scene4 敗北と勝利
貴志は運転席の中で、大きくため息をついた。
負けだ、完全に自分の負けだった。
香澄は貴志のスピンに気づいていないのか、そのまま行ってしまったようで。暗い峠道に一人残されてしまった。
誰も居ない、静かなこの峠の本来の姿を垣間見た。
森のざわめきや風の囁きが聞こえそうだ。
ヘッドライトを消せば、あたりは真っ暗闇になるのが今更のようにわかった。
なんだか急に寂しく空しい気持ちになった。
さっきまでの喧騒とスピードはどこへ行ってしまったんだろう?
ふと気がつくと車内が熱い、いや自分の体が熱いのだろうか、体が火照る。
その火照りも徐々に冷めてゆく、なんだか寒くなってきた。
耳を済ませば、13BTのアイドリング音が低く響いている。
低い音の響きがはっきりと聞こえ、それがかえって静けさを際立たせてるみたいだ。
幸いエンジンは動いている、スピンの際うまくクラッチを切ってエンストを回避できたようだ。
どうやら、どこもぶつけていない。
ホッと一息をつき、自分は大丈夫なんだとやっとわかった。
ギアを一速にもどし、スピンターンで車を元の向きに向きなおすと、ゴール地点に向かってRX-7を走らせた。
そのころゴール地点の西側駐車場では、龍は二台の帰りを待ちわびていた。
二台に何があったか気になってしょうがない。
エグゾーストノートとタイヤの音が聞こえたと思ったら、一台スピンするような、悲鳴にも似たタイヤの音が聞こえたからだ。
そうしているうちにも、コズミック-7が帰ってきたが。貴志のRX-7の姿は無かった。
「戻ってきたのは香澄ちゃんだけだ。貴志はどうしたんだ?」
心配そうに誰かが声を上げた。
コズミック-7は控えめなゆっくりしたスピードで、西側駐車場に入ってきた。どうやら貴志がスピンをした事に気づいてるようだった。
適当な所に車を停め、香澄がコズミック-7から降り。それを見て、龍は香澄のもとまでゆく。
大勢のギャラリーが龍と香澄を遠巻きにして見ている。
「ゴールしたのは香澄だけか、貴志はどうしたかわかるか?」
開口一番、香澄に貴志の事を聞いた。
「FCはスピンしたわ」
「やっぱりそうか……」
龍が渋い顔をしていると、貴志のRX-7が戻ってきた。どこにもぶつけてないようで、龍はその姿を見てほっとしたように溜息をついた。
そうこうしているうちに、RX-7も駐車場に入ってきて、貴志も香澄のもとまでやってきた。
疲れ切った顔に、ギブアップ、と書かれていた。
「やっぱり君は速いね。おめでとう、と言っておくよ」
「ありがとう」
ありがとう、とは言うもののなんだか実感のこもってないありがとうだった。
だが貴志には、そんなことに気づくゆとりは無くなっていた。
龍は気づいていたが、表には出さなかった。
「スピンしたようだが。車はなんともなかったのか?」
龍から言われ貴志は小さな声で。
「ああ、大丈夫だったよ」
といい、溜息をついた。
敗北感に加えスピンで滅多打ちにされ、スタート前のやる気はとうの昔に失せてしまったようだ。
「ところで、ひとつ聞きたいことがあるんだけど。いい?」
「ん、なんだい?」
貴志は香澄に向き直った。
「どうしてあそこで、あんな危険な真似をしてまで私を抜いたか聞きたくて」
「どうしてって。そりゃあ、勝ちたかったからだよ。でもやっぱり危ないよね、ごめんね……」
「別に謝らなくても、気にしてないから。ただ、あんな危険をおかしてまで勝たなければいけないものなのかどうか聞きたくて」
「意地があるからね。前に出られたままゴールするなんて、できないだろ」
なんでそんな事聞く?
といいたげに貴志は香澄を見た。
「意地?」
「そう、意地だよ。でも、そんなえらそうな事言えなくなっちゃったけどね」
貴志は寂しそうに笑う。
そんな貴志を見て、香澄は優の言っていた言葉を思い出していた。
人間ってのは何するかわからない。
この場合は、意地が貴志にそうさせたのだけど。もしあれでクラッシュしていれば、どうなっただろう。
貴志の言う意地とはなんだろう。
その為には危険も顧みないというのか。
だけど、それに見合う価値のあることをしていたのだろうか。
少なくとも、貴志にとってはそうなのかもしれないけど。
「一条香澄」
龍が、香澄を呼んだ。
「次はオレの番だ。わかってるよな」
「わかってるわ」
相変わらず香澄を敵視する眼差し、今までこんな眼差しは受けた事が無かった。
香澄の速さをまだよく知らないのか。いや、知ったところで龍は変わりそうに無い。自分より速いヤツは敵、それが龍なのだ。
「次はいつにする?」
「いつでもいいと言ったでしょ。明日にでも」
「明日か。ああ、いいぜ。じゃ今日と同じ九時に」
「わかったわ」
言い終わると、香澄はコズミック-7に乗り込んだ。
「それじゃあ。もう帰るね」
「うん、気を付けてね」
香澄を相手に、気を付けてなんて言わなくてもよさそうなものだが。別れの挨拶として貴志はつい言ってしまった。
「うん。ありがとうね、貴志」
香澄は、貴志のそんな親切な部分に好意を持った。少しだが笑顔も見せた。貴志も笑顔で返してくれてた。
負けたというのもあるだろうが、もう香澄を敵視していない。一人の走り屋として、香澄を見ている。
それが香澄には、なんだか嬉しかった。
ただ、龍は何も声を掛けない。
その目は言っている。
オレは絶対負けない、と。
その態度は気に食わないが、期待してもいいということか。
香澄はそんな事を考えながら、コズミック-7を発進させ。駐車場を出て家路についた。
バトルが終わり香澄が家に帰った後、駐車場にいたギャラリーも家路につき、他の走り屋達は思い思いに走っていた。
そんな時、スタート地点でスターターをつとめためた智之がやってきて。龍と貴志と話しをしていた。
もうバトルの結果も、明日龍と香澄がバトルをするのも、二人から聞いて知っていた。
「まぁだけど、一度でも抜いたんだからすごいもんだよ。貴志」
智之は貴志を褒めちぎった。
バイクの頃あんなに遅かった貴志が、コズミック-7では速く走るばかりか、あのモンスターマシンと互角に渡り合ったのだから。
人は変わるもんだ、と思わずにはいられなかった。
もっとも龍は、貴志のバイク時代を知らないのでよくはわからないが。
「いや、でも負けは負けだよ」
貴志ははにかみながら、戸惑いながら応える。負けた身で誉められても、素直に喜べない。
「謙遜するなよ貴志。また次やるまでにテク磨いておけば、勝てるかもよ」
そう言うと智之は笑った。貴志がどんなに化けるのか楽しみだった。
「それはそうと智之、明日のバトル」
「わかってるよ龍。スターターはオレに任せろって」
昨日バトルが決まった時、智之は進んでスターター役を買って出た。普段そんなことはしないが、仲の良い貴志がバトルをするのならと。
そして龍にも、自分をスターターとして使うように頼み込んだのであった。
一大イベントで美味しい所をゲットしたいというのが、最もな理由だった。なんとも抜け目のない男である。
「だけどさ、龍。あのFDはスタートダッシュすごいぜ。貴志のFCをあっと言う間にひきはなしてたかんな。それを抜くのは大変だゾ」
智之は貴志の肩をぽんと叩き。
「なぁ貴志」
と笑った。
「ん、まぁ。大変だったよ……」
貴志は困ったように応えた後、溜息ひとつつく。
「気を付けろよ、龍。あのコは全くミスをしないんだ。ほんとうにささいなミス一つなくあのモンスターマシンを操っているんだ」
貴志はバトル中、香澄の走りを思い出していた。
今思い出してもぞっとする、なぜあんなに正確にマシンを走らせる事が出来るんだ?
それが不思議でしょうがなかった。
貴志の話を聞いても、にわかに龍は信じられなかった。
「マジかよ?」
「ああ、マジだ」
「だけど、お前一度抜いたんだろ」
「抜くには抜いたけど、あれはオレが無理矢理インにねじ込んだからなんだ。そうでもしなきゃ抜けっこなかったんだ。下手すりゃあのコも巻きこんでたよ」
「要するに食らいつくだけ食らいつくしかないってわけか」
龍は明日のバトルのことを考えていた。
予想していたとは言え、貴志の話を聞いてやはりというかなんというか、かなり手強い相手である事には変わりなかった。
ミスをしない、正確なドライビング。
厄介な相手だ。
どうやって勝つ?
あの直線に出るまでに、香澄の前に出て引き離すにはどうすればいい?
だが考えた所で答えは出なかった。
それがわかるのは、明日の今ごろだろうが。走ってみなければ分からない。
とにかく香澄には絶対に負けたくなかった。
ここではオレが一番速いんだ。
最速のプライドを賭け、全力で香澄に勝つ。
わかっている事と言えば、ただそれだけだった。
負ける事なんて、考えられやしない。
貴志のように負けてヘコむ自分の姿なんて、想像もしたくなかった。
「ひとっ走りして、帰るか。オレは」
そう言うと龍はMR2の方に歩み寄ろうとする。
「もうオレは帰るよ。なんだか疲れちまった……」
貴志は力なくため息をついた、バトルでかなり消耗している。
そんな貴志を見て、智之もつられるように帰ると言いはじめた。
今夜のメインイベントは終わったのだ、もうここにいてもしかたないと踏んだのだ。
「そっか。じゃな」
龍は適当に挨拶すると、そのままMR2に乗り込み。四点式シートベルトを締める。
明日の練習と言う訳ではないが、走らずにはいられない気分だった。
貴志も智之も愛車に乗り込み、イグニッションをスタートさせた。
龍はMR2の車内から、貴志のRX-7と智之のS13シルビアが帰るのを見届けると、イグニッションをスタートさせ。駐車場を出るとアクセル全開でコースに飛び出して行く
何も考えず無心に、ただひたすら走る。
走ることしか知らないから。
龍にはそれしかなかったから。
「おかえりなさい」
香澄が家に帰りつくと、優とマリーが出迎えてくれた。
マリーは香澄が帰ってきたことに、本当に安心して迎えてくれた。
優は香澄の勝利を確信してか、顔付きなのか、相変わらず不敵な笑みを浮かべている。
「ただいま」
と、香澄は二人に笑顔で応えた。
「で、バトルはどうだった?」
香澄が優にバトルの事を話すと、マリーの表情が少し険しくなるのがわかった。
「うん、勝ったよ。だけど結構速かったよ。FC」
「ほお、速かったか」
そうかそうか、やはり勝ったか。しかし香澄に速いと言わせるとは、FCのヤツもなかなかたいしたもんだ。と優は嬉しそうに相槌を打っている。
「だけど優、聞きたい事があるんだけど」
「ん、なんだ? 言ってみろ」
「FCの彼、かなり無茶な抜き方をしたわ」
マリーの顔が青ざめる。
「公道でのバトルに、そこまでする必要があるのかと思って」
話す香澄と、それを聞く優は淡々としているが。傍らで聞いてるマリーは、心中穏やかではない。
「そうか抜かれたのか。どんな抜き方だ、どんな抜き方をされたんだ」
香澄が貴志に抜かれた時のことを二人に説明すれば。優はうんうんと頷き、マリーはますます青ざめてゆく。
―全くなんて危ない真似を……。―
マリーは聞いているだけで、冷や汗ものだった
「そいつの気持ちは分からんでもないがな」
優は口元を歪ませ、「くくく」と笑った。
「まぁだけど。お前はそいつの気持ちは分からないだろうな。そいつの気持ちは、そいつにしか分からないものさ」
なんとも思わせぶりな答えだった。
しかも意地悪く、優はこれ以上の事はあまり答えようとはしない。
マリーはそんな優にじれったさそうにしている。
香澄は、やはりわからないといいたげに優を見ている。
優は香澄を見返していた。
吸いこまれるような、黒くきれいな香澄の瞳。
優が創り上げた傑作の一つだ。
その瞳は何故? という問いに濡れ光っているように思えた。
それを思った時、優はまた可笑しそうに「くくく」と笑った。
何故だろうな? 創り物の目ん玉みてそんなこと考えるなんて。
「ま、お前が速かったからだよ。今言えるのはこれだけだ」
優はそれ以上語ろうとせずに、コズミック-7に近づいた。
「こいつのチェックはやっといてやるから、お前はもう休め」
「でも……」
「聞こえないのか、香澄?」
「だけど……」
「もしお前がそれを知りたかったら、走るしかない。とことん走って、答えを探すしかないんだ。こればっかりは口で言ってわかるもんじゃない」
「さあ、行きましょう」
たまりかねたように、マリーが香澄の肩に手を触れる。
話を聞いてもわからないばかりか、優と香澄の間に入れなかったことに、少しばかり嫉妬心が沸きあがって。
香澄のAIプログラムを組んだのは自分だ、なのに。
「明日も誰かと走るのか?」
優の問いに、香澄はうなずく。
「そうか。なら入念にチェックしとかないとな」
優は不敵な笑みを浮かべ、コズミック-7を愛らしそうに眺め、マリーはそんな優に怖気を感じた。
どうして、車を見る時の彼にそんなことを感じるのか。今は分からない。
その気持ちを振り払うかのように、マリーは香澄の肩にまた触れ。
「さ、行きましょう。あなたもチェックしなければ。車はユウに任せればいいわ」
香澄は今更気付いたかのように、マリーに向き直る。
「ごめんなさいマリー。そうね、私もチェックしなきゃね」
バトルに行く前、マリーに見せた笑顔で香澄は応えた。
ありったけの親しみと愛情を込めた笑顔。
同じ女性のマリーでも魅力的に感じる笑顔の裏で、香澄は明日も走ることばかり考えているのだろうか。
翌日、太陽が真上に差し掛かった頃。
優は二階のバルコニーに置かれていた椅子に腰掛け、呑気に煙草を吸ってひなたぼっこを満喫していた。
昨夜のコズミック-7のチェックの疲れと、太陽の光と春のぽかぽか陽気に優しく撫でられて、うとうととしていたら。
「気持ちよさそうだね」
と、香澄がバルコニーに出てくる。
今にも眠りそうな優を見て、少し可笑しそうだ。
「ん、どうだお前も一緒に」
香澄を見て、少しいやらしげに優は笑う。
「こんな天気のいい日に働いたら、バチがあたるぜ」
「そんなノーテンキな事言ったら、マリーに怒られるよ」
そう言いながらも香澄も可笑しそうだった。
「いいのいいの、あんなカタブツほっとけよ。全く、人生を楽しむという事を知らないってのは可哀想なものさ」
優は笑った。
いつもの不敵な笑みではなく、単純に可笑しくて笑っていた。
「FDを貸して欲しいんだけど。いいかな」
「ん、なんだ。バトルは夜だろ?」
優は香澄の急な申し入れに少し慌てたようだったが、香澄の願いとあっては断るわけも無かった。
「FDに乗りたくなってね。ちょっと明るい時間の峠を走るのもいいかな、と思って」
「なるほどな。ま、良い気分転換になるしな。いいぜ乗ってけよ」
優がそう言うと、ポケットからコズミック-7のキーを取り出す。
キーはいつも優が持っている。
少し長めの鎖に小さなキーの飾りをぶら下げた、お手製のキーホルダーが付いていた。
「ありがとう」
「いやいや、いいってことよ」
優は得意げに笑いながら応えた。
香澄はキーを受け取ると、足早にガレージの方に向かって行った。
ガレージから20Bの快音が聞こえてくる。
遊びに行く子供ように、いってきまーすと言っているようだ。
そしてそのは声はだんだんと小さくなってゆく。
「カスミったら本当に楽しそうね、あの車に乗る時は」
何時の間にかマリーがバルコニーにいて、音のする方向に首を傾けていた。
「よう、気になるならお前も一緒に行けばよかったのに」
優は悪戯っぽく笑いながらマリーを見た。
「やめとくわ。とてもあの車は好きになれそうにないわ」
とんでもない、と言いたそうにマリーはかぶりを振った。
あのうるさい音、乗り心地悪そうな車の動き、とても乗ってみようなんて思わない。
車とは本来人や物を運ぶためにあるのではないか、なぜそれに必要以上のスピードやパワーを求めるのか。マリーには理解しかねる事だった。
マリーは車には無頓着だったし、免許すら持っていない。
せいぜいメルセデスベンツやBMWといったメーカーの名前を知っている程度で。レースにしても、同じドイツ人のミハエル・シューマッハがF1で活躍している、というのを知っている程度だった。
「ところで、カタブツって誰の事かしら?」
マリーの言葉を聞いた時、優は煙草の煙をげほげほ言いながら吐き出していた。
「さ、さあ。なんのことだ?」
「いいわ、あとでカスミに聞いてみるから」
と言うと。少し笑いながら、バルコニーの窓をぴしゃっと閉めた。
「なんだよ、聞こえてるんじゃねーか」
気まずそうに、優は指で頬をかきながら煙草を吹かす。
するとまたマリーが姿を現して、今度は手に紅茶の入ったカップをを持っている。
両手に一つづつ。
優と香澄が庭で何か話している間に、マリーは紅茶を入れていたのだ。
本当なら香澄の分も入れてやりたかったが、それが出来ないのがなんとも残念だった。
「ま、あなたの言う通り。こんな日は、バルコニーでのんびりするのもいいかもね」
そう言うと片方の紅茶を優に渡し、自分は紅茶を一口カップにつけて少しだけ口に含んだ。紅茶の甘みが口の中に広がりやがて溶けてゆく。
マリーはそれを噛み締めながら余韻に浸っていた。
「お、すまねーな。サンキュ……、いや、ダンケ」
これまた気まずそうに優は紅茶を一口だけ飲んだ。
「ん、美味いな。やっぱりお前のいれてくれる紅茶は一番だよ。これ飲んだら外で紅茶飲もうだなんて思わなくなるな」
柄にもなく、お世辞を言ってマリーの機嫌を取り戻そうとする優だった。しかしマリーは別に何も気にしていない。
そうでなくても、実際マリーの入れてくれた紅茶は美味しかった。
必死に自分にとりなそうとしている優の姿がとても滑稽で可笑しく、マリーはつい笑いをこぼす。
「私がプログラムを組むだけの人間じゃない事ぐらい。あなたも知ってるでしょうに」
なにを今更と、思いながらも優が可笑しくてマリーはたまらなかった。
これで狂的な車好きでなければ、ほんといいスタッフなのに。
そういえばよく言ってた。もしオレがこのプロジェクトに関わらなかったら、今ごろはF1メカニックだと。
ふと春の風がマリーの頬を撫でてゆく。
それにつられるように、薄紅色の桜の葉が一枚、目の前でひらひらと舞う。
いつの間にどこから来たのか。
この近くに、桜を植えているところなんてあっただろうか。
マリーは。桜の葉がひらひらと足元にゆっくりと落ちて、と言うより見えない階段を一つ一つ降りてゆくのをじっと見守っていた。
そうだ。今、日本は桜の季節なんだ。と、ふとふとマリーは思いなおしていた。
いつか別の暇な時に、香澄と一緒に桜を見に行くのもいいかもしれない。
ふとふと香澄と二人で桜の咲き誇る公園を歩く自分を思うと、わくわくしてくる。
きっと楽しいだろう。
ただ優が一緒なのはご免だった。
どうせ『花より団子』な性格だから、ゆっくりと桜を見るなんてしないだろう。
行くなら香澄と二人で行こう、と心に決めたマリーであった。
故郷のドイツを離れて日本で暮らすのは寂しいが、日本には美しい四季がある。日本の四季の持つ独特の美しさを見る事が出来るのを思えば、日本に来るのもまんざらでもないような気がしてきた。
ふと優を見れば、優は紅茶をすすりながら遠くを見つめている、きっと走りに行った香澄の事でも思っているのだろう。
煙草は何時の間にか消えていた。
火が消え、短くなった煙草を指でつかんだままにしている。
片方にカップ片方に煙草と、両手がふさがった状態では胸ポケットに入れている携帯灰皿を使う事は出来ない。
それを見たマリーはしょうがないわね、と言いながら優のカップを持ってやった。
すまねぇ、と言いながら優は胸ポケットから携帯灰皿を取り出し煙草を入れ、マリーから自分のカップを受け取った。
傍目から見れば仲の良い夫婦に見えるのだが、そんな事を言えば二人は迷惑そうに「冗談じゃない」と思いっきりかぶりを振って否定するだろう。
ある春の晴れた日、その日の前の晩とその日の夜に。別の場所で喧騒とスピードに包まれて香澄が走るだなんて、とても信じられないほど。
穏やかな時間は、ゆっくりとゆっくりと穏やかな川の流れのように過ぎてゆこうとしている。
その中で、マリーと優は共にこの時間を共有しながら、それぞれの思いを巡らせていた。
これも嵐の前の静けさというものなのかな、と。
scene4 敗北と勝利 了
scene5 決戦 に続く