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塵と光

作者: 久遠 睦

第一部 残響室


第一章 203パーセントの現実


朝の光は、まだ高層ビルの頂をなぞるだけだ。しかし、地下深くを走る鉄の箱の中は、すでに飽和状態だった。窓ガラスに押し付けられた瑞希みずきの頬に、外の暗いトンネル壁を反射する冷たさが伝わる。息が詰まる。誰かの香水と汗、湿ったウールのコートが混じった、不快で生温かい匂い。誰かのイヤホンから漏れる微かな音楽。それらすべてが混ざり合い、一つの巨大な、呼吸する生き物の一部にされているような感覚。


国土交通省が発表したこの路線の混雑率は、朝のラッシュ時、特定の区間で203パーセントに達するという。数字は無機質だが、その現実は肉体的だ。肋骨がきしみ、足はつま先立ちを強いられ、カバンは胸と他人の背中の間で歪んでいる。誰もが、無表情の仮面を貼り付けてこの圧迫に耐えている。それが、東京で生きるための暗黙のルールだった。瑞希もその一人だ。大学を卒業し、都内のマーケティング会社に就職して3年。毎朝、この儀式を繰り返している。


電車が大きく揺れ、人々の塊がぐらりと傾く。誰かの肘が瑞希の脇腹に食い込んだ。謝罪の言葉はない。ここでは、誰もが被害者であり、加害者だった。個人の境界線は溶けてなくなり、ただの質量と化す。この物理的な圧迫は、そのまま瑞希の精神的な状態を映し出していた。圧縮され、身動きが取れず、巨大な流れの中の匿名の一部分。彼女自身の意思や感情は、この人いきれの海の中で意味を失っていた。


ようやく駅に着き、ドアが開くと、人々は雪崩のようにホームへと吐き出される。解放感は一瞬で、すぐに次の人の波に飲み込まれ、エスカレーターへと押し流されていく。地上に出ると、灰色の空の下、ビル風が頬を打った。瑞希は深呼吸をしようとしたが、吸い込む空気さえも、生温かい排気ガスとアスファルトの埃っぽい匂いで満たされているように感じた。オフィスは、ここから歩いて10分。もう一つの、見えない檻が彼女を待っていた。


第二章 蛍光灯の檻


瑞希の職場は、ガラス張りのきれいなオフィスビルの15階にあった。しかし、その窓から見える景色は、隣のビルの壁だけだ。彼女の仕事は、クライアントに提出するパワーポイントの資料を修正し、誰も熱心には読まないであろう市場分析レポートをまとめることだった。数字とグラフ、そして空虚なマーケティング用語が並ぶ画面を一日中見つめていると、自分が何か価値のあるものを生み出しているという実感が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。


会社は、いわゆる「ブラック企業」ではなかった。少なくとも、2010年代に社会問題となったような、あからさまな罵倒や暴力はない。しかし、もっと巧妙な、見えない圧力が常に空気を満たしていた。定時は午後5時だが、その時間に帰る者は誰もいない。上司は「自分の仕事が終わったら、帰っていいんだよ」と笑顔で言うが、その言葉には「ただし、本当にやるべきことがすべて終わっているのならね」という無言の続きが隠されている。その「やるべきこと」に終わりはない。結果、終電間際まで働くのが常態化していた。


この環境がもたらす精神的な消耗は、朝の満員電車がもたらす物理的な疲弊と深く結びついていた。通勤という日々の戦闘で心身をすり減らした状態で職場に着くため、理不尽な要求や終わりのない業務に対して、抵抗したり、疑問を呈したりする気力が残っていない。思考は鈍り、ただ目の前のタスクを機械的にこなすだけになる。そして、疲れ果ててオフィスを出ると、再びあの混雑した電車に揺られて帰るのだ。家に着く頃には、食事を作る気力もなく、コンビニで買った弁当を味も感じずに胃に詰め込む。この生活は、個人の時間と空間を、一日の両端から少しずつ侵食し、ついには完全に飲み込んでしまう、自己完結した消耗のサイクルだった。


ある夜、瑞希は会社のデスクで一人、コンビニの冷めたパスタを食べていた。蛍光灯が「ジー」という低い音を立て、静寂を際立たせる。オフィスの隅に置かれた芳香剤の、甘ったるい化学的なフローラルの香りが、空調の風に乗って漂ってくる。給与明細を見れば、同年代の平均よりは良い暮らしができるはずの金額が記されている。しかし、そのお金は、失われた時間と精神の対価に過ぎないように思えた。これは、生きるための報酬ではなく、死んでいないことを確認するための慰謝料ではないか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。


第三章 光の亀裂


その夜も、瑞希はなかなか寝付けなかった。狭いアパートの部屋で、スマートフォンの青い光だけが暗闇に浮かんでいる。意味もなくSNSをスクロールし、友人たちの充実した生活を切り取った写真が次々と流れていく。羨望よりも先に、自分とは違う世界の話だという諦めが心をよぎる。


その時、偶然開いたウェブサイトに、彼女の目は釘付けになった。それは、ある地方の伝統工芸を紹介する、ドキュメンタリー風のページだった。漆器だった。艶やかで、深い黒。光を吸い込むような、静かな輝き。画面には、工房で作業する職人の姿が映し出されていた。皺の刻まれた手、鋭い眼光、木地に漆を塗る真剣な横顔。そこには、瑞希の日常から失われて久しい、確かな手触りと、凝縮された時間が流れていた。


木目の質感、漆の深く潤んだ色、道具が木を削る音。すべてが、彼女の抽象的でデジタルな仕事とは対極にあった。それは、tangible(触れることができる)、本物で、美しいものだった。瑞希は、まるで魔法にかかったように、そのページから目が離せなくなった。


衝動だった。気づけば、彼女はその漆器が作られている、山あいの小さな町への週末旅行を予約していた。金曜の夜、仕事を終えた足で夜行バスに乗り込む。東京の喧騒が遠ざかるにつれて、少しずつ心の強張りが解けていくのを感じた。


土曜の朝、バスを降りた町は、霧雨に濡れて静まり返っていた。古い町並み、澄んだ空気、鳥の声。東京のあらゆるものが過剰な世界とは、何もかもが違っていた。目的の工房は、町の中心から少し離れた場所にあった。引き戸を開けると、檜の清々しい香りと、漆の甘く、少しツンとくる独特の芳香が混じり合った、聖域のような匂いが瑞希を迎えた。中では、ウェブサイトで見た年配の職人が、黙々と作業をしていた。


職人は、突然の訪問者を訝しむでもなく、静かに迎え入れた。瑞希は、完成した器をいくつか見せてもらった。手に取ったお椀は、驚くほど軽く、そして温かかった。指先に伝わる滑らかな感触。何層にも塗り重ねられた漆が生み出す、複雑な深み。それは、ただの「物」ではなかった。作り手の時間と精神が、そこに宿っているようだった。


東京に戻るバスの中で、瑞希はずっと窓の外を眺めていた。心の中に、小さな、しかし確かな光の亀裂が入ったのを感じていた。その亀裂から、今まで考えたこともなかった「別の生き方」の可能性が差し込んできていた。


第四章 一年の葛藤


光の亀裂は、瑞希の日常を静かに、しかし確実に蝕んでいった。オフィスでパソコンに向かっていても、ふと、あの工房の匂いや、お椀の感触が蘇る。満員電車に揺られながら、山の静けさを思う。彼女の中で、二つの世界がせめぎ合っていた。


決断は、簡単ではなかった。友人たちに相談すると、誰もが正気かと疑った。「伝統工芸なんて、食べていけるわけないじゃない」「貧乏暮らしをロマンチックに考えすぎだよ」。心配してくれるからこその言葉だとわかっていても、心は冷えた。両親も、安定した仕事を捨てようとする娘を、ただ案じていた。


瑞希は、もう一度あの町を訪れた。今度は、自分の迷いを打ち明けるためだ。工房の主である親方は、彼女の話を黙って聞いていた。そして、茶を一口すすると、静かに、しかし厳しい口調で語り始めた。


「この世界は、甘いもんじゃない」


親方の言葉は、瑞希の淡い憧れを打ち砕くのに十分だった。弟子入りというのは、聞こえはいいが、昔ながらの丁稚奉公のようなものだ。最初の数年は、まともな仕事はさせてもらえない。掃除、雑用、親方の身の回りの世話。そして、ひたすら道具を研ぐこと。給金は、ないに等しい。月数万円の「お小遣い」程度で、生活はぎりぎりだ。都会の若者が軽い気持ちで入ってくるが、その厳しさに耐えきれず、ほとんどが一年も経たずに辞めていく。


「一人前になるのに、最低10年はかかる。いや、一生修行だ。それに」と親方は続けた。「この仕事自体、もう先がない。生活様式が変わって、こんな手仕事の品物を使う人間は減る一方だ。業界全体が、ゆっくりと死に向かっている。あんたが一人前になる頃には、今よりさらに厳しい状況になっているだろう。それでも、やる覚悟があるのか?」


その言葉には、勧誘のかけらもなかった。むしろ、突き放すような響きさえあった。軽い気持ちでできる仕事ではない。人生のすべてを捧げる覚悟がなければ、足を踏み入れるべきではない。そう言っているのだ。


東京に戻った瑞希の葛藤は、さらに深まった。親方の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。魂をすり減らすが安定した今の生活か。やりがいはあるかもしれないが、あまりにも過酷で不安定な未来か。


一年が経った。瑞希は26歳になっていた。毎晩、彼女は天秤にかけた。今の仕事。それは、給料日ごとに口座の数字を増やすが、数年もすれば誰の記憶にも残らない、消費されるだけの仕事。一方、工芸の道。それは、自分の身を削り、貧しさに耐え、それでも後世に残る「もの」を生み出す仕事。


ある雨の夜、瑞希は退職届を書いた。それは、逃避ではなかった。一つの苦しみから、別の苦しみへと、自ら飛び込む選択だった。後者には、少なくとも、自分の手で何かを遺せるという、ささやかな希望があったからだ。


第二部 手が形作られるまで


第五章 最初のひと削り


瑞希の新しい生活は、工房の隅にある、四畳半の小さな部屋で始まった。持ち物は最小限。かつて東京のクローゼットを埋め尽くしていた服やバッグは、ここにはない。生活は、極限まで削ぎ落とされた。


最初の数週間、彼女は木地に触れることさえ許されなかった。朝は誰よりも早く起きて工房を掃き清め、親方や先輩の職人たちのために茶を淹れる。日中は、ひたすら作業の様子を隅で立って見ているか、雑用を言いつけられるだけ。そして、夕方からは道具の手入れ。特に、何種類もの彫刻刀やかんなを研ぐ作業が、彼女の主な仕事になった。


キーボードを叩くことしかしてこなかった彼女の手は、柔らかく、不器用だった。砥石の上で刃物の角度を一定に保つことが、これほど難しいとは思わなかった。何度も指を切り、絆創膏だらけになった。親方は、ほとんど口を利かない。やり方が間違っていれば、無言で道具を取り上げ、手本を一度だけ見せ、また彼女に返す。それだけだ。


「お前はまだ、何の役にも立たない存在だ」。言葉にはされないが、工房の空気がそう語りかけていた。かつて、マーケティング戦略を語っていた自分が、今や工房の掃除とお茶汲みしかできない。その落差に、プライドは粉々に砕かれた。東京の喧騒が嘘のように静かな工房で、自分の無力さと向き合う日々。その静寂は、時として耐え難いほど重かった。


第六章 一円の重み


最初の「給金」を受け取った日、瑞希は封筒の中身を見て言葉を失った。9万円。東京での初任給の半分以下だ。家賃はかからないとはいえ、食費、雑費、そして国民健康保険や年金を自分で払えば、ほとんど手元には残らない。


彼女はノートに、meticulous(細心)な家計簿をつけ始めた。切り詰めても、切り詰めても、余裕はなかった。かつてランチに1,000円以上を平気で使っていた自分が、信じられなかった。東京の友人から、楽しそうな飲み会の写真がメッセージで送られてきた時、鋭い羨望が胸を刺した。自分はここで何をしているのだろう。ふと、壁に貼った電車の時刻表に目がいく。ここから東京に帰ることは、まだできる。深い迷いが、嵐のように心をかき乱した。


そんな彼女の様子に気づいたのか、親方がぽつりと言った。「わしが若い頃はな、給金なんてもんはなかった。それでも、必死で金を貯めて、初めて自分ののみを買ったんだ。苦労して手に入れた道具は、大切にする。親に買ってもらった道具じゃ、本当の意味で道具の心はわからんもんだ」。その声には、自慢ではなく、孤独な夜に何度も挫けそうになった過去を慈しむような、深い響きがあった。


それは、慰めの言葉ではなかった。しかし、その言葉は瑞希の心に深く響いた。この貧しさは、単なる苦行ではない。それは、物事の本質的な価値を理解するための、必要な過程なのだ。一円の重みを知ること。自分の手で稼いだわずかな金で、仕事に不可欠なものを手に入れること。その経験こそが、職人としての精神を形作る。瑞希は、時刻表から目をそらし、もう一度砥石に向かった。


第七章 沈黙が教えること


一年が過ぎた頃、瑞希はようやく、売り物にならない端材を削ることを許された。親方から示されたのは、単純な曲面を彫り出す課題。しかし、見るとやるとでは大違いだった。刃先が滑り、木目をえぐってしまう。何度やっても、滑らかな曲線にはならない。


親方は、何が悪いのかを言葉で説明してはくれなかった。「見て学べ」。それが、この世界の不文律だった。彼はただ、瑞希が失敗した木片を手に取り、同じ彫刻刀で、すっ、と一度だけ刃を走らせる。すると、魔法のように美しい曲線が現れる。そして、道具を瑞希に返す。それの繰り返しだった。


なぜできないのか。何が違うのか。瑞希は苛立ち、焦った。しかし、ある日の午後、何百回目かの失敗の後で、ふと何かが腑に落ちた。それは、頭での理解ではなかった。体の感覚だった。彫刻刀を握る手の力加減、刃を当てる角度、肩の力を抜き、腰で支えるような姿勢、そして呼吸。すべてが噛み合った瞬間、刃先は木目に吸い付くように滑らかに進み、思い描いた通りの線を削り出した。


その時、離れた場所で作業していた親方が、ちらりとこちらを見た。そして、ほとんど気づかないほど、ほんのわずかに、頷いた。


その一瞬の肯定が、瑞希にとっては、東京で受けたどんな賛辞よりも、どんなボーナスよりも、価値のあるものに感じられた。言葉を介さない、身体の奥深くで起こる理解。それこそが、この世界で「学ぶ」ということなのだと、彼女は初めて実感した。


第八章 工房の亡霊


瑞希より一年早く弟子入りしていた若い男性が、ある日、工房を去った。彼は多くを語らず、静かに荷物をまとめた。低い給金と、果てしなく続くように思える修行の日々に、心が折れてしまったのだ。彼の去った後の工房は、がらんとして、彼の不在が瑞希にこの世界の厳しさを改めて突きつけた。成功する者より、去っていく者の方がずっと多いのだ。


その数ヶ月後、今度は親方が体調を崩し、一週間ほど工房を休んだ。親方という中心を失った工房は、時間が止まったようだった。その間、一本の電話が鳴った。特殊な漆を納入してくれている、小規模な業者の奥さんからだった。主人が高齢を理由に、今年で廃業するという。後継者はいない、と。


電話口で淡々と応対する先輩職人の背中を見ながら、瑞希は初めて、この世界の本当の脆さを理解した。これは、自分一人の戦いではない。一つの工芸品は、職人の技術だけでなく、その技術を支える無数の人々や、特殊な原材料、専門的な道具によって成り立っている。その生態系エコシステムそのものが、今、静かに崩壊しつつあるのだ。


職人の高齢化、後継者不足、そして、彼らを支える原材料や道具の供給者の廃業。需要が減れば、職人の仕事が減る。職人の仕事が減れば、材料や道具の需要も減り、供給者が立ち行かなくなる。供給者がいなくなれば、職人は物を作りたくても作れない。それは、逃れることのできない、負の連鎖だった。


自分のしていることは、ただ技術を学ぶという個人的な営みではない。それは、崩れゆく建造物の中で、一本の柱になろうとする行為なのだ。その柱が、果たしてこの建物を支えきれるのか。それとも、建物と共にいつか崩れ落ちるのか。瑞希は、自分自身のささやかな成功や失敗が、この大きな、しかし脆弱な伝統の存続と無関係ではないことを、痛いほど感じていた。


第三部 遺すということ


第九章 木目の律動


34歳になった瑞希の一日は、静かなリズムで始まる。工房には、彼女専用の作業台がある。かつて絆創膏だらけだった彼女の手は、今では節くれ立ち、傷や染みが刻まれているが、力強く、そして賢い手になっていた。


彼女は、木地の表面を指でなぞる。鉋をかける前の、ざらりとした木肌の感触。その下に眠る、滑らかで密な生命の気配を、指先で感じ取る。木目という、自然が作り出した不規則な模様を読む。どこから刃を入れ、どの方向に力を加えれば、木が最も美しく応えてくれるか。彼女の体は、それを知っている。鉋をかける動きは、無駄がなく、流れるようだ。シュッ、シュッ、というリズミカルな音と共に、紙のように薄い鉋屑が舞い上がる。その香りが、工房を満たす。


仕事は、今も厳しい。長時間、同じ姿勢で集中力を維持することは、体を痛めつける。しかし、その厳しさは、かつて東京で感じた空虚な疲労とは全く種類が違う。それは、何かを創造するための、充実した痛みだった。


親方は、今では工房の奥に座り、全体を見守っている。時折、瑞希の仕事を見て、一言二言、助言をすることはあるが、そこには師弟というよりも、同じ道を歩む者同士の静かな敬意が流れていた。


瑞希は、自分がかつて渇望していたものを、手に入れた。それは、金銭的な豊かさや社会的な名声ではない。自分の手で、確かなものを生み出すという、深く、静かな満足感だった。蛍光灯の下で感じていた、自分が空っぽになっていくような感覚は、もうどこにもなかった。


第十章 見えない戦線


しかし、瑞希の一日は、作業台の上だけでは終わらない。夕食を終え、自室に戻ると、彼女はノートパソコンを開く。それは、かつて彼女が憎んだ東京での生活の象徴だったが、今では不可欠な武器となっていた。


ただ良いものを作っているだけでは、もう生き残れない。作り手であると同時に、経営者であり、マーケターでなければならない。昔ながらの問屋を通じた流通システムは、もはや機能不全に陥っているからだ。


その夜、瑞希は親方の前に座っていた。「クラウドファンディングをやりたいんです」

親方は眉をひそめた。「くらうど…?なんだそれは」

「インターネットでお金を集める仕組みです。工房の古い道具を新調したい。このままでは、作れるものも作れなくなります」

「そんなもの、誰が金を出すんだ」

「出してくれる人はいます。この手仕事の価値を、ちゃんと伝えられれば」瑞希は、東京で培った知識を総動員して説明した。「良いものを作っていれば売れる時代は、終わったんです。今は、物語を伝えなければ届かない」


親方はしばらく黙り込んで、自分の節くれだった手を見つめていた。その手で守り抜いてきた沈黙と尊厳が、インターネットという軽薄な世界に晒されることへの抵抗。しかし同時に、目の前の瑞希の瞳の奥に、かつての自分と同じ、どうしようもない情熱の炎を見ていた。時代は変わった。そして、このままでは何もかもが消え去るだけだという、痛いほどの現実も理解していた。「……好きに、してみろ」絞り出すような声だった。


瑞希は工房のインスタグラムアカウントを管理し、作品の美しい写真だけでなく、作業風景の動画や、この土地の自然を投稿した。そして、クラウドファンディングのページを立ち上げた。リターン品には、工房での体験教室や、瑞希がデザインしたモダンな箸置きを設定した。


しかし、その道は平坦ではなかった。インスタグラムのコメント欄には、「伝統を金儲けの道具にするな」「どうせすぐ辞める東京の若者の道楽」といった心ない言葉が並んだ。瑞希は、画面の向こうの見えない悪意に、一晩中眠れないこともあった。また、支援者への期待に応えようと、作業風景の動画を撮影し、夜はパソコンに向かって活動報告を更新する日々は、工房での創造の時間とは別の、新たな消耗を彼女に強いた。「見せる」ための仕事は、かつて彼女が捨てたはずの「塵」の世界の論理を、工房に持ち込むかのようだった。この「新しい戦い」にもまた、それ自身の「塵」が存在することを、瑞希は痛感していた。


それでも、彼女は続けた。結果は、予想以上だった。目標金額を大きく上回る支援が集まったのだ。瑞希は、支援者一人ひとりの名前と応援のメッセージが並ぶ画面を、親方に見せた。親方は何も言わなかったが、その目には、驚きと、そしてこれまでとは違う種類の信頼の色が浮かんでいた。


瑞希は、二つの戦線を同時に戦っていた。一つは、工芸の技術を極めるための、素材と自分自身との戦い。もう一つは、この世界から忘れ去られようとしている伝統を、経済的に存続させるための、市場との戦い。彼女は、過去の伝統を守る「保存者」であると同時に、その伝統を未来へ運ぶための「革新者」でなければならなかった。


第十一章 過去との対話


ある日、工房に一人の若い女性が訪ねてきた。24歳、東京の大学を卒業したばかりだという。その目は、かつての自分のように、希望と、そして少しのロマンチックな憧れで輝いていた。彼女は、瑞希が始めたインスタグラムを見て、この場所を知ったのだと言った。


「ここで働くって、どんな感じですか?」


その問いに、瑞希は一瞬、言葉に詰まった。そして、気づいた。自分は今、かつて親方が立っていた場所に立っているのだ、と。


彼女は、言葉を選びながら、正直に話した。この仕事の孤独さ、経済的な厳しさ、そして常に付きまとう将来への不安。甘い言葉で飾り立てることはしなかった。しかし、同時に、彼女自身の言葉で、この仕事の喜びも伝えた。素材と深く対話し、自分の手で後世に残るものを生み出す誇り。その静かな尊厳。


「ここでの生活は、あなたの持っているものの全てを要求するわ」と瑞希は言った。「そして、それに見合うだけのものが返ってくるかどうかは、あなた自身が判断するしかない。でもね」と彼女は続けた。「女性だからこそ気づける視点もある。この器を買ってくれるのは、意外と女性が多いのよ。それに、もしあなたが本気なら…」


彼女は、この厳しい世界への門番であると同時に、新たな才能を迎え入れる水先案内人でもあった。この道を選び、生き残ってきた一人の女性職人として、彼女の存在そのものが、後に続く者にとっての、一つの道標となるのかもしれない。瑞希は、自分が受け継いだバトンを、次の世代にどう渡していくべきか、その重みを静かに感じていた。


第十二章 十年の塵と光


夕暮れの光が、工房の窓から斜めに差し込んでいる。舞い上がる木屑が、光の帯の中で金色にきらめいていた。瑞希は一人、新しい道具の手入れをしていた。クラウドファンディングで得た資金で、ようやく手に入れた特注の鉋だ。油を染み込ませた布で、丁寧に刃物を拭いていく。


ふと、自分の手を見つめた。傷だらけで、染みがつき、ごつごつしている。何十年も使い込まれ、親方の手の形に滑らかに馴染んだ古い鑿の柄の、ひんやりとした感触を思い出す。この手は、今では多くのことを知っている。この手があれば、生きていける。


東京に残っていたら、どうなっていただろう、と考えることがある。もっと多くのお金を稼ぎ、快適なマンションに住み、友人たちと流行のレストランで食事をする。そんな生活。後悔はない。ただ、自分が選ばなかった人生を、静かに認めるだけだ。彼女の人生は、確かに、小さく、厳しく、不安定かもしれない。しかし、それは紛れもなく、彼女自身の人生だった。


手入れを終えた瑞希は、作業台の上にある作りかけの箱に目をやった。それは、彼女が新しく始めたシリーズの一つだった。東京の無機質なビルの直線と、この土地の自然が持つ有機的な曲線。その両方を、私は知っている。その二つを融合させたものが、私にしか作れないものかもしれない。彼女の過去と現在が、その小さな箱の中で、一つの形になろうとしていた。


パソコンが、メールの受信を知らせる音を立てた。画面には、海外のギャラリーからの問い合わせが表示されていた。彼女のインスタグラムを見たという。


瑞希は、窓の外に広がる、深く濃い山の緑に目を向けた。蛍光灯の檻の中で、自分が何者なのかさえ見失いかけていた若い彼女が探し求めていた答えは、この夕暮れの工房の、塵と光の中に、そして、これから自分の手で生み出していく未来の中に、確かに存在していた。


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