婚約破棄されたので実家に帰っただけなのに、なぜか王都が回らなくなったそうです
「エレノア。君との婚約を解消したい」
その一言を聞いたとき、エレノア・アルフォードは、膝の上で指を組み直した。
王宮で開かれた秋季祝宴の最中、西棟の小応接室。向かいに座る婚約者、エドガー・ハリントンの隣には、子爵令嬢リリアーナ・ベルモントがいた。
「理由を伺っても?」
「僕には、もっと僕を理解してくれる女性が必要なんだ。君は昔から、僕のすることに口を出しすぎる」
十一年の婚約だった。
エドガーが王都政務院に勤め始めてから、エレノアは『将来の侯爵夫人に必要な社会勉強』という名目で、商業組合や運送業者との連絡を任されるようになった。
最初は祝宴の仕入れ先を選ぶ程度だった。
それがいつしか、市場の要望を役所へ届け、街道工事の日程を商人へ知らせ、食料と燃料の入荷がぶつからないよう調整する仕事になった。
官庁の外にいる者同士をつなぐ役目で、正式な職名はなかった。
だから、エレノアの名は完成した書類のどこにも残らなかった。
「仕事の確認も、今後は不要ということでしょうか」
「ああ。僕の仕事くらい、自分でできる」
胸の奥で、何かが静かに切れた。
好きだったからこそ、忙しい彼の力になりたかった。その十一年を『口出し』の一言で片づけられたことが、婚約を失うことより痛かった。
「承知いたしました」
エレノアは立ち上がった。
「明日の朝、私がお預かりしている書類と備品を、すべてお返しいたします」
「そんなに急がなくてもいい」
「婚約者ではなくなる私が、ハリントン家の名で交わした資料を持ち続けるわけにはまいりません」
エドガーは一瞬だけ黙ったが、やがて肩をすくめた。
「分かった。好きにしてくれ」
最後まで、彼は何を返されるのか尋ねなかった。
◇
翌朝、エレノアはハリントン侯爵家の王都屋敷へ木箱を六つ運び込んだ。
「こちらが今月中に決裁が必要な案件です」
どさり。
「こちらは来月分。赤い紐が回答待ち、青い紐が他部署との調整中です」
どさり。
「街道補修、市場使用料、冬季用石炭の契約。いずれも三日以内に返答が必要です」
さらに、どさり。
机の向こうで、エドガーの顔色が少しずつ変わっていく。
「……こんなにあったのか?」
「はい。進行中の案件は四十七件です」
「四十七?」
「担当者、期限、これまでの経緯、次に必要な対応は一覧にしてあります。私の名で預かっていた通行証と、各組合への紹介状も一番上に置きました」
目の前の案件について、引き継ぎ書類に穴はない。最後まで、それだけはきちんとしたかった。
「今まで助かった」
十一年分の別れが、それだけだった。
「いいえ。どういたしまして」
エレノアは頭を下げ、執務室を出た。
帰りの馬車では、窓の外ばかり見ていた。泣いたのは、実家へ着くまでの間だけだった。
◇
翌朝、目が覚めたエレノアは反射的に今日の会議を思い浮かべた。
午前九時に街道管理局。昼までに市場組合へ返事。午後は石炭商会との――。
「あ」
もう、しなくていい。
朝食を急ぐ必要もなかった。冷める前の紅茶を飲み、本を一冊読み終えても、まだ昼前だった。
「私、こんなに暇だったのね」
口にすると、少し笑えた。
婚約を失えば人生も終わると思っていた。
けれど庭には秋の花が咲いていて、厨房からは昼食の匂いがする。
明日は、こちらの都合など聞かずにやってくるらしい。
母は何も尋ねず、新しい紅茶を注いでくれた。
「しばらく休みなさい」
「はい」
そう答えたものの、午後になると落ち着かなくなった。働き方を忘れても、働くことまで嫌いになったわけではないのだ。
夕食の席で、父は一度もエレノアを見なかった。
「ハリントン侯爵家から正式な使者が来た。婚約解消の文書は、明日届くそうだ」
「承知しました」
「承知した、ではない。十一年かけて結んだ縁だ。お前が頭を下げれば、まだ考え直させられるかもしれん」
婚約を捨てられた娘に、なぜ捨てた相手へ頭を下げろと言えるのだろう。
以前のエレノアなら、それでも家のためだと受け入れた。商人と役人の板挟みになっても、侯爵家の妻になるなら必要な忍耐だと思ってきた。
「お父様が惜しんでいるのは、私ですか。それとも侯爵家との縁ですか」
「同じことだ」
「私には違います」
父の顔が険しくなった。
「部屋へ戻りなさい。先方から話があるまで、外出は許さん」
エレノアは静かに席を立った。
廊下へ出ると、母が追ってきた。何も言わず、その肩へ薄いショールを掛ける。
「お母様。私、間違えたでしょうか」
「少なくとも、祝宴で恥をかかせたのはあなたではないわ」
「でも、もっと上手にできた気もします」
「それは、今まで上手にやりすぎた人の言葉ね」
母は困ったように笑った。
「休みなさい。家のことは私がどうにかします」
部屋へ戻っても眠れなかった。
午前十時までに北門の許可証を印刷所へ回す。水曜日には市場使用料の協議。金曜日までに街道補修の仮契約。
期限が頭から離れない。
エレノアは何度も、市場組合や街道管理局へ手紙を書こうとした。だが、そのたびに紙を丸めた。
引き継ぎは残した。
担当も期限も、対応方法まで書いた。
それでも自分が動かなければならないのなら、引き継ぎではなく、ただ仕事を持ち帰っているだけだ。
翌日、料理長が市場から戻り、野菜の仕入れ値が昨日の倍になったとこぼした。
「北門で荷馬車が止められているそうです。青菜を積んだ車なんて、この陽気では明日まで持ちません」
エレノアの指が止まった。
胸が痛んだ。けれど、ここで自分が戻れば何も変わらない。婚約者だから名もなく働き、辞めても責任だけ負わされる。
「私が困らせているわけではない」
声に出さなければ、信じられなかった。
◇
三日後、王都の北門で荷馬車が列を作った。
西部街道の補修契約が期限切れとなり、工事が止まったためだった。
迂回路に荷が集中し、市場への到着が半日遅れる。
翌日には野菜の値が上がり、その次の日にはパン屋が薪の不足を訴えた。
同じ頃、中央市場では新しい使用料の通知が二通届いていた。金額が違う。どちらを採用すべきか判断できず、徴収窓口が閉まった。
冬季用石炭の契約も、署名が一つ足りないまま返送された。
どれもエレノアの一覧に、期限と次の対応が書かれていた。
だがエドガーは、目の前に積まれた書類を上から処理していた。
赤い紐の意味を確かめるより、訪ねてくる役人への説明を優先し、説明をしている間に次の期限が切れた。
「ハリントン。西部街道はどうなっている」
「先方からの返答待ちです」
「返答期限は一昨日だ」
「ですが、一覧には――」
「一覧には『期限までに返答がない場合、街道管理局長へ確認』とある」
上司の指が、エレノアの整えた一行を叩いた。
引き継ぎに問題はなかった。
その事実だけが、逃げ道を塞いだ。
夕方、エドガーはリリアーナを呼び出した。
「エレノアが急に仕事を放り出したせいで、王都中が騒ぎになっている」
「急に?」
リリアーナは眉を寄せた。
「婚約を解消したのはエドガー様ですわ。引き継ぎはなかったのですか?」
「あった。だが、量が多すぎるんだ」
「では、これまでエレノア様お一人に多すぎる仕事をさせていた、ということでは?」
エドガーは答えられなかった。
「わたくしは、仕事のできるあなたを尊敬していました」
リリアーナの声から、華やかな笑みが消えた。
「けれど、その仕事がほかの方のものだったのなら、わたくしが見ていたあなたは、いったい誰だったのでしょう」
翌日、混乱は別の場所へ広がった。
西地区の共同井戸が故障した。
修繕依頼は二週間前に届いていたが、工事日を確定する返信が出されていない。
住民は隣の区画まで水を汲みに行き、朝から長い列を作った。
市場では、生鮮品を扱う商人が荷を東地区へ回し始めた。品不足を恐れた買い付け人が値をつり上げ、パン屋は小麦の購入量を減らした。
街灯油の入札も止まった。日没後の点灯時間を短縮すると告知され、治安隊は巡回を増やさざるを得なくなった。
一つ一つは、王都を滅ぼすほどの問題ではない。
けれど、北門へ人を取られた結果、市場の協議が止まり、市場の混乱で財務局が動けず、財務局の承認を待つ工事が遅れた。
小さな遅れが、次の遅れを呼んだ。
夕刻には、王都基盤管理室へ苦情が三十七件届いた。
政務院の役人たちは、ようやく気づいた。
王都は、王や大臣の大きな命令だけで動いているのではない。
誰かが返事を出し、数字を確かめ、次の人へ仕事を渡すことで、毎日の暮らしがつながっていた。
そして、そのつながりの多くを、役所に籍さえない一人の令嬢へ任せきっていた。
◇
混乱の報告を受けた王都監察局長アルベルト・ヴァイスは、過去一年分の決裁書を机に並べた。
エドガー名義の資料には、不思議な差があった。
数字の出典まで揃ったものと、結論だけを急いだもの。
以前から気づいていたが、担当者の力量に波があるのだと思っていた。
よく整った資料には共通点があった。
余白に、小さな丸印が三つ並んでいる。
半年前の会議で、エレノアがエドガーの後ろから資料を差し出したときも、同じ印を見た。確認済みの項目に丸をつける、彼女の癖だった。
「やはり、そういうことか」
アルベルトは政務院と商業組合の双方で、エレノアの立場を確認した。
驚いたことに、彼女の職員登録はどこにもなかった。
あるのはハリントン家の紹介状と、会議ごとに発行された臨時の閲覧許可だけ。
それなのに彼女は、役所では集めきれない商人や御者の情報を整理し、異なる部署の予定をつないでいた。
報酬は婚約者の務めという言葉で済まされ、一度も支払われていない。
臨時閲覧簿の日付は、さらにひどかった。
来庁記録は週三日ほどだった。
だが、夜間に届けられた組合文書には、エレノアの確認印がいくつも残っている。
祝祭日の日付まであった。
官庁の業務時間が終わったあとも市場を回り、翌朝までに双方の回答をそろえていたのだ。
「誰も、おかしいと思わなかったのか」
アルベルトが尋ねると、古参の書記官が目を伏せた。
「アルフォード令嬢は、いつも大丈夫だと仰いましたので」
「大丈夫だと言う人間へ、どこまで背負わせられるか試したのですか」
書記官は黙った。
アルベルト自身も同じだった。整った資料を便利に使いながら、誰がどのように作ったのか確かめなかった。
誰か一人を叱れば済む話ではない。だが、だからといって全員が悪かったで終わらせれば、誰も責任を取らない。
「彼女の印が確認できる文書をすべて分けてください。どの組織と、どの組織の間をつないだのか記録します。それから行政局と各組合の連絡経路を。今度は、見えなかったことにしない」
彼は翌日、アルフォード伯爵家を訪ねた。
「エレノア嬢に、仕事を依頼したい」
応接室でそう告げると、彼女はわずかに身を固くした。
「エドガー様の代わりに、でしょうか」
「違う。あなたにだ」
アルベルトは市場使用料の資料を机に置いた。
「監察局の臨時調整官として正式に雇用し、報酬も支払う。断っても、あなたの家に不利益はない」
「なぜ私なのです?」
「この一年、役所と市場の数字が一致している資料だけに、同じ丸印があった。それが誰の印か、確かめてきた」
エレノアは資料を開いた。二通の通知を見比べ、添付された集計表へ目を移す。
「一日の利用者数が違います。市場側は荷車を一台、役所側は御者と荷運び人を一人ずつ数えている。先に数え方を統一しなければ、どちらの金額も正しいとは言えません」
「解決できそうか?」
「現地で確認させていただけるなら」
彼女はそこで言葉を切った。
「ただし、私の名前で意見を提出します」
「もちろん。そのために来た」
返事があまりに早く、エレノアは少しだけ目を見開いた。
◇
翌日、二人は中央市場へ向かった。
帳簿だけを見ていた役人と、忙しさで声を荒らげる商人たち。その間で、エレノアは半日、荷車の出入りを数えた。
裾に泥がついても気にせず、御者に同じ質問を何度もする。
数字が揃うまで結論を言わない。
その姿を見て、アルベルトは自分が彼女を何も知らなかったことに気づいた。
夕方、エレノアは新しい料金案を示した。
荷車の大きさによって三段階に分け、小規模な商人の負担を減らす代わりに、倉庫を長時間占有する大口商会から多く徴収する。
「これなら窓口を再開できる」
市場長が安堵の息をついた。
「エレノア・アルフォード臨時調整官の提案として、明日の会議に出す」
アルベルトが告げると、エレノアは汚れた手袋を見つめた。
「私の名前を出すのですか?」
「考えたのはあなたでしょう」
「これまでは、出ませんでした」
「それがおかしかったんだ」
慰めるのではなく、事実として言われた。その方が、今のエレノアにはありがたかった。
市場を出ようとしたところで、一人の老婆がエレノアの袖を引いた。
「お役人様。新しい料金だと、小さい荷車はいくらになるんだい」
老婆の荷台には、豆を詰めた麻袋が三つだけ載っていた。隣にいる少年は孫だろう。二人とも、朝から待ち続けて疲れ切った顔をしている。
エレノアは新しい表の一番上を指した。
「これまでの半分です。明日から適用されます」
「半分?」
「小さな荷車は倉庫を長く使いませんから」
老婆は何度も頭を下げた。
「これなら、また孫と豆を売りに来られます」
エレノアはその言葉を手帳へ書き留めた。
「報告書に使うのですか?」
アルベルトが尋ねる。
「はい。数字が下がったと書くだけでは、この方が来られるようになったことは伝わりません」
「やはり、あなたの資料は読みやすいはずだ」
「まだ報告書は書いていません」
「今の時点で分かります」
何気ない一言だった。それでも、エレノアは手帳を閉じるまで顔を上げられなかった。
その足で、二人は西地区の石炭倉庫へ向かった。
契約の署名漏れにより、王都へ入るはずだった石炭の半分が川向こうの都市へ売られていた。
残っている量では、王宮と富裕地区の分を確保するだけで精一杯だという。
「西地区のパン窯と共同浴場を止めれば、十日は持ちます」
倉庫責任者が帳簿を見ながら言った。
「止める対象が逆です」
エレノアは即座に返した。
「王宮の暖炉を半分止めます。貴族街の配給も二割減らしてください」
責任者は、助けを求めるようにアルベルトを見た。
「局長のお屋敷も、優先配給から外れますが」
「毛布を増やします。私邸だけ例外にはできません」
アルベルトは平然としていた。
「パン窯が止まれば、困るのはパン屋だけではない。共同浴場は洗濯場も兼ねている。病人が増えれば、もっと多くの燃料と人手が要る」
「しかし、王宮の体面が」
「暖炉の数を数えに来る大使はいません。もしいたら、温かい茶でも出して帰っていただきましょう」
責任者はまだ納得していなかったが、監察局の是正勧告と商務大臣の承認印を見て渋々頷いた。
次は不足分をどう補うかだった。
エレノアは倉庫の入荷記録から、南部の製材所が木材の端材を大量に廃棄していることを思い出した。石炭ほど長くは燃えないが、パン窯なら使える。
「運送費の方が高くなりませんか」
アルベルトの指摘に、エレノアは地図を広げた。
「空荷で南へ戻る市場の荷車があります。帰路の料金を補助すれば、新しい馬車を雇うより安いはずです」
「市場の混乱を直したから使える手ですね」
「一つずつ片づけた結果です」
その日のうちに商業組合と製材所へ使者を出した。
三日後、端材を積んだ荷車が西地区へ到着した。パン屋の煙突から、久しぶりに白い煙が上がった。
焼き上がった最初のパンを、店主が監察局の調査室へ届けてくれた。
「局長と調整官様へ。まだ形が悪いんですが」
丸いパンは少し焦げ、片側が膨らんでいた。
「立派な形です」
エレノアが言うと、アルベルトも頷く。
「上等な晩餐より楽しみです」
二人で分けたパンは、驚くほど香ばしかった。
「局長」
「何です?」
「私、今まで仕事が終わっても、次の仕事のことしか考えていませんでした」
エレノアは手の中のパンを見た。
「こんなふうに、終わったことを喜んだのは初めてかもしれません」
「では、これからは毎回喜びましょう。少なくとも、パンが届いたときくらいは」
「毎回パンをいただくつもりですか?」
「それも悪くありません」
アルベルトが真面目な顔で言うので、エレノアは笑ってしまった。
自分の仕事が誰かの暮らしへつながり、その結果を隣で一緒に喜ぶ人がいる。
以前と同じ王都の仕事なのに、まるで違う場所に思えた。
◇
市場の混乱が収まると、次は街道だった。
エレノアは補修契約の記録を読み、期限切れの原因が資材価格の改定にあると突き止めた。
アルベルトは街道管理局、財務局、資材商会を同じ卓へ呼び、彼女の案を監察局の報告として商務大臣へ提出した。
臨時予算はその日のうちに承認された。
二人は何度も意見を違えた。
「局長の案では早く直せますが、春にまた同じ場所が崩れます」
「だが、完全な工事を待てば冬に間に合わない」
「では応急処置と本工事を分けましょう。今季の通行を確保してから、雪解け後に施工します」
「予算書を二つ作ることになるな」
「作るのは私です」
「いや、そこは分担しよう。あなた一人に戻したら、何も学んでいない」
アルベルトは自分の分を持ち帰り、翌朝、寝不足の顔で提出した。数字が一か所違っていたので、エレノアは容赦なく赤い印をつけた。
「厳しいな」
「間違いは間違いです」
「はい。直します」
素直に書類を引き取る後ろ姿を見て、エレノアは笑った。
間違いを指摘しても嫌われない。そのことを、少しずつ覚えていった。
街道の現地確認には、二人で出向いた。
崩れた斜面には昨夜の雨が残り、轍の底に濁った水が溜まっている。荷馬車が通るたび、車輪が大きく傾いた。
「全面を石畳にする必要はありません」
エレノアはしゃがみ込み、泥の流れた跡を指した。
「水がここへ集まっています。先に排水溝を掘れば、平地部分は砂利で持つはずです」
「本当に?」
「私の領地にも似た道があります。ただ、技師に確認してください。私は工事の専門家ではありません」
以前なら、知っているふりをしてでも答えを用意しようとした。今は、自分の分からない範囲を言える。
同行した技師は地面を調べ、排水を先にする案へ賛成した。
「では、危険な崖沿いだけ石積みにする。ほかは排水と砂利で冬を越し、春に本工事を行う」
「春の予算まで、今の議会で確保してください」
「応急処置のまま忘れると思っていますね?」
「局長ではなく、仕組みを疑っています」
アルベルトは声を立てて笑った。
「その言い方、気に入りました」
帰路、雨が降り出した。
二人は街道沿いの小さな宿へ駆け込み、軒下で馬車を待った。エレノアの髪から雫が落ちている。
「風邪を引きます」
アルベルトが自分の外套を差し出した。
「局長こそ濡れているではありませんか」
「私は丈夫です」
「私も丈夫です」
「では、半分ずつ使いましょう」
一枚の外套を二人の肩へ掛ける。触れた腕を意識した途端、急に距離が近くなった。
雨音がやけに大きい。
「……馬車は、まだでしょうか」
「もう少し遅くてもいいと思っていました」
アルベルトが小さく言った。
聞き返す勇気がなく、エレノアは雨の向こうを見つめた。
その夜、帰宅してからも、肩に残った温かさがなかなか消えなかった。
◇
仕事のあと、アルベルトはよく彼女を茶に誘った。
最初の二回、エレノアは資料を持っていった。三回目に、アルベルトが困った顔をした。
「今日は仕事の話をしないつもりだった」
「では、何を?」
「何でも。あなたが好きな本とか、子どもの頃の失敗とか」
「局長に失敗談をお聞かせするのですか?」
「私も話す。たぶん、私の方が多い」
厳格な監察局長らしくない答えに、エレノアは吹き出した。
彼は本当に失敗談を話した。十二歳のとき、抜け道を使って町へ出ようとし、厨房の煙突脇から煤だらけで発見されたという。
エレノアも、幼い頃に兄の剣を持ち出し、重さに耐えられず花壇へ落とした話をした。
翌週、好きだと言った木苺の焼き菓子が用意されていた。
「覚えていらしたのですか?」
「覚えている。仕事の期限ほど上手にはいかないけれど」
アルベルトはそう言って、自分の手帳を見せた。会議予定の端に『木苺』とだけ書いてある。
エレノアは笑い、それから少し困った。
監察局へ向かう朝を楽しみにしている自分に、もう気づいていた。
ただ、楽しいだけではなかった。
アルベルトは王都監察局長であり、ヴァイス伯爵家の当主でもある。直属の臨時職員へ親しくすれば、周囲は勝手に意味をつける。
ある日、休憩室へ向かう途中で、二人の令嬢が話しているのを聞いた。
「婚約を捨てられて、今度は監察局長ですって」
「仕事を口実に近づいたのでしょう。手際のよいこと」
足が止まった。
祝宴の日より、ずっと小さな悪意だった。それなのに胸へ深く刺さった。
自分が何をしても、誰かの男を利用した女として語られるのだろうか。
その日は、茶の誘いを断った。翌日も、仕事が終わるとすぐ帰った。
三日目、アルベルトが書類を持って彼女の机へ来た。
「何かしましたか、私は」
「いいえ」
「では、誰かに何か言われました?」
図星だった。
「噂に局長を巻き込みたくありません」
「私はすでに当事者です。私があなたを茶に誘った」
「ですが」
「エレノア。あなたは、私が困るかどうかまで一人で決めるのですか」
相手のためだと言いながら、何も聞かずに背負い込む。それも、かつての自分の癖だった。
「婚約を捨てられた私が、仕事を口実に局長へ近づいていると聞きました」
「腹が立ちます」
「私に?」
「噂を流した者にです。それと、あなたより先に気づけなかった自分にも」
アルベルトは周囲を見回した。官吏が何人もいる執務室だった。
「隠れて茶を飲めば、かえってやましいように見える。今日は皆にも菓子を配りましょう」
「ずいぶん大がかりなお茶ですね」
「あなたと二人で話せないのは残念ですが」
堂々と言われ、周囲の官吏が一斉に書類へ顔を伏せた。
その日の休憩には、監察局の調査班全員が集まった。アルベルトはエレノアだけを特別扱いせず、それでも彼女の好きな木苺の菓子を、一番近い皿へ置いた。
ささやかな気遣いが、何より嬉しかった。
◇
一方、エドガーの処分が決まる前に、行政局では正式な聴取が行われた。
エレノアも証言者として出席した。
「ハリントン次席は、あなたへ仕事を強制しましたか」
調査官に問われ、エレノアは少し考えた。
「断れば怒鳴られる、という意味なら違います。エドガー様は、私ならできると言いました。私も、できると答え続けました」
「では、本人同士の合意だったと?」
「公平な合意ではありません」
エレノアは保管していた紹介状と往復書簡を示した。
「私はどの官庁にも登録されず、報酬も任期もありませんでした。けれど、ハリントン家の紹介状がなければ会議へ入れず、断れば妻になる覚悟が足りないと言われる立場でした。引き受けた責任は私にもありますが、対等に条件を選べたとは思いません」
エドガーは向かいの席で俯いていた。
調査官は次に、行政局長へ尋ねた。
「なぜ部外者の印がこれほど多くの公文書に残っていることを放置したのです?」
「成果は出ていた。本人から訴えもなかった」
「成果さえ出れば、誰がどれだけ働いても構わないと?」
局長も黙った。
調査はエドガー一人の罪で終わらなかった。仕事を渡した者、成果を受け取った者、見えていたのに確かめなかった者。それぞれの責任が記録された。
エレノア自身も、仕事を共有し、誰かが代われる仕組みを作らないまま抱え続けたことを認めた。
誰か一人だけを怪物にするより、ずっと納得できた。
その後、エドガーは処分を受けた。
混乱の責任をすべて負わされたわけではない。
正式な担当を置かないまま四十七件もの案件を一人の部外者へ頼り、進捗を確認しなかった上司にも責任があった。
ただし、エレノアの成果を自分の名で提出し続けたこと、引き継ぎ後も確認を怠ったことは、本人の責任だった。
昇進の内定は取り消され、半年間、地方の街道管理局で実務を学び直すことになった。
リリアーナとの関係も終わった。
「あなたが婚約を解消するほどわたくしを想ってくださったのだと、浮かれていました」
最後に会った日、彼女はまっすぐに言った。
「けれど、わたくしが好きだったのは、エレノア様の働きで飾られたあなたでした。これ以上、勘違いを続けるつもりはありません」
エドガーには反論できなかった。
地方へ発つ前日、彼はアルフォード伯爵家を訪ねた。
「君に謝りたい」
以前より痩せた顔で、エドガーは頭を下げた。
「君がしてくれていたことを、僕は自分の力だと思っていた。君なら分かってくれると、甘えていた」
「そうですね」
エレノアが否定しなかったので、彼は苦く笑った。
「もし許されるなら、もう一度やり直せないだろうか」
その言葉を聞いても、胸は以前のように痛まなかった。
「私は、あなたと過ごした年月まで間違いだったとは思いません」
エドガーが顔を上げる。
「ですが、戻りません。今の私は、自分の仕事を自分の名前でできます。意見が違えば話し合える人たちもいます。その生活を手放したくありません」
「……ヴァイス伯爵のことが好きなのか?」
返事をしようとして、言葉が止まった。
エドガーは、その沈黙だけで理解したらしい。
「僕といるとき、君がそんな顔をしていたか、思い出せない」
寂しそうではあったが、恨むような声ではなかった。
「今度こそ、自分の仕事は自分でするよ」
「はい」
「本当に、すまなかった」
過去まで嫌いになる必要はない。ただ、終わったのだ。
◇
エドガーが帰った日の夕方、アルベルトが訪ねてきた。
「ハリントンが来たと聞いた」
「監察局には、ずいぶん耳の早い方がいらっしゃるのですね」
「彼が出発の挨拶に来たんだ。あなたの家へ寄ると言っていた」
以前のエレノアなら、余計な勘ぐりをした自分を恥じて話題を変えていただろう。今は少し違う。
「心配なさいました?」
「した」
アルベルトはあっさり認めた。
「あなたが彼を選んでも、責める権利は私にはない。だが、嫌だった」
「お断りしました」
彼の肩から力が抜ける。
「それを聞いて安心した自分を、格好悪いと思っている」
「少しだけ、かわいいと思っています」
「それは喜んでいいのかな」
二人で笑ったあと、アルベルトは急に真顔になった。
「エレノア。あなたに伝えたいことがある」
彼女はいつものように、仕事への感謝だと思った。
「私の方こそ、局長には感謝しています。能力を必要としてくださって――」
「それも大事だ。だが、今日は仕事の話ではない」
アルベルトは椅子に座り直した。大臣へ是正を迫るときより、ずっと緊張して見えた。
「最初は、あなたの仕事を知りたかった。共に働くうちに、結果が出ても必ず根拠を確かめるところや、疲れると紅茶に砂糖を二つ入れるところを知った。本の話になると早口になることも、笑うのを我慢すると右の頬だけ少し上がることも」
エレノアは思わず右頬を押さえた。
「見すぎではありませんか?」
「好きになったので」
あまりにもまっすぐで、逃げ場がなかった。
「私はあなたが好きだ。臨時調整官ではなく、エレノア・アルフォードという人と、これからも一緒にいたい」
胸の奥が熱くなる。それでも、確かめなければならないことがあった。
「私は、結婚しても仕事を続けます」
「続けてほしい。ただし、私の仕事まで一人で抱えないでくれ」
「間違いを見つけたら指摘します」
「助かる。私も、あなたが無理をしていたら指摘する」
「意見が合わないこともあります」
「街道の件で、もう知っている。話し合おう」
支えるのでも、支えられるのでもない。
同じ机に資料を広げ、自分の分は自分で持ち、必要なときには手を貸す。その姿なら、エレノアにも想像できた。
「私も、アルベルト様が好きです」
言葉にすると、思っていたより怖くなかった。
アルベルトはしばらく黙り、深く息を吐いた。
「想像していたより、ずっと嬉しい」
その顔がおかしくて、エレノアは声を立てて笑った。
嬉しかった。けれど、エレノアはその場ですべてを決めなかった。
「正式なお返事まで、一週間ください」
アルベルトは驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「もちろんです」
一週間、二人はいつもどおり働いた。
アルベルトは返事を急かさなかった。
必要以上に優しくすることも、気まずそうに距離を置くこともしない。
意見が違えば反論し、仕事が終われば茶に誘った。
エレノアは、その変わらなさを見ていた。
父はヴァイス伯爵家との縁がもたらす利点を数え上げた。母は、好きなのかとだけ尋ねた。
「好きです」
「なら、あとは自分が何を失いたくないか考えなさい」
仕事。名前。意見を言えること。休む時間。そして、アルベルトと話す時間。
どれかを差し出さなければ結婚できないのなら、受けるつもりはなかった。
一週間後、エレノアは条件を書いた紙を持って監察局へ行った。
「結婚後も調整官の職を続けること。家政と領地の仕事は事前に分担すること。子どもが生まれた場合も、私だけが仕事を諦める前提にしないこと」
アルベルトは一項目ずつ読んだ。
「最後の点は、私も考えなければなりません。今すぐ完璧な方法は約束できない。ただ、あなた一人へ押しつけないことは約束します」
何でも叶えると言われるより、その答えを信じられた。
「では改めて。私も、アルベルト様と結婚したいです」
アルベルトは紙を丁寧に畳み、胸元へしまった。
「これは、契約書より大切に保管します」
「必要なら、正式な文書にしますか?」
「そうしましょう。私が忘れないためにも」
二人は本当に文書を作り、署名した。
恋を、曖昧な期待のまま始めないために。
◇
それから数か月後。
婚約発表の前に、商務委員会で一つの問題が持ち上がった。
監察局長の婚約者が、同じ局の調整官であり続ければ、身内への便宜と疑われる。エレノアを辞任させるべきだという意見が、複数の委員から出された。
エレノアはアルベルトの後ろへ隠れず、自ら公開聴聞へ出席した。
「局長の婚約者という立場で、調整官の中立性をどのように保つおつもりですか」
「私の任命と監督を、局長一人に委ねるつもりはありません」
議場がざわめいた。
「以前の私は、任せるより自分で行う方が早いと考えていました。その結果、仕事の内容が共有されず、私が去っただけで王都の機能が滞りました。あれは私の有能さを示す出来事ではありません。組織としては失敗でした」
「自らの功績を否定するのですか」
「いいえ。私が行った仕事は、私の功績です。退く際の引き継ぎ書類も残しました。ただ、日頃から仕事を共有し、誰かが代われる形にできなかったことは反省しています」
エレノアは新しく作成した担当表と手順書を示した。
「現在は、担当、期限、判断の根拠を共通の記録へ残しています。私が休んでも仕事は進みます。加えて、ヴァイス伯爵家に関係する案件から私は外れ、私の評価と報酬は局長以外の三名が決定します」
「つまり、あなたにしかできない仕事はないと?」
「はい」
迷わず頷いた。
「私がいなければ回らない王都を作ることは、私の失敗です。私がいることで、昨日より少し良くなる王都を作りたいと思っています」
聴聞の結果、利害関係の公開と回避手続きを条件に、調整官職の継続は認められた。
議場を出ると、アルベルトが廊下で待っていた。
「見事でした」
「アルベルト様。聞いていらしたのですか」
「監察局長として、部下の説明を確認しました」
「評価は?」
「最後の回答は完璧です。ただ、その前の説明が少し長い」
思わず睨むと、彼は笑った。
「婚約者としては、格好よくて見惚れていました」
「どちらか一つにしてください」
「両方、本当なので」
悔しいが、言い返せなかった。
婚約発表の日、王都商業会館の大広間には、かつてエレノアが婚約を解消された夜と同じ顔ぶれが集まった。
あの夜は一人で向き合った顔ぶれの前に、今日はアルベルトと並んで立っている。
アルベルトが二人の婚約を告げ、続いて商務大臣がエレノアの調整官職継続を報告すると、広間を大きな拍手が満たした。
すべてが好意からの拍手ではないと分かっている。
それでも、俯く必要はなかった。
祝辞の列が途切れた頃、リリアーナがやってきた。
「ご婚約、おめでとうございます」
以前より飾りの少ないドレスを着て、一人で立っている。
「ありがとうございます」
二人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
「あの夜のことを、お詫びしたかったのです」
先に口を開いたのはリリアーナだった。
「婚約解消を宣言するとは知りませんでした。でも、エドガー様が私を選んでくださることを期待していたのは事実です。あなたがどれだけのものを失うか、考えませんでした」
エレノアは、目の前の令嬢を見た。
許さなければならないわけではない。憎み続けなければならないわけでもない。
「私も、あなたを見ようとしていませんでした」
「え?」
「エドガー様の隣にいた方、としか。あなたが何を知っていて、何を知らなかったのか、確かめようともしませんでした」
だからといって、同じ責任になるわけではない。ただ、互いに相手を物語の役として見ていた点は似ていた。
「これで何もなかったことにはできません」
「はい」
「でも、お詫びは受け取ります」
リリアーナの肩から、わずかに力が抜けた。
「私は春から、女学校で会計を学ぶことにしました」
「会計を?」
「自分が何を見て人を尊敬しているのか、今度は自分で確かめたいのです」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「いつか政務院の採用試験を受けてもよろしいでしょうか」
「採用を決めるのは私一人ではありません」
エレノアが答えると、リリアーナの顔が強張った。
「ですが、受験を止める理由もありません。公平に試験を受けてください」
「はい」
深く一礼し、彼女は去っていった。
「ずいぶん長く話していましたね」
入れ替わるようにアルベルトが来た。
「妬いていらっしゃるのですか?」
「相手が男性でも女性でも、あなたを長く独占されれば少し」
「では、次の挨拶は一緒に参りましょう」
エレノアが腕を差し出すと、アルベルトは嬉しそうに手を添えた。
今度は誰かに選ばれた席へ座るのではない。
自分で選んだ人と、自分で選んだ場所へ歩いていく。
中央市場には、新しい料金表が掲げられていた。荷車の列は流れ、西部街道の応急工事も雪が降る前に終わった。
エレノアは臨時ではなく、正式な王都監察局の広域調整官となった。提出する書類には、必ず彼女の名が記されている。
アルベルトとの婚約が公表されても、その扱いは変わらなかった。
「局長、こちらの数字が違います」
「あ、本当だ」
「昨日も一つありました」
「昨日のは計算方法の違いだ」
「では、説明を書き加えてください。読む方には分かりません」
「はい、調整官殿」
アルベルトは自分で書類を引き寄せた。
エレノアが次の資料へ手を伸ばすと、その上に小さな皿が置かれる。
「休憩にしない?」
「まだ仕事中です」
「木苺の焼き菓子がある」
エレノアの手が止まった。
「一つだけです」
「二つ用意した」
「では、半分ずつにしましょう」
「なぜ減った?」
「さきほど、昼食後にも食べたでしょう」
「そこまで覚えているのか」
「当然です」
アルベルトは笑いながら菓子を半分に割った。大きい方をエレノアの皿へ載せる。
窓の外では、荷を積んだ馬車が滞りなく大通りを進んでいた。
エレノアがいなければ王都が回らない。そんな状況に戻してはいけない。
けれど彼女がいることで、昨日より少しだけ、うまく回る。
それが正しいのだと、今では皆が知っていた。




