2nd scene9 ハウリング
RX-7は東側駐車場を折り返して、西向きに進路を取り直して走り出した。
前より図太くなった13BTブリッジポートチューンエンジンは、乗り手である相棒さえも威嚇する。
その威嚇の雄叫びは、相棒の腹にジャブをしかけてくれる。
隙あらば、その相棒すら突き落としそうな挙動。
貴志はハンドルを握る手の平が、汗でぐっしょりするのを禁じえない。
アクセルを踏むたびに、背中からどつかれて転びそうな気分を何度も味わっていいた。
それは、直線に来た時にさらに激しさを増してくれた。
「いけえ……」
と、直線に入ってアクセルを踏めば。
RX-7はモンスターとなり、ありったけのパワーを路面に叩きつけて、ありったけの声を張り上げて加速する。
激流が一気に貴志に押し寄せ、その激流の中を突き進むような錯覚。
貴志はRX-7に揺さぶられ、押しつぶされそうになりながらアクセルを踏みつける。
そのRX-7の雄叫びは貴志の恐怖心などいとも簡単に押しつぶす。
その雄叫びは峠の空気を揺さぶり震わせる、そしてみんなの耳に、体までをも揺さぶり震わせ。
NSXもそれに呼応するように雄叫びを、闘いの雄叫びを上げる。
マシンとマシンが互いにハウリングし、ぶつかり合うのを待っている。
龍は、貴志がRX-7がやってくるのを静かに待ち受けている。
彩女はそれを固唾を飲んで待ち受ける。
ロータリーサウンドがひときわ大きくなる、近付いている。
ヘッドライトの灯りが駐車場添いの道路を照らす。
龍はアクセルを踏み込みいつでも飛び出せる体勢をつくる、NSXはいっそう高い声で唸りを上げる。
果たして、青いRX-7がNSXのヘッドライトの中に飛び込んできた。
刹那。龍はアクセルを床まで踏み込めば、NSXはこれから走り出せるという歓喜の雄叫びを上げて道路に飛び出す。
西側駐車場に入り、NSXがいるのを見た瞬間、NSXは貴志の目の前で飛び出していった。
NSXには人影がふたつ見えた。
貴志は慌ててハンドルを回してアクセルを踏み急回転する、RX-7は回転のさなかリアタイアから激しくスモークを巻き上げる。
いましがた飛び出したNSXを追うため、RX-7は再び道路に飛び出した。
NSXとRX-7の怒号があたり一面にぶちまけられる。
ヘッドライトが前を補足せんとギラギラ光る。
NSXは最初の一個目のコーナーにさしかかった、後ろからはRX-7が迫ってくる。
つま先でブレーキを踏んでかかとでアクセルを煽り、一気にシフトダウンする。
上手くいった、シフトダウンはきれいに出来た。
バックミラーが光る。
後ろも同じように減速する。
やや光が小さくなった、と思った。
コーナー出口アクセルを踏み込む、背中の後ろからマシンの怒号が響きわたる。
車内の空気全体も揺れている。
背中からどつかれ突き出されるような加速感、これこそミッドシップ。
ミラーに写る光がまた迫ってくる。
二つ目も、三つ目も、同じようにクリアしてゆく。
「やるね……」
彩女はぽそっとつぶやいた、そのつぶやきはV6V-TECのC32Bの怒号に掻き消されて龍の耳に届かない。
龍は目を見開き、前を見据える。
ヘッドライトが切り裂いた闇のすき間に、マシンを突っ込ませて。
それを横目に、彩女はくすっと笑った。
人の車でここまで出来りゃ上出来と、ふとそう思った。
だけどもうすぐ直線、どうする?
バックミラーに写る光は灯りつづける、決して消えゆく事は無かった。
小さくなったり大きくなったりと揺らぐ、ミラーの中の光。
六つ目の左コーナーを抜けた時、その光は生命力を増し大きくなって、ミラー全体を覆いつくす。
龍は舌打ちをした。
ミラーの中の光は右の方へと流れて、ミラーから消えた。
気が付けば、NSXの右サイドにRX-7は並びかけていた。
NSXと共に闇をヘッドライトで切り裂き、切り裂かれた闇の中へとNSXと共に突っ込んでゆく。
RX-7の鼓動が龍と彩女にも、感じられた。
貴志も、NSXの鼓動を感じ取った。
その時、貴志は一瞬だけNSXのドライバーを見た。
濁流から一瞬だけ目をそらし、彩女であろうと思って見たその人影は。
龍だった。
その隣に、彩女がいた。
(どうして!)
再び濁流に目を移したとき、貴志の心臓の鼓動が高鳴った。
どうして、龍が彩女のNSXに乗っている? どうして彩女はそのヨコにいる?
だが考える時間はない、濁流は次々と押し寄せRX-7は貴志にアクセルを踏めと駆り立てる。
RX-7はテールランプを龍と彩女に見せ付け自車線に戻った。
やっぱり、直線じゃ適わないか。
彩女は、致しかたないと、RX-7のテールランプを睨みつける。
龍も渋い顔をしてRX-7のテールを睨みつける。
コーナーが迫ってくる。
RX-7のテールランプが光るのと動じに、マフラーから火が噴出される、まるで後ろのNSXに向けて火を放ち威嚇するように。
だが、それは龍には効き目はなかった。
龍はアクセルを踏みつづけ、火を吐いたRX-7のリアテールに向かって迫ってくる。
龍の目は、獲物を追いかける獣そのものの目に、成り果てていた。
追いかけて、追いかけて、尻尾を引っ掴み獲物を食らう無慈悲な獣の目。
そんな目だった。
NSXも、RX-7に向かって激しく吠え掛かる。龍といういつもと違う人間にドライブされているにも関わらず。
NSXの雄叫びを耳に、彩女は自分の心が揺さぶられているような気持ちになっていた。
ドライバーではなく、同乗者としてNSXの鼓動を感じるのは全く初めてだった、今まで自分以外の人間にNSXをドライブさせたこともなかった。
それ以前に、誰もドライブしようとしなかった。
彩女以外の人間がドライブしても、NSXをNSXとして走らせることなど出来ないからだ。
それが今、龍のドライブによってNSXは走っている。
NSXがNSXとして。
龍のドライブによってNSXは彩女に鼓動を感じさせてくれる、その鼓動は龍にも感じられた。
お互い同じ鼓動を感じながら、感じる事は全く違っていた。
貴志も、NSXの鼓動を感じながらRX-7を駆っている。
そのNSXの鼓動にRX-7が共鳴する。
RX-7もNSXに向かい雄叫びを上げる、雄叫びを上げてNSXを突き放そうとする。
どちらかが大声を上げればまた相手も大声を上げる、喧喧諤諤の怒鳴り合い。
それもまた、共鳴する相手がいてこそのことだった。
「どうしてお前、NSXに乗ってるんだよ」
漏れるような声でつぶやく貴志。
赤いNSXがいたと思ったら、NSXのヘッドライトに不意に飛び込んでしまったと思ったら、車内に見える人影はふたつ。
直線で追い越すとき、車内の右側に見えたのは、男。
見覚えのあるなんてもんじゃない、紛れもない、あれは龍だった。
間違うはずがない、なんせ龍とは何度も一緒に走ったんだから、間違いようがない。
そして、そのさらに向こうには、千葉彩女が…。
どうして彩女は龍にNSXを乗せている? どうして龍はNSXに乗っている?
昨夜ぴしゃりと自分にハッパをかけた彩女が龍にNSXを乗せている? 一体どうやって龍にNSXを乗せているんだ?
わからない、全然わからない。
だけど、何がどうあろうと龍が走っている。
彩女とのバトルの末、MR2をクラッシュさせてしまった龍が靡木峠に戻ってきた、これだけは事実だ。
なら、自分はどうする? 四の五の考えるのか?
ああ、びっくりしたなぁもう。
はい、これでお終い。
(なわけないじゃないか!)
詮索は後からでも好きなだけ出来る、今はただ走る。
それ以外に何があるんだ。
「いいだろう、龍。やってやろうじゃないか……」
貴志は意を決し愛機を鞭打つ、もっとも今は愛機に鞭打たれてる状態かもしれないが……。
直線を抜け、NSXを抜き去った。
RX-7のパワーを見せつけてやった、香澄を追うための、モンスターと同等のパワーを見せつけてやった。
龍は舌打ちして抜かれるに任せるだけだった。
「アイツ、マジでFCチューニングしたのか」
龍もさすがにこれには驚いた、以前香澄を追うために、という話をしたが。
その為に、一時、自分がクラッシュする前に突然来なくなったが。
こうして見せられると、貴志の本気ぶりがいやでも感じられた。
こっちもアクセル全開で後ろのエンジンがガンガン吼えまくってるってのに、あっさりと抜いていきやがった。
彩女も昨夜のことを思い出し、改めてRX-7のパワーに驚かざるをえなかった。
あの雨の中、必死の走り。
思わず泣きを入れてしまうほど、貴志は必死にひたむきに走っていた。
まったく、とんでもない話だ。
こんなこと毎晩続けてて、今自分はその真っ只中に身を置いている。
龍を引きずり戻してまで、真っ只中に身を置いた自分がなんともおめでたい女だとつい思ってしまった。
本当におめでたい女だ。
自分はどこでスピンした? 龍はどこでクラッシュした?
貴志のRX-7に抜かれ、直線を抜けようかという時、RX-7はケツから火を噴いた。
その時RX-7に、ここだ! と言われたような気分だった。
まさかそんなわけもないが、本当はここで全てが終わってたんじゃないだろうか?
全ては静かに終わったんじゃないだろうか?
その片割れであるRX-7に、そう言い聞かせられているみたいだ。
本当は自分は入れないのに、無理矢理入ろうとして、ヒビを入れた。
それでも力任せに入ろうとして、ぶち割ってしまった。
今までの均衡、というか何と言うか、という名のガラスが弾けるように割れた。
それを慌てて自分とNSXというガムテープで補修して直そうとしたけど、割れたガラスはもう元には戻らない。
それでも無理矢理補修して。
つぎはぎだらけのガラス、龍と貴志はその上で走っている。
いや、走らせている。
いわんや、香澄もそのガラスの上で走らないといけない。
自分は、そのつぎはぎだらけのガラスを下から支えて再び割れないようにしている。
真っ只中にいたいと思ったら、そうしないといられないから。
龍はMR2が息を引き取ったところを、何の意識もすることなく、直線を抜けた。
龍にあのMR2は見えているんだろうか?
RX-7とNSXは直線を抜けた。
これから、コーナーがたくさん迫ってくる。
「直線じゃ抜かれたが、本当の勝負はこれからだぜ」
龍は前を走るRX-7に語りかけるように言った。
それを聞いた彩女は何故か少し笑った、左側を向いて、嬉しそうに笑った。龍のカム・バックが嬉しそうで、誇らしげに、何かにぽそっとつぶやいた。
「あたしにはよく見えたよ、香澄ちゃん……」
正直、あんまり気乗りはしなかった。
軽く流す程度で抑えようと思っていた。
人の車だし、何かで壊したらエラいことになってしまう。
もし何かあれば、車が車なだけにシャレにならない。
目の前にはRX-7がいる、貴志のヤツが香澄を追うためにパワーアップをさせたRX-7が目の前にいる。
何度か、ケツから火を噴かしながら走っている。
オレは本気だ!
そんな言葉が聞こえてきそうだ。
龍は思わず舌打ちをした。
ヨコでは彩女がドライバー気取りで前を見据えている。
何も言わず、NSXを龍に任せて。
正直、やっぱりというかなんというか。
勝手が違う。
車体の大きさと車重、タイヤの種類にサイズ、ターボとNAの違いによるエンジン特性。
マシンのセッティング。
全てがMR2と違っていた。
一番の違いは、乗りやすさ、だった。
MR2より乗りやすいのだ、おかげで思った以上にアクセルを踏んでしまう。
ブレーキだって良く効く、おかげでおもったよりコーナーで突っ込んでしまう。
それでいて、NSXはぐんぐんと前に進む。
RX-7を追いかける。
まさに、彩女のNSXは靡木の峠道にドンピシャだった。
龍は戸惑いを覚え、それなのにアクセルを踏む足に力が入る。
何より、背中の後ろのマシンの声が自分の背中を後押しする。
「あんたこれでスピンしたのか!」
彩女はそれを聞いて苦笑いを浮かべた、龍は思わず大声を上げた事にはたと気付く。
「まったく、しょーがねーなー!」
また大声を上げる龍、苦笑いを浮かべる彩女。
「ああ、しょーがないさ! あんたに追いかけられたんだからねっ!」
負けじと彩女も言い返す。
今度は龍が歯を食いしばって、苦笑いを浮かべた。
「まったく、まったく……」
RX-7のテールを見据えて、言った。
「どーしょーも、ねぇなっ!」
何か、ふん切れたような声。
次々とコーナーが迫る、それを次々にクリアしてゆくRX-7とNSX。
右に左にうねる濁流の中、闇をヘッドライトで切り裂き、静寂をエグゾーストノートでぶち破りぶち撒ける。
「ああ、どーしょーもないね! さっきまでやめるやめるってダダこねてたヤツがアツくなっちゃってさ!!」
「まったく、その通りだよ!」
V6V-TECのC32Bのがなり上げるエグゾーストノートに負けじと、龍と彩女は怒鳴りあう。
車内はもう人とマシンのケンケンガクガクの怒鳴りあいで、沈黙の入り込む隙間もない。
「だから言ったろう、素直になりなって!」
「ああ、オレは今素直だよ!」
コーナー立ち上がり、アクセルを踏んだ、背中から蹴飛ばされるような加速感。
その度に、体の奥から沸き出る何か。
脊髄から体中の血管に流し込まれ、それは脳にまで達しアドレナリンを噴出させる。
それは貴志にも伝播して、貴志の脳髄を引っ掻き回す。
RX-7はコーナーでNSXに追い詰められはしても、立ち上がりではそのパワーを見せ付ける、ついでに火も噴く。
RX-7はタイヤをスライドさせてコーナーをドリフトでクリアしてゆく。
スピードを出せばいやでもタイヤはスライドしようとし、それをコントロールする。
本来貴志はドリフトが得意、とはいってもパワーアップした愛機は貴志が必要とする以上にタイヤをスライドさせる。
上手くタイヤを路面に捕まえさせられない。
だが、そんな泣き言など言ってる場合ではない。
後ろからNSXが迫ってくる、昨夜の雨の中でNSXに追い立てられた時のように迫ってくる。
しかも龍のドライビングでだ。
「だから、なおさらだよなあ」
負けられない、絶対に負けられない。
何のためのパワーか?
香澄とやり合う前に、龍に負けていたらお話にならないじゃないか。
正直、このパワーは怖い。
まさかここまでとは思わなかった、アクセルを踏めばタイヤは路面を掴まずパワーはスルーされる。
そのくせ、背中をどつかれ襟首引っ張られるような加速。
RX-7は猛り狂い、獣のような雄叫びを上げる。
それを、自分のモノにしなければいけない。
「お前のドライバーはオレなんだぜ、FC!!」
貴志はRX-7を怒鳴りつけ、愛機にも自分にも鞭を打ち付ける。
NSXはそれを追う。
靡木の峠道を、青と赤のマシンが駆け抜ける。
一人は自らを変えようとして。一人は降りて。一人はもう一人に託されて戻ってきて。
二台と三人が、激しく追いかけっこをしてるさなか。
もう一台のマシンが、引き寄せられるように靡木峠に向かっていた。
パープルメタリックに彩られたモンスターマシン、コズミック-7と。
それを駆る、香澄が、靡木峠に向かっていた。
それはあまりにも鮮烈だった。
それはあまりにも強烈だった。
夜の闇を引き裂き切り裂き突き破り。
世界の全てを揺るがし壊してしまいそうな雄叫びと光、スピード。
モンスターがみんなの目の前に現れる時、みんなどこかへと逃げ去ってしまう。
だれも、モンスターになんか近付きたくないのだから。
人間なのだから、モンスターを恐れるのは至極当然のことなのだから。
だから、なにも恥じる事は無い。
みんな、どこかへと逃げ去って行った。
その中で、自らモンスターに立ち向かう勇者。
いや、自ら取り残された、とでも言おうか。
モンスターを相対した時、彼らもまたモンスターへと変貌を遂げる。
例えそれが正真正銘の人間だとしても、逃げ出した者にはモンスターへと写る。
「来た……」
貴志はそれと遭遇した時、自らモンスターへと変貌を遂げさせた愛機となんとか同化しようとする。
「来たよ。香澄ちゃん」
彩女はヨコの龍にそれだけ言うと、あとは済ました笑顔で何も言わずに黙り込んだ。
「来たのかよ」
龍はヨコの彩女の言葉を聞いて、途端に左の頬が痛み出す。
「いた……」
香澄はモンスターコズミック-7を駆り、靡木峠に現れた。
現れたと同時に、青と赤のマシンを見つけた。
役者が揃った。
彩女はそう思った。
貴志のRX-7と遭遇し、一緒に走り出してもうすぐ往復しようかという時。
香澄とコズミック-7は現れた。
引き寄せ合うようにその雄叫びは混ざり合い、大きくなってゆく。
光と光はぶつかり合い拡散する。
それらはコクピットにまで入り込み響き合い、ハウリングを引き起こす。
その後、二台はそのままコズミック-7をやり過ごした。
なにもこっちから無理に振り向かなくてもいい、そのまま通り過ぎようとしても香澄の方から振り向いてくれる。
モンスターも振り向かせてくれる。
コズミック-7は再びハウリングを引き起こすために、。
その前に気合を入れるために発声練習をした、コズミック-7は自分の声を高らかに響かせる。
「よし、良い感じ」
香澄は嬉しそうにコズミック-7に語りかける。
前にいる二台のマシンにも、語りかける。
「いくよ。龍、彩女。貴志」
龍、香澄は確かにその名を口にした。
龍がいることを、もう知っている。
すれ違いざまに、見えた、龍が。
龍がいた。
彩女のNSXの運転席にいて、NSXを駆っている。
どうしてNSXを走らせているのかまでは知らないが、とにかく龍がいる。
右手にあの時の暖かな感触を思い出させる。
暖かい血も、思い出す。
その暖かい血が、自分をドイツへと帰らせることになってしまったけど。
また、触れられる、あの暖かさを触れることが出来る。
その暖かさに触れたくて、香澄はコズミック-7を駆る。
コズミック-7を駆れば龍に近付ける。
そうすると、龍は自分から離れようとするけど。
それが、その血が暖かい証でもあった。
龍が生きている証しでもあった。
「まったく、なんでこんなことになっちまったんだか」
我知らず龍はつぶやいた、そのつぶやきはつぶやきというには大きくて、背中の後ろの声をもってしても掻き消せなかった。
「そりゃ、あたしが引き摺りもどしたんだよ」
彩女は何をわかりきったことを、と言いたげに笑った。
背中の後ろのNSXの声は。それどころではない、アクセルを踏まないか、と龍を後ろからせっついてくれる。
龍は舌打ちしてアクセルを踏んでNSXを走らせれば、背中の後ろの声は歓喜の雄叫びを上げる。
背中の後ろの声が歓喜の雄叫びを上げれば、龍もそれにつられて体がアツくなってくる。
でもまさかホントに叫ぶわけにもいかない、だから右足でアクセルを踏む。
前のRX-7を追いかける。
RX-7は必死になってNSXから逃げている。
テールランプが赤く光るたびに、それがRX-7の、貴志の悲痛な叫びを代弁しているようだ。
ブレーキは踏めても、アクセルが踏めない。
ハイパワーマシンを操ろうと思えば、崖に張られたタイトロープの上でダンスを踊るような、大胆さと繊細さが共に要求される。
まだにわかタイトロープダンサーである貴志にとって、これは苦痛以外の何者でもなかった。
それでもタイトロープの上でダンスを踊るしかない、自らそのタイトロープの上に足を踏み入れたのだから、誰も助けてはくれない。
しかも、後ろから追われている。
自らに課した試練の大きさにやっと気付きかけて、それでも潰される事は許されない。
右足が震える、それでもアクセルを踏もうとして、出来ない。
でも、歯は食いしばられて、顎が痛い。
そうこうしているうちに、迫ってくるのだ、モンスターは。
香澄は。
迫ってくる。
NSXのミラーに、居座りつづける光。
それが大きくなってゆく。
コズミック-7は迫ってくる。
光だけでなく、その雄叫びも一緒に。
龍は、前のヨタうつようなRX-7など目に入らない、どんなにテールランプの赤い光で悲痛の声を上げていようとも。
ミラーの中の光に目も心も奪われて。
光が大きくなるにつれ、左の頬も痛みを増してくる。
自分では冷たいと感じた血が、熱くなる。
それを、アイツは暖かいと言う。
「アタマおかしいんじゃねぇか!」
「な、なに突然?」
龍は突然叫びだし彩女は驚く。
しかし龍は何も言わない。
ひたすら走っているだけだ。
それに伴い光がミラーを覆う。
背中から、NSXの声だけでなく、コズミック-7の声も混じりこんできた。
混じりこんで、ハウリングを起こす。
三台のマシンの雄叫びが混ざり合う、一つ一つの音が組み合わさり。それが一つにまとまり合唱する。
それは同時に、散らばる事を意味していた。
三台が組み合わさる前に、他のみんなは散らばり灯りを消して闇に隠れてしまった。
そうでもしなければ、モンスターに食べられてしまうから。
香澄は目の前のNSXを見据えて、紅の色のNSXを見据えて、龍の赤い血を思った。
NSXのカラーリングが龍の赤い血を連想させるなんて、可笑しな事だけど。
キレイな塗装でキレイに赤くなっているNSXの後姿は、否が応でも龍の赤い血を思わせた。
そのNSXに龍が乗っているからだろうか?
もし香澄が人間だったら、NSXからほとばしるような龍のオーラが赤く見えたかもしれないけど。アンドロイドだから、そこまでは思い至らなかったけど。
その前では、青いRX-7が悶えるように走っている。
とても苦しそうだ。
これも香澄が人間だったら、貴志の叫び声が聞こえていたかもしれない。
それもやはり、アンドロイドの香澄には思い至らない。
彩女にだってそうだ。
自分のNSXを龍に託したその気持ち、その心の声。
それも香澄が人間だったら、NSXを通じていくらかわかったかもしれないのに。
そうこうしているうちに、三台のマシンは次々とコーナーをクリアしてゆく。
もうすぐ、直線だ。
彩女は心なしか顔が引きつっている。
龍は、かまわずアクセルを踏む。
そこでなにがあったかなんて、思い出してもいないようだ。
ただ、後ろから追い越しにかかるであろうコズミック-7を思い、少し苦い顔をする。
貴志は初めてドライでコズミック-7とのパワーゲームに挑むことに、恐怖にも似た感情が顔を覗かせて、それを必死に抑えている。
香澄は何の感情も無い機械として、コズミック-7を駆る。
その体の中には、赤く暖かい血ではなく。冷たいオイルが流れている機械そのものとして。
果たして、直線がやって来た。
三台のマシンが、一斉にけたたましくありったけの雄叫びを上げ、ありったけのパワーを路面に叩きつけ、乗る者を背中からどつく。
パワーゲームが始まった。
コズミック-7は、香澄にアクセルを踏まれてモンスターそのものへと姿を変え、前の二台に襲い掛かる。
NSXは叫びながらコズミック-7から逃げている、でも、いとも簡単に追いつかれ。
追い越されてゆく。
コズミック-7のノーズがNSXのノーズと並んだ。
香澄は振り向かなかった。前を見据えたまま、コズミック-7を鞭打ち走らせる。
変わりに、コズミック-7の雄叫びがNSXと龍と彩女にぶつけられた。
龍は少し横目で香澄を見た、窓越しの香澄の横顔を見た。
見た、と思ったらコズミック-7は香澄を向こうへと連れて行ってしまった。
龍は、龍が香澄の横顔を覗いたとき、彩女が口元をきゅっと引き締めたのを知らない。
NSXを追い越し、その前のRX-7に迫ろうとするコズミック-7のリアテール。
その中の香澄を思いながら、龍はちくりと左の頬が痛かった。
コズミック-7はRX-7に迫ろうとする。
NSXを抜いた勢いそのまま、己の光で暗闇の濁流の中からRX-7を拾い出し。
そのパワーをRX-7にぶつけようとする、が。
RX-7は近付かない。
13BTブリッジポートエンジンの叫び声は見えない壁でも作ったのか、コズミック-7を引き寄せない。その叫びで暗闇を引き裂きぶち破り、パワーをぶち撒けるながら。
「すげぇ……」
貴志は今更ながら、RX-7のパワーに感嘆していた。
初めて挑むコズミック-7とのパワーゲーム。
恐怖心が、今、闘争心へと姿を変えつつあった。
「やれる、これならやれる」
そんな貴志を、RX-7を。
香澄は何の感情も無く、追いかけている。
貴志のRX-7のパワーが上がっていた事は、わかっていた。
だから、別に追いつけなくともなんとも思わない。
ただ、コズミック-7を駆る、それだけだ。
だから、直線では抜けなかった。
直線は終わりを告げ、右コーナーが迫ってくる。
三台のマシンのブレーキランプが灯った。
RX-7、コズミック-7、少し離れてNSX。
そしてそのまま西側駐車場。
駐車場に入ったとき、みんなは闇に紛れて、三台がまた走り出してゆくのを静かに見送っていた。
「さぁ、行くぜぇ」
貴志は歯を食いしばり、ヘッドライトが切り開いた闇のすき間を見据えていった。
「パワーが同じなら、バランスの良いツーローターの方が有利だからな、この峠なら……」
そうだ、トリプルローターマシンとなってバランスが狂ったコズミックー7は、コーナーは曲がりづらいんだ。
だから、本来のバランスを保ったままパワーアップしたRX-7の方が断然有利なんだ。そうじゃなきゃいけないんだ。
トリプルローターなんて邪道だよ、やっぱりセブンはツインローターだろ?
「なあ、潮内さん」
街で香澄の帰りを待っている優に語りかける。
チューニングを断って、チューニングされたRX-7を見て、優は。
まぁ、気ぃつけて走れ。
と言った。
それが何を意味するのか、わからないでもなかった。
RX-7の鼓動が、貴志の心を揺さぶる。
前だ、香澄がやって来ても、前を譲らなかった。
自分が一番前だ。
「オレが、一番前だ。一番前なんだ……」
バイクでビリっけつだった自分が、前を走っている。
前には誰もいない。
気のせいか、いつもより道が広く感じられた。
「オレが前を走っているんだ……」
コースを東に向かう道のり、最初の六つをクリアした。
それまで、後ろの二台は大人しく着いてきている。
香澄もそこでは仕掛けなかった。
六つ目の左コーナーを抜け、直線に飛び込む。
さっきと一緒、前には何も無い。暗闇をヘッドライトが切り開くのみ。
「いけぇ!」
アクセルを踏んだ、床まで思いっきり踏んだ、床が抜けるんじゃないかというくらい思いっきり踏んだ。
13BTは開放の歓喜の雄叫びを上げて、RX-7は濁流の中を突き進む。
後ろから聞こえる20Bの声、声は届けど、コズミック-7は届かない。
後ろについたままだ。
抜けないだろう、同じパワー、同じスピード。
抜けるわけが無い。
そういう風に走らせているんだから。
でも、香澄と一緒に、自分に届かないなにかを感じる。
それが鬱陶しかった。
「速くなったね、貴志」
香澄はぽつりとつぶやいた。
コズミック-7と同じスピードのRX-7。
テールは大きくならない。
元の大きさのまま。
そのまま、直線を抜ける。
少し後ろからNSXが追いかけて来る。
三台のマシンは、このままの位置で走りつづけた。
ずっと、ずっと貴志は一番前だった。
一番前を走る悦びを、今始めて噛みしめていた。
アクセルを踏み、マシンを走らせる。
ちょっとくらいリアがスライドしようが、お構いない。
アクセルを踏む、踏んで踏んで、踏みまくる。
RX-7は走る。
コズミック-7の前を。
コズミック-7と同じ速さで、走る。
届きそうで、届かないなにかを、無意識に感じながら。
貴志は開かれた闇を、香澄はRX-7のリアテールを、龍と彩女はコズミック-7のリアテールを見据えて走りつづけた。
でも、永遠に続くものなどあるわけも無く。三台のガソリンメーターの針は、みるみるうちに下がる。
仕方が無い、そういう風に走らせているのだから。走り方次第では燃費も抑えられるが、それほど大きな差が出るわけでもなく。こればかりは誰にもどうしようもなかった。
特に前の二台のガソリンの消耗は半端ではなかった。ロータリーマシンは燃費が悪いのだ。
何キロ走ったかさえうろ覚えで、香澄はわかってるけど、メーターを目に入れた途端。貴志は舌打ちし、止まらざるを得なかった。
一番先に来て、一番最初に走り始めた分。ガソリンを消費してしまったのだ。
「ちぇ、今いいところなのに」
ガソリンメーターを恨めしそうに睨んで、東側駐車場に着くとマシンを止めた。もう誰もいなくなって、闇があたりを支配して。
自動販売機が、細々と自分の周りだけを灯していた。
今夜はもう走れないなあ、と愚痴るようにRX-7はさえずり。貴志もそれに合わせて。
「今夜はもう走れないなあ」
と、こぼす。
コズミック-7もNSXも、一緒に止まってくれた。まあ、香澄もガソリンが少なくなってきたので止まったんだけど。
でも、まだガソリンがあったら。香澄はRX-7の後ろについたままでいただろうか? ふとそれを思うと貴志の顔がにわかに引き締まった。
ターボタイマーの効いたRX-7は、エンジンが切れるまでの数分、まだ走りたそうにぶつぶつとつぶやくようにアイドリングをしている。
それに応えるようにコズミック-7とNSXもアイドリングをして、お互い車同士で会話しあっているようだ。
そんな走り終えたマシンからドライバーたちは降り立って、お互いに顔を見合わせる。
貴志はもちろん、香澄も。龍と彩女が一緒にいるのが不思議らしい。龍はそれに気付いて気まずそうにしている。
彩女もそれに気付いて、にこにこと微笑んでいるが。それには触れずに貴志に語りかけた。
「どうしたんだい? 急に止まったりなんかして」
「え、ええ。もうガソリンが無いんで……」
「そか。まあ、ロータリーじゃ仕方無いね」
と、彩女はうんうんと頷く。ついでに、NAであるNSXには、まだガソリンに余裕があると言いたそうにも笑う。
貴志は、どうして龍がNSXに乗っているのかが聞き出せそうに無く。やや戸惑っているようだ。
龍はそれを見て、呆れるように溜息をつく。ついでに、ちょっと疲れてるようで。それでいて、香澄から目を離したり、また香澄を見たりを繰り返していることに気が付いた。
香澄は香澄で、龍をじっと見つめている。
心なしか、龍はやや動揺しているみたいだ。
そうこうしているうちに、香澄は口を開き。言葉を発した。
「龍、戻ってきたんだね」
その言葉に、彩女は拍子抜けすると同時に。この組み合わせに何の疑問も持ってなさそうにない香澄に戸惑いさえ覚えようとしていた。
「ああ、まあな」
簡潔に応える龍。何を言っていいのかわからない。
彩女も貴志も、何を言っていいかわからない。ただ、龍が戻ってきたという事実のみを受け止める香澄の意図が見えない。
すると香澄は龍のもとまで歩き出した。
龍は驚いている。
今までに無い龍の狼狽ぶりに、彩女も貴志も口をあんぐりと開けたまま。事の成り行きを見守れば。
香澄の右手の平が、龍の左の頬に触れた。
龍は、何の抵抗もしない。
言葉を発しようにも、声が喉で詰まったように止まって何も言えない。当の龍も。彩女も貴志も。
香澄は微笑んでいる。
今まで、こんな事は無かった。走り終えた後に、香澄が龍に触れるなんて。
いつも、貴志と龍とのお喋りをした後。マリーと優の待つ家へと帰っていった。
なのに、これは一体どうしたことか。
「暖かい」
と、香澄は言った。暖かい、と確かに言った。
龍は金縛りになったように、ぴくりとも動かない。ただ香澄にされるがままだ。
まるで、彩女や貴志の存在など無いかのように。香澄は龍に触れたまま。龍は香澄に触れられたまま。
動かない。
このまま、夜が終わり朝が来るまで。龍と香澄は動きそうも無かった。
体内に内蔵された温度計が龍の体温を測る。数値が示され、体温適温のシグナルが香澄のAIに送り込まれた。
香澄は微笑んだ。龍はさらに固まった。
香澄は龍の頬の暖かさにひたる。
龍は、香澄の手のひらの暖かさを。今更のように、感じた。
あの時は、突然の事に驚いて意識できなかったが。今度は意識できる。
「お前も、暖かいな。その手……」
不意に、その言葉が口から出た。どうしてかわからないけど、他に何か言わないといけないんだろうけど。
そう思ったから、それが出た。
気が付けば、RX-7はターボタイマーが効いてエンジンが止まっていた。他の二台は、我関せずとそのままお喋りを続ける。
さっきまで、大声で叫んでいたのが嘘のようだ。
香澄は、手を離す。龍の頬から、そっと。
「そうだよ。私の手も暖かいよ」
それだけ言うと、回れ右して。NSXとおしゃべりしてたコズミック-7のもとまで戻る。
ドアを開け、シートに腰掛けようとする直前。
「また来るよ」
と、言った。
それから。ドアの閉められる音がして。コズミック-7はNSXとRX-7に、しばしの別れを告げるように、わずかに声を上げ。
駐車場を出て、街へと帰ってゆく。マリーと優の待つ、家へと帰ってゆく。
コズミック-7の声が遠ざかり、聞こえなくなると。
声が喉に詰まっていた彩女と貴志は、堰を切ったように一気に龍に詰め寄る。
「い、一体なんなのあれは?」
「お前、香澄ちゃんとなにかあったのか?」
それから矢継ぎ早に言葉が龍に浴びせられる。
彩女はともかく、香澄の正体を知っている貴志はこのことに尋常ならざるものを覚えていた。
もはや、龍と彩女のことやパワーアップしたRX-7で前を走ったことなんて、意識の外に放り出されてしまって、届かないなにかさえも。ただ、今はさっきの出来事に心奪われるのみであった。
(まさか、こいつ香澄ちゃんと、したのか……!)
と、どう言うわけか彩女も貴志も同じことを考えていた。当たらずとも遠らず、ではあるが。
同じことを考えていても、もちろん貴志は彩女以上に狼狽していた。
そりゃそうだ。人間とアンドロイドの間でそんなことがあるだなんて、まるで何かのアニメかゲームの世界に龍と香澄は入り込んでしまったんじゃないか。とさえ思った。
それとも、これは夢なのか? 自分は何かの映画のように本当は眠っていて、今自分がいるのは夢かはたまた仮想現実の世界なのか? とも思っていた。
とにかく、狼狽していたのは間違いない。それと、別に先を越されたとは思ってもいないが。
「ねえねえ聞いてるの? これはどういうことよ!」
問い詰められ状態で何も応えられない龍に、彩女はイライラをあらわにする。まだ酒が残っているようだ。
言うまでも無い、先述の理由で貴志もそれに続く。
しかし龍は何も言わない。ただ、香澄の手のひらの暖かさの余韻にひたっているみたいだ。
「何とか言ったらどうだ?」
と、貴志が言っても。何も言わかったが。
さすがにしつこく感じて龍も口を開いた、が。
「別にいいだろ。そんなこと」
これだけだった。
「な、な、な。なにー。何よその言い草はー!」
「なんだとー!」
当然の如く、二人は怒り出す。龍は溜息をつく。
「別に香澄とは、なんとも無かったさ」
「嘘つけ! 何とも無いのに、あんなことするか!」
「そーよ! 妙にしんみりしちゃってさ」
「うるせえ! あいつがわけわかんねーのは、いつもの事だろうが!」
「それで済むと思ってるのかい!」
「そうだぞ。お前わかってんのか、香澄ちゃんが……」
そこまで言って、貴志は急に黙り込んだ。ヒートアップするうちに、香澄の正体をバラしてしまいそうだったからだ。
これは絶対に秘密だとマリーに言われて、約束した事だ。それを破りそうになるなんて。
「え、香澄ちゃんが。なんだって言うのさ。貴志クン」
彩女は怪訝そうに、貴志に問うが。まさか正直に応える事も出来ず。ええとええと、としどろもどろしていると。
「キスくらいできゃーきゃー騒ぐなよ。ガキじゃあるまいし」
と、龍は言った。その瞬間、沈黙が流れ。
「き、き、き。キスー! あんた香澄ちゃんとそこまで行ってたのかい!」
その沈黙を破るように、彩女は叫ぶ。貴志は、氷のようにカチンコチンに凍る。
龍、臆することなく。
「ああ。事故った後にアイツがウチに来て。ちょっと良い感じになりかけたけどな。やっぱり、オレとアイツは、走り屋同士さ。それがせいぜいだったよ」
と、言った。
目を丸くする二人。お互い、相手のほっぺをつねろうかと思ったが。さすがに実行はしなかった。
貴志は呆然とする。彩女も呆然とする。ただ、その度合いはやはり違っていた。
その違いに気付き、龍は可笑しそうに笑って。
言った。
「ま、そんな事があったのさ。それじゃ帰ろうか。もう遅いし、アイツも帰っちまったしな」
それから、解散となった。
NSXは帰りももちろん、龍が運転する。彩女が酒を飲んでしまった以上は仕方が無い事だった。
その彩女は助手席で、黙り込んだまま何も言おうともしない。やはり龍が香澄とキスをしたことが妙に引っ掛かり、ついでに言葉も喉に引っ掛かり。
背中の後ろの声すらも、慰めてはくれない。
ただ龍にアクセルを踏まれて、事務的に声を出すのみだった。それでも、良い音は良い音なんだけど。今はそれに浸る気分にはなれなかった。
「オレが香澄とキスをしたのが、そんなに気に入らないか」
と言う、龍の声。彩女はなんの反応も無く次の言葉をまっていて。なんとか言葉を口から出そうともがいていた。
龍の告白から、あからさまにイライラ感を表に出していたから。それに気付いたんだろう。
また、ひっぱたいてやろうかと思ったが。やめた。
そんなことしても気持ちは晴れそうに無かった。
彩女は今度はあからさまに溜息をつく。
それで喉につっかえていたものが取れたのか、不思議と喉が軽く感じられた。
「別に。あんたと香澄ちゃんって、そこまで進んでいたんだな、ってだけさ。でも、もったいないねえ。香澄ちゃん良いコなのに。なんでやっちゃわなかったのさ」
それを聞いて。なんて言葉使いだと思いつつ。苦笑いを浮かべ、龍は言った。
「言ったろう。オレとアイツは走り屋同士なんだ。それ以上は、踏み込めなかったよ」
「踏み込もうとしたんだ」
「ああ、まあな。踏み込もうとしたけどな……」
「けどな、なによ?」
「怖くてな。一線を超えちまうのが」
真剣な眼差しだった、決して冗談でもからかいでもない。真剣な眼差しを龍の横顔で彩女は見た。
「けっ、童貞ボーヤみたいなこと言うんじゃないよ。据え膳食わぬは男の恥、て言うじゃないさ」
「アイツは、そんなんじゃねえ」
「女じゃない、と」
「ああ、女じゃねえな。あのバケモノFDで走る走り屋さ。それ以外に何があるって言うんだ? そうだから、あんたもオレを引き摺り戻したんだろう」
「そうだね、まさかデートのセッティングするわけじゃないしね」
「だよな。セッティングするなら、このNSXをもっと良くセッティングするよな」
それから、会話は止まった。そんな中で「一線を超える」の意味をきちんと彩女に伝えられないことがやや可笑しくもあった。まあ、仕方無い。マリーさんとの約束もある。
彼女はリスクをおかして自分らに告白してくれたんだろうし。どうしてそんなことをしたのか。そんな彼女の気持ちを踏みにじるようなマネだけは、してはいけないと思っていた。
しかし、あの時香澄に欲情したのも事実だ。なんともかんとも、オレも男なんだな、と今更のように意識していた。
だけど、やっぱりそれだけはしてはいけないだろう。そんなことをすれば、自分の人間としての何かが壊れてしまいそうだから。それだけは、してはいけない。
少なくとも、香澄は龍を人間だと思ってくれている。と、思った時。
アイツも、そうなんか。と思った。
それに気付いて、思わず龍は笑った。声を出さず、なあんだ、と言いたそうに。
「なによ、気持ち悪いねえ。さっきから変に笑ってるじゃない。そんなに笑うあんたなんて始めて見るよ」
不気味そうに言う彩女の言葉を聞いて、龍は頷て、言った。
「そりゃあ、オレも人間だからな。人並みに感情はあるさ」
scene9 ハウリング 了
scene10 アウトスカーツ に続く