ノイジービート
合唱の歌声、金管の音色、野球部の怒号。帰宅部たちの明るくのんきな雑談。
校舎全体がオーケストラの練習場にでもなったかのように、すべての音が入り交じって僕を襲う。
それらは音楽でも歓声でもなく、ただの「騒音」として僕の頭に突き刺さってきた。
僕はすべてを遮断するようにイヤフォンを耳にねじ込む。
すると世界が水族館の水槽みたいにぼんやりと曇り、音が遠ざかっていく。
──だが、その瞬間だった。
「本日はノイズ裁判を開始します」
頭の中にアナウンスが響いた。
気づけば、僕は教室ではなく、巨大な法廷の真ん中に立っていた。
裁判官の姿をしたのは、どう見ても黒いクラリネットである。クラリネットが法服をまとい、威厳たっぷりにこちらを見下ろしていた。
「被告人、青春を拒否した罪をどう認めますか」
「……えっ?」
僕は思わず声を上げた。
見渡すと、傍聴席には野球部、合唱部、吹奏楽部、帰宅部、様々な学生の面々がずらりと並び、全員が一斉にこちらを睨んでいた。
彼らの目は、「どうして一緒に混ざらないんだ」と責めている。
「……」
「沈黙は有罪を意味します!」
クラリネット裁判官のベル部分が開き、法槌の代わりに音符の雨が降ってきた。
ドシンドシンと床を叩くたび、僕の罪状が増えていく。
合唱を避けた罪
部活を怠った罪
青春を拒否した罪
「……ちょっと待ってくれ。僕にはただ、青春は青すぎるだけなんだ」
叫んだが、すでに誰も聞いちゃいない。
判決文が読み上げられ、僕はその場で「ノイズの国」へと強制送還されることになった。
扉が開くと、そこは深夜の商店街だった。
すべての看板が同時に点滅し、広告ソングと客引きの声がノイズ交響曲を奏でている。
ふと見上げると、電線の上で野球部のキャッチャーがフクロウのように鳴いていた。
──あぁ、僕は完全に世界からはみ出してしまったのだ。
そう、僕がノイズだと思っていたものはノイズではない。
僕自体が、世界のノイズだったのだ。
気づいた瞬間、世界はひどく鮮明になった。
合唱のハーモニーは完璧で、野球部の掛け声はリズム良く、楽器の音色は透明で美しい。
雑然とした音の洪水ではなく、精緻に設計された「ひとつの楽曲」だった。
ただし──そこに僕の声だけが混じると、すべてが台無しになる。
僕がため息をついただけで、合唱は調子を外し、トランペットはリードを噛み、ピッチャーはサインを間違える。
「おい、静かにしてくれないか」
教室の端から、ピアノが僕に話しかけてきた。
ピアノは、誰も弾いていないのに勝手に鍵盤を上下させて喋る。
「君の呼吸音が混ざるだけで、僕のド♯が全部ドになってしまうんだ」
野球部のエースも睨んでくる。
「お前がいるとサインが全部ブレて見えるんだよ」
世界は僕をノイズとして扱い始めた。
いや、正確に言えば、僕という存在はもともとノイズでしかなかった。
僕はそっと息を止めた。
すると、世界は驚くほど調和していった。
交響曲は完成し、校庭のプレーは一糸乱れず、すべてが光り輝いて見える。
そのとき僕は、初めて理解した。
──僕が黙っている限り、世界は美しい。
──僕が消えていれば、すべては完璧。
けれど、それを理解した途端、頭の奥から囁きが聞こえてきた。
「ならば完全に沈黙してみせよ」
声の主は、壁に貼られた校則ポスターだった。
「遅刻厳禁」「授業中の私語禁止」と書かれたその紙切れが、まるで神託のように僕へ命じていた。
僕は思った。
──いっそ本当に喋らなければいいのだ、と。
いや、それどころか、呼吸すらやめてしまえばいいのだ、と。
そこで僕は、立ち上がり、教室の中央で深呼吸をした。
そして、そのまま息を吸い込んで……止めた。
世界は歓喜した。
黒板が震え、机が踊り、野球部が校庭で一斉に万歳を叫んだ。
すべてが祝祭のように輝いていた。
──僕が消えていくことを。
僕は息を止め、静止した。
世界は歓喜し、祝祭の喧噪が弾けるように広がった。
野球部はノーミスでキャッチボールを繋ぎ、合唱部は黄金比で和音を重ね、吹奏楽部は機械仕掛けの歯車のように完璧に響いた。
──これでいい。
僕が消えれば世界は回る。そう信じた。
ところが、数秒も経たないうちに異変が起きた。
合唱部の歌は揃っているが単調で誰の耳にも届かなくなった。
野球部はあまりにもセオリー通りですべて相手チームに戦略が読まれてしまう。
吹奏楽部の演奏は完璧に揃いすぎて、どの楽器が鳴っているのか誰も区別できなくなった。
すべては「美しすぎる」という致命的な不具合に陥ったのだ。
「……おい」
誰かが呼んだ。
それはクラリネット裁判官だった。
「戻ってこい。君の咳払いがなければ、我々の音楽はただの無音に堕する」
……どうやら僕は、この世界における「雑味」らしい。
ラーメンでいえば胡椒。カレーでいえば隠し味のチョコレート。
あるいは、真夏の京都の夕暮れで飛び交う蚊のようなもの。
どうやら世界にはノイズが必要らしい。
僕はようやく悟った。
青春が青すぎると感じていたのは、僕がノイズだからではなく、僕がノイズであることによって「青春の青さ」を完成させていたからだ。
「……なんだ、僕が世界の調味料だったのか」
そう呟くと、傍聴席の合唱部も吹奏楽部も野球部も一斉に立ち上がり、拍手喝采を浴びせてきた。
いや、正確には、校舎全体が両手を打ち鳴らしていた。窓ガラスも机も、果ては購買部の焼きそばパンまでも。
こうして僕は、「ノイズ担当」として青春に組み込まれることになった。
僕のため息は即興のリズムに、僕の独り言は朗読劇に、僕の居眠りは部活動の休符に。
そして僕は、静かに笑った。
世界は完璧すぎるより、ちょっと下品で、少し騒々しい方がいい。
──僕はノイズだ。
しかし、そのノイズこそが世界を音楽にしていた。