ただいま
少しだけ昔の話を思い出す短編です。
仮想世界を舞台にしていますが、内容は静かな現代ドラマです。
お時間のあるときにどうぞ。
ヒトは、前だけを見続けてはいられない。
しかし、振り返ることができたのなら、また前を向けるかもしれない。
この道を歩くのは何十年ぶりだろうか。
ボウリング場の前の国道を渡り、軽トラが1台通れる幅のあぜ道を行く。
あぜ道の右側は田んぼ、左側には広い製材置き場。
いろんな木のにおいが混ざって、コーラにも似た香りがする。
料亭を囲む長い木の壁。
向こうに見えるお寺は、同級生の狭川さんち。
そして児童公園。あの駄菓子屋さんは…、さすがにもうないか。
アーチ形の橋、袂に立つ2本の杉の木。
さらにその向こう。かつては稼働していたコンクリの取水塔が見える。
いつも眺めていた、土手からの景色。
歩いただけで息切れしていた身体は、ここでは土手を駆け上がっても平気だ。
5時のサイレンが鳴った。青かった空も夕日の色に。
もう、うちに帰らないと。
わかっている。これは仮想世界。しかもとってもデキが悪い。
家並みなんてぺらっぺらの継ぎ目だらけ。
立体感も何もあったもんじゃない。
この道の向こうなんて、ほら、あんなに歪んでる。
あとで、あの子に文句を言ってやらないと。
土手を下りて、国道を渡って、早足になって、わたしの家の前に立つ。
60年も前に両親と住んでいた家だ。
その家がもう無いことも知っている。
その扉が開かないことも。
もう誰もいないことも。
それでも、それでも。
わたしは言うのだ。
『ただいま』
ーー社長に聞いてみた(20XX年6月13日放送)より
……
我々はデータを持っています。
全世界の地図、ストリートビューのデータ、それを過去80年分。
それらは古地図と同様に、将来の都市設計へ貢献する財産となるでしょう。
しかし、データは宝ではありますが、大事にしまっておくものではありません。
ですから古地図以上にうまく利用できるよう、年代ごとに仮想世界を生成、提供するシステムを開発中です。
現況はアルファ版の評価を終え、ベータ版の準備を進めています。
その仮想世界を母にも見てもらいました。
文句を言われましたよ、デキが悪いって。
なにしろ、元が密度の薄いデータですからね。
でも、こうも言っていました。「ただいま」を言えた、と。
ご年配の方がよく言う「あの頃はよかった」。
そう言う方の「あの頃」は、色鮮やかなままで在り続けているからだと思います。
そんなことを言わない方の「あの頃」は、いつの間にか色を失くし埋もれてしまっているだけなのかもしれない。
もしも「あの頃」を見ることができるのなら。
言わせましょう、その方に。「あの頃はよかった」と。
そして見てやりましょう。その方の言う「あの頃」を。
ヒトは、前だけを見続けてはいられません。
しかし、振り返ることができたのなら、また前を向けるかもしれません。
読んでいただき、ありがとうございました。
粗い仮想世界でも、人は「あの頃」を探しに行くのかもしれません。
そんな思いで書きました。
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