2nd scene10 アウトスカーツ
朝を迎えた。
貴志は眠たそうな目をこすりながらベッドから起き上がり。寝巻きのまま自分
の部屋から出る。
部屋には学生時代から使っている机とオーディオや本棚やCDのキャリングケースが、整然と並べられている。真面目な貴志らしく、きちんと整理整頓が行き届いていた。
キャリングケースにはよく聞く音楽CDがぎっしりと詰まって。本棚には車、特にRX-7を扱った本が所狭しと収納されている。その中に、アルバムもあった。
そのアルバムの中身は、RX-7や今は亡きガンマ(スズキRGV-Γ)写真
が数枚収まっていた。
ツーリング先で撮ったものや、走行会で撮ったもの。
愛機と一緒に写る貴志の顔は、無邪気に笑っていた。あの頃は、無邪気にケビン・シュワンツに憧れて走っていて、ただ乗っているだけでも満足できた。
部屋を出て階段を降りると、今から高校に行く妹の真琴とばったり会った。
「おにーちゃん。ねむたそーだねえ」
「うるせえなあ」
「だいたい夜遅くまで車で遊んでるから眠たいのよ。ちったあ早めに寝たら」
「余計なお世話だよ」
と、妹と二三話すと。そのままキッチンルームに向かって、朝食を取る。
玄関から、真琴の「いってきまーす」という元気な声が聞こえた。
父と母は、すでに会社に行っていて。キッチンルームには貴志一人だけだった。
これが、いつもの井原家の朝だった。
玄関のドアを開け、ふと右手の駐車スペースを見れば青いRX-7があって。
真琴はそれを見て呆れたように溜息をつき、学校へと向かった。
それ気付かず、貴志は朝食と身支度を済ませて。勤め先のショップへと行く為RX-7に乗り込んだ。
ショップまでの道中、ふとふと昨夜の龍を思い出していた。
しかしまあ、龍と香澄がそこまで進んでいたとは。ストイックそうなフリしてホントは……。と、思ったが。
いや待て、だからこそ、なのかもしれない。女性ってああいったタイプには結
構弱いんだろうなあ。でも、香澄ちゃんてさ……。
まったくとんでもない話だ。ちょっとオタクな感じの若い男性が、そんな内容のアニメビデオやそんなアニメのサントラを買うけど。ってこれは関係無いか。
しかし、とにかくとんでもない話だ。
見ただろ、あの時、香澄ちゃんの左手を。
それはショップに着いた後、仕事の最中でも頭の中をよぎっていた。
今夜も走るけど、また昨夜みたいなことになるのか? それと、一番先に来ても、香澄が来るまで待とう。そうじゃなきゃガソリンがもたない……。
そんなこんなで、お昼が過ぎて。お昼休みを終えて仕事をしていると自動ドアの開く音がした。
「いらっしゃいませー」
レジで威勢良く挨拶をした瞬間。貴志の体は凍りついた。
きれいなブロンドの髪、そのブロンドの上に乗せられたサングラス。青い目。
紛れも無く、マリー・ヘンゲルスその人だった。
マリーは、貴志を見てにこっと笑うと。洋楽CDのコーナーへと向かう。何故か同僚の店員はどこかへと行ってしまった。
それに気付いても、どうすることも出来ず。マリーがやって来るのを待つしかない。
程なくして、マリーはやって来た。手にはどうしてか商品は無い。
欲しいものが見つからなかったのだろうか。
マリーはレジやレジ付近に誰もいないのを確認するように、あたりを見回した。なんだろうと貴志は思った。
あたりには誰もいない。平日の昼下がりということもあって、客足はさっぱりだ。
「こんにちは、イハラさん」
マリーは笑顔で、貴志に挨拶した。
「あ、は、はい。こんにちは」
慌てて返す貴志。
すると、何を思ったか。マリーはGジャンのポケットをまさぐり。何かを取り出した。
貴志はそれを不思議そうに見ている。あの、マリーがこんな挙動不審な行動を取るなんて、信じられなかった。が、それは紛れも無い目の前で起こっている事実なのだ。
その手に握られているのは、一本のカセットテープだった。
一体、なんなんだろう? と、不思議でしょうがなかった。同時に、心臓の動く速度も速まってくれる。
マリーはレジまで来ると、そのカセットテープを貴志に差し出して、言った。
「これ、私からのプレゼントよ。今までいい音楽を私の為にセレクトしてくれたお礼に……」
貴志は何も言えなかった。何と言っていいのかわからなかった。
ついに来た。そう思った。
「香澄から聞いてるでしょ。だから……」
「あ、ありがとうございます。で、でも。受け取れません。仕事中に」
しどろもどろの貴志。それを隠そうとしても隠し切れなかった。それでも隠そうとする。
「今じゃなければ、いけないの……」
悲しそうなマリーの目。そのきれいな青い瞳は、潤んでいるようだった。
「それじゃあ」
マリーは応えずに悪戯っぽく笑うものの、目は貴志を見つめたまま。その瞳も潤んだまま。
ふと、コロンの香りが感じられた。
そのコロンの香りを感じ、我知らず貴志の手はカセットテープを受け取った。
一瞬だけ、手と手が触れた。指先は、堅く感じられた。一体一日のうち何時間キーボードを叩いているんだろうか。
それが、マリー・ヘンゲルスという人なのだ。
音楽と紅茶が好きな、天才的プログラマー。
それが、マリーさんなんだ……。
「あ、ありがとうございます……」
貴志は一礼をして、カセットテープをポケットに入れた。
マリーは目を細めて微笑むと回れ右をして、自動ドアから出て行った。
その後姿を、静かに見守る貴志。もはや、マリーの引き締まったヒップも気にならない。
やがて今日の仕事が終わった、その間同僚に冷やかされまくりだった。
やれやれと思いながら帰宅する道中、RX-7の中でカセットテープを聞いた。
「オレって、いいチョイスしてたんだな。ホント……」
車内には、貴志がマリーに薦めた音楽が流れていた。
曲一つ一つに、マリーの顔が浮かんでくる。嬉しそうなマリーさんの顔が、浮かんでくる。
一緒に、涙も浮かんできそうだった。
マリーにとって、貴志は行きつけのショップで働く気のいい店員で。たまに一緒に紅茶を飲んだりする、仲の良いお友達で。
今日はそのお友達に、お別れを言いに来た。それだけなのだから。
「おつかれさまでしたー」
という声が、病院の従業員専用出入口のあちこちから聞こえる。
その中に、美菜子と龍がいた。
病院から出て、一緒にしばらく歩き。美菜子はふと思い出したように。
「ねえ、源。昨夜の人、誰なの?」
と、聞いてくる。
「関係無いだろ」
と、素っ気無く返すも。美菜子がそれで済ませるわけも無く。
「でも、あんなに龍にしつこかったのに。あの気迫は怖かったよ」
怖かったと言う言葉に、龍はふふっと可笑しそうに笑った。たしかにまあ、彩女は怖い女だ。
今まで彼女と付き合ったことのある男たちには同情を禁じえない。どうせ、散々振り回されて、捨てられただろうから。彼女が一人の男で落ち着くとも思えなかった。
「まあ、怖い女さ。そういうヤツだからな」
「付き合ってるの、まさか?」
「んー、まー。付き合っているというか何と言うか。オレにもわかんねー。付き合い短いしな」
「ええ? いつ知り合ったの?」
「オレが事故った時に、な。丁度そのころだ」
「それで、あの女。あんなに源に夢中なの?」
まるで、彩女が龍に一方的な片想いをしているような言い方だったが。美菜子にはそれが一番適切な言い方なんだろう。
龍はまた笑った。
「夢中って、言えば夢中かもな。オレにこだわっていたからな」
龍の言葉を聞き、目を丸くする美菜子。まさか龍は龍でそれを楽しんでいるんだろうかと思った。
「だけど、いいの? あたし心配だよ」
「心配って。どうして?」
「だってさ。あの人、本当に源の言う通り、源にこだわっていたんだもん。どうしてかはわからないけど。なんか、怖くて。こう、普通の恋愛する感覚じゃないっていうか」
そりゃ、恋愛じゃないからさ。と龍は思った。
要は、自分が香澄を追いかければそれでいいわけだから。それが出来なきゃあっさり龍は捨てられただろうし。
それを恋愛という言葉で現すのは、美菜子が女性だからかもしれない。いや、あれはもはや恋愛に近いものがあるかもしれない。そうでなきゃ、どうしてああも皆香澄にこだわる?
好意とも恋愛とも違う、また別の言葉で表す、というか、言葉ではあらわせない感情、とでも言おうか。
その為に、一体どれだけ無駄な回り道をしたことか。
一時、プロレーサーになるだなんて考えていたのに。そう思うなら、香澄のことなんかほっといてさっさとサーキットに行けばよかったんだ。
なのに、そうしなかったのは。全て香澄がいたからだ。
なんか、香澄のせいにしているようだけど。そうじゃない、オレの方から香澄を追いかけたんだ。
彩女はそれに引き寄せられただけだ。もっとも、引き寄せられすぎて、後戻りできないようだが。まるで光に身を寄せて離れられない蛾のように。
まったく、みんな香澄にイカれちまったもんだ。
でなきゃ必死こいて追いかけるもんか。
それに彩女は、香澄とキスしたこと言った途端機嫌悪くして。そんなのは関係無いはずだが。
どうしてああまで機嫌悪くするんだか。ホントは、走り屋同士って嫌なのか?
まさかなあ、と思いつつも。
まあ、良い勘してるよ。ホントに女の勘は鋭い。とも美菜子に思っていた。
「でもなあ、オレもアイツ無しじゃ。ダメなのさ。そうなっちまった。成り行きだけどな」
「いいの? そんなんで、それじゃ……」
「いいんだよ。オレも納得の上だから。お前は、心配しなくていい」
「するよ。だってさ、もし源の身になにかあったらどうするの? MR2で事故ったときも心配したのに」
いつもより強い口調で迫る美菜子。龍はちょっと戸惑った。
いつも陽気なのに、これは一体どうしたことか。関係無いのは美菜子も同じ筈だ。人として心配してくれているのは十分わかるが、それ以上のものがあるように思えた。
結婚して子供もいる身なのに妙に龍とは仲が良い、そうなる前にも仲良かったけど別に何も無かった、ただの同僚でしかなかった。別にお互い特別な感情は持ち合わせていないのに。
(ほっときゃいーじゃん、オレみたいなヤツは。みんなオレのことなんかほっといてるってのに)
「まあ、オレは大丈夫だから。それより、それ聞いたらアイツ泣きそうだな。そんなに悪いヤツでもないのに」
「そうだろうけど。なんか気になって、あの人以上に、あの車も気になって」
あの車、NSXのことだ。なるほど、一応は車に関係することで心配してくれてもいるわけだ。
やがて、十字路について。龍と美菜子はそこで別れた。
その時。
「源ー。明日絶対休むなよー」
などと言い出した。源はぎょっとして。
「わかりきった事言うなー」
と、言い返す。
「だったら、明日絶対出ろよー。休んだら、また押しかけるからねー」
と言って、小走りに家まで走り出す。
「まったく、おせっかい焼きなヤツだ……」
でも、別に鬱陶しいとも思わなかった。
何て言うか、自分みたいな人間を気遣ってくれるのもいるということだ。
龍は溜息をついて、夜空を見上げた。
何故か笑ってしまう。
なんで笑うのかわからないが、笑った。
「こりゃ、明日も出ないと。アイツうるせーだろーなー。まったく、また押しかけられちゃかなわんぜ。次はホントに見つけるかもしんねーしな……」
そう言うと、昨夜彩女とばったり会ったコンビニへと歩き出した。
もう行けない、と思っていたが。ふたりがすぐ思いつく共通の場所で安全なところ。ということで、そのコンビニになった。
コンビニには、彩女が待っている。
また今夜もハウリングを起こすべく、龍を待っていた。
さっきの美菜子の言動を思い出し、ふとふと龍は考えた。
よくよく考えれば彩女も損な性格をしている。
色気につられて良い思いをするのも最初のうちだけで。彩女に振り回されるだけ振り回されて、それに疲れて離れられる。
そんなことを繰り返せば、そのうち振り向く男もいなくなってしまうだろうし。
そのあまりにも勝気な性格は、同じ女性からも敬遠されるだろうし。
おそらく、友達と呼べる存在がいるかどうか。怪しいもんだ。
それでも、彩女は一人突っ走しり続ける。そのおかげでいいとばっちりも受けてしまったけど。
だけどまあ、なんだ。少なくとも、今は彩女は一人ぼっちじゃない。
龍がいる。香澄がいる。貴志もいる。
だけど。香澄はドイツに帰るというけど、その後みんなはどうするだろうか?
本来なら、すれ違いもしない。別々の生き方をしている者が一箇所に集って。
一緒に走っている。
これまた不思議なもんだ。
いわゆる、縁ってヤツなんだろうか。
それもこれも、香澄あってのこと。香澄がいるから、なのだ。
でも、それももうすぐ終わる。
終わってしまうんだ。
全て、なにもかも。
だって、走る理由が無くなってしまうのだから。
まあ、しかし。今はそんなことはどうでもいい。
ただ、走る。
それだけだ。
それ以外のことなんか、考えるなんてナンセンスだ。自分たちがやっていること自体ナンセンスなのだから。
なんだかんだ言っても、所詮は峠の走り屋。決して陽の光の当たることのない、アンダーグラウンドな世界なのだから。
しばらく歩いて、コンビニにたどり着けば。
目に飛び込むは赤いNSX。
コンビニの明かりに照らされ煌々と赤く光り輝いている。
「待ちぼうけだよ」
と言う、相変わらずの減らず口。
「悪い。ちと仕事長引いてな」
軽く右手を上げて、とりあえず謝る龍。
「まあ、いいよ。じゃあ、行こうか。愛しの香澄ちゃんと走りにさ」
「ああ、そうしよう」
二人がNSXに乗り込めば、NSXは気合一発とばかりに叫び。二人の背中の後ろでは、ハートを熱くする声が鳴り響く。
今夜も、一緒に香澄を追うために、二人は靡木峠へと向かう。
仕事が終わり、夕食を済ませて。
自分の部屋でカセットテープを聴く。
もう、何往復させたことやら。
オーディオから流れる爽快な音楽。聴く者の心を癒してくれる優しい歌声。それなのに、聞いてる貴志の顔は、憂いを含んで寂しそうにしている。
時々、溜息もつく。
手にしたケースのレーベルには、何も書かれていない。真っ白なまま。
ふと時計を見て、まだ早いかなと思ったけど。このままじっとしていられないから、出ることにした。
このまま、テープの音楽を聴き続けてもいいけど。やっぱり、じっとしていられない。
テープなら、RX-7ででも聴けるし。
キーを取って、テープを取り出して。共にポケットに入れて。愛機のそばまで来た。
すぐには乗らないで、しばらくRX-7を見続けた。
今は静かにたたずんでいる。
眠っているようだ。
でも、キーを差し込みイグニッションを捻れば、それは雄叫びを上げて目覚める。
恐ろしいことだ。
雄叫びを上げるということは、怖い思いをするということだから。
そんな怖い思いをしててでも、やらなければいけないことがある。
そのために、どんな気持ちになってしまおうとも、やらなければいけない。
ポケットに入れたカセットテープがずしりと重く感じられた。
「まったく、なんだかなあ」
と、ルーフを優しく撫でた。
「なにしてんの?」
と言う声に振り向けば、真琴が貴志を不思議そうに見ている。
「な、なんだっていいだろう。帰ったんならさっさと家入れよ」
「はいはい。まあ、せいぜい遊んできなさいね」
と、真琴は冷たく言い放ち家に入っていく。
最近遊びを覚えたか、夜遅くまで帰ってこないことが多い。
それでも、暴走族なんかよりマシと言う。
確かにまあ、そうかもしれない。
そう言われても仕方がないことをしている。だから、夜遅く帰ってくる妹には何も言えない。
貴志は溜息をつき、RX-7に乗り込みエンジンをかければ、13BTブリッジボートチューンエンジンは目覚め、唸りを上げる。
まる地の底から響いてくるような威圧感だった。これが、チューンしたエンジンというものかと、貴志は大きく息を吸って、吐いた。
心臓が凍りつきそうだった。その雄叫びを聞きながら、何度も怖い思いをしたから。
でも、今更止まれない。行くしかない。
カセットテープをセットして。
クラッチを踏み、ギアを一速に入れて、クラッチをつなげれば。RX-7は前へと進む。
前へと進みだしたRX-7の行き先は、靡木峠とは違うルートを走っていた。
そのころマリーは、優と一緒に市内にあるホテルの一室でコーヒーを飲みながら。なにやら色々と話していた。ちなみに部屋はもちろん別々だが、話すことがあるので同じ部屋にいる。
ホテルのコーヒーは美味くなかった。これならマリーの紅茶を飲みたいが、そうもいかなかった。
優はソファーに座り。マリーはベッドに腰掛けて、いつでもすばやく動ける体勢を取っている。
そんな状況で会話は続いていた。
「まったく。せっかちだな本部も」
「仕方ないわよ。早く香澄を回収してデータを取らなければいけないから、ゆっくりしていられないのね」
「まあ、わかるけどな。早く早くとせきたてられるのは、気分のいいもんじゃねえな」
「まあ、速さにこだわるあなたらしくもない」
「……。そうだな」
マリーの皮肉に、優は苦笑しコーヒーをすすってひと息ついた。マリーも自分の皮肉に苦笑し、コーヒーをすすってひと息ついて、話を続けた。
「でも、いいの?」
「なにが?」
「香澄のことよ」
「心配しなくていいさ」
「そうね。……香澄なら大丈夫ね」
「お前がプログラムしたんだろ」
「ええ」
「なら大丈夫だ。市内のホテルだぜ。迷うわけないだろ」
「そうね……。でもまあ、荷物の整理大変だったわ」
「そうだなあ。荷物だけでも先に送って。お前らはどこかに身を隠して、誰にも会うな、なんてなあ。まるで悪の秘密結社か犯罪組織みたいな命令出しやがって」
苦々しく舌打ちする優。マリーはため息。
部屋の中は静かで、空気は重かった。
「機密事項の多い仕事だものね。用心してるのよ。おかげで、てんやわんやだったわ」
「まったく」
「出発は明日の朝一の東京行き。寝坊しちゃダメよ」
「オレは子供か」
「今まで言われるようなことしたからよ」
「ちぇ、まるで母ちゃんみてえだな」
「うるさいわね。あ、そうだ」
「どうした?」
「あの車どうするの?」
「ああ、あれか。地元のショップに一時預かってもらうことにした。急な用事で外国行かないといけなくて、落ち着いたら取りに戻るからってな。まさかどっかの駐車場に置きっぱなしにもいくまい。まったく、他人に自分の車任せるなんざ不本意だが仕方あるまい」
「そうね。でもよく引き受けてくれたわね」
「まあな。エンジンルーム見せたら目ん玉飛び出すくらいにビビってたけどな」
「いいの?」
「かまいやしないさ。向こうもプロだし、手間かけさせる分金も出している。まあ、ぶっ壊したりなんかしたら……、タダじゃおかねえが」
「……心配だわ」
「すまねえなあ、心配してもらって」
「あなたのことじゃないわ。預かってくれているショップよ」
「ひでぇな、おい……」
「でも、これでこの街ともお別れね」
「ああ、せっかくいいヤツらと知り合えたのに。オレも残念だ」
「最後に、またみんなで集まって紅茶を飲みたかったわ……」
ふと、窓の外を見た。
窓の外から見える夜景は、宝石のようにきらきら光っている。
その向こうに、光を囲む壁のような山が、夜の闇につつまれて。墨汁で塗ったように黒くなってそびえていた。
それを見ると、溜息が何度も何度も出てしまう。
「え、ええ……」
あのビルドインガレージのある大きな家に着いてみれば。日も落ちたと言うのに電気もつけず、真っ暗だ。
誰も住んでいる気配がなく、幽霊屋敷といわれてもおかしくないくらい大きく不気味にたたずんでいる。
それとは対照的に、周りの家々は明かりをともして。中に家族の団らんがあることをうかがわせた。
「もう、出たのか」
肩を落として、ただ呆然とする。
「だから、仕事中に」
車内に流れる音楽が、虚しく響き渡る。
「あれが、最後だったのか」
アクセルを踏むと、13BTは声を荒げて車内の音楽をかき消した。
「さようなら」
貴志はRX-7を靡木峠へと向かわせた。
そこに、香澄はいる。きっといる。
と、信じて。信じられなくても、信じて。
靡木峠へ向かう。
そのころ、NSXも靡木峠へと向かっていた。
車内では、彩女は機嫌悪そうにしている。
昨夜行くときとは大違いだが、酒は飲んでなさそうだ。
「なんか、機嫌悪いな」
と、龍が言うと。
「別に」
と、そっけない。
「あ、そう」
と、龍もそれで済ませてしまう。
でも、これじゃ美菜子が心配するのも仕方ない。
背中の後ろの声も、耳に入ってなさそうだ。
まったく、なにやってんだかな。
と、思う。
それでも、香澄にこだわる自分たちが滑稽にも思えた。
まったくまったく……。全ては香澄のために。
香澄を追うために。
お互いちぐはぐでも、それだけは一緒だった。
やっぱり、本当ならすれ違いもしない。
他人同士。
それがひょんなことから、同じ道を走って同じものを追いかけている。
とは言え、彩女は龍に何を求めているのか。
それを意識するたびに、まさかと思いつつ。
自分は本当は罪なヤツなんだろうか、と思った。
でも、仕方ないじゃないか。オレらは走り屋同士なんだから。
「香澄ちゃんがドイツに帰った後、どうするの?」
不意に、彩女はそんな事を聞いてきた。
「そうだな、全然考えてない」
「そうだよね。まだ香澄ちゃんはいるんだし」
「考えるのは、その後さ。今は走る、それだけだろう」
「まあね」
心なしか、彩女の声は震えているようだった。
(どうしてそんな事聞く)
今聞きたいことだから聞いたんだろうが。今聞かなければいけないことか?
少なくとも、彩女にはそうだった。
龍がどういう男であれ、今まで見てきた男とは明らかに違っていた。
別に学歴や職種や年収や乗ってる車がどうとか言うのではなく。ここまで不器用な男は見たことがなかった。
今まで会ったヤツらは器用に色んな事をこなしていたけど。なんとも思えなかった。それが、龍には当てはまらない。
今まで男なんてみんな間抜けだと思っていたのに。クラッシュなんて間抜けおかしたヤツに、心動かされてしまうなんて。
そんなヤツに自分の車乗せるなんて。
本当に、どうかしてしまった。問題が起きてしまった。
救いようがない。なら、割り切ってとことん行くしかないだろう。
なのに、割り切れないのは何故だろう。
何に割り切れないかは、はっきりと意識したくない自分に、ちょっと腹が立つけど。
それは、今は隅っこに置いといて。追いかけよう。
香澄ちゃんを追いかけよう。
龍と一緒に。
追いかけようと思う。
だから、靡木峠に向かっていた。が、彩女は道中機嫌が悪いままだ。と、いうか。何か考え込んでいる。
さっきから腕を組み、外の景色と運転席の龍とを交互に見ている。
龍は気になって仕方が無い。
「落ち着かねえな」
「まあね」
露骨に無気力に応える彩女。
「どうしたんだよ。昨夜から様子がおかしいぞ」
「おかしくなったのさ」
「え?」
なんだそりゃ、と思いながら。彩女の言葉の続きを待つ。しかし彩女は喋らない。
一時停止ボタンでも押されたように黙っている。もうすぐ街を抜け、靡木峠の入り口に来た。もう、話さないのか、と思ったら。
「止めて!」
と、突然そんなことを言う。
龍は訳がわからず。持ち主である彩女の言う通り、NSXを道路わきに停める。
街から外れ、山道が奥へと続こうとしている峠の入り口は民家も無く車の通りも無いので、うら寂しい感じがした。
夜の闇に染まっているのでなおさらだった。
「どうしたんだよ。ホントにおかしいぞ?」
「おかしくて結構。峠に入る前にはっきりさせたいことがあってね」
「な、なんだよ……」
相変わらず、訳がわからないものの。ついに来た、とも思っていた。
今の彩女の状態で、このまま黙っているわけがないからだ。
「あんた。あたしを走り屋だと思っているんだよね」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、言ってごらん。あたしの性別は?」
「女、だろ」
龍の頭の中に「?」マークが充満する。彩女は構わず続ける。
「そうだよ。あたしは女だよ」
「それがどうしたんだよ」
「なんとも思わないの?」
「別に」
素っ気無い龍。一瞬、彩女の顔が引きつった。
それより、早く峠に入りたいという気持ちが龍を焦らせる。
「何だよ一体。言いたい事があるなら、ちゃちゃっと言ってくれ」
「そうだね。早く走りたいだろうしね」
覚悟を決めた様子で、彩女は龍を見据えて、言った。
「惚れたよ」
その言葉の後、しばしの沈黙。
まっくらな車内の空気が張り詰められる。
ぼやけて見えるお互いの顔が、石の様に固まっている。
龍は呆然としたまま。彩女は顔を引きつらせたまま。闇の中でお互いを見据えていた。
メーターの灯りがほの暗く灯っている。
突然、彩女はシートベルトを外し。サイドブレーキとシフトノブを半身乗り越えれば。
お互いの唇と唇が触れた。
彩女の目は閉じられ。龍の目は見開かれていた。そしてそのまま、ふたりは動かない。
背中の後ろの音も響くに任せるのみ。
何が起こったか意識出来るようになった、と思った時。お互いの唇が。いや、彩女の唇が龍の唇から引き離される。
「じゃあ、行こうか」
それだけ言って、また助手席に座りシートベルトを締める彩女。うつむき、髪が幽霊のように垂れ下がっていて、どんな顔をしているのかわからなかった。
龍は何も言わずに彩女の方を向いて、頷き、前に向き直りNSXを発進させる。
(次に進むのは、全てが終わってからにしよう。やっぱり、今はそれどころじゃないね)
心の中で、彩女はそうつぶやいていた。
誰もいない。
真っ暗で、何も見えそうにない。
その中で、モンスターが静かにたたずんでいる。
眠っているようだ。
モンスターは次に目覚める時までの間、惰眠をむさぼり、獲物が向こうからやってくるのを待ちつづけていた。
まったく、楽なものだ。こっちから追いかけなくてもいいのだから。
でも、ナンセンスな行為だ。
危険な上に違法なのだ。
どうして、こんなことしているんだろう。
愚かなことだった。
それも、今夜が最後となる。もう、走れない。
全ては終わる。
終わると言っても、いつも通りのことをするだけなのだけど。それが、明日から無くなる。それだけだ。
むしろ、その方がいいかもしれない。そもそもがいけない事なんだから。
後に残された者が、どう思うのかはだいたいの想像もつく。それからも、走りつづけるだろうか?
わからない。
全ては朝をむかえてみないとわからなかった。
ただ、それを見届ける事はかなわない。
だから、終わりなんだけど……。
その終わりを見届けようとするものは、一人もいない。逃げ出してしまったから。
だから、多くの人に終わりが記憶に残る事は無かった。
三人の記憶に残れば、それでいい。逃げ出した者は、所詮は部外者なんだから。
眠るコズミック-7の中で、香澄は星空を見上げながら最後の夜を、最後の走りを、一緒に走る者を、待っていた。
今は、待つことしか出来ない。
「もう、来られないね……」
ぽそっと、香澄は今峠に向かっているであろう三人に、語りかけた。
それに応えるように、星がキラキラ光っていた。
なにかが聞こえた。星のさえずりではない。
ハイチューンドなロータリーサウンド。貴志のRX-7の音だ。
香澄はマシンから降り立ち、貴志の到着を待っていれば。RX-7はやって来た。
大きな声は出さず、静かに、ゆっくりとやって来た。
RX-7は適当なところで停まり、中から貴志が降り立った。
貴志は香澄を見ると、香澄のもとまでやって来た。
「来てたんだね」
「うん。珍しいかな、私が一番なんて」
はにかむような笑みで応える香澄。でも、貴志の顔は、笑っていない。笑えないから、笑えない。
それを無理に笑わせて、首を横に振る。
香澄はそれを察していた。
「マリー、店に来たでしょ」
「うん、来たよ。お別れだって」
「折角知り合えたのに、残念ね」
「そうだね。でも、仕方無いさ」
諦めたような表情の貴志。その目の奥では、冷たさを感じさせるような青い炎が燃え上がっているようだ。
今夜、自分のすべきことを思い。それ以外の想いは、全て捨て去った。そう目は語っている。
結局、違うものを追いかけた結果なんだけど。それを無理矢理心の中に押し込めて、コズミック-7を見据えた。
「今夜も、調子良さそうだね」
「わかる?」
「うん、なんとなくだけどね」
「優がマシンメンテを欠かすことないからね」
「それは、香澄ちゃんもだろ」
「そうだね」
「潮内さんに、感謝しなきゃね。香澄ちゃんと会えたのは、潮内さんのおかげだし」
「それ聞いたら、優も喜ぶと思うわ」
そうかな。と思いながら、貴志はコズミック-7の醸し出す、そこはかとない威圧感を体で感じ取っていた。
速いマシンは、なんとなくそう感じる時がある。おそらく、今までで一番感じられるのではないだろうか。
このマシンが、この峠を走るのは、もう最後なのだから。
貴志は、ふと香澄を見た。目が合った。お互い、少し笑った。
本当に、可愛いコだ。抱き締めたくなるほどだ。
でも、彼女はアンドロイドで。しかもモンスターマシンを駆るドライバーだ。
それなのに、龍とは少し良い感じになったという。一体全体、どうなっていることやら。
(まったく、早く来てくれよ。でなきゃ、オレ香澄ちゃんとふたりっきりでどうすりゃいいんだよ)
と、龍を思った時。
NSXの音が聞こえた。
貴志が来た時同様、スピードを出していない。ゆっくりと静かに。
NSXはやって来た。
ゆっくりと静かにやって来たNSX。だけどなんだか、熱そうに陽炎が立っているように見えるのはどうしてだろう。
中から、これまた熱そうに陽炎をゆらめかせて龍と彩女が降りてきた。
香澄と貴志を確認すると、ふたりは頷いてやって来る。
その動作の息が合っていたので、貴志は少しやきもちを焼いていた。
「誰もいねえのかよ……」
途中、龍はそうつぶやいた。
さすがに、まだ早い時間とはいえ靡木峠に誰もいない、というのは初めてらしかった。
「邪魔なパイロンが無くて、いいじゃない」
と、彩女は相変わらずな嫌味を言う。
「来たんだね。龍、彩女」
香澄がふたりに声をかける。
ふたりは、当たり前だろう、と言いたそうに香澄に笑いかける。
「お前とバトルしたときを思い出すぜ」
「そうだね、あの時もこんな感じだったね」
過去の思い出がフラッシュバックする。
初めて香澄と遭遇し、ぶち抜かれ。リベンジと叫びながらも、敗れ去った。
それから、しぶとく追いかけつづけたけど。
香澄は香澄で一番前を走りつづけていた。
昨夜、貴志が一番前を走ったけど、今夜も一番前を走れるかどうか。
わからない。
どうして、香澄を追わなきゃいけないんだろう。だなんて疑問も抱かなかった。ただひたすら、香澄を追いかけていた。
それだけの、半年間だった。
結局、香澄を追うのは、ふたりしかいなかった。
龍と貴志。
このふたり。
彩女は、自ら身を引いた。
「こらこら、あたしら無視して良い感じになるんじゃないっての」
龍の耳を引っ張る彩女。何も言わずお互いを見据え合い、蚊帳の外にいつの間にか放り出されていた。
さっきキスした男の耳引っ張るなんて、因果だねえ。と、ふとふと彩女は思った。
でも、仕方無いか。このふたりは、そういう間柄なんだし。
耳を引っ張られた龍はすこし驚いたようで、彩女を睨みつけている。香澄は笑っている。
貴志は、何しに来たんだ、と言いたそうに。呆れたように溜息をついている。
そうしながら、四人はタイミングを見計らうように。じっと何かを待っていた。
タイミングが合えば、自ずと動き出すだろうから。
何も慌てることもない。
それまで、四人でしんみりとしているのもいい。
ただ、空気に触れるだけの事を楽しむのも。今しか出来ないだろうし。
三台のマシンも憩いのひとときを満喫しているようだ。
人も、マシンも、峠の空気を肌で吸い込むように、静かに、同じ場所にいる。
「ねえ、龍」
「ん、なんだ」
香澄の声に龍は応え、彩女は頬を膨らませ、貴志はそれを知らぬ顔して見る。
「今夜で、最後だよ」
澄み渡った空気の温度が、一瞬上昇したようだった。
「そうなのか……」
それだけ言うと、溜息をつき。どう言えばいいのかわからず、ポケットに両手を突っ込み、救いを求めるように夜空を見上げる。
彩女は、龍の顔が自分の方に向かなかった事に胸が締め付けられそうで、同じように夜空を見上げる。
なるべく、香澄とは顔を合わさない。
「最後だけど。今夜も一緒に、走ろうね」
その言葉の後も彩女と龍は上を向いて。香澄は龍を見て。貴志は交互にどちらも見ながら静かにしている。
なんだか、間抜けな絵だ。
しばらくして、顔を下げた龍は香澄を見据え。ふっと笑った。
「ああ、一緒に走ろう」
彩女も顔を下げ龍を見ている。なんだか寂しそうだ。
とは言え、間に合って良かった。
もし、あそこで決断しなければ。今夜は無かった。
それを思えば、これで良いのだ。こんな気持ちは、今夜で最後だ。
「それじゃあ。始めようか」
貴志はそう言うと、回れ右をしてRX-7のもとまで向かう。
それにつられるように、彩女はNSXへと向かう。
顔を見合わせ、お互いに頷き。龍と香澄もそれぞれのマシンへと向かった。
マシンは目覚め、息を吹き返し。闘いの雄叫びを上げる。
誰も見る者のいない闇の中で、新たな生命を吹き込まれたマシンは、野に放たれた野獣のように走り出す。
真っ先に飛び出したのは、RX-7。貴志。
待った無し。早い者勝ち、と言わんがばかりに飛び出した。
13BTブリッジポートチューンエンジンは、解き放たれようとしているパワーをエグゾーストとともにぶちまける。
バックミラーに、NSXのヘッドライトが灯る。
「勢いよく飛び出しちゃってさ、爽やか新聞少年みたいだね」
助手席で彩女が皮肉る。龍は何も言わない。
その目はバックミラーに灯る光を睨みつけていた。
背中の後ろの声と共に聞こえるコズミック-7のエグゾーストノート。
最後の夜を、香澄は最後尾で迎えた。
コズミック-7のヘッドライトに照らされる、NSXのリアテール。龍は鋭い目つきで、ミラーの光につぶやいた。
「ついて来いよ、ついて来い……!」
言われずとも、香澄はついて来る。NSXの後ろについて、何も仕掛けようとする気配は感じられなかった。
スタートして、六つコーナーをクリアした。それから長い直線。ここでは何よりもパワーがものを言う。
「いけぇ」
貴志はアクセルを踏み込む。RX-7に存分にものを言わせ、後ろを引き離しにかかる。
龍と彩女の目の前のRX-7のリアテールが、小さくなってゆく。
「やっぱり、直線じゃFCが上か」
彩女はぽそっとつぶやいた。そのつぶやきは、後ろの声に掻き消される。
このまま、後ろのコズミック-7も。と思っていたら。
龍はじっと、前を見据えている。ここではどうしようもない。だけど、なんとも思っていなさそうだ。
ミラーの光は、動かない。
ずっと、ミラーの中に閉じ込められたままだ。
彩女は少し驚いたようだが、ミラーの中の光を見て、ふんっ、と笑う。
「可愛いマネするじゃない」
まだスタートしたばかり。様子見決め込んでいるってか。だけど、正しいやり方だ。
なにも、初っ端から飛ばすこともない。まずはじっくりと、って感じか。
直線を終え、コーナー区間がやってくる。ここから東側駐車場までずっとコーナーが続く。
その途端、RX-7は重りでもしかれたかのように速度が鈍くなる。
さっきまで車二台分以上の差があったのに。あっという間に一台分あるかないかまで縮まった。
「やっぱ、コーナーじゃNSXが上か」
貴志は苦々しくつぶやく。パワーをまだ自分のモノにしきれていないから、アクセルやブレーキが思うように踏めない。
だから、思うように走れない。
それでも、前は譲れない。意地でも、前を走りつづける。絶対に、絶対に。前は譲らない。
RX-7のマフラーが火を噴く。後ろのNSXを威嚇する。
「なに焦ってるんだよ」
傷ついたバンパーが、龍の目に止まった。鮮やかなブルーの中にまがまがしく流れるノイズ。
貴志の心にまで、そのノイズが紛れ込んでしまったみたいだ。
ついでに、なんだか左頬にもノイズが流れている。今はたいしたことはないけど。
そのうち、どんどん大きくなりそうだ。それも、仕方無い。
離せないものなら、いっそ引き連れていこう。
右に左に曲がりくねるコーナーの連続。
貴志はヘッドライトの灯すクリップの先を見据え、ブレーキング、シフトダウン。二三度唸って、減速して、コーナーを曲がってゆくRX-7。
立ち上がり、一筋のラインを見極めて、アクセルを踏んだ。
13BTブリッジポートチューンが吼え、地を蹴り加速する。腹にイッパツくらったような衝撃を感じた。
汗がにじむ手でステアを握りしめ、アクセルワーク。ハイパワー化によりRX-7は猛り、正確なコントロールを要求する。これでミスったらどこに吹っ飛ぶかわからない。
大きく息を吸って、吐いた。
どつきまわすようなマシンの声。凶暴に感じられた。
歯を食いしばって、マシンとリンクしようとする。コントロールしようとする。が、マシンと自分の間のノイズに隔たれてなかなかリンクしきれない。
それはさながら滝に落ちる樽の中にいるみたいだった。
気を抜けば、あっちへふらふらこっちへもふらふら、まるで酔っ払いのようにふらついてしまう。
タイヤがヒス女のような悲鳴をあげ、エンジンはけしかけるように叫んでいた。
リアテールのテールランプがおぼろげに闇の中灯る。
ヘッドライトのすくい出す周囲の景色が吹き飛ぶ。その激流の中にあって、テールランプに蛾でも寄ってきそうな寂しさも感じるのは、気のせいだろうか。
彩女はバックミラーでコズミック-7のヘッドライトとRX-7のテールを交互に見ながら、そう思った。
(どうしたんだろう)
妙にRX-7の後姿が気になった。貴志になにがあったのだろうか。
(わからない)
考えてもはじまらないと、考えるのをやめた。が、背筋が凍るような青い炎がその後姿から吐き出される錯覚は禁じえなかった。
それを振り払うように龍の横顔に目を向けた。
龍は目を見据えて貴志のRX-7を追っている。口をつぐんだまま無言でステアをにぎる。時折シフトチェンジのため左手がシフトノブに伸びてくる。
これがギャグならミスったふりをして左手が彩女の胸まで伸びてくるのかもしれない。いや、なんならそうしてもいいとも思っている。が、もちろん龍はそんな馬鹿なミスはおかさない。
コクピットの中、背中からのNSXのサウンドが響きわたる。
龍がアクセルを踏んで吼えさせている。そういう風に走らせている。
タイヤは路面をとらえて、龍はその黒い瞳のなかにラインを見極めて、流れるように走っている。
目はRX-7との距離を測って、抜く隙をうかがっている。
ふらつくRX-7は、もがくように路面を蹴って走っている。コーナーでブレーキランプが幾度と点滅したかと思ったら、カマ掘ってくれと言わんがばかりにそのケツがせまってくる。
龍は忌々しそうに舌打ちし、早めのブレーキをかける。
(下手糞め)
言わんこっちゃない。
香澄を追うためのチューニングがものの見事に足を引っ張っている。チューニングのドツボにはまり込んでしまった。
「くそっ!」
吐き捨てるようにさけぶ貴志。背中に感じるNSXの、龍と彩女の気配が脊髄をかき乱しているようだった。
だけとマシンをうまくコントロールできないでいる。
リアバンパーの傷が、貴志の心にまで及んでいるようだった。
まがまがしいノイズのように走る、バンパーの傷。龍と彩女はそれを目にしながら、RX-7を追っていた。
前の二台に矢印がさされ、時折丸印で囲まれたりして、動き一つ一つのたびにその状態が文字情報となって表示される。
文字情報がパルスとなって香澄の中を駆け巡り、テラバイトのキャパで処理してゆく。
香澄、無言。
パルスが身体の中に流れるにまかせて、コズミック-7を駆る。
白く細い指が半円形のステアをつかんで、右に左にまわして、時折左腕がシフトノブに伸びてギアを換える。
水晶球のような瞳がNSXのテールを映し出して、たまにRX-7のテールがその右に左にちらちらとあらわれる。
コクピットに響く20Bぺリのサウンド。
そのサウンドに香澄の身体は揉まれるようにして、叩きつけられてゆく。その音加減がグラフ表示され、それがさらに他のセンサーと連結、連動し、エンジンの調子如何を描き出している。
(よし)
調子はいい。走ることに専念できると、優に感謝する。それと、走り終わった後、指定されたショップにコズミック-7を預けることがAIユニットによりマップ表示されて弾き出された。
page2 に続く