奇跡は、叫んだあとに来る
俺の名前は、柏木レン。十六歳。取り柄なし、魔力なし、運なし。
異世界に召喚されて三ヶ月が経った今も、俺は「戦力外通告」の烙印を押されたまま、王都の端っこにある宿屋の皿洗いをしていた。正確に言うと、召喚されて最初の一週間は王宮の豪華な部屋に泊まって、毎日おいしい飯を食って、それなりに英雄気分を味わっていた。でもそれも、適性試験の結果が出るまでの話だった。
聖剣に触れたとき、俺の手のひらには何も起きなかった。魔法陣の上に立ったとき、俺の体は光ひとつ発しなかった。神官が神妙な顔をして、羊皮紙に何かを書き付けた。適性ランク──「無色」。魔力ゼロ。勇者としての素質ゼロ。そういうことだった。
同じ日本から召喚された幼馴染の瀬川ハルトは、その翌日には王国中の話題になっていた。適性ランク「星輝」。千年に一度の逸材。聖剣が金色の光を放ち、神官たちが膝をついて拝んだ。ハルトはそのとき困ったように笑っていて、それが俺には少しだけ救いだった。あいつは昔から、そういう奴だった。
でも、救いなんてそこまでだった。
王宮の廊下ですれ違う騎士たちの視線が変わった。豪華な部屋が狭い物置部屋に変わった。食事が豪勢な肉料理から硬いパンと薄いスープに変わった。そして一ヶ月後、「戦力にならない者を養う余裕はない」という宮廷魔導師の言葉とともに、俺は王宮を追い出された。
行くあてもないまま王都をうろついて、たまたま宿屋の主人に声をかけられた。「皿洗いと薪割りができるなら泊まる場所をやる」という話だった。俺はうなずいた。それ以外の選択肢が思いつかなかった。
宿屋の仕事は、思ったより悪くなかった。看板娘のエリナは俺のことをよく馬鹿にしたが、根は悪くなかった。料理人のガントじいさんはぶっきらぼうだったが、余り物をこっそり俺に回してくれた。勇者でも英雄でもなく、ただの皿洗いとして生きる日々は、情けないけど穏やかだった。
ハルトが会いに来たのは二回だけだ。一回目は俺が追い出されたあとすぐで、「一緒にパーティに来い」と言ってくれた。でも俺は断った。お荷物になりたくなかった。二回目は召喚から二ヶ月後で、そのときのハルトはもう完全に「勇者」の顔をしていた。言葉が丁寧になって、背筋が伸びて、目の奥に何か重たいものを宿していた。それ以来、会っていない。
そういう日々が、三ヶ月続いた。
俺には勇気なんてものが、一グラムもなかった。毎日、頭を低くして、波風を立てないように生きていた。どうせ自分には何もできない。そう思うのが一番楽だった。
その夜、俺は物音で目が覚めた。
深夜の二時を過ぎたころだった。宿屋の裏口のあたりで、何かが動いている。野良猫か、あるいは泥棒か。俺は薄い毛布をはいで、素足のまま廊下に出た。
裏口の扉を開けると、小さな影がうずくまっていた。
女の子だった。年齢は七歳か八歳くらい。ボロボロの服。右足に汚れた包帯が巻いてある。顔中が泥と埃にまみれていて、髪の毛はぼさぼさで、でも目だけがやたらと澄んでいた。
俺と目が合うと、女の子は怯えたように体を縮めた。それから、ぽつりと言った。
「……お腹、すいた」
それだけだった。他には何も言わなかった。
俺は考えた。正確に言うと、考えないようにした。深夜に一人でいる子供が、こんな格好でここにいる。それはきっと、ろくでもない事情がある。首を突っ込んだら面倒なことになる。俺には何もできない。どうせ助けても、また誰かにひどい目に遭わされるだけだ。
そういう言い訳が、頭の中をぐるぐると回った。
でも、女の子の腹がぐうと鳴った。本人が恥ずかしそうに俯いた。
「……ちょっと待ってろ」
気づいたら俺は厨房に向かっていた。残り物のパンが二切れ。鍋に少しだけ残っていた野菜スープを火にかけて温める。塩を少し足して、器に盛る。
裏口に戻って、女の子の前に置いた。
「食え」
女の子は目をまん丸にして、しばらく俺と器を交互に見ていた。それからゆっくり、両手で器を持ち上げて、スープを口に運んだ。ひと口、ふた口、三口。気づいたら一気に飲み干していた。
奇跡なんて起きなかった。ただの深夜のスープだった。
女の子の名前はミアと言った。スープを飲み終えたあと、少しだけ話してくれた。隣国のアレストから逃げてきたこと。一人で三日間歩いてきたこと。家族はもういないこと。それ以上は、うまく言えないと首を振った。
その夜は宿屋の物置に毛布を敷いて、ミアを寝かせた。俺は扉の前に座って、夜明けまで番をした。理由を聞かれても答えられない。ただ、そうしたかった。
翌朝、事情がわかった。
エリナが血相を変えて厨房に飛び込んできた。
「レン、あの子──ミアっていう子、聖印持ちだよ」
「聖印?」
「右手の甲を見てみなよ。金色の紋様がある。花の形をした紋章。あれは本物の聖印だ。神殿に百年に一人しか生まれないって言われてる、神の加護の証」
俺はミアの右手を見た。確かに、金色に光る花の紋様が、うっすらと刻まれていた。昨夜は泥で気づかなかった。
「それで?」
「それで、じゃないよ」エリナが声を潜めた。「昨日の夕方から黒騎士団が王都に入ってるって、街で噂になってる。隣国アレストの精鋭部隊。目的はわからないけど、聖印持ちを狙ってるって話もある」
俺の背中が冷えた。
物置に戻ると、ミアは毛布の上で膝を抱えて座っていた。俺の顔を見ると、すべてを察したように小さくうなずいた。
「知っちゃった?」
「……聖印のこと。それと、黒騎士団のことも」
「ずっと追いかけてきてる」ミアは静かに言った。「私が聖印を持ってると、国に都合のいい道具になるから。お母さんが逃がしてくれたけど、お母さんは──」
そこで言葉が止まった。
ミアは泣かなかった。七歳のくせに泣かなかった。その目が静かで、深くて、俺はなんとも言えない気持ちになった。
「逃げなきゃ、また捕まっちゃう」
「どこに逃げるんだ」
「わかんない。でも動いてないと捕まるから、とにかく動かなきゃって思って」
俺はその日、宿屋の主人に黙って仕事を休んだ。ガントじいさんには「すぐ戻る」とだけ言った。嘘になるかもしれないと思いながら。
本当のことを言うと、俺はミアをハルトのところへ連れていくつもりだった。勇者パーティがいる王宮の宿舎。ハルトなら守れる。力があって、才能があって、選ばれた人間だから。俺には無理だ。それが正直な気持ちだった。
でも王宮に向かう途中の路地で、黒い影が前を塞いだ。
三人。全員が黒い鎧。腰に剣。兜の奥の目が、ミアを見て細くなった。
「その娘を渡せ。騒げば死ぬ」
俺はミアの手を握って、走った。
路地を曲がり、また曲がり、市場の裏を抜けて、石畳の細い道を全速力で走った。ミアは足を引きずりながら、それでも俺の手を離さなかった。
追いかけてくる足音が、どんどん近づく。
角を曲がった瞬間、行き止まりだった。
高い石壁。左右も建物で塞がれている。逃げ場がない。振り返ると、三人の黒騎士がゆっくりと路地に入ってきた。剣を抜いて、焦る様子もなく歩いてくる。獲物が逃げられないとわかっているから、急がなくていい。そういう歩き方だった。
俺の心臓が壊れそうなくらい跳ねていた。足が震えて、膝ががくがくした。頭の中で声がした。お前には何もできない。魔力もない。武器もない。ただの皿洗いが何をするつもりだ。ここで諦めるのが一番賢い選択だ。
ミアが俺の服の裾を、小さな両手でぎゅっとつかんだ。
「……逃げて、お兄ちゃん。私のことはいいから。逃げて」
その声が、静かすぎた。
七歳の声が、諦めを覚えた大人みたいに静かで、俺は何かがぶつんと切れた気がした。
「うるさい」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「なんで俺が逃げるんだ」
「でも、お兄ちゃんには──」
「関係ない」
俺は両手を広げて、ミアの前に立った。膝は震えていた。声も震えていた。でも足は動かなかった。
黒騎士たちが立ち止まった。先頭の一人が兜の奥で笑ったのがわかった。
「命が惜しくないのか、小僧」
「惜しい」俺は言った。「めちゃくちゃ惜しい。怖くて死にそうだ」
「じゃあどけ。お前には関係ない話だ」
「関係ある」
どうして関係あるのか、うまく説明できなかった。この子を昨日初めて会って、スープを一杯あげただけで、血縁もなければ義理もない。理屈で言えば、黒騎士の言う通りだ。俺には関係ない。
でも関係あった。それだけは確かだった。
「お前、ランクは何だ。魔力は?」
「ない」
「武器は?」
「ない」
「じゃあ何がある」
俺は息を吸った。
胸の奥から、腹の底から、三ヶ月分のなにかが、ぜんぶ一緒に出てきた。
「気合いがある!!」
路地に俺の声が響いた。
その瞬間だった。
ミアの右手の甲が、眩い光を放った。
金色だった。あの花の紋様が、真昼の太陽みたいに輝いた。光が路地を包み込んで、黒騎士たちが腕で目を覆って後退った。地面が揺れた。壁に積み上げた荷物が崩れた。どこかで鐘が鳴った。屋根の上の鳥たちが一斉に空へ舞い上がった。
光が収まると、黒騎士たちは路地の入口まで吹き飛んでいた。立ち上がろうとしているが、体が動かないみたいに床を這っていた。
俺はその場に尻もちをついた。
しばらく、何も言えなかった。
ミアが隣にしゃがんで、俺の顔を覗き込んできた。
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃない」俺は言った。「なんだ今の」
「聖印」ミアは右手を見ながら、静かに言った。「聖印はね、守ってくれた人の勇気に反応するって、お母さんが教えてくれた。本当に怖いのに、それでも逃げなかった人のそばで光るって」
「……俺の?」
「うん。お兄ちゃん、すごく怖そうだったけど、逃げなかったから」
俺は空を見上げた。
青い空だった。いつもと同じ空だった。でも何かが違うような気がした。
奇跡は、強い人間に降りるものだと思っていた。選ばれた人間、才能がある人間、魔力が高い人間、そういう人間のもとに降りるものだと。だから俺には関係ない話だと、ずっと思っていた。
違った。
奇跡は、震えながらも逃げなかった人間のところに来る。
その後の話をすると、黒騎士たちは動けないまま衛兵に拘束された。王都に乗り込んだ外国の精鋭部隊が子供を追い回していたという話は一瞬で広まり、夕方には国際問題に発展した。アレスト側は外交上の「誤解」と言い訳して部隊を撤退させた。ミアは王国神殿に保護されることになり、聖印持ちとして丁重に扱われることが決まった。
俺はガントじいさんに怒られた。「一言もなく仕事を休むな」と三十分説教された。エリナは「死ななくてよかった」と言って、夕飯にいつもより肉を多く盛ってくれた。
ハルトが宿屋を訪ねてきたのは、翌朝のことだった。
「レン、あの路地にいたのお前だろ」
俺が黙っていると、ハルトは苦笑した。
「聖印が発動したって昨日から王都中が騒いでるんだ。神殿の人間が話を聞きまわってて、宿屋の皿洗いの兄ちゃんが体を張ったって証言が出てきた」
「……たまたまだ」
「たまたまで聖印は光らない。神官に確認した。聖印は純粋な勇気にしか反応しないって」
「だから、俺はただ怖くて、でも逃げたくなかっただけで、勇気とか大層なもんじゃ──」
「それを勇気って言うんだろ」
ハルトが笑った。昔と同じ、他意のない、まっすぐな笑い方だった。召喚されてから初めて見た、あいつの本物の笑顔だった気がした。
「俺さ、正直言うと」ハルトは少し間を置いて、言った。「怖いんだよ、毎日。魔物を前にするたびに、心臓が止まりそうになる。でも勇者だから逃げられない。期待があるから折れられない。そういう気持ちで戦ってる」
「……そうなのか」
「お前は誰にも期待されてなくて、何も持ってなくて、それでもあの子の前に立ったんだろ。俺にはそれができるかどうか、わからない。本当に」
俺は何も言えなかった。
宿屋の前の通りを、ミアが神殿の神官に付き添われて歩いていくのが見えた。遠くから俺に気づいて、ぱっと笑って手を振った。右手の甲の金色の紋様が、朝の光の中でやわらかく輝いた。
俺も手を振り返した。
勇気とは何か、俺はまだうまく説明できない。
怖くない、ということじゃないと思う。震えなくなること、でもないと思う。怖くても、震えていても、それでも前に立てること。大層な理由がなくても、「関係ない」と言える状況でも、「俺がここにいる」と言えること。それだけだと思う。
奇跡は、大きな力に降りるんじゃなくて、小さな叫びのあとに来る。
俺はそう信じることにした。




