染まりました。花嫁と唇を交わす花聟の、その色付いた頬の様に、幽かに、幽かに染まりました。しかし荊はまだ、心臓に届いてはいませんでした。薔薇の薇の内の芯は、まだ真白いままでした。小夜啼鳥の心臓の血だけが、薔薇の花の芯を真紅に染め上げることが出来るのです。
ですから薔薇の木は、もっともっと奥まで、荊を胸に突き立てるように言いました。
「もっと奥まで突き立てて下さい、可哀想な小夜啼鳥よ」
薔薇の木は言いました。
「さも無くば薔薇の染まる前に、朝が訪れてしまうから!」
小夜啼鳥がもっと奥まで胸を突き立てると、とうとう荊は心臓を撫でました。そして閃光の様な激痛が全身を走り抜けました。痛みの駆け抜けて痛むにつれて、歌は狂おしく歌われて行きました。それは、死によってこそ完成する恋の歌でした。十字架の下で永遠に、眠らない恋を歌った歌でした。
すると一輪の不思議な薔薇は、深紅に染まったのでした。東雲の空の茜の様な、真っ赤な薔薇に染まりました。深紅の花弁が薔薇の芯を包み、その芯は紅玉の様な真紅でした。
しかし小夜啼鳥の歌声は力を失い、小さな羽は痙攣を始め、目は霞んで行きました。その歌が弱々しくなるにつれ、小夜啼鳥は何か、喉の塞がるような思いがしました。
小夜啼鳥は、最期の歌を叫びました。純白の月はその歌を聴くと、暁も忘れて天の際に眠り泥みました。深紅の薔薇はその歌を聴くと、恍惚に震えて凍る朝に花を開きました。その歌は丘を越えてその紫の洞にも響き、眠る羊飼いを夢から覚ましました。その歌は川面の葦の間にも浮かび流れ、葦達はその想いを海神に伝えて行きました。
「見て下さい、見て下さいな!」
薔薇の木は言いました。
「やっと薔薇が咲きました」
しかし小夜啼鳥は、何の応えも返しませんでした。彼女は深草の中、荊を抱いて息絶えていました。
昼になって、学生が窓を開けて外を見ました。
「不思議だ、なんて幸運なんだろう!」
学生は言いました。
「紅い薔薇がある!こんな薔薇は今まで見たこともないぞ。とても美しい薔薇だ。きっとラテン語の長い学名でもついている薔薇に違いない」
学生は窓枠にもたれかかり、その薔薇を手折りました。
それから学生は帽子を被り、薔薇を握り締めて教授の家に向かいました。
教授の娘は糸巻きに青い絹糸を手繰りながら、戸口に腰を下ろしていました。彼女の足元には、小さな仔犬が寝そべっていました。
「紅い薔薇を捧げれば一緒に踊ってくれると、貴女は言いましたよね」
学生は言いました。
「ここに世界一紅い薔薇があります。貴女が今夜この薔薇を胸に差し、僕と一緒に踊ってくれる時、この薔薇は伝えてくれるでしょう。僕が貴女をどれだけ愛しているかを!」
しかし少女は、眉をひそめて言いました。
「お気持ちはありがたいのですけれど、その薔薇は私の衣裳には似合いませんわ。それに、式部宮の甥御さんが本物の宝石を下さいましたの。誰も知る様に、宝石は薔薇よりずっと価値がありましてよ」
「これは驚いた。貴女という人は全く感謝の気持ちを知らない方だ」
学生は怒って言い、道端に薔薇を投げ捨てました。薔薇の花は溝に落ち、その上を荷馬車が轢いて行きました。
「私が恩知らずですって!」
少女は言いました。
「それでは教えて差し上げますが、貴方はとても無礼な方ですわ。だいたい考えてもごらんなさい、貴方は御自分が一体何様だとお思いなのかしら?単なる学生に過ぎないのではありませんこと?貴方は今まで、銀の留金を相知らった靴すら履いたことがおありでないのでしょう。式部宮の甥御さんは履いていらっしたというのに」
そう言うと彼女は椅子から立ち上がり、家の中へと入って行ってしまいました。
「愛とは何て下らないものなんだ!」
学生は歩き去りながら言いました。
「こんなもの論理学の半分だって役に立ちゃしない。何も証明せず、起こりもしない出来事を語り、真実でないことを真実だと思い込ませる。実際、こんなもの何も実用的ではないし、昨今の時勢じゃ実用的であることが何よりなんだ。哲学の研究に戻って、形而上学でも勉強しよう」
そうして学生は部屋に帰り、埃を被った分厚い本を取り出して、読み始めたのでした。
誤訳上等なんじゃな