scene6 終わり、そして始まり
香澄が帰った後も、誰も何も言おうとはしなかった。
龍は伏目がちに、愛車MR2を見つめている。
今まで、この相棒と一緒に走っていた。負けたこともあったし、勝ったこともあった。走り出してしばらくして、勝った回数の方がダントツで多くなっていった。
龍はいつしか、靡木峠最速の走り屋になっていた。
だけど、それも今夜で終わった。
「龍」
龍の様子を見て、いてもたってもいられなり、貴志が声を掛ける。
「なんだ」
「お前も、昨日のオレと同じように勢いがいいのは始めの方だけだったな」
同情するよ、と言いたげに貴志は溜息をついた。
それを見て、龍もつられるように溜息をついた。ほっといてくれ、と言いたげに。
「ああ、全くカッコ悪いったらありゃしねーぜ」
「だけど龍、まだまだあのコを追い掛けるんだろ」
「ったりめーじゃねーか! あいつに勝つまでオレは何度でも何度でもやってやる! オレはあいつを絶対に認めない」
拳を強く握り締め、親のカタキのように香澄を敵視する龍。
少しばかり、最初の勢いが戻ってきたか。
今や、最速のプライドを粉々に砕かれた龍にとって、香澄を追いかける事だけが全てだった。
オレから車を取ったら何が残るって言うんだよ?
口に出さずに、そっと心の中で呟く龍。自分にも聞こえるか聞こえないくらい。
「言っておくけど、オレも一緒だからな。そのこと忘れないでくれよ」
愛車の青いRX-7を見ながら、貴志は楽しそうに言った。
「香澄ちゃんと走りたいと思っているのは。お前だけじゃないんだぜ」
貴志の言葉を聞き、龍は一瞬あっけに取られる。今なんて言った? 香澄、ちゃん?
「お前、ちゃん付けて呼んでるのかよ」
少し呆れたように言うと。貴志ははっと気付いて、照れた表情で慌てて。
「お、女の子にちゃん付けてなにが悪いんだよ。呼び捨てにするのも、なんだか悪いし」
「別に。まぁ、いいけどな」
ジト目で貴志を見る龍。
なんだか気まずい貴志。
なんで「ちゃん」付けて呼んだだけで、そんな目で見られなきゃいけないんだ?
まぁいいけどさ、とは言うものの。なんだか龍の理不尽さに少々むかつく貴志であった。
「とにかく。オレもあのコに負けたままだなんて思っちゃいない。いつかきっとリベンジを果たしてやろうと思ってるんだ! トリプルローターなんて邪道だよ、やっぱセブンはツインローターだろ!」
龍の冷たい視線を薙ぎ払うかのように、力説する貴志。だが、周囲の目にはなんだか滑稽に見えて仕方なかった。
中には笑いを堪えているヤツまでいる。
ホントに他意は無いというのに……。
ともかくも、これがきっかけで重い空気がややほぐされて。
他の走り屋は峠を走りだし、ギャラリーも、残って談笑したり帰ったりするやつがいる中。スターターを努めた智之が西側駐車場にやってきた。
「龍、他のヤツから携帯で聞いたぜ。お前香澄ちゃんに負けたんだってな……」
控え目に、恐る恐る智之は言った。
貴志の様に、気軽に話し掛けられないオーラが龍からばんばん放出されているのを感じたのだ。
龍がナーバスな時は調子に乗ってはいけない。後で、ガンガンにアオり倒されるからだ。
速いヤツにアオられるのは、ハッキリ言って怖いのだ。
だが貴志は龍とタメを張るだけあって、遠慮が無いのは先程の通りだ。
「まぁ、な」
思いっきりナーバスに応える龍、それを見て智之はごくっと唾を飲みこむ。
「まま、一本どうだ?」
と、煙草を差し出す智之。
お、わりーな。と一言いって、一本取り出し。火をつけて煙をくゆらせる。
しかし智之の対応に、龍はなんだか空しさを覚えた。
そんなにオレってアブないヤツなのかな? ちょっとイジワルで、ちょっとアオる程度じゃねーかよ。
と思っていても、龍のちょっとと智之のちょっとでは全然違うのだ。
それだけ走りの次元が違うという事だった。
「とにかくこれで、靡木の一番は香澄ちゃんに決まったわけだ」
貴志は言った後、はっとして智之の方を見た。
「え、お前『ちゃん』付けて呼んでるのか。昨日は呼び捨てていたくせに」
智之は可笑しそうに笑っている。
智之、お前もか!? オレが「ちゃん」付けするのがそんなに可笑しいかよ~? お前だってちゃん付けて呼んでるだろー。
と、心の中で貴志は叫んでいた。
そして後日。貴志のRX-7にガンガンにアオられる、智之のS13シルビアが目撃されることになる。
しかし、今はそんなこと知る由もない智之は笑いながら言った。
「どーゆー風の吹き回しだよ、貴志? やっぱり負けたのが大きいのか」
「別にそう言う訳じゃないけど。女の子に『ちゃん』付けるのは普通だろう」
とほほ、という感じで応える貴志。
なんか話題が別なところに行ってる。
「ま、よーするに。あいつと初めて会った時となんにも変わってない、ってこった」
龍は煙を吐き出しながら言った。
「そうだな。でもしばらくバトルはなし、走りこんでもっとウデを上げないと」
龍の一言を助け船とばかりに、話題を軌道修正しようとする貴志。
「あいつは、またここに来ると言っていたんだ」
龍は香澄が消えた方向を向く。
だが香澄はもう帰っている、もう今夜はやってこない。
「来たら来たで、追い掛けるだけさ」
貴志も今回はばっちりと決め、さっきの雪辱(?)を果たした。
「勝ち逃げはさせやしない。絶対にあいつを負かしてやるさ」
龍と貴志、二人は雪辱を胸に誓い、それぞれの愛車を見つめている。最後に信じられるのは、相棒となるマシンと己のウデ。
それが、自分を証明するただ一つなのだから。
その頃香澄は、ガレージに車を停めた後。家に入らず、ずっとコズミック-7を見つめている。
靡木峠でのバトルで龍のMR2を打ち破り、最速をもぎ取った者にしては、やけに意気消沈気味だ。
別に必死になったわけでもないし、どうしても勝ちたくて勝ったわけでもない。
なんなら、龍の後ろについたままゴールしてもよかったのだ。だけど、香澄は勝利を選んだ。
自分でも上手くは説明できない、ただ勝った方がよさそうだと思った。
勝負を挑まれ、それを受けて立った者の礼儀というのもある。
だけどなんか、あまり嬉しくなかった。
龍はまだ香澄に挑むつもりでいた、貴志もそれは同じだった。
何故、負けてもなお挑みつづけようとするのか? 無駄とわかっていてもやる、それが人間というものだろうか。
そのせいか心(AI)は晴れない。
いや、勝利や心晴れることよりも。
何か、他の何かを求めている。
そう、これならば確実に晴れ晴れする、何か。が今はわからない。
そんな香澄の傍らで、マリーはずっと押し黙って、一緒にコズミック-7を見ている。
コズミック-7が帰ってきた時、飛ぶようにガレージに向かったマリーだったが、香澄の様子を見て何も言えなかった。
何かを言うにしても、後でもかまわないと思い。今は一緒にいてあげようと思った。
優は二人の邪魔になるまいと、家の中で待っている。
峠で何があったのか聞きたいのは山々だが、とりあえずマリーに香澄を任せ。自分はマリーのずっと後で、話しを聞いてやろうと思った。
「マリー」
「なぁに?」
しばらく押し黙っていた香澄は、物憂げな顔でマリーに話しかけた。そんな香澄を見て、マリーは優しく応えた。
何も言わずに、遅くまで外出していたことを叱ろうかと思っていたが。香澄の顔を見て、そんな気も失せた。
香澄もそれついて、何も考えていないわけではあるまいし。
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて、香澄はマリーに謝った。
やはり何も言わずに遅くまで外出していたことを気に掛けていたのだ。
「いいのよそんなこと。帰ってくるとわかっていたから」
優しく笑うマリー。
その優しい笑顔を見て、香澄は胸がしめつけられる思いだった。
ほんとなら厳しく叱られてもしかたないのに、マリーは優しく笑ってくれている。
マリーは香澄を許してくれたのだ。そんなマリーを心配させた自分がなんだか許せなかった。
「さぁ、中に入りましょう。ユウも待っているわ」
そう言うとマリーは香澄の手を優しくとって家の中へと導き入れた。
二階のリビングでは優が椅子に座って香澄を待っていた。
テーブルには煙草の灰皿が置いてあって、それには数本の吸殻があった。
それを見て、煙草を吸うのは構わないが少しは本数を減らしたら、と思った。
「よ、香澄。帰ってきたか」
香澄を見て優は笑いながら。
「峠はどうだった」
と香澄に言った。
香澄は優を見て、そしてマリーを見て、ふとふと思った。
自分には、笑顔で迎えてくれる人がいる。
自分はそんな人達に創ってもらったのだ、と。
それは幸せなことなのだろう。
何を今更、何故そんなことを、と香澄は自分でも不思議に思っていたが。それはまぎれもない事実なのだと思っていた。
これからはちゃんと連絡して、心配させないようにしようとも思った。
だけど、龍のことがトゲの様に引っ掛かる。
あの敵意丸出しの態度、なぜあそこまで自分が許せないのか。
優なら答えてくれるかな。
「うん、峠でMR2と走って、勝ったよ」
香澄は優の真向かいの椅子に腰掛けて言った。
「ありがとう、今日もFD貸してくれて。長い間借りてゴメンね」
言いながら、長い鎖のキーの飾りのあるキーホルダー付きのコズミック-7のキーを優に手渡す。
マリーは香澄の隣に座っている。
「いやいや、いいってことだ。いつも言ってるだろ。お前が乗りたきゃいつでも貸してやる、と。そうか今日はMR2と走ったのか」
優はキーを受け取りながら言い、うんうんと頷いている。
「MR2のドライバーは峠で一番速い走り屋だったみたい」
そう言うと優は嬉しそうに。
「何。そうなのか。じゃあ今日からお前が峠の一番なわけだ」
と、言った。
「峠に来てたった三日で最速を勝ち取るなんて流石だな。やはり香澄に勝てるヤツはいないってことだ」
優は香澄が最速を勝ち取ったことが、本当に嬉しそうだ。
しかしマリーはそれに何の反応も示さない。やはり香澄が走ることをよく思っていないのは変わらない。
それを見た香澄は、マリーを気遣い。龍のことは言わなかった。
マリーがいるそばで龍のことを聞けば、きっと不快な気持ちになるのは間違いなかった。龍のことを優に言うのは、後にしようと思った。
「なぁ香澄」
すると優は、香澄にこんなことを言い出した。
「お前がバトルしたヤツを、オレに紹介してくれないか? お前が相手をするほどのウデを持つドライバーというのが、どんなヤツなのか実際に会ってみたいと思うんだ」
これには流石に香澄も意表を突かれてしまった。
マリーも香澄同様、驚いているようだ。
「ユウ、あなたいきなり何言い出すの」
呆れたように優をたしなめる。
「いや、まぁなんだ。どんなヤツなのか興味が出てな」
マリーに言われ、少しどぎまぎしながら応える優。
香澄も、すぐには何と言っていいかわからなかった。
「まぁ、無理にとは言わないがな」
香澄は少し考えた、そして。
「いいよ」
と、いう応えに優は喜んだ。
「だけど、すぐにとはいかないと思うけど」
「いいんだ。都合の良い時でいい」
「わかったわ」
「そうか、ありがとうな。香澄」
優と香澄の会話を聞いていたマリーは、何か言おうとしたが、やめた。だが、後で香澄と二人きりで話すつもりで。今は言わないだけだった。
「じゃあオレはもう寝るとするか。香澄も帰ってきたことだしな」
そう言うと優は立ち上がり、リビングを出て自分の部屋に向かった。眠たそうに、あくびをしながら。
優が部屋に向かい、残された香澄とマリーもチェックの為、香澄の部屋に向かった。
リビングは、ぱちんという乾いた音と同時に暗くなった。
香澄の部屋。
香澄はいつもと同じように、ベッドに座りうなじのコネクタにコードを接続している。
そのコードは机のパソコンに繋がって、パソコンのディスプレイには膨大な量のデータが写し出されている。
そのディスプレイを見つめながら、マリーがキーボードを叩く。
「今日も異常及びトラブルは無いわ。もうチェックなんて必要ないんじゃないかしら」
冗談めいたことを言いながらマリーが笑う。
「そうね、私もそう思うわ」
香澄もつられて笑う。
「でも念の為にはしておいた方がいいのよね」
「そう、念の為に、ね」
香澄の笑顔を見て、マリーは微笑んだ。笑顔の相乗効果といったところか。
マリーは、何かを言いたかった。だけど、まだ言い出せない。香澄の笑顔を見て、話しを切り出せない。
これを話したら、この和やかな雰囲気が壊れてしまいそうで怖かった。
優がいると、ついついケンカ腰になるか、なぜかやきもちめいた気持ちになるかのどれかだが。香澄と二人でいる時は心が落ち着く。
素直で可愛らしい妹のような存在だと、思っていた。
自分達が創りあげたアンドロイド。そのアンドロイドは、自分達の理想のタイプに創りあげられているのだから、当たり前といえば当たり前か。
創る以上は、理想のタイプに仕上げ、一切の妥協は無かった。
だけど、その香澄が自分が反対しているのをわかっていながら、車で峠を走る。
それが、理解できなかった。
何故、どうして車で走りたいの? それが危険な違法行為でも?
自由意思を持つAIが搭載されている、それを創ったのはマリーだ。なのにそんなマリーでも理解出来ない行動を取る。
香澄、あなたは車に、走ることに、何を求めているの?
それを聞きたい、でも聞いたところで香澄は何と答えるだろうか?
マリーは微笑みながら香澄を見つめている。
香澄も微笑みながらマリーを見つめている。
いつもの光景。
時に疲れ、退屈で、いやと思うプロジェクトの仕事の中で。やっと楽しいと思えるようになった、チェックの時。
マリーは、このチェックの時に楽しさより疲れを感じた。
「マリー」
この時ふと、香澄はマリーを呼んだ。
「え、なに?」
「今日ね、昼から峠にいたの」
やっぱり、とマリーは思った。
優もおそらくは、同じことを考えていただろう。
「昼からこんな夜遅くまで峠にいたの…」
やや呆然としながら、マリーは香澄を見ている。
香澄はうんと頷いた。
「やっぱり。まだ怒ってる?」
静かに、ささやくように言う香澄。
目は、やや寂しそうに曇っているように見える。
「ええ、怒っているわ。普通に考えれば、女の子が夜遅くまで何も言わずに外出するなんていけないことなのよ」
香澄の目を見たマリーも静かに、ささやくように言った。
その後思いなおして。
「いえ、女の子じゃなくても。家族のだれかがそんなことしたら、心配するものよ」
と、言いなおす。
「そうだよね。やっぱりいけないことだよね。ほんとうにごめんなさい」
「もういいのよ。こうして帰ってきていることだし」
マリーはふふっと笑った。
笑うところじゃないような気もするが、何故か笑った。
いやほんとうに、笑うのではなく少しは厳しくしなければいけないのだろうけど。
なんとなく、香澄が昔の自分に似ているような気がして。
そして今、自分が母親に似ているような気がした。
母親もこんな気持ちで自分を見ていてくれていたのだろうか?
それは、今はわからない。
「もしかして今の私が怖いの?」
マリーはまたふふ、と笑った。
今度は悪戯っぽく。
小悪魔という表現があてはまるなら、小悪魔っぽくか。
その言葉に香澄は少し動作が止まった。
「そんなことないよ。ただ悪いと思ったから」
「そう言う気持ちが、怖いって言うのよ」
「そうなの」
「そうよ、怖いっていう気持ちが悪いという気持ちを生んだのよ。あなたは私に心配させるのが怖かったんでしょ。その怖さがまだ残っててるのよ。多分」
香澄にはマリーの言葉がよく理解できなかった。
それに最後に多分だなんて、断言になっていない。
でも、怖いと言われた時。否定しなかった。
悪いと思うから怖いと思う、怖いと思うから悪いと思う。
それはあながち間違いじゃないかもしれない…。
香澄は透き通るようなきれいな黒い瞳をマリーに向けて、まじまじと見ている。
黒い瞳には、マリーが写し出されている。きれいなブロンドの髪も、青い瞳も写っている。
だけど、マリーの真意までは写せない。
笑っている、今は穏やかに笑っている。
全ての笑っている顔が、全ての心の笑顔を現していないことくらい、香澄も知っている。
これが、怖いっていうことなのかな。
黙ったままの香澄から少し目をそらし、ディスプレイに目を移したマリーはキーボードを何度か叩くとパソコンの電源を切り、また香澄に目を移した。
「さあ。もう今日のチェックは終わりよ。どこも異常無し。問題無いわ」
と言った。
香澄は思った。
―問題が起こったら、どうなるのかな私?―
しかし、考えたところですぐに答えが出ないのは、人間の脳と同じだった。ただ、ひっきりなしに靡木峠のワインディングロードが浮かび上がる。
コーナーの向こう、ヘッドライトの届かない闇の向こうに、何かがあるような感覚。向こう側に何があるのかわからない。けれど、それが知りたい。アクセルを開けて、その先にあるものがなんなのか。
それから、昨夜と今夜のことで、AIに付け加えられたもの。
龍と貴志。
浮かび上がるワインディングに、ふわっと、ゴーストのようにMR2とRX-7が現れて、一緒に走っていた。
チェックが終わり、ベッドに入ったときも、それは変わらなかった。
バトルからおよそ二十四時間経った。
峠を突っ走る二台のマシン。
黒いMR2、青いRX-7。
パープルメタリックのコズミック-7が前を走るイメージ。
どうしてもそれが付きまとっている。
追いかけても追いかけても、追いつかない、届かない。
この二台が走ると誰も走らなくなった。
さっきS13シルビアが、RX-7にガンガンにアオられた。
そのS13シルビアも今は停まって、二台の走りを見ている。
皆、車を停めていた。
なんだか、この二台が皆怖かった。
二台はそんなことお構い無しに走っている。むしろその方が、峠が空いてて走りやすい。
昨日、峠の最速の走り屋が変わった。
源龍から一条香澄へと。
その一条香澄はまた来ると言ったのに。
来ない。
今夜は来ていない。
―なんでだよ!―
MR2のドライバー、源龍は心の中で叫んでいた。
ステアを握る手に力がこもる。
目が、獲物を狙う狩人の目になっている。
だけど、前には何もいない。
狂ったように愛機を走らせている。
エンジンもタイヤも狂ったように悲鳴を上げている。
その時、他車とすれ違った。
香澄か!?
と思ったけど、それはRX-7だった。
龍は苦々しく舌打ちをした。
RX-7のドライバー、井原貴志も同じように香澄が来るのを待っている。
だけど、来ない。
―今日は来ないのかな? 三日連続だったから、今日ぐらいは休んでいるのかな。―
そんなことを考えながら走っていた。
そんな貴志と龍は何日も連続で峠に来ている。
この三日の間、コズミック-7と香澄は峠を荒しまわった。
瞬く間にやってきては、暴れまわりすぐどこかへと行ってしまう。竜巻のように。
おかげで峠はまるっきり変わった、かと思ったけど。
香澄がいなければ、いつもと変わらない靡木峠の夜だった。
来るヤツが来て走る。
それだけのことで、峠の夜は、こうして終わっていった。
何の変化も無いまま。
香澄は峠に来なかった、それは香澄自身がメンテナンスをしていたからだった。
香澄といえど完全ではない、機械で出来た体である以上はメンテナンスを免れる事は出来ないことだ。
そしてそれを担当するのが、潮内優の仕事だった。
広い家だけあって地下室もあり、この地下室は香澄のメンテ専用の部屋として使用されていた。
SF映画さながらメタリック調のメカニカルな内装で、専用の機械やパソコンが整然と置かれている。
部屋で一糸まとわぬ姿の香澄をベッドに寝かせて、接合部分を外し部品を新品と取り替える。と書けば簡単だが、これが実に神経を使う仕事だった。
きちんと部品を取り付けなければ誤作動を起こしかねない、というか絶対起こして香澄が完全に損壊するからだ。
絶対避けなければならないことだ。
下手をすると自分のせいで、今までの仲間達との苦労、香澄を製作するために使われた莫大な費用が全てパーになってしまう。
考えただけでも恐ろしい。
だから気が抜けない、もちろん手も抜けない。
なによりこの時の香澄は裸だ。
端から見れば、猟奇的な人体実験でもしているように見える。
まるでフランケンシュタイン博士の実験だな。と、ドイツにいたころは仲間とそんな冗談を言い合っていた。
しかし今は一人、しかもマリーからは、変な気を起こすなといつも言われて少し空しい気持ちもあった。
何が悲しくて自分らが創ったアンドロイドに手を出さなきゃならんのだ、といつも言い返してはいるが。
自分の持つ技術を、つまらない欲望を満たす為に使うなどという。レベルの低いことに使いたくはない優であった。
だから香澄の裸を見ても何とも思わない。
で、何故メンテをしているのかというと。
別に香澄には悪いところも故障個所もない、が定期的に部品を新品に交換しなければならないように決められている。
これは常に香澄をベストな状態にする必要があるからだ。
異常がなくとも古い部品はトラブルの元になりやすい、それを未然に防ぐ為に定期的に部品を交換し、常に新品同様のコンディションに保ってやる必要があるというわけだ。
新品の部品も精密検査に検査を繰り返し、100パーセント信用できる物のみを使用している。
それは本拠地のあるドイツから送られてくる。
それをまた優が検査して、良ければ使うというシステムだ。
新品の部品の検査及びメンテナンスを一人で任されている優に、いかに高い技術があるかというのがわかるというものだろう。
機械というのは。必要であればあるほど、重要であればあるほど、完全に信用してはいけないものなのだ。
常に壊れる事を想定して、万が一に備えなければならない。
それは香澄が持って生まれた運命だった。
人間によって創られ、人間によってもたらされた運命。
機械は意思の有無に関わらず、それに従わなければならない。
今の時代は、だが。
定期的なメンテナンスが終わった時、香澄はいつもの笑顔を優とマリーに見せるのだった。
そして、優やマリーは香澄に全体的な信頼を寄せる。
なんだか矛盾している、と思いつつ、優は自分の仕事に没頭していた。
翌日、よく晴れた昼下がり。マリーは街にショッピングに出掛けた。
マリーは車を持ってないので、自転車で行った。
自転車は、ドイツから持ってきたお気に入りのマウンテンバイクだ。
ナップサックを背負い。ブルーのジージャンにジーパン、スニーカーというラフな恰好。お気に入りのサングラスをかけて。
ブランドものの、高そうなサングラスだが。それがまたよく似合う。
マリーは美人だが、サングラスが似合う理由はそれだけではなかった。
ブランドものをかけているという気負いはなく、日常に使うアクセサリーという感じで使っていた。
だからこそ、うまくマッチして不自然さがない。
真面目なマリーだって完全にカタブツと言うわけではない、時には気軽な恰好で気軽に気晴らしに一人で出かける事もある。
特に最近は色々とあってなおさらだった。
風を切り、頬を撫でてゆく春の風が気持ちいい。
ペダルを踏む足取りも軽く、自転車はすいすいと進んでマリーを運んでくれる。
この街に来たばかりの時は、地図を持っても迷子になることがたびたびだったし、なにより外国の見知らぬ街という気負いもあって積極的な行動が取りづらかった。
もっともマリーは日本語が堪能なので、言葉の壁にぶつかることがなかった。
ここに彼女の賢さがあった。
学校やテキストでは教えてくれそうも無い日本語も、不本意ながら優からいつのまにか覚えていたりもした。
そして、今はもう慣れて迷う事はないし積極的に行動できる。
どこかの店に入って、欲しいものがあったら迷わず店員に声をかけるなり商品をレジに持っていくなりして商品を買うことができる。
なんでもない当たり前のことだが、マリーにはそれが嬉しかった。
今では常連客として名前も覚えてもらっている店もあるくらいだ。
人口の少ない地方都市といっても、やはり中心街ともなると活気に溢れ、人の往来も多く自転車といえども油断はできなかった。
さすがに人が多くなって、マリーは自転車をおりて手でついていく。
自転車をつきながら、様々な店がのきを連ねる商店街ではウィンドショッピングを楽しんみながら。いろいろなことを感じ、考える。
日本の首都東京をはじめとする主要な大都市に比べれば、高いビルもなく。空を見上げる以外に上を向くこともない。
すぐ向こう側には山が見えていて、この街から出る事はすなわち山を登るかトンネルをくぐる事を意味していた。
ともすれば街の中にぽつんと山が盛り上がっているのもあった。
南側の山を通るトンネルを通りぬけると、すぐ海だなんてとっさには思えないほど山がこの街を取り囲んでいて。北の山には香澄が走りにいっている峠道が走っている、と思うとやや憂鬱になってしまう。
しかし、今はそれを忘れる為にお出かけをしているのだから、この際それは記憶の片隅にしまっておこう。
そうしているうちに人が少なくなったので、マリーはまたマウンテンバイクにまたがって走り出す。
すれ違う人々は皆、マリーに注目していた。
サングラスのよく似合う美人の女性が、颯爽とマウンテンバイクを駆るさまは絵になる。
しかも、言葉は悪いが、本場の外国人女性ときている。
女性からは羨望の溜息、男性からは憧れの眼差しが、マリーに気付かれないように注がれる。
貴志は勤め先のCDショップにいた。
そのCDショップは全国規模で展開している大手CDショップだった。
最初はアルバイトだったが、真面目な仕事ぶりが評価されて。今や正社員として働いている、おかげでRX-7に回せるお金に余裕が出てきて良かった。
正社員に登用されるだけあって、胸にショップの名前の刺繍ある紺色のデニムシャツが様になる。
最近はCDを取ってもちゃんと元に戻さないマナーの悪い客が多くて困る。今もCDの整理整頓をしている。とは言うものの、走り以外に音楽が好きな貴志にとってここは理想の職場と言ってもよかった。
そういう所で働けて良かったと思う。
貴志は音楽が好きで、特に洋楽をよく聞いていて、本気で走る時以外はRX-7にはいつもなにか音楽をかけている。
そういえば最近外国人女性の客がよくやってくる。最初は戸惑ったが、日本語も上手く丁寧で柔らかな物腰で、すぐに打ち解ける事ができたのだが。やはり今でも少し緊張する。
もろツボにはまる好みのタイプ。知性的で優しそうで暖かな感じのする年上の女性、これが貴志の好みのタイプだ。面と向かうとドキドキして上手く話せない。なんか情けね、と思いながらも貴志は今日も彼女が来るのを待っていたら。
自動ドアの開く音。
「いらっしゃいませー」
という店員の声。
もちろん貴志も言った。
そして客の方を見れば、彼女が来たのだ。しかもこっちの方にやって来る。
き、来た……。
なんとか心を落ちつけながら、貴志は自分の仕事に集中しようとする。
サングラスを頭にのせながら製品棚のCDを物色する女性客、マリー。
マリーはよくこの店でお気に入りのCDを見つけて買ってくることが多い、それはこの街にしては珍しい品揃えの良さからだった。
特に洋楽が充実している。日本のポップスも好きだが、やはり幼いころから慣れ親しんだ洋楽の方が耳に心地良いし、国籍別コーナーもあって、昔からひいきにしている同じドイツの歌手の曲もここにいけば置いている。だからCDが欲しい時は、自然とこの店に向かってしまう。
ここらへんのところは大手ならではだった。
今貴志がいるのは洋楽のコーナーだった。
「いらっしゃいませ」
貴志はなんとか声を整えながら言った。するとマリーは貴志の方を向いてニコっと笑った。
よっしゃー。
心の中でぐっと拳を握り締め一人感激する貴志。
「こんにちは。イハラさん」
「こんにちは。いつも当店をごひいきにして下さって有り難うございます」
貴志は営業スマイルとは別の、心からの笑顔でマリーに応えた。
マリーは、よくオススメはありますか? と店員に声を掛けているうちに、店員の名前を覚え店員もマリーの名前を知っているほど、親しくなっていたりする。
「このあいだ薦めてもらったのすごくよかったわ。聴いててジーンとしてきわ」
「そうですか。そう言ってもらえると嬉しいです。お勧めしてよかった」
「またいいのがあったら教えてね」
「はい、もちろん」
マリーと会話できる喜びを噛み締めながら、貴志は笑顔で対応する。マリーも貴志の薦めたCDがよかったので機嫌がいい。
うーん、やっぱりマリーさんはキレイだな~。頭にグラサンのっけてるのなんてカッコイイ、こういう人を恋人したいな。
と、ちょっぴり妄想に浸りもする。
「え、私の顔になにかついてる?」
マリーが悪戯っぽく笑うと、貴志は慌てて現実にもどり。
「あ、いえなんでもないです。ごゆっくり」
「うふふ、ありがとう」
「いつもサングラスをしてますね。とてもお似合いですよ」
「あら、お世辞が上手いわね」
「いえ、本当ですよ」
「そう。これ気に入ってるの。ありがとう」
他の店員にジト目で見られているのに気付かずに、貴志は一人ご満悦だった。
そんな貴志はいつかきっとマリーをドライブに誘いたい、と思っているのであったが。車があんな走り屋仕様では、とても女性を乗せられない。真面目そうなマリーがそんな車を気に入ってくれるとは思えなかった。
そして一人勝手にジレンマに陥っている貴志であった。
マリーはなにかCDを見つけたようで一枚手に取った。パッケージの中で美しい女性歌手が微笑んでいる。
「キレイな人ね、歌声もキレイそう」
「あ、この歌手の歌、僕も聞きましたよ。ええ、キレイな声ですよ。これ絶対オススメですよ」
すかさず貴志は飛びつくように言った、満点の営業ならぬ素のままのスマイルで。
「そう。それってお店の常套句よね」
「いえ、そんなことはないですよ。ホントにいいですよこのアルバム。僕自腹で買って聴いてるんですから間違いありません」
少し意地悪な突っ込みにやや苦笑しながらも、貴志は曲の解説を始めた。
マリーは貴志のそんな熱心さに打たれCDを購入することを決めたのだった。
「そうね、イハラさんの薦めてくれたCDはみんなよかったものね、きっとこのアルバムもいいんでしょうね」
マリーはくすっと笑った。
「じゃあ、これ買っていくね。ありがとう」
「いえいえ、こちらこそお買い上げ有り難うございます」
頭を斜め四十五度下げる。
それじゃあ、と笑顔で回れ右してレジに向かうマリー。
貴志の目線はいつの間にかマリーのヒップに移っていた。きゅっと引き締まって、いい具合に弧のラインを描いている。
はっとして、いかんいかんと頭を振る。
そしてさらにジト目で見られる。
貴志はレジの店員の有り難うございましたー、と言う声を合図にまた仕事に戻る。
マリーは他の買い物をするため街を散策するのであった
マリーが留守にしている間、香澄はガレージでコズミック-7をメンテしている優のそばにいた。
昨日香澄のメンテをして、今日はコズミック-7のメンテと機械づくしだったが。優にとってこの時が一番幸せなときだった。手や服がオイルで汚れようが構わない。
優はどちらかというと、乗り手よりも造り手として車が好きなタイプだ。
今、20Bエンジンからプラグを抜き取り、じっと睨みつけている様はなにか乗り移ったようでもある。
そんな時は香澄は声を掛けない、声を掛けるのはメンテの合間にしている。集中している時に声を掛けるのは、なんだか悪い気がする。
優が作業を中断するまで長かった、その間香澄はずっと待ちつづけた。
そしてやっと一段落終えた。
「よう、オレのメンテがそんなに心配か」
優は笑いながら言った。
「そんなことないよ、いつ見てもいい手際だねと思って」
「お世辞が上手いな。いつそんなの教えたっけ?」
「お世辞じゃないよ、ホントだよ。おかげで私もなんの異常も無いし」
二人は笑った。
お互い笑い合えることが出来る事はとてもいいことだ、と最近香澄はそんなことを考えるようになっていた。
ふとふと香澄はなにか思った、優にその思う事を言った。
「あのね、優」
「ん、なんだ?」
優は、いきなり神妙になった香澄にはてなと思いながら。煙草に火をつける。
「MR2のドライバーだけど、彼はまだ私とやる気でいるわ。この間私とバトルして負けたのに。FCのドライバーも私のことを認めてくれているみたいだけど、彼も同じように私と走る気でいるわ」
それを聞いて優は一瞬動きが止まった、がすぐに。
「まぁ、そういうヤツらなんだろな」
「そういうヤツら? って」
「速いドライバーが現れて、それをそのまま放っておけない性分だってことだよ」
「自分より速いのが分かっても?」
「ま、自分より速いヤツが嫌いなのさ。意地っ張りなんだろうなソイツらは」
「やっぱり嫌いなんだ、私のこと」
「ん、嫌われているのか? お前」
「うん、MR2のドライバーには特に」
「なんでまた嫌うんだお前のこと」
「始めからそんな感じだったけど。この間私に負けたからね…。それでいっそう私のこと嫌いになったみたい」
「ふん、なるほどな」
優は可笑しそうに笑った。
「話しを聞いてると、MR2のヤツは勝っても負けても同じだろうよ。自分以外の走り屋が速く走るのが気に入らないんだよ」
「そうだと思うけど、私はそんな気持ちになったことなんかないな」
「それ以前に、お前とタメはれる人間が少ないからな」
「そうだね」
今度は優だけ笑った。
香澄は押し黙っていたが、ふと思うことを口にした。
「やっぱり、わからないな私は。わかりたいなら走るしかないんだよね」
と、すこし物憂げな顔で笑った。
以前貴志の追い抜きを優に言った時の、優の言葉がAIの中の記憶に鮮明に甦る。
「そうだな。こればっかりは口で説明するのはオレでも難しい」
「どうしようか? FCのドライバーはともかくMR2のドライバーは簡単にはこっちに来てくれそうに無いと思うけど」
その時、意味ありげに香澄は悪戯っぽく笑った。
それを見て優もつられるように、意味ありげな笑みを浮かべる。
「じゃ、オレを峠に連れて行ってくれ」
ガレージでそんな会話がされているとも知らず、マリーは家に帰りつくやいなや、早速紅茶を点てて、自分の部屋のオーディオをセットし貴志に薦められたCDを聴いていた。
貴志の言う通り、軽快で爽やかな女性ボーカルのいい歌だ。
自分で入れた紅茶をすすりながら、耳に入ってくる歌声に聞き惚れ、マリーは至福の一時を過ごしていた。
優と香澄はガレージでなにやらやっているようだが、その時はマリーは取り合わないことにしている。ガレージにいる二人の話には到底ついて行けないからだ。
折角のいい歌を香澄にも聴かせてあげようと思ったのに、そう思うとちょっと残念だったがまぁいい。
またの機会に聴かせてあげよう。
とは言うものの、やはり早く聴かせてあげたい。
いつガレージから出てくるのやら。
それと夕食は何を作ろうか。
食事を作るのはマリーの担当になっていた。
これは何もマリーが女性だから決まった、のではなく。優の作る食事が不味かったのだ。最初は一日交替だったが、これではどうしようもない。
だからマリーが食事を担当することになってしまったのだ。
幼い頃から、手伝いでマリーは自分で食事を作っていたから料理はお手のものだ。がしかし、優は自分で食事を作らずに適当なもので済ましていたので。全く料理が出来ない。
メカに強い優だが、料理はカラキシだめだった。
ともかく今はいい音楽にめぐり合えた喜びに浸っている。
時折指でリズムを取ったりしている。
イハラさんって音楽を選ぶするセンスがいいわね、と。イハラさん様様だった。
「で、FC使いの方はそんなにいい人だったのか」
「うん」
「うん、って。さらりと言うなぁ」
「だってホントだもの。話し方も丁寧で物腰も柔らかくて。一見しただけじゃ速い走り屋ってわからないんじゃないかな」
「そうなのか。人は見かけによらないんだな」
優と香澄、この二人は貴志の事を話していた。
同じロータリー使いとして優が興味を示した事もあるし、香澄を認めてくれているということがなんだか嬉しかったりする。
しかし話を聞いてみると、想像とはかけ離れていたのでちょっと驚いてもいた。
わりかしフツーの良いヤツだ、と。
昔の、優が現役のころは。いくらかスネに傷のあるヤツが走り屋をしていたのだが、今はこういうフツーのヤツが走り屋をしている。
時代も変わった、ということか。
なんにしてもソイツは話のわかるヤツかもしれない。
問題はMR2のドライバーだ。
話を聞くと、小生意気なガキがと思えて仕方なかった。と言っても、かつては自分もそんな時があったのだから、人のことは言えない。
ま、なんにせよ龍と貴志、この二人に興味がわいているのは事実だ。一度くらいは会って話をするのも悪くないかもしれない。
と言う事で、今夜靡木峠に一緒に行くとこが決まった。
問題があるとすれば、今夜行ってその二人がいるかどうか、だ。
「カスミ」
ふとマリーの香澄を呼ぶ声が聞こえた。
「いつまでこんなところにいるつもりなの?」
「こんなところとはご挨拶だな」
マリーの余計な一言に優はカチンと来る。
「私はあなたと話しをしに来たんじゃないわ。カスミに用があるのよ」
マリーは優をさらりと流して、香澄に呼びかける。
「え、何かあったの?」
「ええ。今日も良いCDを手に入れたから、カスミに聴かせようと思ってね」
優の時とはまるで別人のような笑みのマリー。
最初はガレージから出るのを待っていたのだが、長くなりそうな気がしたので自分の方からガレージに向かったのだ。
「今日もCD買ったんだ。マリーもほんと音楽が好きだね」
「ええ、大好きよ。とってもいい歌だから早く聴かせてあげたくてね」
「まるで子供みたいね」
「そうね、まるで子供みたいね。私ったら」
香澄の突っ込みにマリーは少し恥ずかしそうに笑う。
それを優は呆れたように見ていた。
きっと心の中では、こんなもの乗るよりずっといい、と思っているんだろうな。と、考えていた。
マリーにとってこのコズミック-7は騒音と排ガスを撒き散らし、燃料を必要以上に消費させている公害車にしか見えなかった。
それをここで言わないのは、香澄がこのコズミック-7に乗っているから気を使って言わないだけで、もしそうでなければこの車をとことんまでに非難やるところだ。
実用性もない上に、ただでさえロータリーエンジンは燃費が悪いのに、この20Bはさらに悪いときている。
取柄はパワーとスピードだけ。
そんなモノ、人類が生きていく上で全然必要じゃない。
だけど、香澄はそれを必要としている。
香澄だけではない。優をはじめ、他にもそんなモノを必要としている人間もいる。
その感覚がマリーには理解出来なかった。
理解出来ないからと言って、それだけの理由で非難するつもりは無いけれど。
でもそんな人達もいつかきっと、自分の間違いに気付く時が来るとマリーは信じていた。
「どんな音楽なの、マリーが聴かせてあげたいって言うんだからきっといい音楽なんでしょ、ね」
「ええ。正確には私じゃなくていつも行ってるお店の店員さんのお勧めなんだけどね」
「そうなんだ、お店の人が薦めてくれるんだ」
「そうよ。とってもいい人なの。センスもいいし、あの人のおかげでお気に入りの音楽の範囲が広がったわ」
「ふーん、いいお店なんだね」
和気あいあいな香澄とマリー。
優は腕を組んでこの二人を見ていた。
仲の良い姉妹みたいで良い雰囲気だ、と。
思うに、自分よりもマリーの方が香澄の教育係にピッタリだ。
同じ女性だというのは、やはりこういう時に最大の武器になる。
優は、香澄への自分の役割はあくまでメンテであって、それ以上のことは踏み込んではいけないのかもしれない。と思っていた。
香澄が香澄でいること。
それだけで十分だった。
そんな香澄はマリーの焦っているような子供っぽい様子に可笑しさをおぼえながら、聴かせてくれるという音楽に興味を持っていた。
香澄がまだ香澄と呼ばれる前。AIプログラミングの意識体だったころ、よく聴かせてくれていた。
正直聴いているだけでは何がどう良いのか分からない。
ただ、それを聴く人間達はとても幸せそうだった。
音楽は人間の感情に、脳におおいに影響する。
だから、AIも同じように音楽を聴いてなんらかの反応が出るようにしよう、と皆が香澄に音楽を聴かせてくれた。
その方がより人間に近くなるかもしれないと言う事で。音楽を聴いて、なにか思うようにしてくれた。
今香澄は、マリーと一緒になって音楽を聴いていた。
耳から入ってくるサウンドが、香澄のAIを刺激したり優しく包みこんだり、香澄の気分を良くしてくれる。
どういう音が耳に心地よく、どういう音が耳障りか、今はそこまで分かる。
今聴いている音楽=音は耳に心地良い。
マリーはとても幸せそうだ。
優から香澄を取り戻した、といった感じだ。
香澄と同じ音を共有できることが嬉しそう。
でも、コズミック-7の音は香澄が心地良く感じても、マリーには耳障りだ。
この音の良さを共有できるのは。優と、峠の走り屋達だけだろうな。ふとふと香澄はそんな事を考えた。
さてと、今夜なんて言って峠に行こう。
マリーは、そんな香澄を見ながら一つ決意をしていた。
とても重要な。でもまだそれは秘密だった。誰にも言えない、香澄にも。
もっと重要なのは。いつそれを明かすか、だった。
龍は、仕事をしていた。
さっき四〇二号室の患者が看護婦にセクハラまがいな事を言ったので、それを注意したら。その患者はぷいっとそっぽを向いて、謝りもしないのでムカっときたが、グっと堪えて。
「もうそんなことを言ってはいけませんよ」
と、一言付け加えて病室を去って行った。
「ごめんなさい、源クン」
さっきセクハラまがいなことを言われた看護婦が、龍に謝りに来た。
「いやいいんだよ。気にしないで」
なんだかそっけないが、少しだけ目は笑っている、ようにした。
「まったく、ここをどこだと思っているんだか」
苦笑しながら、龍は看護婦に言った。いつものことながら、この患者を受け持つ看護婦に同情を禁じえない。
入院生活が退屈で仕方ないのは分かるが、だからと言って看護婦にいやがらせをするのは間違っている。
病気に侵された体をきちんと治すためには、仕方の無いことだ。それくらいは承知してもらわないと。
そんな事言っても、仕方ないのだろうけれども。
龍はさっきの看護婦と別れると、婦長がやって来た。なにをしているの、点滴の時間だから用意して。
と告げると、足早にどこかに行ってしまった。
背中が忙しい忙しいと言っている。
龍はこれまた足早に点滴の準備に向かった。
しかし歩く速度は他の看護婦の方が速かったりする。
特にベテラン看護婦の歩くのが速い事速い事。
これが車ならオレが一番なんだぞ。
と、冗談めいたことを考える。
そんなこんなで、龍の仕事は終わった。
そう、龍の仕事は看護士なのだ。
女性の多いこの職場で、龍は数少ない男だった。
その苦労は言わずもがな、ハッキリ言ってストレスが溜まる。しかし、患者が元気になって退院するのを見ると、いくらか救われた気になる。
それに給料もそこそこにいい。
それでも辛い時が多いのが、この仕事の泣き所だった。
それに女性が多いからと言っても、ハーレムではないので別に色恋沙汰は全く無い。
まぁなにはともあれ、今日も仕事はなんとか終えた。
病院を出ると、もうすでに日は落ちあたりは暗くなっている。
「おつかれさまでしたー」
という声がちらほらと聞こえ、龍の声もその中にあった。
「やー、源。今日も大変だったね~」
龍の同僚の看護婦、東雲美菜子が家路についている龍に話しかけてきた。
彼女とは途中まで一緒だから、よくこうして話しながら帰るのだった。
ちなみにMR2は駐車場で一休みだ。通勤帰宅は龍は歩きだ。
「うーん、大変だった、ホントに。特にあの四〇二号室のオヤジのスケベ癖にはほとほと困ったもんだ。今日も中田サンがやなこと言われたし」
溜息交じりで龍は応える。
「マジで!?」
「ああ、大マジ。中田サン半泣きだった」
「中田サンほんとに可哀想」
「そーなんだよ。あれが患者じゃなかったら、ぶっ飛ばしてやるぜ。全く」
「じゃやれば」
「出来るか! それが出来れば苦労しないって」
また溜息をつく龍を見て、彼女はあははと笑った。
ちなみに彼女、少し幼い感じがするが。龍と同い年で、これでも人妻、一児の母。
よく学生と間違われるのが悩みの種だ。
龍とは何とも無い、ただの同僚。
新人のころから仲が良いというか、何故か気が合う。
一時はデキている、と噂されていたが。彼女の結婚でそんな噂はあっけなくすっ飛んでしまった。
そうでなくても、龍にとってまた美菜子にとっても、お互いに本当にただの気の合う同僚でしかないのだけれど。
「ところで源さぁ。今夜は暴走しないの?」
この言葉に、龍はがくんと頭をうなだれた。
「暴走って……」
「だって暴走じゃん。車改造してかっ飛ばしてるんだから」
龍が峠の走り屋をしているのは、職場では周知の事実になっていた。最初は隠していたが、美菜子にバラされてしまったのだ。
仲の良い美菜子にだけは言っていたのだが、うかつな事を言うもんじゃない、と龍は後悔したが遅かった。
おかげで、まわりからは暴走看護士呼ばわりされている始末だ。だから今は、あまり峠だとか、車のことは言っていない。
香澄のことはおろか、貴志のことも美菜子は知らないが。別に興味も示さない。
「まぁそう言えばそうだけどな…。今夜はやめとく、少しは休まないとな」
「最近よく行ってたみたいじゃない」
「まぁな。でもいくらオレでも、いつもいつも行けないよ。おかげで睡眠不足さ……」
「医者ならぬ看護士の不養生ってやつだね。それじゃ」
「ああ、仕事中に倒れてそのまま入院なんてシャレにならんからな…」
「そーだよねー。病気看る方が看てもらっちゃダメだよねー」
美菜子は可笑しそうに笑った。
愛嬌のある笑顔だった。彼女の陽気な性格は多くの患者から親しまれ、それなりに人気があった。
感情を押し殺し、純粋に看護する者として仕事をしている龍とは正反対だ。性格上、美菜子のように陽気に振舞えないタチだった。
話しながら歩くうちに、十字路にやってきた。
「じゃお疲れー」
そう言うと美菜子は十字路を右に曲がると、たたた、と小走りで自宅へ向かった。
龍はあまり気に止めず、そのまま歩いて自分のアパートに向かう。
ふと夜空を見上げる。
だからと言ってなんにも無いのだが、なんとなく星空をしばらく眺めていた。
「やっぱり行くか…」
scene6 終わり、そして始まり 了
scene7 本気 に続く