2nd scene8 カム・バック
その日は一晩中走り続けたせいか、眠たくて眠たくて仕方が無かった。
彩女は仕事中思わず大あくびをして、同僚秘書に呆れられてしまった。
「千葉さん。夜遊びもいいけど、ほどほどにね」
と、説教をたれてくれる。
「はい……」
なにさ、と心の中で舌を出しながら返事する。
どうせ男と夜をともにしたと思ってるんだろな、と思うと甚だ心外だった。
しかし、そう思われても仕方が無いのかもしれない。実際彩女はよく男と夜を共にする事もあった。
と言っても男遊びはわずかで、大半はかつて彼氏と呼んでた男だ。
しかし、そんなのいまどき当たり前だし。
あんたも若い頃散々してるでしょーが、と言い返したくなったが。言っても詮無いことなので言わずにおいた。
とは言え、そんなイメージで見られているのかと思うと。やるせない気持ちでもあった。
かつて、靡木峠に出向く前に、ホームコースとしていた峠では最速を誇っていたドライバーなのだ。
靡木峠に来てから色々あったとはいえ、NSX遣いとしての誇りは健在である。
が、そんなの仕事とは関係ない。いわんやこの世の中では、そんなの無くても別に困りはしない。
彼女から見れば彩女は、父の資産のおかげで高級スポーツカーを乗り回して、ちょっと男にだらしない、お高くとまったお嬢様なのかもしれない。
別にそれでも構わないけど、やはりどうしてもやるせない気持ちは変わらなかった。
いやまて、もしかしたら、彼女だけでなく他の社員もそんな目で自分を見ているかもしれない。
そう思うと、ますますやるせない気持ちになって、キーボードを叩く指のスピードが鈍くなってくる。
だいたい、男どももだらしねーっちゅーんじゃ。
今まで会ってきた男は皆自分を社長令嬢という色眼鏡で見てくれるし、あの井原も車から降りればだらしないことこのうえない。
と言っても、追いつかれてしまったけど、それとこれとは別だ。
下心見え見えで近付いてくる男は特にムカつく。
だから、テキトーに弄んでおさらばしてやったもんだ、ザマみろだ。
馬鹿なボンボンなんかは、散々自分のNSXにケチをつけてくれたもんだ。
何だって、日本車は趣が無い? スポーツ系が好きなら絶対フェラーリかポルシェがお勧めだ?
やはりヨーロッパのメーカーは車の事をわかっている? 確かにヨーロッパのメーカーは歴史も古く伝統もある。
それはいい、だが乗っている人間は、そうだから乗っているのか?
もっと良いのにしたら? 買えないことは無いんでしょ?
価格だけで車の良し悪しが決まるとでも言うのか、まったくおめでたいボンボンだ。
いや、だからこそ、高いヨーロッパ車にでも乗らないと、誰も見向きもしてくれないんだろう。可哀想に。
結構飛ばすんですよ、だ? 助手席で思わずあくびしてしまったけど、飛ばしてたのかあれ?
そんな男は、皆助手席でノびて二度と近付かなくなったものだ。
全く全く、どーしてこう、今の男は馬鹿ばっかりなんだろうか。まったくもって、ムカつく。
このままだと、あたしゃレズにでもなんない限り恋愛なんて出来そうにもないかもよ。
と、馬鹿な皮肉を考えてしまうが、そうだ女もムカつくのがいたんだ。
例えば目の前にいるような……。
なら、どーせいっちゅーんじゃ、まったくもう。
結局、彩女は寝不足も手伝って。この日一日中ムカつきやるせない気持ちのままだった。
「あーあ、やってらんねー」
駐車場に停めたNSXに乗り込み、家路に着く。
しかし、どうしてこうもまた気持ちが荒れるのか、自分でもよくわからなかった。
まあ、だから気持ちが荒れるんだろう、と無理やり納得させるしかなかった。
さて、どうしようか今夜は走ろうか。
香澄はどうする?
一晩中走って、また次の夜に走るとも思えないが。
さすがに疲れているだろうし、今夜はおとなしく、と思いながら途中コンビニに寄った。
晩酌をするための酒を買うためだ、やはり今夜は一杯ひっかけてゆっくり休もう。
なぜか気持ちも荒れているし、こんな気持ちで走ってもぜんぜん楽しくないし。
いや、行ったら行ったで、ますますやるせない気持ちになりそうだ。
香澄とやりあっても、はたしてついていけるかどうか。
ドライもウェットも、共に適わなかったし。
その上、あのウヴな童貞クンのひたむきな走りも侮れない。
それに比べて自分はどうだ? なんでこんなにイラついてる?
なんともかんとも情けない限りだ。
と、コンビニの駐車場にNSXを停めようとしたら、コンビニからどこかで見た顔が袋を下げて出てきた。隣には女がいる。
「あれは……」
と、思いソイツをしげしげと見ていれば、それは紛れも無い。
MR2の源 龍じゃないか!
「アイツ」
龍を確認した時、体温が一気に上昇するように体が芯からほてる。
同時に、あの時、龍がクラッシュしたのがフラッシュバックする。
スピンしたNSXを避けようと、コントロールを誤まりMR2は山に激突して弾き飛ばされてしまった。
ボディはひしゃげ、各部パーツはばら撒かれ、MR2は独楽のように転がりながら……。
その瞬間がフラッシュバックする。
心なしか体が震えてくる。さっきまでの荒んだ気持ちは、いつのまにかどこかへと吹き飛ばされて。
いや、荒んだ気持ちが体の振るえを呼び込んでしまったかもしれない。
しかもそれが、あるとんでもない事を思いつかせてくれた。
そうだそうだそうだ、と「そうだ」が心の中で連発する。
そうだ、龍がいるのだ。
龍がいるのだ。
なんでそのことに気付かなかった。
何の抵抗もなく、彩女はその思いつきを心の中で、ぐるぐるぐるぐる回していた。
一瞬にして、フローチャートはゴールにたどり着いた。
「そうだ、アイツもいる。いるんだよ……」
しかし、隣の女は誰だ? と気にはなっても思う間は無く。
向こうもこっちに気づいたようで、顔を引きつらせている。
そして、否応無く、目が合ってしまった。
もう、誤魔化せない。
彩女は慌てて、NSXを駐車場に停めて。飛ぶように降りて龍の前に立ちはだかった。
「あんた」
龍は突如目の前に現れた彩女に驚き、立ち止まった。
コンビニを出たとき、どこかで見たことのある車がいると思っていれば。
まさか、彩女だったとは。
隣の美菜子はきょとんとしている。
「お取り込み中のところ悪いけど、少しあたしに付き合ってくれないかな?」
彩女は美菜子に一瞥をくれながらも、龍に自分に着いて来いと言う。
美菜子は美菜子で、突然現れた美女が龍と知り合いだと言う事に呆然としている。
通りすがりの通行人や他の客たちは、こっちをじろじろ見ている。
おそらく、三角関係のもつれだろうと、当人たちの気も知らずに好き放題考えてるに違いない。
まったく、はた迷惑な話だった。
「付き合ってくれって、一体どういうつもりだ? オレは別にあんたには用はないし。謝りたいってんならそりゃ筋違いだ。あれはあくまでオレのミスだ、あんたのせいじゃない」
龍はにべもなく彩女を振り切ろうとするも、彩女は一歩も引かない。
「それもあったんだけど、あんたがそう言うならそうしておこうかね。でも、本題はもっと別のところにあるのさ」
彩女は何を興奮しているのか、顔が紅潮している。
龍との突然の再会に驚いている以上に、龍に何か伝えたい事でもあるんだろうか。
しかも、その伝えたい事は。どうも今さっき突然思いついたという感じで、やけに慌てているのが感じられないでもないし、そんなんで付き合えと言われても正直嫌だった。
彩女が一体何の用なのか気にならないでもないが、やはり気乗りがしない。
今さら一体何の用だと言うのか。
「やめとく。オレは仕事で疲れてるんだ。勘弁してくれ」
そう言って、龍は歩き出そうとする。
美菜子も彩女を気にしつつ、龍に着いてゆこうとするが。
「待った、今夜どうしても付き合ってほしいんだよ。うんと言うまで、この手を離さないよ」
いきなり、彩女は龍の腕をつかみ、龍を引きとどめようとする。
この事態に龍はさらに驚き、美菜子は思わず、「あっ」と声を出しそうになった。
「どういうつもりだ」
「こういうつもりだよ」
彩女はその鋭い目で龍の目を見据え、龍の目まで釘付けにする。
あの時とは違い、冷たさはなく、上気した熱いまなざし。
必死だった。
美菜子はどうして良いのかおろおろするばかりだった。
それに気づいた彩女。
「ああ、あなたには用はないから。早くお帰り」
「で、でも。でも……」
美菜子は今にも泣き出しそうだ。
最初、龍に彩女のことを少しからかってやろうと思っていたのに。これはただ事ではないとわかり、狼狽し、頭が混乱してしまっている。
「オレの事はいいから。東雲は先に帰ってくれ。子供と旦那さんが待ってるんだろ」
龍は美菜子を気づかい、美菜子に先に帰るようにうながす。
「別にとって食われるわけじゃないし。さあ。あ、それと悪いけど袋預かってくれ」
その言葉に、美菜子は龍から袋を受け取り黙ってうなずき、龍を心配そうに見ながら小走りで家に帰ってゆく。
美菜子が見えなくなったのを確認した彩女は、龍の腕をつかんだまま。
「じゃあ、あたしに付き合ってくれるんだね」
と、龍に言った。
「ああ、付き合うから離してくれ」
龍がそういうと、彩女は腕を離す。
龍はため息をつき、彩女を睨みつける。
彩女も龍を睨み返している。
このちょっとした騒ぎに、通行人や他の客たちはこっちをじろじろ見ている。お互い、もう二度とこのコンビニには行けないと思った。
それをよそに、鮮やかな紅にに彩られたNSXは、コンビニの蛍光灯に照らされてよりいっそう紅の色を強調して。コンビニに出入りする客の目を引いていた。
彩女は物言わずNSXの運転席のドアを開けると、助手席側のルーフを指差し、龍に助手席に乗るよう促した。
龍はそれに従いNSXの助手席に乗りこむ。
彩女がイグニッションキーをひねれば、C32Bは息を吹き返し。アクセルを少し踏めばC32Bは甲高い声で叫ぶ。
NSXはコンビニを離れて、龍のアパートとは反対方向へ行く。
一体どこへ連れてゆく気だろうか。
「ちょっといつもと違う場所にでも行こうじゃない」
彩女は視線を前にしたまま、ヨコの龍に話しかける。
やはり目は鋭いまなざしのまま。
龍は何も言わない。
目の前の、流れる街中の風景を目にしながら。NSXの挙動を体で感じていた。
なかなか、良い。
なるほど、これなら靡木の峠道にドンピシャだ。
彩女とのバトルを思い出しながら、龍はNSXのセッティングの出来に密かに感嘆していた。
「どうしたの? こんな美女に誘われたってのに、やけにご機嫌斜めじゃない」
と言う彩女の言葉を聞き、龍はとんでもないとかぶりを振った。
「冗談はよしてくれ」
確かに、実際彩女は美人だ。
初めて見たときはその美しさに驚きもしたもんだ。
が、今となってはそんなことどうでもよかった。美人は三日で飽きる、とはよく言ったものだ。
「それより、オレに一体何の用なんだ。ただの暇つぶしってんだったら、ごめんだぜ」
龍は視線を前から横に移す。
助手席側の窓ごしに、夜の街や、歩道を行き交う人々をなんのきなしに眺める。
彩女は、「ふんっ」と鼻で笑う。まるでふてくされた子供を連れている気分だ。
「そうだね。用はチャチャッと住ませたほうが後でゆっくり出来るってもんだね」
彩女は一呼吸置いて、龍に言った。
その言葉は龍を驚かせるのに十分だった。
「このNSXに乗ってみる気はない?」
「え?」
「このNSXに乗って、香澄ちゃんを追いかける気はないか、って聞いてるんだよ」
彩女は得意気な笑顔を浮かべる。
龍は彩女の言葉の真意が読み取れず、彩女の方を向き、ただ呆然としていた。
「驚いたかい?」
今度は龍の方に向き。
そしてすぐに前の方に向きなおる。
龍は言葉が出なかった。
彩女の言ってる事の意味はわかっても、どうしてまたそんな事を言うのか。
「ああ、驚いたさ」
「そうだろうね。いきなりそんなこと言われてもわかんないよね」
「一体どういうつもりだ。NSXに乗れっていうのは」
「さっきも言ったとおり。香澄ちゃんを追うためさ。それ以外に何があるってのさ」
香澄、その名が出たとき龍の顔が強張ったように見えた。
我知らず、左の頬がちくりと痛み出す。
「なんでまたそんな。香澄を追いかけたきゃ、あんた自分でやりゃいいじゃないか。それをどうして」
「あんたがいるからさ!」
間髪いれず、彩女は張りのある声で叫ぶ。
鋭い目の横顔が、かすかに揺れているようだった。
「あんたという男がいるから。あんたに言ってるんだよ」
龍は何のことかわからなかった、どうしてそんなことを言うのか。
そうこうしているうちに、NSXは街中のコインパーキングに停まった。
街のど真ん中の繁華街。
きらびやかなネオンが街を彩り、飲み会帰りのサラリーマンや学生、ちょっとガラの悪そうなオニーサンやオネーサンがあたりを行き交う。
思いっきり場違いな気がしないでもなかった。
「来て、こっちよ」
と、車から降りた彩女は龍に着いて来いと促す。
一体どこに行くのか。
まさか実は彩女は風俗嬢で、しかもノルマがあってそのノルマを自分で果たそうとしてるんじゃなかろうか、いやそれなら貴志か智之が適任だぞ。
などと下らない事を考えてしまった。
しかしその考えは、もちろん外れていた。
とあるビルの地下に続く階段を彩女は降りようとして、龍を手招きする。
気が進もうが進まなかろうが関係ないらしい。
しかもなんだか、どこどこと音がしているが。
彩女はさっさと降りて、龍はため息をついて覚悟を決めて後に続く。
音はだんだんと大きくなる。
テクノだかなんだかわからないが、大きな電子音が響いてくる。
すると、目の前にドアがあって、男が一人立っていた。
従業員だろうか、彩女と龍をみるなり一礼をしてドアを開けてふたりを招き入れる。
ドアが開かれた瞬間、どっと大きな電子音が龍の体に叩きつけられる。
とてもうるさい、耳栓なしで長くいられるかどうか。
が、彩女は慣れた感じで男に手を振り入って行く。龍は顔をしかめて後に続く。
中はやや暗く狭かった。
広さ的にはテニスコート2つくらいの広さだろうか。
左手奥にはカウンター席があって、壁際にテーブルが並んでいる。
そんな中でデカい電子音が単調に繰り返されて、うっすらと淡い緑色の明かりが細々と室内を灯す。
と、思ったら眩しいばかりに光り、また細々と灯って明滅する。
明滅するタイミングがデカい電子音に合わせているのに気付いたのは、中に入ってしばらくあたりを見回している最中だった。
それに灯される他の客たちは、まるでカメラのフラッシュを浴びせられているように見えなくも無い。
なんだか目も悪くしそうだ。
そのフラッシュが緑色なので、なんだかB級ホラーに出るクリーチャーの出現シーンのように思えてしまった。
見るからにガラの悪そうな若者たちがたむろし、女やカネになること、ケンカ、その他下世話な会話に花を咲かせている。
室内の真ん中辺に少し広いスペースがあって、そこではデカくて単調な電子音に合わせてダルそうに体を揺らせて踊る客もいた。
初めて観る光景に、龍は度肝を抜かれる思いだった。
なんというか、不思議の国のアリスのような気持ちだった。
「な、なんだこりゃ……」
龍は音と雰囲気に圧倒され、呆然として、あたりをきょろきょろ見回している。
「よしな、みっともない」
彩女は龍を制し、奥のテーブルに席を取った。
いつも来てるんだろうか、彩女は慣れた様子でボーイにノンアルコールのドリンクを二つオーダーした。
細くて長い指を二本立てるしぐさも様になっている。
ボーイがオーダーを受けてカウンターの方へと向かうのを見て、龍に向き直る。
「初めてかい、こんな店」
彩女はおかしそうに笑った。
「ああ、まったくの初めてだ」
席に着き、龍は憮然と応える。
「そうだろうね、まさかこんな店がこんな田舎にあるなんて思わないだろうし。
そうでなくても、こんなとこ行く暇ありゃ走ってるだろうしね」
彩女は皮肉たっぷりに、龍に言う。
龍はそれを聞いても初めて足を踏み入れるクラブに、どうすればいいのか、と戸惑いを隠せない。
まるで、異空間の中に連れてこられたみたいだ。
これなら、マリーと紅茶を飲んでいるときのほうがまだ気が楽だ。
まばたく淡いグリーンのフラッシュとデカい電子音と周囲の喧騒が、龍の耳と脳と心臓に、これでもかと叩きつけられ。落ち着かせてくれない。
龍は滅入った表情で彩女にたずねる。
「よく行くのか」
「まあね、走る前の景気づけにね。あんたと走った夜も、ここに来てたよ」
思わず、いつもより大きな声で会話をする。
それも仕方ない話で。あのデカい電子音と周りの客の喧騒のおかげで、普通の大きさの声ではよく聞き取れず。到底普通の大きさの声での会話は不可能だった。
が、何も考えずテンション上げようと思うなら、こんな場所がいいのかもしれない。少なくとも彩女には。
それだけに、彩女は声を出し慣れている。
なるほど、張りの良い声はここで鍛えられたのかと、龍は一人勝手に納得する。
「まあ、昔はよくここで男ひっかけてたもんだよ」
彩女はあっけらかんと笑う。
龍は何も言わず、ただ黙っている。
「ところでさ」
「ん?」
続きを聞こうとしたとき、ドリンクが来た。
愛想の無いボーイはドリンクを二つテーブルに置くと、愛想の無いままカウンターの方へ戻っていった。
「あのコはなんなの?」
ボーイが行ったのを見て、興味シンシンな顔つきで彩女は龍に問いかける。
「別に、ただの同僚だよ」
「ホント?」
「ああ、ホントだ」
「ふ~ん、そう」
彩女はにやにや笑っている、どうも探りを入れるつもりだ。
「言っとくが、あいつはもう結婚して子供もいるんだぞ」
龍は少し呆れたようにそう言うと、彩女は目を丸くして。
「うっそー。マジで?」
と、驚きの表情をあらわにする。
「ああ、大マジだ」
「そうなんだ。ぱっと見そんな風には見えないけどねえ」
「まあな」
と、龍がうなずくと、彩女はまたもニヤニヤと龍に問い掛ける。
「でも、妙に親しげじゃない」
それを聞いた龍。
「それがどうした。あんたには関係ないだろう。それより話してもらおうか、どうしてオレじゃなきゃいけないんだ?」
と言ってイライラした様子で、ドリンクを口に含む。
「ああ、そうだったね。ごめんごめん」
彩女はごめんとは言ってるが、きっと心の中では色々とよからぬ事を考えているんだろうと言うことが見て取れた。
龍はため息をついて、素直に彩女の想像に任せることにした。
彩女もドリンクを口に含み、喉を潤す。
いつもより大きな声で話しているから、喉の乾きも早い。
彩女は腕を組み、足も組んで龍を見据えていた。
腕も足も組んで高圧的な態度にも取れないでもないが、彩女は何を改まってか。一つ大きなため息をついて、覚悟するような面持ちで、言った。
「香澄ちゃんがドイツに帰るんだよ」
彩女はそのまま動かず、じっと龍を見据えている。
と言うより、睨みつけているようだ。
そのまま、鋭く冷たい目で龍の心を貫き凍りつかせようとしているみたいだ。
「んな……」
龍は彩女の術中にはまったように、体を硬直させてしまった。
ふたりとも、そのまま動かない。
デカくて単調な電子音も、周りの喧騒も、耳に入っているようで入らない。
脳が意識しない。
ただ、お互い、さっきの言葉を脳内で反芻していた。
そんな中でやっと龍は言葉を発した。
「マジか、それ」
「マジだから、言ってんだよ」
と、凄みをきかせた低い声で言った後。
「何にも聞いてないのかい?」
と、問い返す。
龍は物言わず、黙って頷いた。
彩女は呆れたように溜息をつくと、またボーイにドリンクを頼み、ボーイの持ってきたドリンクを引っつかんでぐいぐいと一気に飲み干した。
飲み干したドリンクのグラスをテーブルに置くと、渋い顔をしてまた溜息をついた。
「あれから香澄ちゃんには会ってないのかい?」
「いや、一回だけ会ったけどな……」
「けどな…、なによ?」
彩女の探りを入れようとする言動に、龍は固い表情をして、言った。
「なんでもないさ。ちょいとヤボ用で会っただけさ。それだけだ」
「そのヤボ用ってなんなのさ?」
「あんたにそこまで言う義理は無い。なんでそんなにオレにこだわるんだよ?」
龍はあからさまに迷惑そうな顔をして、彩女を睨みつける。
「オレにはもう関係無いことだ」
とだけ一言言うと、龍は片肘をついて彩女から目を逸らす。
彩女はそれを見て、またボーイにドリンクを頼み、そのドリンクも飲み干した。
今度は飲み干したドリンクのグラスを持ったまま片肘をついて。
「どう言う意味よそれ?」
と、言った。
龍はそれを聞いて。
「もう、オレは車はやめることにしたんだ」
と、憮然として言ってのける。
一瞬、グラスが彩女の手からするりと抜け落ちそうになったが、間一髪のところでグラスを握りなおす。
彩女の目は点になっている。
もう車はやめるという、龍の言葉が信じられないらしい。
「やめる、やめるって。もう走らないのかい?」
「ああ。もう金輪際、車には乗らない」
「どうして」
どうしてと言う、彩女の言葉に。龍は喉に何かつまったような渋い顔をして。明らかに面倒くさそうにしながら、仕方無いという感じで言った。
「もう、十分だからさ」
「十分?」
「ああ。十分だ。十分走った。免許を取って、MR2買って。散々走りまくって、行くところまで行った。だから、もう十分なんだよ」
「マジ? それマジで言ってんの?」
「まあな」
しばしの沈黙。
喧騒も意識できない沈黙の中で、彩女は振り絞るような声を出した。
「じゃ、香澄ちゃんのことはどうするのさ? まだ香澄ちゃんとのケリはついてないんだろ。それでやめるって、早すぎるんじゃないの」
香澄。その名を聞くたびに、龍はいても立ってもいられない気分になり。体全体に苦渋が滲み出る。
不味いもんでも口にしたような顔で、龍は今までのことを思い浮かべ。
特に、左の頬がちくちく痛んで仕方が無い。
また、血が滲み出るんじゃないだろうか、と思ってしまうほど左の頬が痛かった。
心なしか、その時頬に触れた何かを思い出しているようでもあった。
「仕方無いさ。オレには車が無い……」
絞り出すような龍の声、喉になにか障害物でもあって、それが声の行く手をさえぎってるような声だった。
それを聞いた彩女は、さっきまでの渋い顔はどこかへと吹き飛ばされたのか。
何かがぶち切れた、と言わんがばかりに声を張り上げた。
「だから、あんたに乗せてあげるって言ってるじゃないか!!」
突然の大声に、周囲の喧騒が止まったように思えて。視線が矢継ぎ早に自分たちの所にやってくるのが感じられた。
龍も突然の彩女の言動にぽかんとしている。
そんな龍に、さらに彩女はまくしたてる。
「だいたいさ、情けないんだよ! いい大人が子供みたいにいじけて出来ない理由を探し出しては前に進もうとしない。あんたそんなんでよく男がやってられるもんだね!」
一旦、彩女は一時停止ボタンを押したように言葉を止めて、またボーイにドリンクを頼んではそれを飲み干した。
ドリンクを飲み干して、また彩女は続けた。
その間、龍は呆然としていて。周囲は好奇の目で二人を見ている。
それでも彩女はかまわず。
「車が無い? だったら次の車を探そうとするのがホントでしょーが。まったく、あたしゃこんなヤツにスピンさせられたかと思うと腹が立ってしょーがないったらありゃしないよ!!」
彩女はますますヒートアップしてゆく。龍はそれに何も言えず、何も言おうともせず彩女に言われるがままだった。
「あたしが乗せてあげよーかって言った時に。いや、言わなくても。あたしからNSXぶん取るくらいの気概は見せて欲しかったよね! それでこそ、香澄ちゃんも心置きなくドイツに帰れるってもんじゃないか!!」
それを聞いた龍の口元が、すこしぴくっと動いたかと思うと。
マスターらしき中年男性が二人の所までやってきて。
「あんたたちケンカか? なら他所でやってくれないと、他の客の迷惑になるんだけどな……」
と言った。
目は鋭く光って、二人を捕らえて離さない。
「わかったわよ。で、いくら?」
彩女は舌打ちして金を払うと、戸惑う龍などかまわず、その手を引っ張って外に出た。
周りの客はそんな二人を可笑しそうに眺めて、笑っている者もいる。
その中から、龍と彩女の後を追うようにして支払いを済ませて出ていく者の姿もあった。
「ちょ、ちょい! いい加減手を離せ!」
ネオンきらめく街の中、人ごみを掻き分けながら彩女に引っ張られ、いい加減うんざりした龍は彩女に手を離すよう言った。
すると彩女は。
「なら、自分から手を振り解けばいいじゃないか。なんでそれが出来ない!?」
と自分のしたことなど棚に上げて龍に言い返し、手を離した。
龍は舌打ちした。
「もういい加減にしてもらおうか。オレはやめるったらやめるんだ。もう香澄なんか関係無い。あんたもな」
「ああ、そうかい。なら勝手にしな! こんな男に声をかけたあたしが馬鹿だったよ」
と、言い合いが始まった、と思ったら。
「ねえねえ、おねーさん。ケンカしてんの?」
と言う男の声。
ふと声のする方向を見れば、若い茶髪の男がにやつきながらこっちに話し掛けてくる。
後には男女のカップルが一組ついてきている。
そのカップルもなにやらニタついていて、あまり良い印象は感じられなかった。
明らかに、いわゆる不良という感じのヤツらだった。
「なんだい? 今取り込み中なんだ。他所あたりな」
と、彩女は冷たく言い放つ、が。
「そんなこと言わないでサ。オレたち今夜友達と飲みに行くんだったんだけど。一人ドタキャンされちゃって。よかったらおねーさんつきあってよ。こんなケンカするようなヤツといても楽しくないでしょ?」
男は龍を冷たい眼差しで見て言った。それに、龍は内心穏やかではなかった。
自分たちの様子を見てからかってきているんだろうが、あわよくば彩女をナンパしようともしているんだろうというのが、よく見て取れた。
これは下手をすればただ事では済まないかも知れない、それに臆するほど龍は落ちぶれてはいないものの、くだらないことで厄介事に巻き込まれたことにやはり内心穏やかではいられなかった。
ふと龍は男とカップルを見て、はてと思った。
コイツら、あのクラブで見たような見ないような、と。
もしそうだとしたら、前から二人の様子を見ていたんだろう、それでからかいに行く気になったのかもしれない。
そう思うと、ますます龍の顔は苦虫を噛み潰し、その苦味が充満したような気分になってゆく。
すると。
「やだね。あんたみたいなガキはお人形さんにでも相手してもらいな。それでもダメなら、そこにいる彼氏に彼女わけてもらいな」
と、彩女は冷たく言い放つ。
後ろのカップルの男の方は笑いながら、これはオレだけのもんだからわけてやんない、と茶髪の男に言った。
女も笑って、いやんと男に抱きつく。
「へえ~、そんな事言うんだ~」
茶髪の男は動じず、適当に言い返す。
初っ端からこうなることは予想してたのかもしれない、なら、どうするか?
考えるまでも無い、力づくでも彩女を引っ張っていくつもりだろう。
そして龍はボコボコに。
それが男の考える今夜のプランだった。
もちろん龍もそのことは考えている、いつでも来いと、スキを見せずに男の動向をうかがっていた。
まったく冗談じゃねえ、と思いながら。
「どうよおにーさん、カワイソーな僕におねーさんくれないかなあ」
龍は顔をしかめても。茶髪の男は龍に詰め寄ってくる。
男の口から酒の匂いがして、鼻を突く。
龍はさらに顔をしかめた。
来やがったか…、と思った。
龍は覚悟を決めた。
「知らねーよ、そんなの。てめぇでなんとかしろ」
と言うや否や。
「じゃあ、そうする。よ!」
という言葉の後に、龍の左頬に拳が飛んできて。まともにそれをくらってしまった。
「く、ってぇ……」
倒れはしないものの、まともに受けた衝撃は大きく、少しよろけてしまった。
頬が少し熱くなっているようにも感じ、男はかなりケンカ慣れしているのがこれでよくわかった。
おそらく、毎晩のようにこんなことしてるんだろう。
しかしそれで凹む龍ではない。龍は男を睨み返し、すぐさま蹴りを男の腹に見舞ってやった。
足の裏に、なにかにぶい感触がした。
それと同時に、茶髪の男は目を見開いて。後ろ向きに、カップルの方へとよろけていく。
「てめえ……、こんな…っ」
と、茶髪の男の言葉も終わらぬうちに、第二撃が男の腹を襲い。男はそのまま地面に倒れこんでしまった。
「おい、もう終わりか? まだなんともなってねぇだろうが」
男は倒れて、うめいて何を言っているかわからずやっとこさ起き上がったものの、龍はかまわず男に詰め寄る。
怒気を含んだ図太い声、獣のように血走った目。
力強く握られた拳。
男は怖気づいたのか何も言わず縮こまり、カップルの方もいつの間にか距離を広げている。
周りの通行人たちは、いつものことと言いたげにそ知らぬ顔して通り過ぎ、このケンカを誰も止めに入ろうともしない。
そりゃそうだ、こんなことに誰だって巻き込まれたくは無いものだ。
彩女は彩女で、まさか龍がここまでケンカが強い事が予想以上だったらしく嬉しそうに驚いて、満足げに龍を見ている。
「かかってこいや。彩女が欲しいんだろ」
(彩女って、呼び捨てじゃない)
彩女は内心笑った。
敬称なしで龍に呼ばれて、彩女はなぜか心がウキウキしていることに気付いた。
「おい、もうやめようぜ。コイツ強いよ」
連れのカップルの男が、茶髪の男にそう言うと。
あっという間に、女と共にどこかへと逃げ出してしまった。
茶髪の男もそれを見て、龍を一瞥して一目散に逃げ出してしまった。右手でズボンのポケットをまさぐりながら。
それを見た龍ははっとして。
「おい、早くズラかるぞ。仲間を呼ぶ気だ」
と、彩女に言った。
あのポケットをまさぐる動作。あれは携帯電話を取り出して、仲間に連絡を取るつもりなんだろう、そして仲間を連れて龍ボコボコに仕返しし。
彩女には、口には出して言えない事でもしかねない。
そうなったらシャレにならない。
しかし彩女は。
「あ、そう。じゃ帰ろうか」
と、気にする様子も無くあっけらかんとしていた。
さっきまで殺気立っていたのに、この変わりようは一体どういうことだと龍は一瞬戸惑ったが。
「何のんきな事言ってるんだ、早くしないとまたアイツらがやってくるぞ。今度は大勢でだ。そうなるとオレでもどうにも出来んぞ」
と、彩女に急ぐように促す。
「はいはい、龍がそう言うならそうしようかね。でも……」
「でも…、なんだよ」
「あたしお酒飲んじゃってさあ、悪いけど代わりに運転してくれる?」
その言葉に龍は一瞬呆気に取られてしまった。
「なんだって? 酒飲んだ?」
「まあね、あそこでついアツくなりすぎてお酒オーダーしちゃったんだよねえ。あはは~……」
笑って誤魔化す彩女、呆れる龍。
あの時、勢いに乗ってたときに頼んでいたのは、アルコールドリンクだったのだ。
そう言えば、なんだか彩女の顔は赤く火照っているようだ。
恐らくは、カシスソーダかマダムロゼかカルーアミルクあたりだったんだろう。チューハイやカクテルの類は見ただけではアルコールかノンアルコールかはわからない、いわんや照明を暗くしているようなクラブではなおさらだ。
ノンアルコールでクールダウンしていたんじゃなくて、アルコールで自分の感情に火をつけていたとでも言うのか。
まったくなんてこったと龍は思った、これでは否も応も無くNSXを運転しなければいけないではないか。
しかもゆっくり考える暇なんて無い、ボヤボヤしてるとまたアイツらがやって来る。
なのに、いくら酒が入っているとはいえこの彩女の変わりようは一体全体どうしたことか。
二人はどうにか、誰にもからまれることなくコインパーキングにたどり着いた。
「キー貸せ」
と龍は彩女からキーを受け取り、NSXの運転席に腰掛けイグニッションをひねる。
その間に彩女は助手席に腰掛ける。
息を吹き返したC32Bは、龍がアクセルを踏むたびに威嚇するような雄叫びを上げる。
背中の後ろでマシンの声がする。
それだけで、龍はいやでもMR2を思い出さずにはいられなかった。
しかし、今はそんなセンチに浸っている場合じゃない、早くここから抜け出さなければ。
ギアをリバースに入れ、慎重にクラッチをつなげコインパーキングからNSXを出そうとする。
人の車は勝手が違う、特にギアチェンジとクラッチのタイミングに気を使う。
龍のMR2と彩女のNSXのギアの入るシフトギアの間隔も違えば、自分の良しとするクラッチの踏み具合つながり具合と、彩女の良しとするクラッチの踏み具合つながり具合は全く違っていた。
長年のドライバーの癖が、その車に染み付いているのだ。
これがノーマルならたかが知れているが、いくらか改造の施されている車ではドライバーの癖や感性の違いが顕著に現れてくる。
それでも龍はどうにかNSXをコインパーキングから出して、街から離れようとすれば。
突然後ろからパッシングをされた。
なんだと思って後ろを覗けば、セルシオらしきセダンが後ろについている。
まさかと思って見てみれば。
いきなり誰かがロデオよろしく助手席の窓から身を乗り出し、NSXに向かってなにやらわめいている。
「その赤いの、止まれ! とまれっつってんだろーが!!」
あの、茶髪の男だった。
運転しているのはさっきのカップルの男かそれとも別の仲間か。
ともかくヤツは仲間を連れて二人を追いかけてきたわけだ、後部座席にはかるく三人はいると見ていいだろう。
それにしてもなんともまあ、はた迷惑な連中だ。
周囲の迷惑おかまいなく、セルシオは蛇行してクラクションを鳴らしNSXをパッシングしている。助手席からは茶髪の男がわめきちらしている。よほど龍にケンカで負けたのが悔しいのだろうが、ならもう一度一対一で来るべきだ、それが筋ってもんだろう。
と、言っても詮無いことか…。
「アイツら、しつけえ!」
龍は舌打ちした。
「なに、見つかったの?」
と彩女も後ろを覗く。
「あちゃー、もう少し早く出りゃ見つからずに逃げられたのに。タイミング悪いねえ……」
「見つかっちまったのは仕方無い。こーなりゃ、ぶっちぎるしかねーだろ」
と言うと、龍は一息深呼吸して。
「飛ばすぞ」
と、言った。
それを聞いた彩女は少し笑った。
「どうぞ。あんなのに負けないよねえ」
「まさか」
と龍はさらりと流す。
目の前の交差点の信号は青だ、しかしもうすぐ赤になりそうなタイミングだった。
幸い、道路は空いて流れもいい。
数台の車がいるが、二車線路にばらけて点在しているので。ジグザグにすり抜けながら走ることも出来そうだ。
そうこうしているうちにセルシオは迫ってくる、前に出て強引に停めに来るだろう。
龍は黙ってアクセルを踏み込んだ。
V6V-TECのC32Bは勢いよく叫び、後ろのセルシオとの距離を広げにかかる。
走るパイロンとなる他車を避け、スラロームしながら進む。
セルシオもそれに続くが、やはり性能云々よりドライバーの技量の差は大きかった、差は広がる一方だ。
すると、信号が黄色に変わった、もうすぐで交差点だと言うのに。
しかし龍はおかまいなくアクセルを踏み込み、シフトを2速から3速に上げる。
(いけえ!)
龍は心の中で叫び、NSXを駆る。
ヨコの彩女は楽しそうにニコニコしている。
自分の車を他人が運転していると言うのに、何故か嬉しい。確かに他人の車ということで少しばかりギクシャクはしているが、クラッシュしてからのブランクは感じられなかった。
それが特に嬉しかった。
信号は黄色から赤色に変わろうとしている。
交差点にはまだ交差車線からの気の早い車は出ていない。
龍はここぞとばかりに、アクセルを全開にした。
後ろでC32Bが歓喜の雄叫びを上げて、NSXは龍と彩女を背中からどつくように加速する。
二人とも目を見開き、交差点を凝視し、前方に邪魔な障害物となるものが無いのを見極める。
そのせいか、やけに交差点までの道のりが遠く感じられ、スピード感もあまりなかった。
信号は完全に赤になった。
交差する車線から、車が発進する。
右と左、両方から車が出て、目の前のNSXの通れる間隔は狭められようとしている。
しかし、龍はアクセルを抜かない。
後ろとの距離はけっこう稼げたはずだ、ならあとは交差点を抜けるだけ。
NSXは全てそこのけの勢いで加速を続ける。
交差車線の車が迫る。
間隔が狭まる。
クラクションが聞こえた、ような気がした。
それでも龍はブレーキは踏まない、右足はアクセルから離れようともしない。
ヨコの彩女も動じず、平然と構えている。
「いけぇ……!」
龍が小声でつぶやく。
NSXのノーズが交差点に入った。ちょっと横を向けば他の車が見える。
ぶつかる! 誰もがそう思った。
後ろのセルシオは慌ててブレーキを踏んで、急停止した。
おかげで後ろの車は冷や汗をかかされ、怒りのクラクションを鳴らす。
茶髪の男は間一髪、車から落ちそうなのを堪え慌てて車内に戻った。
NSXはそれにもかまわず加速する。
他車との距離が縮まる。
激突する。
と思ったその瞬間。
NSXは交差点を抜けた。交差車線のドライバーのすぐ目の前を、何か赤い物体が瞬間移動したように。
再びNSXに対して怒りのクラクションが鳴らされたが、もうNSXはいなくなっていた。
「マジかよ……」
セルシオのドライバーも、茶髪の男も、ただ呆然と交差点を眺めるしかなかった。
もはや十字路は交差車線を行き交う車たちと通行人が壁を作って、向こうは見えなくなっていた。
その向こうのどこかへ、NSXは走り去っていってしまっていた。
NSXを走らせながら、龍は彩女にどこに行けばいいのか訪ねた。
「んー、しばらくドライブしよう」
などと彩女は言う。龍は当惑した。
「はあ、何を言い出すんだ。帰るんだろう?」
「いいじゃない、カタいこと言いっこなし。ちょっとくらい寄り道してもいいで
しょ?」
「あのなー、オレは明日早いんだぜ。それにオレはあんたのアッシーじゃねえ」
龍は語気を強めて言う、しかし彩女には通じない。
まあ、あらかた予想していたことだが。
「いいじゃない。どうせ家帰ってもやることないんでしょ」
「帰って寝たいんだよ、オレは」
「寝たい? なら一緒に寝たげるからさ」
と言う突然の言葉に、龍は呆気にとられ。
彩女はあっけらかんと笑う。
「なんて、ジョーダンジョーダン。本気にした?」
「するか!」
「素直になりなよ」
「オレは素直だ」
「そお?」
「当たり前だ。どうしてオレがあんたと寝なきゃならんのだ?」
「ねえ、オトナの男と女が二人で寝ると言ったら。あれしかないよねえ。そこま
でちゃんと想像出来た?」
何か、試すようにたずねる彩女。
それに対する龍は。
「想像したさ、ガキじゃねえんだ。だけどな、オレとあんたはあくまでも走り屋
同士でしかないだろう。それ以上でもそれ以下でもない」
と、言った。
しかしその後。
「まあ、もっとも。オレは車ねーから、走り屋とは言えねーかもな」
と、付け加えた。
それを聞いた彩女は、ふっとすました様に笑った。
「なるほど、ね……。あんたは、走り屋としてあたしを見てくれてたんだ」
「そうじゃなかったらなんだって言うんだ? そんなこと言われるなんて心外だ
ぜ」
心外、それを聞いてから、彩女は何も言わなくなって黙りこんでしまった。
案外、色眼鏡をかけていたのは自分かもしれない。ふと、そう思った。
龍は溜息をついて。ハンドルを左手だけで握り、右手は離し右ひじをドアにつ
いて、右手をだらんと下げた。
「んで、どこに行けばいいんだ?」
と、龍が言うと彩女は溜息をつき。
「靡木峠」
とだけ一言言った。
「はあ? いきなり何を……」
一瞬耳を疑って、彩女に問いただす龍、しかし。
「だから、靡木峠」
とだけ言うと、彩女はそれから龍が何を言っても黙り込んでしまって、何も言
わない。
これにはほとほと困り果て。
「頼むから、オレを困らせないでくれ。なんであんた、そんなにオレにこだわる
んだ?」
と、当惑とも怒りとを織り交ぜた語気で彩女に言った。
しかし彩女は聞き入れない。
それどころか、ずっとだんまりを決め込んでいる。
これにはさすがに龍も大声を出さずにはいられなかった。
「いい加減にしろ! テメー自分で香澄に適わないからって、人に任せようとす
るんじゃねえ!!」
その途端、左の頬に張り手が飛んできた。
助手席から彩女が龍に平手打ちを食らわせたのだ。
左の頬がじーんと痛む、しかし、さっきヤンキーに殴られたのに今度は彩女に
はたかれるとは。
龍にとってなんとも災難な夜だった。
「な、なにしやがる!」
龍は怒気を強め、彩女に怒鳴り返す。
しかし運転中なのでうかつに横を向けない。
「あたしだって、好き好んで人に自分の車走らせたりしないさ! こうでもしな
きゃ、あたしは香澄ちゃんについていけないからさ!!」
彩女は目に涙を浮かべて、龍をじっと見据える。
「いや、香澄ちゃんはハナからあたしなんて目じゃないのかもね。香澄ちゃんに
とって、走り屋はあんたとあの井原貴志ってヤツしかいないみたいだしね」
徐々に、彩女の瞳が滲んで潤んでくる。
気のせいか視界がボヤけてくる。
龍は何も言わず、彩女の言葉を聞いている。
「所詮、あたしは出遅れたんだってことだよ。出遅れすぎて、もう誰も目の前に
いないってことなんだよ……。もう完全に周回遅れなんだよ……」
さすがに、龍も彩女のこの悲痛な言葉を聞いて怒気も失せたらしかった。
左の頬の痛みを感じながら、龍は両手でハンドルを持ち直した。
「そんなことはないだろう。同じステージに立つ以上は遅いも早いもないだろう」
「わかってないね、って言うか。わかんないだろうね、あんたにゃ。だってさ、
前から香澄ちゃんと走っていたからね。やっぱり、その差は大きいよ」
「それは…」
「だから、靡木峠に行けばわかるさ」
彩女は必死に涙を堪えていた、例え涙を滲ませようと、人前で決して泣くまい
と必死に涙を堪えていた。
泣けばその瞬間に、自分は完全に負けてしまいそうだった。
そうなれば、もう完全に香澄を追えない、そう思っていた。
周回遅れかもしれない、でも、まだリタイアはしていないのだから。
龍は何も言わず、運転をしながら物思いにふけっているようだ。
どうして、彩女がそこまで自分にこだわるのか。
どうやら靡木峠に行かない限り、わかりそうもなかった。
だから。
「わかった」
と言った。
それを聞いた彩女は。
「そうかい。じゃあ膳は急げってね。目一杯飛ばして頂戴!」
と、嬉しそうに言った。
まだ酒が残っているのか、その顔は赤く上気して。
まるで二次会にでも行くかのようだった。
泣いたりわめいたり笑ったり、もう完全に酔っ払っていると言ってもいい。
こりゃ二次会どころか三次会も四次会も行きそうだ、と思った。
龍は諦めて、そんな彩女につきあうことにした。
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