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ヴァランデール王国譚(短編集)

伯爵夫人の離縁までの三十日レッスン

掲載日:2026/02/18

■ 一日目・離縁の宣告は唐突に。


「来月の十日までに、この屋敷から出て行ってくれないか」

 これから初夜を迎える寝室で、冷たく言い放ったのは、私の夫。緑がかった銀の髪を、右手でさらりとかきあげる仕草は、社交界一の艶やかさと噂されている。


「……フリッツ、社交シーズン前なのに、領地屋敷(カントリーハウス)へ帰れと言うの?」

 二カ月前に結婚した私たちは、伯爵と伯爵夫人として、初めて社交界へ参加するシーズンを迎える。社交は、他の貴族たちと繋がりを持つ大事な行事でもある。二十二歳のフリッツと、十八歳になる私。これからの未来の為、顔を覚えてもらう必要もある。


「違う。出て行ってくれと言っている。この王都屋敷(タウンハウス)も、領地屋敷も名義は僕になった。だから……ここは君の屋敷ではないし、領地屋敷も僕の物だ」

「昔から屋敷の名義は伯爵家の物よ。それを個人名義にしたと言うの?」

「ああ。伯爵家の現当主、僕が決めたことだ」


 さっと血の気が引いていく。この国では、貴族の当主の命令は、王命に次ぐ権限を持つ。

 両親の喪が明ける前に結婚してからの二か月間、貴族や領地の有力者への手紙やお礼の品の選定、その他の雑事で、二人だけで過ごすことも出来なかった。今日、ようやく初夜を迎えるはずだったのに。


「幼い頃に婚約してからも、君は僕のことをずっと見下していただろう? 下級貴族の第三子でも、考えることはできるのさ」

 美しい青緑色の瞳は冷たく私を見つめていた。貴族に上級と下級という区別は表向き存在しない。ただ、慣習としては確かに存在している。


「見下してなんていないわ。一緒にこの伯爵家を継ぐと約束したでしょう? 私はフリッツを信じて結婚したのよ」

 私は咄嗟に夫の手を握った。

 伯爵家の後継者が未婚の女性の場合、この国では女伯爵となる。一度受爵した女伯爵が婚姻しても、夫は伯爵を名乗ることが許されない。だから私は急いで結婚式を済ませ、夫になったフリッツが伯爵となるよう整えた。


「離縁の申請は済んでいる。来月一日には受理される予定だ」

「離婚届に私はサインをしていないわ」

 書類なしで、一方的な離縁はできないはず。


「とにかく出ていってくれ。これは伯爵家当主の命令だ」

 私の手を乱暴に振り払った夫は、私を残して扉から出て行った。


 初夜の為、完全に人払いされた主寝室は静まり返っている。

(これは、悪い夢なの?)

 ふと目にした鏡に映るのは、波打つ金色の長い髪、緑の瞳の私。豪華なレースを贅沢に使った白い夜着が、むなしく輝く。

 

「……幸い、あと三十日あるわ」

 両親の死も夫の離縁宣告も、あまりにも急すぎて、心が凍ってしまったように動かない。

 鏡の前で、私は立ち尽くしていた。



■ 二日目・まずは、お仕事を探しに行きましょう。


(自立するには、まず仕事を探さなくては)

 そう考えた私は、流行雑誌に掲載されている募集広告を片端から確認した。没落した貴族の令嬢や夫人は、住み込みで子供の教育係として働くか、別の貴族夫人や令嬢の侍女として働くというのが、物語ではよくある話。


 住み込みで一番給金が高い広告を見つけた私は、早速屋敷を出て、徒歩で地図の場所へと向かった。

(こ、この場所かしら?)

 馬車でもなく、侍女も従者もいない、初めての一人の外出。不安があっても、何故か心が軽かった。知らない人に聞きながらたどり着いたのは、国立劇場の裏路地。華やかな色合いの立派な建物が立ち並ぶものの、昼間だというのに人も馬車もおらず、閑散としている。


「おい、そこの女、この近辺はお前みたいな女が歩いていい場所じゃないぞ」

 唐突に後ろから声を掛けられて、飛び上がりそうなほど驚いた。振り返ると、輝く金髪に青い瞳の端正な顔立ちの男性が立っていた。生成り色のシャツに濃紺のロングベスト、黒いズボンに編み上げブーツ。貴族や騎士とは全く異なる服装だというのに、男からは騎士のような威厳を感じる。


「あ、あの……私、この店の求人広告を見て来たのですが、裏口がわからなくて」

「……お前、馬鹿なのか?」

「馬鹿……ですか?」

「何だお前、馬鹿という言葉を知らないのか?」


「いえ。これまで馬鹿と言われたことがなかったので、私に何が足りなかったのか教えて頂けないでしょうか」

「は? 面倒な女だな。……ここでは話ができない。ちょっと来いよ」

 軽く腕を掴まれ、道を曲がった所で男が壁を背にして立つ私の頭の横に手を着いた。随分と顔が近くても、不思議と威圧感はなく、男が無造作に着こなす服の素材と仕立てが上質であることに気が付いた。


「お前、何歳だ?」

「先日、十八歳になりました」


「俺の三歳下か。……いいか。世間知らずのお前に教えてやる。あの店は高級娼館だ。お前は娼婦になるつもりで面接に来たのか?」

「……それは知りませんでした……『客人との真夜中の話し相手』を募集していると……」

 血の気が引いていく。『誰でもできる簡単な仕事』『未経験歓迎』と広告には書かれていた。


「何がどうして、お前みたいな世間知らずがこんな店で働こうと思ったんだ?」

「屋敷を出ることになりましたので、働かなければと……」


「お前は貴族だろう? しかも結婚しているのに? お前の旦那は知ってるのか?」

 男は私の左手の結婚指輪に視線を向けた。結婚してからずっと着けていたので、今日も自然に着けてしまった。


 慌てて私は指輪を外し、男に事情を話す。

「……だったら、まずは書類の確認だろう? 旦那が言ったことは本当なのかどうか。それから、自分の財産の確認。働き口を探すのは、それからでも遅くない。……いざとなれば、俺がまともな職を紹介してやる」

「ありがとうございます!」

 何と親切な人だろう。嬉しくなって微笑むと、男が深い深い溜息を吐いた。


「……俺も馬鹿になりそうだ……。俺はロド。お前の名は?」

「カトリナ・ペンダースでございます」


「あの橋の事故で亡くなった ペンダース伯爵の娘か。……お悔やみを申し上げる」

「父母をご存知なのですか」


「挨拶程度だ。急なことで残念だったな」

「……」

 ロドの言葉に返事をしようとして、涙がこぼれた。急な事故で両親を亡くして慌ただしく葬儀を行い、悲しみの中での結婚式と、残酷な初夜。その光景が頭をよぎり、私の涙は止まらなかった。


 驚いた顔をしたロドは、私の背に手を当て、白い手巾を渡してくれた。それでも私はしばらく泣き続けた。

 

「……落ち着いたか? 泣くのはいつでもできるが、まずは自分の立場を安定させてからだろ? どうしても泣き暮らしたいのなら、俺の妾にしてやるぞ?」

「そ、それは……」


「初対面の男の妾になるのは嫌だろ? 嫌なら行動だ。行動あるのみ!」

 明るく笑ったロドは、大通りで辻馬車を呼び止め、私を屋敷まで送り届けてくれた。


      ◆


 正門前で馬車から降りると、屋敷の中は私が消えたと騒動になっていた。フリッツは昨日の夜に出て行って、戻っていなかった。

「カトリナ、出かけると言ってなかったのか?」

「え、ええ。離縁されたなら、もう平民だと思って……」

 そのまま、住み込みで働いてもいいと思っていた。


「お嬢様、お帰りなさいませ」

 玄関ホールで深く深く礼をした家令が顔を上げ、ロドの顔を見た途端に顔色を変えた。

「あ、貴方は……」

「俺はロド。カトリナ嬢の離縁の講師だ。よろしく」


 離縁の講師。聞いたこともない職業だと思ったのに、家令は深々と頭を下げる。

(父母に挨拶したこともあるのだから、実は有名な講師なのかしら?)

「お嬢様を、どうぞよろしくお願い致します」


 そうして、離縁までの三十日レッスンが始まった。



■ 三日目 書類の確認を致しましょう。


 昨夜もフリッツは屋敷に戻らず、私は家令にお願いして、朝一番に屋敷を訪れたロドと書類保管室の鍵を開けた。

「何だ、これは……」

 部屋の惨状を見てロドが呆れた声を上げる。爵位継承の際に証書を持ち出した際には、書庫に整然と並んでいた書類の束や冊子が、ほとんど全て床に散らばっていた。


「フリッツ様とクラメル子爵様が、〝伯爵の鍵〟で部屋にお入りになったようです」

 クラメル子爵は、フリッツの父親。伯爵の鍵は、家令が持つ鍵とは別に当主が持つ鍵のこと。


「使ったら元に戻すという躾もされていないのか……」

 うんざりとした表情で、ロドが書類を拾い集めて、書類机へと乗せていく。

「何が持ち出されたかわからんな……。重要書類の一覧はあるか?」

「ございます。わたくしの執務室で保管しております」


 ロドと家令のやり取りを聞きながら、私はふと思い出した。

「……そうだ……隠し扉のことを忘れていたわ……」

 書庫の裏、当主と第一子だけが知る隠し扉は開かれてはいなかった。そもそも慌ただしい代替わりの中で、フリッツに伝えることも忘れていた。


「……これが無事なら……」

 隠し扉の中、封をされた木箱は、誰も手を付けた形跡が無かった。手順通りに箱の仕掛けを探ると、カチリと音を立てて箱が開く。中には手のひらの大きさの、灰白色の石板が入っている。


「石板?」

「はい。これはペンダース伯爵家の初代が、王と交わした主従契約を石板に刻んだものです。通常の代替わりの際には、紙の爵位証明書を使っていますが、それは写しでしかありません」

 この石板があれば、紙の証明書は無効化できる。これは上級貴族とよばれる貴族特有の仕組みだから、きっとフリッツもクラメル子爵も知らなかったのだろう。


「爵位を取り返すのか?」

「……この石板の扱いは、少し時間を頂きたいのですが……」

「わかった。カトリナの好きにすればいい。この書類を片付けた後、俺はこの王都屋敷と領地屋敷の名義を調べてくる。全部を突き合わせて調べるより、早いだろ」


「ロドが名義を調べるのですか? 貴族の領地や屋敷に関する名義は王城の管理下ですから、貴族でなければ調べることはできないと聞いています」

「貴族の知り合いは沢山いるから心配するな。とにかく急いで片付けるぞ」


 ロドの屋敷での滞在は朝から夕方まで。家令にも職務がある。可能な限り急いでも、書類の片づけは七日目まで掛かった。



■ 八日目・ 何はともあれ、現金確保。


「全額が持ち出されているというのは、本当だったのね」

 王都屋敷の金庫の中、保管されていたはずの現金がすべてなくなっていた。王城に預けた現金は、よほどのことが無ければ返却を求められず、領地屋敷の金庫に保管する現金は、領地の為と用途が決められている。


 こちらも家令に知らせることなく、フリッツと子爵が持ち出したらしい。


「今月の支払いは大丈夫なの?」

「わたくしの裁量で、半年分までは済ませております」

 貴族はまとめて後払いが常識。それを先払いで支払っていたということは、家令から見てもフリッツは信用できない人だったということか。


「皆の給金は大丈夫?」

「そちらも半年分は確保しております」

 半年あれば、使用人全員が他の貴族の屋敷へと勤め先を移すことができるだろう。家令はきっと紹介状を書いて送り出すから、安心できる。


「私が自由にできる物はあるかしら」

「……お嬢様のドレスや装飾品のみになります」

 豪華な宝石類は伯爵家のもの。母のドレスや装飾品は、この国の慣習で親族や親しい友人たちに譲られた。私のドレスだけでもありがたい。私は、心の中で感謝を捧げた。


      ◆


 屋敷の一角に、私の衣装部屋はあった。扉を開くと、ふわりと虫よけの薬草の匂いが広がり、色とりどりのドレスがハンガーに掛けられて並んでいる。棚には帽子やストール、パラソルといった小物、靴が棚いっぱいに整然と並べられている。


「ギルデ? 何をしているの?」

 ドレスで出来た迷路の中、私が幼い頃から侍女として勤めてくれたギルデが立っていた。私よりも四歳年上で、フリッツと同い年。きっちりと結い上げていた褐色の長い髪が下ろされ、いつも茶色の服を着ていたのに、クリーム色の裾の長いワンピースを着ている。


「虫よけの点検でございます。今年は虫の被害が多いと噂になっておりますので」

「ありがとう。もう管理は必要ないのよ。すべて売るつもりだから」


 目に焼き付けておこうと、思い出の詰まったドレスを一つ一つ手に取る。


「これは、お嬢様が初めて王城へご挨拶に行かれた時のドレスですね!」

 十歳の時に着た白いドレスは、一度袖を通したきり。両親の笑顔が心に浮かぶ。


「……売りに出せるかしら……」

「特段の装飾品がございませんので、高値にはなりにくいかと」

 レースや宝石、ビーズ刺繍が施されていれば高値になるとギルデが言う。


 舞踏会や夜会用のドレスを一着残し、すべて売り払うことにした。


「これも? ……よろしいのですか?」

 ギルデが手に取っているのは、フリッツが贈ってくれた結婚式用の赤いドレス。伯爵家の娘には不似合いな格の落ちるドレスと参列者に囁かれても、王女の婚礼衣装よりも素晴らしいと誇らしく思っていた。


「ええ。持っていたくないのよ」

 本当は手放したくはなかった。あの言葉は嘘だったと、やはり私が必要だと言ってくれるのではないかという期待が胸の奥でくすぶっている。きっぱりと諦めたはずなのに、ドレスを見ると胸が締め付けられるように痛む。


 ロドが手配してくれた古物商の手で、衣装部屋に保管されていたドレスが、次々と運び出されていく。その光景をギルデが悔しそうに見つめている。


「ギルデ、いいのよ。私が売ると決めたのだもの」

 離縁された私のことを、気にかけてくれていることが嬉しくて、私は精一杯の笑顔を作った。  



■ 十八日目・貴族は愛人がいるのが普通なのです。


 ドレスや私物を売り、私はいくらかの現金を手に入れた。これで屋敷を出ていけると思ったのに、ロドは期限ぎりぎりまで屋敷に残るようにと指示を出した。フリッツは一度も屋敷に戻らず、ロドによると、王立劇場近辺で毎晩飲み歩いているらしい。


 人払いした私の部屋で、私はロドに花茶を淹れて、一緒にお茶の時間を過ごす。未婚女性なら、男性と二人きりで過ごすことは許されなくても、私は一度結婚しているし、これはレッスンの一環らしい。


「愛人がいるのが普通? この国の貴族では当たり前なのか?」

「はい。私の父も愛人を持っておりました。今回、父母が無くなりまして給金を払おうとしたのですが、すでに住居から引き払っていて探すことも出来ていないのです」


「何だそれは……」


「普通……ではないのですか? 王も王子も愛妾を何人もお持ちです。貴族の中には夫だけでなく、妻も愛人を持つ方もいらっしゃるとか」

 家の為に子供を数人儲けて、後は別居。そういった生活を送る貴族も多い。父母は仲が良かったものの、周囲の勧めで愛人を囲っていた。


「……そういう国なのか。……俺は生涯、一人だけを愛したいし、愛すると誓う」

 その言葉に驚いてロドの顔を見ると、顔を真っ赤にして目を逸らした。


(これは、愛の告白? それとも、私の自意識過剰?)

 唐突に高鳴り始めた胸の鼓動と、羞恥が頬に集まっていくのを感じながら、私は淑女の作法も忘れてカップを握りしめた。



■ 二十三日目・噂の出処は、古物商。


 夕方、ロドと入れ替わるようにして、フリッツが屋敷へと戻ってきた。観劇や夜会用の黒い貴族服がどことなく乱れ、お酒の匂いが漂っている。


「……伯爵家が困窮しているという噂になっている。君は何をしたんだ?」

「私の不要なドレスを売っただけです。家に伝わる宝石類には手を付けていませんので、ご心配なく」


 フリッツは、ドレス数枚を売っただけと思ったらしく、私が百枚近いドレスを持っていたといっても信じてはくれなかった。


 仕方なく、空になった衣装部屋へとフリッツを案内する。

「……随分広い衣装部屋だな」

「ここに保管してあったドレスや装飾品を全て売りました。古いドレスばかりですから大した金額にはなりませんでした」


 私の幼い頃から、すべて保管されていたドレスは百枚近かった。残した一枚は私室に引き上げているから、衣装部屋には何も残っていない。


「そうか。……伯爵家は不用品を売っただけで噂になるものなのか……」

 何故か呆然とするフリッツを残し、私は私室へと戻った。 



■ 二十八日目・最後の舞踏会


 社交界シーズン直前、王城で仮面舞踏会が開かれると連絡があったのは三日前。通常は十五日前までに招待状が来るはずで、参加者の貴族たちの中には、どこか慌ただしい雰囲気をまとう者たちもいた。


 あれからも、フリッツは屋敷に戻ることなく、離縁された私は欠席するつもりだったのに、ロドの勧めで一人で参加することになった。


 最後の挨拶のつもりで、行き交う人々と会釈を交わす。仮面舞踏会では、相手の正体を知っていても追及しないという暗黙のルールが存在しているから、誰も話しかけてはこなくて気が楽。


 王の開会の宣言の後、大広間では音楽が始まり、人々が二人で一組になって踊り出す。


 壁際でグラスに入った果汁を飲んでいると、仮面をつけたフリッツが近づいてきた。

「……綺麗だな」

「ありがとう」

 あれ程好きだったフリッツが珍しく褒め言葉を口にしても、私の心は動かなかった。以前なら、心臓が口から飛び出そうなくらいに高鳴って、顔を赤くしてしまっていたのに。


「そのドレスは?」

「一着だけ残していたドレスよ」

 一度も着たことのなかったドレスは、母が最後に選んでくれたもの。一度だけでも着用しようと、手元に置いてしまった。


「……踊らないか?」

「お断りします。……足が痛いの」

 それは嘘。以前の私なら、足が痛くてもフリッツの誘いに乗っていただろう。何か言いたげなフリッツを残して、私は壁際を離れて歩き出した。


      ◆


(このドレスを一度だけでも着ることが出来た。良かった)

 もう悔いはないと帰ろうとした時、背後から声を掛けられて飛び上がりそうなくらいに驚いた。

「私と踊っていただけますか?」

 この声はロド。振り向くと、青紫色の貴族服に仮面をつけたロドが作法通りに手を差し出している。


『ロ……ど、どうしてここに?』

『貴族に知り合いが沢山いるといっただろ? 今日は仮面舞踏会だ。身分は関係ない。踊ろう!』


 明るく笑って言われると、何故か楽しくなってくる。差し出された手を取って、私たちは大広間へと駆け出した。



■ 最終日・輝ける日々への旅立ち


 荷物を大型のトランク一つにまとめ、私は早朝に屋敷を出ることにした。玄関ホールで見送ってくれるのは家令一人でも、あちこちの物陰から、使用人たちが覗いているのが見えている。


 当主の言葉は絶対で、使用人の身分では、離縁された私に親切にしただけで罰を受ける可能性があるのに。


「お嬢様、どうかお幸せに」

 家令が優しく微笑む。

「ありがとう。必ず幸せになるから安心して」

 舞踏会の夜、私はロドから求婚されて、承諾した。ロドとなら、幸せになれると確信している。


 玄関を出て、正門までの道を歩いていると、フリッツが走ってきた。昨夜、屋敷に戻ってきていたのは知っていても、顔を合わせたくなかったから、早朝に出ることにしたのに。


「……もう一度、僕と結婚してくれないか」

 フリッツが手にした白い薔薇の花束を、私は拒絶した。


「ごめんなさい。私は、もう伯爵夫人には戻りたくないの」

「何故?」

「心の底から信じられる、愛する人ができたからよ」


「そんな馬鹿な? たった三十日の間に心変わりしたというのか?」

 驚かれても非難されても、もう何も感じない。


「……たった三十日? 私には十年にも思える辛い時間だったわ。貴方こそ、たった三十日で別れの言葉を無かったことにしようというの? ……さようなら!」

 

 追われても困るので、私は走り出した。お酒が残っているのか、追いかけようとしたフリッツは足がもつれて転倒している。


 鉄製の正門が開かれると、そこには褐色の馬に乗ったロドが待っていた。


「ロド! 馬車じゃなくて、馬なの?」

「馬鹿から逃げるんだから、ちょうどいいだろ?」

 ぱちりと片目を閉じる表情が、悪戯っ子のように輝く。


「それもそうね」

 トランクを渡すと、軽々と手を引かれ、ロドの前に乗せられた。


「カトリナ! 待ってくれ! もう一度やり直したい!」

 ふらつきながらも、フリッツが追ってくる。ロドは構わず馬を走らせる。


「ほら。絶対、縋ってくると思った」

「どうして?」


「カトリナは魅力的だからな。俺が自分の信条を曲げてまで欲しいと思ったんだ」

「欲しい? 私は物ではないわよ」

 ロドと一緒にいるだけで楽しくて、欲しいと言われても嬉しくなるだけ。


「やけに楽しそうだな。何か仕込んできたのか?」

「もちろん! あの石板を使って、爵位を伯父さまに譲っておいたの。明日、伯父さまが屋敷に乗り込んで、フリッツを叩き出す予定よ」

「爵位乗っ取りは、三十日の儚い夢ってことか」

 正直に言うと、石板を見つけた時は迷っていた。あの別れの言葉を撤回して欲しいと微かな願いもあった。


「さて、離縁の講師は終わりだな。俺がカタリナに隠してること、言っていいか?」

「隠し事? どうぞ」


「実はロドというのは愛称だ。本当の名はロドルフォ・リオルディ」

 さっと血の気が引いていく。その名前は聞いたことがある。リオルディ王国の第三王子。王国内だけでなく、周辺国でも数々の魔物を倒しているという武勇伝は、吟遊詩人が語るだけでなく、物語として本になっている。


「お、降ります。お、降ろしてください!」

「無理だな。俺が逃がさない」


「わ、私は、書類だけとはいえ、一度結婚していて……」

 王子妃となれば未婚の女性であることが最低限の条件だろう。


「俺は一生結婚しないと宣言して、あちこちをうろついてた。そんな俺が妻を連れて帰ったら、手放しで歓迎だろうな」

 口の端を上げ、意地悪く笑いながら囁く。


「そ、それに! 私は平民になっていて……」

 離婚して、爵位を持たない女になってしまった。ロドと一緒に旅をしようと、複数持っていた爵位権もすべて叔父に譲り、金貨と宝石に換えてきた。


「身分なんて俺がどうとでもする。安心していいぞ。……どうした? まだ不安か?」

「…………貴族ではない生活に、少し憧れもあったの」

 堅苦しい慣習だらけの貴族の生活から抜け出して、自由な平民の生活を体験してみたいと憧れていた。


「それなら問題ない。しばらくは俺と一緒に平民として旅をしよう。多少は危険を伴うが、俺がカトリナを護り抜く」

 明るく笑うロドの顔を見ていると、何故か心が躍る。ロドなら、きっと私を最後まで護ってくれると信じることができる。


「今度は、平民になるレッスンをお願いします!」

「ああ、わかった。何でも聞いてくれ」


 これからは、永遠に終わらないレッスンを、愛する人と一緒に。

 きっとそれは、二人だけの甘くて幸せな時間。

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― 新着の感想 ―
フリッツが復縁を願った理由が分からなかったです。金庫の現金を盗み酒場を飲み歩いて主人公がドレスを売ったことに呆然としていただけなのでなんでなんだろうなと思いました。
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