scene9 アクロス・ザ・ランニングウェイ
マリーは誇らしげだった、目が輝いている。
自分がこの仕事に関わっていることを、なにより誇りに思っているのを全面に押し出していた。
龍は、ふとふと考えた。
なるほど、確かにマリーの言う通りだ。特に医療の現場のところでは、看護士という仕事柄いやと言うほど実感が湧く。
貴志は、なにがなんだかわからない。
誇らしげに語るマリーの姿に恐怖すら覚えてしまったくらいだ。
全く未知の世界で仕事するマリーが、自分とはかなり遠いところにいる人間のような気がしてきた、マリーと自分ではあまりにもスケールが違いすぎる。
その中で二人の間共通の疑問が浮かんだ。
「でもなんでそれが秘密なんですか? 秘密にしないとマズいんですか? 何も悪い事をしてるわけじゃないのに。むしろ世界人類に貢献することをしているのに」
龍は疑問を振り払うようにマリーに問う。それに対して、マリーは少し残念そうに語った。
「それは。一体を製作するのにも、莫大なコストと時間が必要とされるからです。実際、我々の参加するプロジェクトが発足し、香澄や他のアンドロイドが完成するまで莫大なコストと時間を要しました……。今の段階では一体を製作、購入し使用するだけでもサッカーのトップアスリート数人分の年収と同じくらいの費用が必要とされてしまいます。これでは採算がとれないばかりが、どこも使いたがりません。それでは我々がアンドロイドを創った意味が無くなってしまうのです…。この問題をクリアしない限り、この世にアンドロイドを、香澄を世に公表することは出来ないばかりか。無かった事にされてしまう可能性もあるのです…。技術的にはもう完成の域に達しているというのに……。ですから、テストをして問題解決に取り組み、低コスト化と時間短縮による量産化の道を探らないといけないのです」
マリーの言う通り、香澄を見れば完成の域に達していると言ってもいいし、龍と貴志はいやと言うほどそれを実感しているが、確かにコストと時間が掛かりそうではある。
香澄は外見的には完全な人間なのだから、しかも美少女と来ている。
しかしまぁ何と言うか、やっぱりそう言う金銭面のことが浮上してくるのは何でも同じということか。
あまりにもそれは非現実な中で現実めいていた。
しかし、サッカーのトップアスリート数人分の年収と同等の費用を必要とするアンドロイドを製作しているプロジェクトの本部とは。どんなものかマリーは語ってくれないが、なんと巨大な企業組織なのだろか…。
最後にマリーは、真実を打ち明けた事は絶対に内密に、と釘をさす。
「私がお話できるのはここまでです」
すると今まで神妙だったマリーの顔が、急にほがらかになった。
「長話がすぎましたね、紅茶が冷めちゃって、すぐに入れなおしますから」
その顔は、貴志の言うところの憧れのマリーさんに戻っていた。
でも、まわりの空気は紅茶以上に冷めてしまっていて。後で暖かい紅茶に入れなおしてもらっても、にわかにはなおらなかった。
真実にショックを受けた龍と貴志は、それに絶えるのが精一杯だった。
暖かい紅茶を喉に通しても、脳はそれをきちんと察知してくれない。
今日の事で色々とわかった。
香澄に紅茶が用意されていなかったけど、機械が紅茶を飲めるわけ無い。
それに、香澄のあの脅威的なドライビングのわけも。
タネを明かせば意外に簡単な理由だった、なんだそんなことかと言えるようなことではないだけのことで。
その香澄は黙ったままだ、正体をバラしたせいなのかどうかはわからない。
それから後は、なんだかぎこちなく、形通りの適当なお喋りと挨拶で憩いの時間は幕を閉じた。
帰る時、龍と貴志はこっそり香澄に今夜は峠に来るのか? と聞いた。
香澄は来ないと言った。乗り気がしないから、と。
夜、龍と貴志は靡木峠の西側駐車場にいた。
「全く、何か訳の分からんSFに引きずり込まれたようだ」
龍は吐き捨てるように言った。
「うん、そうだな……。オレも何がなんだか」
貴志は力無く頷いた。
二人はまだ昼の事を引きずっていた。
それも仕方無い話で。昼、マリーに香澄がアンドロイドである事を告げられ、香澄自身にもばっちりと証拠を見せられては、信じるしかなかった。
これからも長い付き合いになりそうだから、という理由で。真実を秘密にする約束で、打ち明けられても。龍と貴志にはどうしていいかわからなかった。
それ以上に、まさか今まで必死になって追い掛けていた香澄が、機械で出来たアンドロイドだという事実に驚くより他なかった。
夜空に輝く星達に見下ろされながら、龍と貴志は駐車場にいて走ろうともせず、ただじっと時間が過ぎるに任せている。
とりあえず、二人とも混乱に至らず、真実を整理するだけの余裕があったのがせめてもの救いか。
今夜は香澄は来ないと言っていた。
乗り気がしないから、と。
ふと貴志はマリーを思い出し、溜息をついた。
賢そうな印象を受ける知的さが、彼女の魅力の一つだったのだが。あの昼間のマリーのことを思い出すと、とてもとても簡単に親しみをこめて接する事の出来ない人間のようだった、いやマリー自身はとても親しみのある性格なのは違いないが。
あまりにも未知の部分と真実の衝撃が大きくて大きくて、だいたい勤め先が謎のアンドロイド製作プロジェクトの本部ってなんだよ! と何回も何回も心の中で繰り返した。
貴志の胸の中は悶々として違和感で一杯だった。
全く全くなんてことだよ。しばらくマリーの事は考えられない、いや、むしろ考えない方がいい、そうしないと自分がどうかしそうだった。だから、他の事を考えよう、そうだそうしよう、オレには他にやることがあるんだから。
この時貴志の胸の中で、こっちを向いてと叫ぶ声があっても、貴志はそれを必死に無視しようとしていた。
「どうする、走るか?」
鬱っぽい貴志に、出し抜けに龍は声を掛けた。
「ん、ああ。せっかく来たんだから走るつもりだけど」
龍の問いかけに、自分の心境を悟られまいと応える。
「んじゃ、いっちょひとっ走りするか」
そう言うと龍はMR2に乗り込みイグニッションをスタートさせる。
貴志も同じくRX-7に乗り込みイグニッションをスタートさせる。
そして二台同時に峠道にコースインする。
前をMR2が取った、RX-7は後ろだ。
すぐさま追い掛けっこが始まった。
ハイスピードで峠をかっ飛ばす二台。
なんだか色々あって振り回されたかもしれないが、つべこべ考えても始まらない。
結局自分達には走ることしか無いんだ、だから走る。
走っている時は無心でいられる。
走って走って走りまくってやった。
けど、足りない。いつも前にいる筈の、あのコズミック-7がいなかった。
その頃香澄は、マリーと一緒にいた。
昼からずっとだ。
今、いつものチェックをしている。
自分のうなじのコネクタにコードを接続する時、香澄は何を思うか。
ふとふとマリーは香澄を見て思った。
これで良かったのだ。
龍と貴志に真実を打ち明けた。
龍と貴志はこの世にあらざるものを見る目で、香澄を見ていた。見られる方の香澄は何も言わず、ただじっと視線に耐えていた。
ひょっとしたら、内部を見せるのは裸を見せるのと同じくらい恥ずかしい事だったかもしれない。
そう思うと、ちょっと可哀想な事をしたかなと思う。
ディスプレイの映す記録にも、左腕の表皮を剥がして内部をさらけ出した事が表示されている。
「ねぇマリー」
香澄がマリーに声をかける。
「何? カスミ」
優しく応えるマリー。
「今日のことだけど、あれで良かったのかな? ちょっと気になって」
「そうね。あれで良かったのよ」
「どうしてそう思うの?」
「必要があったのよ。真実を語る必要が」
「必要があった」
「そう、必要だったのよ」
「どうして必要だったの? それにどうして前もって言ってくれなかったの? いきなりなだなんて、ちょっと卑怯だと思うわ。あなたらしくない」
卑怯と言われ、マリーは声を詰らせてしまった。
香澄に卑怯呼ばわりされるのは正直ショックだ。が、このまま黙っている事も出来ず。
「私もそう思うわ。でもね、先にあなたに言うのがなんだか怖くて。それを言ったらあなたがどんな反応をするのかわからなくて。それで一人先走ってしまったのよ」
と、恐る恐るマリーは言った。
それを聞いて、香澄は心の中で苦笑するしかなかった。
自分を信じてなかった、ってことだったから。
第一、そんな怖がってまで正体を明かす事に何の意味があったのか、何も無理に明かす必要も無さそうだが。
おかげで龍と貴志には奇異の目で見られるし。
しかし、もう打ち明けてしまった以上は仕方ない。
だけどこれがマリーの望んでいた事だったとも思えない、では何故正体を明かす必要があったのか、それはマリーが自ら語ってくれた。
静かに、おずおずと。
「あなたの正体を知る事で、あなたと競い合う事が無意味な事だという事に、気付いてほしかったのよ。そうすれば、危険な公道でのレースだなんて、しなくなるんじゃないかと……」
やっぱり、とマリーの言葉を聞いて香澄は思った。その事は前にも考えた事があった。
しかしまさか、出し抜かれることになるとは。なかなかどうして、マリーも人間だ。
そんなマリーに追い討ちを掛けるように、香澄はぼそっとつぶやいた。
「なんか悲しいわ。マリーは私を疑っていたのね。ずるい……」
その目は氷のように冷たそうだった。
香澄は動かない。それが一層冷えた鉄のような印象をマリーに与えた。自分の体から、熱が抜け出して行くようだった。
変な話だが、改めて香澄は機械で出来ているんだということを実感した。
キーボードを打つ手が止まったままだ。
しかしだ、どうしてこんな事になったのかというと、全ては香澄にあったのだ。
それは香澄も重々承知していた。
それを思い出した香澄は、冷たい目のまま笑って。言った。
「仕方ないよね、そうするしかなかったんだよね」
時計は十二時を回り、日付が変わっても龍と貴志はまだ峠にいた。
さっきまでとことん走りこんでいた。
走り終わって、西側駐車場にいる。
MR2とRX-7が隣同士に停まっている。
「これからどうする?」
出し抜けに貴志が龍に聞いた。
「どうするって。これから帰るつもりだけど」
「いやそうじゃなくてさ」
困ったように貴志は話し始める。
「香澄ちゃんがさ、アンドロイドだってわかったじゃないか。完全無欠な万能に創られていて。そんな香澄ちゃんと、これからどう接していくのかなと思ってさ」
それを聞いて龍はなるほど、と思いしばし考え。
「やっぱり追いかけるな」
と応える。
「追いかけるって。でもあのコには勝てっこないんだぜ。お前も見たし聞いただろ、あのコがなんで創られたのか。セナが天国から蘇っても、勝てないかもしれないんだぜ。そうでなくても今までいやってほど速いのを見せつけられたんだ。それでも追うってのか?」
「うるせぇ!」
貴志の言葉に龍はイラついたように応える。
その後一息ついて。
「そりゃオレだって驚いたさ、まさかアイツがあんな機械人形だなんてな。だが、アイツがなんであれ、速いヤツなのは変わりないんだ。速いヤツを目の前にして、ただ手をこまねいて見るだけなんて、オレには出来ない」
言い終わり、龍は愛車のMR2を見つめていた。
今まで苦楽を共にしてきた大切な相棒だ。
「オレは走ることしか考えられない」
とぽつりと一言。
そんな龍を見て貴志もRX-7を見る。
遅かった自分を速くしてくれた、大切な相棒だ。
「そうだよなぁ」
ふと貴志が口を開いた。
「お前の言う通りだよ、変にビビって尻込みしなくてもいいんだよな」
と、納得したように少し笑った。
そうだ、香澄がなんであれ香澄は香澄であり、同時にいつも前を走るコズミック-7のドライバーなんだ。
何も変わりはしないのだ。
秘密さえ守れば。
だから、次に峠で会えば今まで通り追いかける。
だけど、ちょっと待てよと思う貴志。
「なぁ龍」
「ん、なんだ?」
「一つ大切な事忘れてないか」
「大切な事?」
いぶかしげに応える龍。
「そう」
「なんだよ一体。なんかあるのか」
「ああ、おおありだよ」
貴志の問いかけに。龍は、はてなと思ったものの、何を忘れているのかどうしても思い出せない。
それを見て、貴志は言った。
「オレとお前の決着が、まだ着いてないじゃないか」
その言葉を聞いて、龍ははっとした。
貴志は続けた。
「オレとお前が峠の最速を賭けてバトルしてる時に、あのコはやって来た。それからというもの、オレ達はその事を忘れてあのコを追い掛けることばかりしてた。あのコの事も大切だけど。その前に、オレとお前のケリを着ける事も大切じゃないか?」
龍は何も言わないで、じっと貴志の言葉を聞いていた。
「オレとお前、どっちが速いのか。それを決めてからあのコを追い掛けてもいいと思うけどな。もっとも今度は峠の二番手争いだけど……」
最後はばつが悪そうに言い終える貴志。
貴志の言葉を聞いて龍は考えたが。
「そうだな」
とだけ言った。
どうやら貴志の言葉に賛成のようだ。
「いきなり割り込まれて、そのままじゃすっきりしねぇな」
「決まりだな。龍」
こうして龍と貴志のバトルが再開されることになった。しかし、香澄は来ない。
ここ数日、コズミック-7と香澄が姿を現す事が無かった。
一体どういう事だと思っても、香澄が来ないのでは理由を聞く事も出来ず、だから龍と貴志の方から出向くことにした。
是非とも香澄に伝えたいことがあったのだ。
二人が家を訪れると、マリーが出迎えてくれた。
事前に連絡を入れてなかったせいか、少し慌てているようだ。
「よお、お前ら来たのか」
と、優が二人の前に少し顔を出して、すぐに自分の部屋に引きこもっていった。
優は香澄の正体が龍と貴志に打ち明けられても、別に気にする様子も無く。
峠で初めて顔を合わせてからというもの、あまり二人とのコンタクトは無かった。
優は自分の立場をわきまえていた。
「よく来てくれたわね。どうぞ上がって」
とマリーは笑顔で対応する。
あの時以来、香澄とぎこちなくなってしまったマリーにとって。二人が来てくれた事は、大袈裟かもしれないが地獄に仏であった。
だから大歓迎だ。
真実を打ち明けたせいか、ここ数日来てくれなかっただけに嬉しい限りだ。
おかげで貴志の勤めるCDショップにも行っていない……。
しかしなんだか様子が違う。
あのイハラさんでさえ。
「いえ、いいです。すぐすむ用事ですから」
と龍は言った。
貴志も龍の横にいて、何も言わずじっと控えていた。
やはり真実を打ち明けたからか、と思いながら。
龍はともかく、貴志がいつもの笑顔を見せてくれないのが辛かった。
「すぐ済む用事って?」
「香澄ちゃんに伝えたいことがあるんです。呼んできてもらえませんか?」
と、貴志。
「カスミに用事なのね、わかったわ、ちょっと待ってて」
マリーは香澄を部屋まで呼びに行った。
その途中考えた。
あの二人が香澄に用事があるとしたら、あれしかない。だとしたら、真実を打ち明けた意味が無かった、何とも無駄なことをしてしまった。
ふとふとそんな事を考え、いたたまれない気持ちになった。
ほどなくして香澄がマリーに連れられて、龍と貴志の待つ玄関に姿を現した。
「用って何?」
あの時と同じ、冷たさを感じさせる物言い。
マリーは傍で心配そうにしてる。
だが二人は動じない。いつも通りの香澄という感じだった。
それを見てマリーは思った。
これがいつもの、本来の香澄と龍と貴志のやりとりなんだと。とてもお友達として顔を合わせているとは思えない。
ではどうして、こうして三人が顔を合わせているかというと。
走り屋としてだ。
同じ峠を走り、腕を競い合う者同士。
それ以上でもなく、それ以下でもない。
マリーは何気に、自分が入れない、三人の周りに結界がはられたような気になった。
龍が口を開く。
「今夜オレと貴志でバトルをすることになったんだ。それを香澄に見届けてもらおうと思って。くやしいけど、香澄は峠の一番なんだ。だからその一番としてオレらのバトルを見届けて欲しいんだ」
龍の言葉に、香澄は何の反応も示さなかったが。マリーは驚いた。
なんだって龍と貴志がレースをしなければいけないのか。とっさにはマリーには理解出来なかった。
とにかくやめてほしい、そんな危険な事。
それを言おうかどうか迷った一瞬、香澄が応えた。
それはマリーをとりあえずほっとさせ、龍と貴志をがっかりさせた。
「ごめんなさい。約束は出来ないわ」
「だめなのかい?」
香澄の言葉に貴志が少し焦ったようだ。
しかし無情にも。
「うん、ちょっとね。乗り気がしないんだ」
と応える香澄に、貴志は肩を落とす。
「そっか。じゃ仕方ないな」
すると龍が、なんだかあっさり引き下がる。
マリーがいる傍では無理なことも言えないし。
何かを胸に含んだ表情で。挨拶をして退出をする二人。
さすがに、龍と貴志の素直な反応にあっけにとられた香澄とマリー。
マリーは香澄が申し出を断ったことに、とりあえず今はほっとしている。しかし龍と貴志がレースをする事が気になって仕方ない。
それを察した香澄。
「あの二人なら大丈夫だよ」
とマリーを気遣う。
「え、何が?」
「二人がバトル……、レースをするのが気がかりなんでしょ」
「え、ええ。まぁ……」
「だから大丈夫だよ」
「わかるの、そんな事?」
「うん、わかるよ。あの二人は走り方を心得ているもの。事故なんてヘマはしないわ」
事故と聞いて、マリーはぎくっとしたが。香澄が大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろうと思おうとしていた。
それと、香澄はなんでもお見通しなんだとも思った。
それに、別に気になることもあった。
あの時以来、ここ数日香澄が走りに行かなくなった。それはそれでいいのだが、走りに行かなかったら行かないで気になっていた。なんだか身勝手なようだが、普段と違う行動をとられると不安になるものだった。
「そう言えば、最近走りに行かないわね」
「乗り気がしないんだ」
と応える香澄。
何もマリーにあてつけるわけでもなく、心配してるのを100パーセントくんだわけでもないけれど、走らなくなった香澄。
それを何も言わず、乗り気がしないと言って誤魔化した。
コズミック-7はガレージで眠ったままだ。
香澄は迷っていた。
バグが起きそうな気分だった。
「ん、どうした? 香澄」
香澄は優の部屋にいた。
優は部屋のソファーに座り、何か本を読んでいたが、それを中断して香澄の方を向いた。
「聞きたい事があってね」
「聞きたい事?」
「うん」
優はその名の通り、優しく笑っていた。
香澄はドアにもたれかかった。
「あの二人はどうして私にこだわるのかな? と思って。何度も何度も優に聞いて、走るしかないって言われたけど。それでも聞きたくなってね。迷惑かな?」
「いんや、全然」
少し申し訳なさそうな香澄に、優は笑顔で応える。
「ん~。まぁ走らんと分からんばかりじゃ、つまらんかな。じゃあ、これはどうだ? お前はなんで走ってんだ?」
「それは……」
香澄は語った。
「私にもよくわからないわ」
「よくわかんねぇ、のか」
「まあね、でも」
「でも、なんだ?」
つくりものの澄んだ瞳が、その奥に何かを宿しているように光っていた。パルスが一筋の光となって、幾重にも重なり、香澄の中を駆け巡る。
そんな情景が優の脳裏に浮かぶ。
「向こう側になにかがあるような気がするの」
「向こう側……」
「その向こう側に、何か残りのひとつのパーツがあるような気がするの。それが欲しくて走る、というか。どうしてそうなのか、自分でもよくわからないけどね。そう思うの」
「そうか」
とだけ、優はいった。奥歯を噛み締めていた。そうしなければ、顔を崩し笑い出してしまいそうになってしまうから。
どうにも、胸の、心の奥底から得体の知れない悦びが満ち溢れてきていて、仕方がない。
「そこへ来て、あなたは私にあのFDを貸してくれたでしょ。あのFDのパワーとスピードなら、その向こう側へ行けそうな気がして。その向こう側へいけたとき、私は完成されるような気がするの」
―マジかよコイツ。もう十分に完成してるんだぜ。それなのに、まだ自分が完成されてないような気がしてんのかよ。―
香澄の言葉に、優は笑いをこらえるのに必死だった。
それはまるで、新しい発見を悦ぶ好奇心旺盛な子供のまんまに。
とにかく、それが可笑しくて可笑しくて、仕方がない。
「そうか、そうか」
とだけ、かろうじて言った。
香澄は、やはりつくりものの瞳を澄ませて、優を見つめていた。その間、一筋の光が自分の中を駆け巡っているのを感じていた。
それはややこそばゆいようにも感じられた。
「所詮私はロボット、……アンドロイドよ、車のフィーリングといっても人間のように何かを感じるわけじゃないし、むしろ何もわからないわ。だけど不思議ね、さっき言った通り、あのFDでなら、行けそうな気がするの。向こう側に、ね」
「そうか」
そうか、しか言わない優。もう、そうか、しか言えない。それ以外に、何を言えばいいのだろう。
ただひとつ欲を言えば、FDでなくて、コズミック-7と言って欲しかったが。まあそこまでいうのは欲張りというものだろう。
「やっぱりこれからも、源や井原と一緒に走ってみなよ」
「えっ……」
優の言葉に、香澄は少しきょとんとしていた。
「あいつらも同じものが欲しくて走ってんだよ、きっと。でなきゃ、お前を追いかけるもんか」
「そうなの」
「ああそうさ」
「……」
結局今回も、優ははっきりと答えてくれなくて、香澄は静かに目を閉じて、静かにうっすらと開いて。
「ありがとうね」
といって部屋を出て行った。
優は、なにがありがとうなんだか、と思いつつ本を手にしたまま閉じられたドアをじっと見ていた。そのドアを、ポーカーのカードでも見るように、じっと見ていた。
半か長か、いやこれは博打か、などと心の中でおどけつつも。じっと見ていた。
果たして、そのカードはジョーカーなのか……。
そう思ったとき、マリーがドアを開けてやって来たではないか。
「おいおい何だ。香澄の次はお前か」
本当にジョーカーだったと言いたげに、優は目を丸くしていった。そんな優を見据えながら、マリーはいった。
「カスミがあなたの部屋に来たから、私も来たのよ」
「ん、どーゆー意味だ」
「カギを、車のカギを渡して」
「なるほど、そーゆー意味か」
腹に一物含んだ訳知り顔でそういうと、ポケットからコズミック-7のキーを取り出し。ほらよとマリーに手渡す。
キラりと光るキーを一瞥した後。
「どうかしてるわ、私」
と言って、部屋を出て行った。
マリーが出た後、読書に戻ろうとして優はいった。
「お互いさまだよ」
日も完全に暮れ、月と共に星が夜の空に光り輝いている。
それに合わせるように、靡木峠の西側駐車場にはすでに走り屋達が集まって、その中に龍のMR2と貴志のRX-7もあった。
もうすぐ龍と貴志のバトルが始まる、が。
龍と貴志をふくめ、皆香澄を待っていた。まだ、香澄は来ていなかった。
峠のナンバーワンの走り屋として、龍と貴志のバトルを見届ける役目を頼まれた香澄。
しかしその香澄が来ないのでは、時間が来てもバトルは始められなかった。
「来ないな」
龍も貴志も、皆じらされていた。
「やっぱり、来ないのかな」
貴志がポツリとつぶやいた。
約束は出来ない、と香澄は言っていた。乗り気がしないからと。
何故乗り気がしないのかは、聞けなかった。
「まぁ。待つしかないだろう」
龍は星空を見上げながら言った。
まだ時間になっていないから、待つしかなかった。
春になり、少しづつ暖かくなり。夜でも寒い思いをしなくてよくなった、とはいえ香澄を待つ彼らの心は寒風にさらされているかのようだった。
龍と貴志がバトルするといっても、峠の主役はやはり香澄なのだ。その香澄が来なくては熱くなるものも熱くなれない。
香澄には迷惑な話かもしれないが、香澄はこの峠の熱源にされていた。
香澄が来なければ、香澄が来る前のいつもの峠だ。
皆、香澄が来るのを一日千秋の思いで待っていた。
しかし、香澄はやって来ない。
峠の走り屋達はてぐすね引いて待っているというのに。
そのころ香澄は自分の部屋にいた。
ベッドに座り、じっと時間が過ぎるのに任せている。
峠で龍と貴志のバトルを見届けてほしい、と頼まれても正直困ってしまう。
もう走るのやめようかな、と思っていたからだ。
マリーは自分を心配してくれていた、だからもう心配させたくなかった。
マリーが心配しているのは自分だけじゃない、龍と貴志のことも心配している。
自分がアンドロイドだということを龍と貴志に教えて、彼らのやる気を削ごうと思っていたが、効果は無かったようだった。
ただ自分が人間でなく、アンドロイドだという事実を教えるに留まった。
だから自分が走る限りは、彼らは自分を追いかけつづけるだろう。ただその前に、かつて自分が割りこみ邪魔したバトルのやりなおしをするようだが。
勝負の真っ最中に割りこみを掛けてしまったのだ、やりなおしをするのは当然と言えば当然か。
それをするのに少し間が開いてしまっただけで。
いや、もう自分には関係の無い事だ、考えるのはやめよう。本当を言えば、走りたい、でも……。
私はどうすれば、いいんだろう。今の自分はウィルスにおかされプログラムを破壊されつつあるコンピューターみたいだった。ウィルスは、膨大な量のデータをいっぺんに流し込みオーバーフローを起こさせて香澄を凍りつかせようとしている、そんな感じ。人間風に言うなら、そんな気持ち、だった。
優の意地悪。どうして、優しそうな顔をして、どうしてちゃんと答えてくれないの?
と、思ったその時。
「カスミ。いいかしら?」
と、マリーが部屋に入ってきた。
手に光るものが握られていた。
それは、コズミック-7のキーだ!
それを目にして、香澄は驚いた。まさかマリーがキーをもって現れようとは。
キーは蛍光灯の光りを反射させ、香澄の目に飛び込んでくる。
「それは……」
「見ての通り、あの車のキーよ」
「それはわかるわよ、なぜあなたがそれを持っているの?」
それを聞いて、マリーはくすっと笑った。
「決まってるじゃない。あなたが走りに行くかと思って。わざわざ優から取り上げてきたのよ」
明るく話すマリー。
香澄はマリーがいつもと違うことに戸惑いながらも、キーから目が離せない。
「マリー」
「行きたいんでしょ。峠に」
そう言うとマリーは香澄の手を取り、キーを手渡してくれた。
香澄は手渡されたキーをじっと見つめている。キーはさっきと同じように、蛍光灯の光りを反射させて、キラキラと光っていた。
マリーは優しく言った。
「行きたいのなら、行けばいいのよ。あなたのことは、あなたで決めなさい」
そう言うと、きょとんとする香澄を前に、少し間を置いて。
「ねぇ、もし、峠に行ったら」
「え?」
マリーは何か思いつめた顔をしたが、大きく深呼吸すると。
「レースを見届けることなんか無いわ。あのふたりを、ぶっちぎってやりなさい。しつこい男には、それが一番。造作も無いでしょ」
などと言い出す。香澄は呆気に取られた、まさかマリーがそんなことを言うとは。それに気付いたか。
「あ、あら……。私ったら、何を言ってるのかしら」
と、恥ずかしそうに笑って、首を横に振った。
「ねえ、マリー。どうしたの」
マリーのあまりの変わりように、戸惑いを隠せないが。確かに、その通りだと思った。彼女も色々と経験を積んでいるんだろう。
「それとね……」
と、続けて何か言おうとしたが。
「ううん、なんでもないわ」
と、やっぱりやめたという感じで何も言わずにそのまま部屋を出ていった。
香澄は、静かにマリーの行動を見守っていた。瞬き以外に、何の動きも見せなかった。だから、マリーは何も言わなかったのかもしれない。
自分の部屋に戻ったマリーは、部屋のドアに持たれかかり、ふーっと溜息をついた。
これで良い、これで良かったんだと自分に言い聞かせている。
香澄のことは香澄が決めることだ。それが出来るなら、そうさせたほうがいい。AIなのだから、そうでなければ意味が無い。
人間に判断を委ねたり、自分の意に反して人間の機嫌取りをするAIでは意味が無いのだ。自分のことは自分で決める。
それでこそ、AIとしての意味がある。
だから香澄に決めさせようと思った。
すると、コズミック-7のエグゾーストノートが聞こえた。それからしばらくして、優が部屋にやって来て。香澄は行ったぞ、と言った。
マリーは頷いただけで、何も言わなかった。
香澄が峠に行ったことが全てだった。
そのころ、龍と貴志はスタート地点の東側駐車場にいた。
「じゃあ始めるか」
龍がそう言うと、貴志はそれに応えて言った。
「ああ、始めようぜ」
二人はともに愛車に乗りこむと、四点式シートベルトを絞め、イグニッションをスタートさせた。
香澄を待っていたものの、いつまでも待つわけにはいかなかった。だからもう香澄のことはあきらめて、バトルを始めるしかなかった。
香澄が来ないのは残念だが、だからと言って手も気合も抜かない。それとこれとは別だ、香澄がいないとバトルが出来ないわけではない。
ギャラリー達に見守られながら、スターターをつとめる智之の合図で道路に出るMR2とRX-7。
智之を前にして二台が並ぶ。
それと同時に二台のエグゾーストノートが響き渡る。
スタートはまだか、早く走らせろと言わんがばかりに。
まあそうせかせるなよ、と言いたげに智之が両手を広げて上げる。
ギャラリー達は固唾を飲んでスタートを見守る。
「スタートいくぞー!! ごっ! よん! さん!!」
両手の指を折り曲げながら大声でカウントする。
それに合わせてエグゾーストも大きくなる。
あたりに緊張が走る。
龍と貴志の目は第一コーナーに向けられている。お互い、相手より先に行ってやろうと。
「にっ! いち! ZERO!! GO!!!」
カウントが終わると同時に、思いっきり両手が振り下ろされるや否や。二台は智之を間に挟み猛ダッシュでスタートする。
智之が少しビビる、しかし二台はお構い無く第一コーナーに突っ込んで行く。
駐車場のギャラリー達はどちらが前か知りたくて身を乗り出し、道路に飛び出す。
智之はビビりの余韻を残しながら振り返る。
前に出たのはMR2だ。
やはり駆動形式の差が出たのか、龍が上手いのか。
そのどちらでもあった。
前に出られた貴志は舌打ちし、RX-7のヘッドライトが照らすMR2のリアテールを睨みつける。
一瞬。自分がこんなにも何かを睨みつけるのは、バトルの時だけだな、と思った。それ以外で何かを睨むなんて出来やしない。
ホントは気が小さいし、バイクの頃は超がつくほど下手だったのに、なんでこんな事できるんだろう。
だけど今はそんな事を考えている場合じゃない、さあぼやぼやしてるとMR2が逃げるぞ、ガンガンにケツからアオってブチ抜いてしまうんだ!
貴志がそう自分自身にハッパをかけると、RX-7はそれに応えてくれる。MR2を一緒に追いかけてくれる。
前に出た龍はミラーを見ずに、前のみを見る。
前に進んで走っているのだ、後ろを見る必要など無い。
ヘッドライトが照らす先をを睨みながら、右足でアクセルを踏む。
するとMR2は気合十分に叫んで、前に向かって力強く走る。
快感だった、この快感はなにものにもかえがたかった。
ふと美菜子の言葉が浮かんだ。
良い車に出会えたんだね。
ホントにお前の言う通りだよ、と過去の記憶に応える。
逃げるMR2、追うRX-7。
峠を突っ走る二台。
龍と貴志、どちらが速いのか?
それを知るために走っている。
ただ、それを見届けて欲しいと思っていた香澄がいない。
それがなんだか寂しかった。
だけど、いまだに香澄が来るんじゃないか。また、初めて遭遇した時と同じ事が起きるんじゃないか。
と、心の何処かで期待していた。
淡い期待だった。
その淡い期待も、走っているうちに心の何処かに溶けこんでしまったようだ。
二台は、自分が速い事を相手に知らしめるために走る。
闇に包まれた夜の峠のを、ヘッドライトで闇を切り裂きながら走る。
この峠で二番目に速いのは誰か? を決めるために。
香澄は峠に向かってコズミック-7を走らせていた。
マリーがキーを手渡してくれた。
あなたのことはあなたか決めなさい、と言って。
だから香澄は決めた、峠に行く事に決めた。
もう遅刻だ、龍と貴志怒るかな?
そんなことを考えていた。
しかし、今日は自分は走るのではなく、見るだけだ。
なんだかつまらないな、とも思った。
アクセルを踏めばコズミック-7は元気良く吠えると言うのに。
アクセルを踏むたびに、さあ今夜も走ろうぜと自分を誘っている。
そういえば、もう時間はとっくに過ぎている。
ひょっとしたら、と思った。
それを思うとなおさらどうしようかと思う。
峠に近づくにつれ、街や街の灯りから遠のいてゆき、夜の闇が自分を包もうとする。
徐々に寂しくなってゆく筈なのが、徐々に気持ちが昂ぶってゆく。
普通に考えればおかしい事だ、どうして夜の峠道が楽しいと思うんだろう。
誰だってあんな真っ暗で怖いところなんか近づきたくない筈なのに。
だって誰もいないんだ、何も見えないんだ。
わざわざそんなところに行くなんてどうかしている。
だけど。
どうかしているから走るんだ、どうかしているということはやっぱり問題が起こっているんだ。
峠に来る皆がそうなんだ、自分はその中の一人なんだ。
しかしコズミック-7はそんな香澄の気持ちなどお構い無いらしい。
トリプルローター20Bのエンジンも十分に温まった、さあ自分を走らせてくれ、目一杯走らせてくれ、と香澄に訴えている。
なんの為に自分がいるんだ?
優は何故自分を造ったか知ってるだろ?
なにより自分を走らせたいと思っているのは香澄じゃないか。
シートにはただ座っているだけかい? そうじゃないだろ。
エグゾーストノートが、車の動き一つ一つが香澄にそう訴えかける。
峠に入った、もうすぐゴール地点の西側駐車場だ。
香澄は思いっきりアクセルを踏んだ。
そのゴール地点は、靡木峠の西の出口近くに程近い西側駐車場。数人の走り屋が龍と貴志のゴールを待っている。
駐車場から道路を挟んで夜景が見える。
しかし勝負の行方が気になって仕方が無いのか、走り屋達は夜景に目もくれず。ああでもないこうでもないと、言いたい放題言っている。
駐車場に設けられた灯りが細々と彼らを照らしていた。
その時。
「お、おい何か音しないか?」
誰かがそう言った。
「はあ? 音って」
他の連中もそれを聞いて聞き耳を立てる。
まだ龍と貴志が来るには早過ぎる、しかし確かに音がする。
F1のような猛烈に甲高いエグゾーストノートが、徐々に徐々に。
「まさかこれって…」
誰かがごくっと唾を飲みこんだ。
皆道路を覗きこむ。
西側駐車場を過ぎたカーブの向こうからヘッドライトが明かり、そのまさかは遂に姿を現した。
「やっぱりそうだ!!」
「うお、すっげえうるせえ!!」
そのまさかが姿を現した瞬間、あまりのうるささに皆一斉に耳を塞ぐ。
ヘッドライトの光が一瞬駐車場沿いの道路を照らしたと思った次の瞬間。
鼓膜を突き破りそうな雄叫びを上げながら、光と共に疾風のように皆の目の前を駆け抜けてゆく怪物。
まるであたりの空気が揺れたようだった。
耳にはすこし耳鳴りがする。
一瞬のことだった。
それと同時に音もだんだんと遠ざかってゆく。
しかしいまだに峠の山々に轟音が響き渡る。
それに負けじと駐車場の走り屋達は一気に騒ぎ始める。
「FD、香澄ちゃんだ!」
「まじかよー、あの時とおんなじじゃねーか」
「来ないと思っていたのに、これはえらいことだぜ」
「龍と貴志はこの事知らないんだよな、とんでもないことになるぞこれは!」
突然のことに走り屋達は黙っていられない。
ますますヒートアップしてゆく。
もはや龍と貴志の勝敗など、意識の外に放り出されてしまったところも、あの時と同じだったが。誰もそれに気づく余裕が無かった。
皆、ただいきなり現れたコズミック-7にあわてるばかりだった。
そうとも知らず、夜の靡木峠の峠道を、二台のマシンが駆け抜け突っ走っている。
龍の黒いMR2、貴志の青いRX-7。
バトル、追いかけっこの真っ最中だ。
MR2のヘッドライトは暗い夜道を照らし、RX-7のヘッドライトはMR2のリアテールを照らす。
RX-7のヘッドライトに灯されたMR2のナンバープレートが、はっきりと見える。
MR2は引き離さんとして走り、RX-7は逃がさんと追う。
お互いに負けられない、お互いのプライドを賭けて。
例えそれが二番手争いであったとしても。
前してる時は一番手争いだった、でも今は二番手争いだ。
途中で速いヤツが割りこんできたおかげで、順位が一つ下がってしまった。
そんなことも忘れて必死に一番を追いかけていたが、ふと自分達の決着がついていない事を思い出した。
だからこうして改めてやりなおしているのだ。
龍と貴志は前を見据えて走っている。
龍は逃げる為に、貴志は追う為に。
二台の車も互いの声の大きさを競うように、雄叫びを上げている。相手の声をかき消しあっている。
龍は上手くスキを見せない。
貴志はそれにてこずっているようだ。
でも、かつて香澄を抜いた時と同じように。じっとチャンスが来るのを伺っている。それと、スピンだなんてヘボをしないように十分気を付けて。
一瞬、龍はルームミラーを覗いた。
RX-7のヘッドライトがミラーの中で光っている。
それを見てふっと笑い。
「ぴったりくっついてくれるよな」
と軽く吐き捨ててやった。
もうすぐ、初めて香澄とすれ違ったところにやってくる。一瞬二人の脳裏に、コズミック-7と初めてすれ違った時のことがよぎる。
こんなバトルをしてる時に、彼女はやって来た。
さすがに今回は無いか、と思った次の瞬間。
前方から光が見えた。
対向車、まさか。
龍も貴志もそう思った、しかし、そのまさかだった。
光の主が姿を現した時、龍と貴志の背中に電撃が走る。
窓を閉めてても車内に飛びこむ強烈なエグゾーストノート、猛烈な速さですれ違おうとするそのまさか、パープルメタリックのコズミック-7!
香澄はやってきた。
龍と貴志のバトルを見届けに、ではない、峠を走るために。
「なんてタイミングで遅刻するかな、アイツは!」
龍は思わす叫んでしまった。
「おいおいマジかよ香澄ちゃん!」
それにつられて、ではないが貴志も思わず叫んでしまった。
コズミック-7はあの時と同じように、くるっと向きを180度変え、龍のMR2と貴志のRX-7を追いかけ始める。
「いくよ。龍、貴志」
香澄は前の二人に語りかける。
それに合わせ、コズミック-7も威嚇の雄叫びを上げる。
「な、やる気か。おお、やってやろうじゃねぇかよ!」
「え、え、追いかけて来るのか!」
追撃の気配を感じた二人はさらに驚く。
まったくなんて事だ、来ないような事言っておいて、なのに遅刻をした上に龍と貴志を追いかけるというのだから。
人を馬鹿にしてると思ったものの、こんな成り行きになった以上はやるしかない、やるしかないのだ。
走り屋として挑まれた以上は、受けて立ってやろうじゃないか!
龍と貴志はさらにスピードを上げ、香澄を引き離しにかかる。
香澄はそれを追う。
しつこい男ふたりをぶっちぎるために、追いかける。自分の速さを見せ付けるのだ。
もう降参と懲りるまで、何度でも何度でも、ぶっちぎるのだ。
一度ならず二度までも、ケンカを売るようなことをしているし。はた迷惑なのはわかる。
自分が何をしているのか、よくわかっている。だから、好きなだけ追えば良い。自分も好きなだけ走るから。
龍も貴志も、香澄と同じものを追い求めて走っているという。優は言う、一緒に走ってみなよと。
だから香澄は、龍と貴志と、一緒に走ろうとしていた。
吹き飛ぶ景色。峠のワインディングロード、右に左に、上ったり下ったり。龍の目の前には闇。ヘッドライトで切り開く。切り開かれた闇から、コーナーが突き出される。そのコーナーの向こうへ、飛び込む。
肩を固めるシートベルトの感覚、ハンドルを握る手とアクセルを踏む右足の感触。その動きひとつひとつのたびに感じるスピードとG。
1トンを超える鉄の塊の中で、自分がシェイクされているようだ。それがスリルと心地よさを同時に感じさせてくれる。
コンバースのハイカットシューズ越しに感じるアクセルワーク、背中をどつくような加速。そんな龍のMR2のテールを眺めながら、貴志はバックミラーを覗いた。
ちら、ちら、と光が見え隠れする。香澄が来ている。
「やっぱ逃げ切れないか」
前と後ろにはさまれて、さあどうしたものか。前の龍だってなかなか速くて、前を譲ってくれそうにない。もっと速く走れよと、ハッパをかける意味でパッシングをする。
「ちぇ、言ってくれるよな」
貴志のパッシングでミラーが一瞬光ったのを見て、龍舌打ちする。こっちだって精一杯走ってるんだぜ。
といっても、香澄は容赦なく迫ってくる。
峠の山々にエグゾーストのサウンドが響き渡り、空を揺るがす。その空を突き破るようにして、ふたりがアクセルを踏むままRX-7とMR2は峠のワインディングロードを駆け抜ける。
「なかなか」
頑張ってるじゃない。
初めて遭遇した時に追いついたところまで来たが、まだRX-7のテールは小さい。見えた、と思ったら、すぐコーナーの向こうへと消えてゆく。ふたりとも腕を上げたもんだ。
でもそれもいつまでもつか。コーナーを抜けるごとに、そのテールは徐々に大きくなってゆく。ナンバーの数字が読み取れるようになってくる。
それこそ引き寄せられているかのようだ。そういう走らせ方をしている、そういう走りをしてくれる、それが香澄にとってのコズミック-7だった。
もうそろそろ、コズミック-7のトリプルローターサウンドが、貴志のツインローターサウンドに混じりこんでいそうだ。
「来たよ来たよ」
貴志は歯噛みをする。香澄の予測どおり、コズミック-7のトリプルローターサウンドが聞こえてきたのだ。しかしなんという音のデカさだろうか。
気がつけばロングストレート前のS字まで来た、そこで貴志はごくっと唾を飲み込んだ。ミラーに、コズミック-7のヘッドライトがデカデカと光っているのだ。ついに追いつかれてしまった。
龍も気配を感じミラーを覗いた。貴志のRX-7の後ろに、香澄のコズミック-7がぴったりくっついている。
「きやがったか……」
思わず、奥歯を噛み締める。ぎりっ、と音がしたような気がした。
右、左、右、とコーナーを抜ける。コーナーの向こうは、ロングストレートだった。
そこでコズミック-7が怪物へと変化を遂げた。
それは前の二台、MR2とRX-7をブチ抜くことだった。
「いくよっ。龍、貴志…!」
ぽそっとつぶやく香澄。アクセルは床まで踏み込んで。
20Bの咆哮が前の二台を包み込むと同時に、するすると引き寄せられるように近付き、横に並ぶRX-7。
「くっそ」
結局この展開かよと、貴志は思わず横を向いて、驚いた。
香澄もこっちを向いて、笑っていた。そのあどけない笑顔を貴志に向けていたのが見えた。その笑顔はそのまま吹き飛ぶ景色を逆流してゆく。そこまで見て視線を前に戻す。いつまでも横を向いているのは危ない。
―笑ってた。―
香澄は笑ってた。走るのが楽しそうだった。
呆けそうなのをこらえながら、コズミック-7のテールがMR2のテールと並ぶのを見る。
「……」
龍も思わず横を向いてしまい、その視線の先にある香澄の笑顔に呆気にとられそうだった。だがすぐに視線を前に戻す。
アクセルは踏みっぱ。後ろからガンガンにミッドのサウンドが響き渡っている。それでも敵わず、コズミック-7は龍に「COSMIC-7」の自家製エンブレムを見せ付ける。
「なに笑ってやがるんだよ」
憎憎しげにコズミック-7のテールに吐き捨てる。
それはMR2のサウンドに掻き消される。
結局二台は成す術も無く抜かれてしまい、そのまま三台はゴールして駐車場へ入った。
駐車場の走り屋達が三台のもとへ行こうとした時、なにを思ったか香澄はコズミック-7を反転させて、駐車場を飛び出してゆき。
それに引きつられて、龍と貴志も駐車場を出て道路に飛び出してゆく。
もうゴールだなんてものは、なくなっていた。ただ、三台で走ることだけがあった。
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