2nd scene7 バッド・コンディション page2
濡れた路面は両車のパワーをまったく受け止めずに、スルーしようとする。
それでも、ふたりはかすかにパワーが路面を掴めるか掴めないかの限界点を探り出しながら走っている。
が、ドライバーの力量は一目瞭然だった。
酔っ払いのようにふらつくRX-7、濡れた路面にパワーを伝えられるスウィートスポットを探り出すコズミック-7。
貴志は、さっきのNSXとのバトルの再現にいてもたってもいられない気持ちだったが、自分の立場を考えたとき、何をすれば良いのか、とっさには思いつたものの、今度ばかりはそれをする気にはなれなかった。
なんせ、後ろは香澄だ。
香澄がうしろにいる、それだけで十分な理由だった。
なら、NSXはどうだ?
NSXにはハザードランプをつけて道を譲ったくせに、なんで香澄には同じことが出来ない?
「ああ、もう。考えるな。考えるな」
貴志は自分にそう言い聞かせ、必死にRX-7を走らせた。
雨粒がフロントガラスに当たって潰れて、それをワイパーで払いのける。
後ろのコズミック-7には水煙をあびせる。
コズミック-7は水煙をと雨粒の両方をあびせられても、まったく動じない。
ぴったりと後ろにくっついてくる、水煙のお返しにとばかりに20Bのがなり声を貴志とRX-7にあびせる。
それだけで、貴志は心臓が口から飛び出しそうな思いだったが、それと同時になぜが不思議な安堵感も感じていた。
(なぜだ?)
と、思っても答えは出ない、ならひたすら走るだけしかない。
そう、貴志は思いながらRX-7を走らせる。
RX-7はハイパワーが濡れた路面を掴みきれず、前へと進ませようとしてくれない下手な相棒にドライブされていた。
あくびをするような気の抜けたエグゾーストノート。
それが何を意味する事なのか、貴志には痛いほどわかる、でも走るしかない。
壊れたゼンマイ人形のようなぎこちない動き。
香澄にも、それが良く見て取れる。
水煙の中灯るテールランプが、人魂のようにゆらゆらと揺れている。
「もう無理だね」
と、香澄は言うと。なにを思ったか、いきなりスローダウンをして、前のRX-7との距離を広げる。
ミラーでそれを見た貴志は、これがなにを意味するのか考えられなかったが、とにかくもっと引き離さないと、とだけは確かに思った。
東側駐車場まであと少し。
このままいけば自分が前のまま西方向へと走り出すことが出来る。
と、思っていたその矢先。
一瞬の気の緩みが、ついにRX-7に牙を向かせることになってしまう。
「もう少しで、駐車場だ……」
そう思い、無理なことはするまいと思ったが、後ろは香澄だ。むしろ、ペースアップをした方がいいかもしれない。
「あと少しなんだ、少々飛ばしてもスピンさえしなければ」
左コーナーにさしかかり、フロントタイヤがロックせぬよう恐る恐るブレーキを踏む。少しでも力の入れ具合を誤まれば、RX-7はドライバーに痛いしっぺ返しを食らわせる。
そうなるまいと、腫れ物に触るようにゆるりゆるりと走らせる。
なんとか、コーナー入り口は上手くブレーキングが出来た。
次は、コーナー出口での加速だ。
コーナーをクリアしようとし、さっきのブレーキング同様、恐る恐るアクセルを踏む。
タイヤはなんとか路面を掴んでくれる、後ろのコズミック-7はやや離れて、やっとコーナーにさしかかったところだ。
しかしまだ安心は出来ない、香澄が後ろにいる以上は。
だからもっともっと引き離す、だから、いつもより多めにアクセルを踏んだ。少しくらい、大丈夫だろうと思って。
だけど、RX-7は貴志のそのやけっぱちともいえる操作に対し、痛いしっぺ返しを食らわせた。
左コーナーをクリアしようとして、まっすぐ進むはずなのに。
RX-7は前へと進もうとせずに、さらに左に回り込もうとしているではないか。
濡れた路面が、RX-7のパワーをいとも簡単にスルーしてくれたのだ。
「しまった……」
と、思ってももう遅い。
それ見たことか! と、RX-7はキレたように突然の大声を上げて、貴志の意図する動きとまったく別の動きをしようとしていた。
それと同時に、どういうわけだかタイヤまでがそれに呼応して叫び声を上げる。
濡れた路面を掴もうとせずに、空転ばかりしていたのに、今度は路面に必死にしがみつこうと叫んでいた。
ゆっくりとゆっくりと、スローモーションでヘッドライトの照らす景色が回る。
それに合わせ、水煙も反時計回りに弧を描いて回る。
後ろの香澄は、コマのように、反時計回りに回ろうとしているRX-7を目の前にして。落ち着いてブレーキを踏んで、コズミック-7をストップさせようとして。
気がつけば、RX-7はコズミック-7とお見合いでもするのかのように向き合い、ヘッドライトを照らしあっていた。
お互い、愛機のヘッドライトが照らし出す相手の車のドライバーを照らし出していた。
香澄は、いつものように貴志を見つめていて。
貴志は、どうして香澄が後ろにいることに安堵感を覚えたのか、この時初めてわかったような気がした。
その時NSXは西側駐車場にあって、アイドリングのまま動こうとはしなかった。
「あーあ、ヒマだねぇ。早く来ないかな……」
彩女は貴志と香澄の到着を待ちわびていた。
NSXは、スポーツグレードのTypeS-ZEROなので。オーディオはおろかラジオまで無く、室内での暇つぶしになるようなものは一切無かった。
ただ、後ろから響くC32Bの鼓動を聞く以外になにもすることはなく。雨粒がボディに叩きつけられる音が、ついでのように耳に入り込んでくる。
それを遠めで眺めるしかないほかの連中たち。
「ったく。こんな美人がヒマしてるんだから、ナンパでもしろってのよ」
と、そいつらを睨んでそう言ったところで、埒もあかなかった。彩女は靡木峠での嫌われ者だったから、誰も近付こうとはしなかった。
それを思ったとき、苦笑いをするしかなかった。
「まったく、どーしてこうなっちゃったんだろうね」
ふと、耳を澄ましてみてみれば。あいもかわらず、あくびするような気の抜けたエグゾーストノート。
それにつられるように、彩女も大きく口を開けて、大きくあくびをしてしまった。
それに気づき、いかんいかんと首を横に振る。こんな姿とても他人には見せられない。
仕方なさそうにため息をつき、NSXを動かせば。東の方向、東側駐車場に向かって走り出す。
とてもじゃないが、RX-7とコズミック-7が来るのを退屈すぎて待ってられない。だから、自分から出向く事にしたのだ。
ひょっとしたら、途中すれ違うかもしれない。と思ってはみたものの、すれ違うことなく。途中あくびをする車たちを追い越し追い抜き、すれ違うだけで。そのまま東側駐車場まで来てしまったではないか。
そこで、RX-7のそばでしゃがみこんで、リアのバンパーをしげしげと眺める男と、それを照らし出すコズミック-7。そのそばに香澄がいるのを見つけた。
雨に濡れるのもいとわす、男はバンパーを眺め。香澄はコズミック-7のそばで、それを見守っていたが。駐車場にNSXがやって来たのに気づいて、ふたりともこっちを見ている。
確かに、あの時香澄と龍と一緒にいた男だ。やっぱりその男が貴志で合っていたのだが、どうしてバンパーなんか見ているのか。スピンでもしてしまったのかと思った。
「あのNSX、帰ったんじゃなかったのか」
貴志はNSXを見て呆然としている。
帰ったと思ったNSXはまだ帰ってなかった、それどころかまたこっちにやってこようとは。しかもコズミック-7はしっかりとスポットライトを当ててくれているので、自分が何をしているのかしっかり見えている。
彩女はNSXを適当なところに停めて降りて。コズミック-7のヘッドライトの照らすRX-7と貴志と香澄のそばにやって来て、自らもコズミック-7のヘッドライトに照らされ闇から身をさらけ出す。
貴志は、彩女を見てさらに呆然としている。
あのNSXのドライバーは、女だったというのは聞いていたが、結構な美人だったことに驚きを隠せない。
その事に、貴志は何も思いつく言葉も無く、ただただ呆然としている。
こころなしか顔も赤っぽい。
「彩女、帰ってなかったの?」
「この通り、まだ帰ってないよ」
香澄の問いかけに彩女は愛想笑いを浮かべながら応える。
「それより、そこの彼はどうしたの?」
と、顎を貴志のほうにしゃくって問い返す。
「スピンしちゃったんだ」
と、あっさり応える香澄。
力なく頷く貴志。
「ふーん」
と、RX-7を見てみれば。そのリアバンパーには少しだけ削りでけずったような跡があるのを見つけ。なるほど、スピンして少しばかり後ろをぶつけたか、と思った。かすり傷ですんだようだけど。
彩女は貴志に気づかれぬように、優しげにくすっと笑った。
貴志は傷ついたバンパーをやるせなさそうに眺めていた。
そんな貴志に彩女は。
「あなたが、貴志クン?」
と、声をかける。
声を掛けられた貴志は、「貴志クン」と呼ばれた事にやや驚きながら。
「は、はい。井原貴志といいます」
と、上ずった声で応える。
言うまでも無い、貴志はNSXのドライバーの美貌にやや面食らっているのだ、なんともウヴなことか。
「さっきはごめんね、ちょっといじめちゃったかな? あ、そうそうあたしは千葉彩女。よろしくね」
悪びれず、笑いながら彩女は言った。
その言葉に、さすがに貴志も顔が引きつり、正気に戻らざるをえなかった。
そうだ、このNSX使いは龍のクラッシュの原因でもあり、香澄とのバトルにあっけなく敗れているのだ。が、当の彩女はそんな事あまり気にしていなさそうで。実にあっけらかんとしている。
そんなNSX使いに自分は道を譲ったのだ、なんともかんとも情けない事だった。
「そんなに落ち込まなくてもいいのよ。走り屋してりゃ誰でも経験する事ジャン」
あっけらかんと言い放つ彩女。
追い討ちを掛けられた貴志。落ち込まずに入られなかった。
なのに香澄はフォローの一言も入れてくれない。
と、思ったら。
「そんな、彩女。言いすぎだよ」
と、すかさずフォローを入れてくれた。
「か、香澄ちゃん……」
貴志は救いを求めるように、香澄のほうに振り向いた。彩女はそれを見てあっけに取られている。
なんだか、貴志という男は自分の予想とかなりかけ離れて。お人好しで気弱な性格をしているようだ。そんな男が香澄に挑み続けて、香澄を追うためにRX-7をパワーアップさせたというのか。
にわかには信じられなかった。
まったく、龍とは大違いである。
しかしまあ、言い過ぎなのは確かだ、彩女は何かを拝むように片手を顔の前に差し出し、片目をつむって。
「ごめんね。確かに言い過ぎたよ」
と、詫びを入れる。
「あ、いえ……。いいですよ」
彩女の動作に、貴志はまた上ずった声で応える。
それを見て、今度は貴志にもわかるように、優しげにくすっと笑った。
まったく、ウヴだねえ、と。
貴志は貴志で、香澄ちゃん優しいなあ、と香澄に感謝してたりする。さすがは、マリーさんの組んだプログラムだなあ、とも思っていた。
「それより、ふたりとも来てたんだね」
香澄の問いかけに、貴志と彩女は頷いた。
「その前に、そこの彼と一緒に走ってたけどね」
と、彩女は貴志を見ながら言った。
「うん、まあ。負けちゃったけどね」
「負けた?」
「うん、後ろから追いかけられて、かなわなくてハザードつけて、ね……」
「そうなの……、RX-7は調子よさそうだったけど」
「パワーアップしたんだろ、まだ慣れてないんだね」
「まあ」
「大丈夫、次があるって」
「ど、どうも……」
貴志はしゃがみっぱなしで傷を撫でながら、彩女はコズミック-7を見ながら、香澄はふたりを交互に見ながら話は続く。
雨は少し弱くなったようで、空から降り注ぐ雨粒の量は少なくなって、三人はやや濡れはしてもずぶ濡れは免れそうだった。
香澄はもちろん防水加工もキッチリと施されている。
「そうだね、次はスピンしないようにしなきゃね」
「そ、そうだね……」
香澄の言葉に、貴志の傷を撫でるスピードがやや早くなる。
「そう言えば、なんで君はスピンなんかしちゃったの?」
「まあ、それは、慣れてなくて」
「香澄ちゃんと一緒に走ってたろ」
「はい……」
「道理で、いつまで経っても来ないわけだよ」
と、彩女は香澄のほうを向いて笑った。
貴志は、とほほ~とうつむく。
二連敗の上、スピンで今夜は良いとこなしだ。貴志はため息をつきながら立ち上がる。
「そうなんだ……。私が来る前にそんなことがあったんだね」
「まあね、でも頑張ってたよ彼は。それより、来ないかと思ってたけど。来たんだね」
「うん。走りたくなってね」
「なるほど、もっともな理由だね、それは」
「走りたいときに走らないと、ね。天気に関係なく。そうしないと、いつ走れなくなるかわかんなくなっちゃうから」
「おやおや、随分と意味深なこと言うんだねぇ」
香澄の言葉を聞いた彩女は、それほど深く考えずにそのまま流そうとしたが、貴志はそうはいかなかった。
貴志は龍とともに香澄の正体を知っているのだ、そして今ここにいることの出来る理由も。
「それは、どういう意味なんだい?」
驚いた表情で香澄に問いかけた、とりあえず日本にいる限りいつでも走ろうと思えば走れる香澄がそんなこと言うなんて。
すると香澄は。
「あのね。私、ドイツに帰ることになったんだ……」
と、さびしげに応えた。
どことなく、目もうつろだ。
精巧に創られたアンドロイドとは思えないほど、目の焦点が合っていない。
いや、精巧だからこそ、なのだろうか……。
やがて自分に訪れる時を悟り。それを待つことしか出来ない事に、わびしい気持ちなのだろうか。
人の手によって創られた感情が、こうまで思いつめるものだろうか。
貴志はふとそんなことを思った。
そしてそれは、マリーも同じなんだろうか、とも。
彩女は耳を疑い、驚いていた。
「ドイツに帰る、って。香澄ちゃん外国人?」
そんなの初耳だ、と香澄に詰め寄る。
「いいえ、私は日本人だけど。日本に一時帰国してただけなんだ」
「そ、そうだったの……。帰国子女なんだ」
彩女はそれに言葉も出せず呆然として、香澄は物言わず頷いた。
まさか、香澄が帰国子女だったとは。しかも一時帰国で、もうすぐドイツに帰ることが決まってるとは。
彩女は唇をきゅっと引き締めて、香澄を睨み付けるように見つめた。
貴志は、デク人形のように押し黙っている。
香澄がドイツに帰る、それはすなわちマリーも帰るということ。
いつかは、と思った。もう香澄が来て半年経ったのだ。
テストは半年の予定だったのだろうか、と。
でも、本当はまったく違う理由なんだけど。もちろん貴志がそれを知る術も訳も無く。もちろん香澄も真実を語らない。
一瞬で、脳内ワープをしてしまったような気分だ。
どこにワープしたかわからないが、とにかく今そんな気分だ。
「そう、なんだ……」
やっと、これだけが出せた。
香澄は、自分を見、押し黙るしかないふたりから。コズミック-7に視線を移して、言った。か細い、空気と一緒に洩れるような、か細い声で。
「だから、ドイツに帰る日が来るまで毎日走ろうと思って、ね……」
コズミック-7は、香澄の意を汲み取ったように。ただ静かにアイドリング音を奏で続けている。
「そうかいそうかい。ならさ、こんなところでボヤボヤしてていいのかな?」
と言う彩女の声。
それを聞きながら、香澄はコズミック-7から目を離さず。コズミック-7のアイドリングの鼓動を体で感じ取っていた。
体内の内臓センサーがそれを感知している。
「ドイツに帰るのは仕方ないけどさ。毎日走りたいってんなら、油を売るヒマなんてないだろ。じゃどうする? 走るしかないだろ、違うかい?」
語気を強め、香澄に詰め寄る。
香澄はやっと彩女の方を向いて、その声に耳を傾ける。
彩女の香澄を見る目は鋭く光り、コズミック-7のヘッドライトに照らされてもなお、その鋭く光る目はコズミック-7のヘッドライトの照らす光に取り込まれていなかった。
「千葉、さん……」
貴志は何か言いたそうに恐る恐る彩女に声を掛けようとしたら。
「ん、何?」
彩女は鋭い目のまま貴志をにらみ返す。
そしてそのまま。
「あんたもさ、スピンしたくらいでしょんぼりしてないでさ。かすり傷ですんだなら次にいかなきゃダメでしょーが」
と、貴志にも詰め寄る。
「は、はい……」
貴志は、彩女のその一言で、完全に彩女に飲み込まれてしまったようで何も言わない。
それを見て香澄はおかしそうに笑い。
「そうだね、彩女の言うとおりだね」
そう言うと、香澄は何も言わず回れ右をしてコズミック-7に乗り込もうとする。
それを見た彩女も、ふっと笑い、自分のNSXに乗り込もうとする。
貴志は、ふたりの様子を見て、残されては大変とばかりにRX-7に乗り込もうとする。
なんだか恐る恐るしっぱなしだが、愛機に乗り込めばそんな事言ってられない。
三人がそれぞれの愛機に乗り込めば。
トリプルローターぺリの20Bが、V6V-TECのC32Bが、ブリッジポートチューンの13BTが。空を覆う雨雲に向かって高々と雄叫びを上げ、雄叫びは山々にこだまする。
闘いの雄叫びを上げ、峠道に愛機を放つ。
先頭はコズミック-7、真ん中はRX-7、しんがりはNSX。
パワーがスルーされる濡れた路面もいとわず、野に放たれた野犬のように雄叫びを上げ続け、走る。
走りながら、やはり先ほどのように酔っ払いのようにRX-7はふらついてくれるが、その中で貴志は彩女のために言いそびれた事を思った。
香澄はドイツに帰るという、なら、どうしてそれを昼来たときに言わなかった?
それとも、言えなかったのか?
それもあるかもしれない、香澄には秘密がぎっしりとつまっているから、言えなかったのかも知れないが香澄は「敢えて」言ってくれた。
いや、家を出る前に、マリーさんが……。
そう思うと、切なくて、やるせなくて、アクセルを多めに踏んでしまうのだが。
それでも、コズミック-7は遠ざかる。
水煙の中、テールランプが、闇と水煙に溶けてゆくように小さくなってゆく。
歯が、かちっと音を立てた。
それと同時に、NSXがRX-7を威嚇する。
ちょいとお情けをかけて貴志を前に出してやったが。いかんせん、やはり遅かった。
そんな貴志に彩女はNSXをけしかけ、はっぱをかける。
RX-7は水煙をNSXに浴びせかけて、防戦するも。防戦むなしくNSXに追い詰められっぱなしだった。
NSXのヘッドライトに照らされるリアバンパーの傷痕が痛々しい。
「しょーがないね、まったく」
彩女はしびれを切らし、RX-7のインを伺った。右コーナー、RX-7は先ほどと同じように恐る恐るのブレーキング。
貴志はミラーに写るNSXのヘッドライトを気にして、インを閉めようとした、その直前。
自分の右側に赤いNSXの車体左サイドが目に飛び込んできた。
「え、えぇ……」
それがなにを意味するのか、言うまでも無い。
それだけ自分が早いブレーキングをしているということだ、その理由は怖いから。
それを彩女に見せ付けられ思い知らされて。貴志は自分がこの雨の中、パワーアップした愛機をどのように走らせてきたのか、痛感していた。
体全体を針で刺されたような気分だった。
かつて香澄を必死のレイトブレーキングで抜き、香澄が抜かれたのは後にも先にもこれきりだが、それでも香澄をコーナーで抜いた唯一のドライバーである自分が、今。
昔のように、バイクのΓ(Γ(ガンマ)=スズキRGV250Γ)に乗っていたきに戻ってしまったような錯覚におちいってしまった。
NSXは抜いたRX-7など知らぬと言いたげに、水煙をあびせ。コズミック-7同様、闇と水煙の中に消えていった。
「……、ちきしょう……」
貴志は歯を食いしばり、それをただ見送るしか、今はなす術がなかった。
今夜は、RX-7を傷つけ、己の未熟さを思い知った。
今はその自覚がないものの、今までの生きた中で、Γ(ガンマ)を失った時に次いで二番目に苦い思いをした夜だった。
しかし、RX-7は貴志をセンチな気分になんかさせてくれなかった。
13BTブリッジポートチューンエンジンは、だらしない貴志に喝を入れるかのように吠え立てる。
「そうだ、そうだよな。そうだよなあ」
貴志は、苦い思いをそのままに。ハンドルを強く握り締めて、アクセルを踏み続ける。
歯が、かちっと音を立てた。
彩女は彩女で、いまだ追いつかぬコズミック-7に苦々しい思いをしていた。
「どうして、どうしてあたしは調子の良い事をべらべらくっちゃべっちゃうのかね」
まったく、カッコ悪いったらありゃしない。
香澄に走るようにけしかけといて、このザマだ。
おそらく、香澄はふたりのことなどお構いなく走っているだろう。
いつまで経っても、彩女がどんなにふんばって走っても、テールランプすらちらつかない。
そうこうしているうちに、あの場所にやってきてしまった。
直線入り口、龍がクラッシュした、あの場所。
香澄とのバトルの時のように、足が固まることはなく良い感じで直線に入れたが。
「見えた」
と思ったが、コズミック-7はすでに直線を終えてコーナーに差し掛かり、そのままコーナーの向こうに消えていってしまった。
「やっぱり、香澄ちゃんは速いね……」
と思いながら、ふと後ろを気にしてみれば。
ミラーには、貴志のRX-7のヘッドライトがちらちらと見え隠れしている。
「まさかね」
一瞬、彩女はRX-7が気になった。そうだ、RX-7はパワーアップしているのだ。
ならば……。
NSXは直線に入り、濡れた路面もいとわず。V6V-TECのC32Bエンジンは甲高い雄叫びを上げ、後ろから蹴りを入れられるように加速する。
その時、C32Bのエグゾーストに割り込み、C32Bの雄叫びを濁すようになにかの音が入り込み混ざりこむ。
「まさか、って。やっぱり……」
ミラーを覗けば、ミラーに反射する豆粒大の光が、徐々に徐々に迫ってくる。
それは、だんだんと大きくなる。
それに伴い、音も大きくなってゆく。C32Bも目一杯後ろで叫んでいると言うのに。
彩女はすぐさまミラーから視線を外して前のみを見据えた、何が来ているのかわかっているのに、確認するなんてナンセンスだからだ。
「頑張ってるじゃない、貴志クン……」
貴志は、なんとか彩女のNSXに大きく引き離されないように、なんとかRX-7を速く走らせた。
テールランプすらちらつかないが、そんなに大きく引き離されていないはずだ。
ならチャンスはある、それまで堪えるんだ、と。
RX-7はよっぱらいのようにふらつき、時として突然暴れだそうとするが、それでもあるか無きかの勇気と、気合と根性を。
無理やり恐怖心をそれで覆い隠して、それが何なのか理解した上で。
貴志は、前だけを見続けて、走り続け。
そして、そのチャンスはやって来た。
龍がクラッシュしたという場所にさしかかったとき、そのチャンスを生かすときが来た。
「いけえ……」
スピンに気をつけて、直線に入り、恐る恐るながらも貴志はアクセルを踏んだ。
一瞬、龍のことが頭をよぎった。
自分も二の舞を踏むんじゃなかろうか、と。
でも、その不安は相棒が掻き消してくれた。
雨でパワーがスルーされる、でも恐れる事はない。ここは直線だ、まっすぐ走ってくれりゃ相棒が頑張ってくれる。
NSXに食らいついてくれる。
RX-7は己のパワーをスルーされながらも、それでも路面にパワーを叩きつけ続けて。13BTは執念と怒りの雄叫びを上げる。
今の今までいいようにされてきて、黙っていられるわけもなかった。
闇と水煙の中から、引っ張り出されるように近付いてくるNSXのテールランプ。
「来ちゃったんだね、貴志クン……!」
ミラーに大きく写るRX-7のヘッドライト。
一体どのくらいパワーがあるか知らないが、NSXを完全に凌駕しているのは間違いなかった。
彩女は驚きと悔しさの両方を顔ににじませて、一気に老けてシワが増えるんじゃないかというくらい顔を歪ませミラーの光を凝視し睨みつけた。
あの、どう見ても童貞クンのような男が、なかなかどうして。
水煙をあびせられながらも、RX-7はNSXに迫る。
13BTとC32Bはお互いに大声でがなり合って。
「こええ……」
貴志はぽそっと呟いた。
その呟きは13BTに掻き消されたけれど。
怖い、はっきり言って、怖い。それでも、アクセルを踏む、踏まなきゃいけない。
そうしなければ、香澄に置いてかれてしまう。
龍にも合わせる顔がない。
恐らく、龍は自分よりもっと怖い思いをしたはずだから。これくらいのことで、怖がってどうする、と。
あるか無きかの勇気を振り絞る。
それが、ナンセンスな勇気でも、振り絞る。
それと同時に、誰かを置いてけぼりにしているような気がするけど…。
「ったく! 今まで猫かぶってたわけぇ!?」
彩女はC32Bに負けず劣らず、声を張り上げ叫んだ。
このまま、抜かれるのか?
そう思った、が。
RX-7はNSXの後ろについたまま、それ以外の何のモーションも起こさなかった、いや起こせなかったとでも言えばいいのか。
貴志は、NSXのリアテールを凝視したまま。水煙の中赤く光るテールランプをRX-7のヘッドライトで照らし出す。
アクセルは全開から、NSXに着いていけるやや開け程度にとどめ。
「こええ、こええ……」
と馬鹿の一つ覚えのように、こええ、を繰り返してばかりだ。
やはり、いかに直線とはいえ濡れた路面でパワーアップした相棒を右に左にひらめかすことは困難なように思えた。
だが。
「なんなのよ、もう! あんた二重人格者なわけ!? さっきまでさ、ウジウジしててさ。その上童貞っぽいクセに、このあたしにせまるなんて!」
彩女は、貴志をボロクソにケチョンケチョンにけなし吐き捨てる。
もしこれを貴志が聞けば間違いなく泣き出しそうだ、しかしまさか後ろで「こええ」を連発しているなんて想像がつかなかった。
抜かれなくとも、追いつかれたという事実が彩女にプレッシャーをかけるのに十分すぎるくらいだった。
一体全体、この靡木峠はどうなっているんだ。
ここまで、自分を追い詰めるドライバーが一箇所に三人もいるなんて。プライドの高い彩女にとって、これは屈辱的なことだった。
「井の中の蛙だったの、あたし……!」
だけど、RX-7は後ろについたままでNSXを抜こうにも抜けなかった。それでも、彩女には気休めにもならなかった。
そういえば、龍はいつもこの貴志と香澄と一緒に走っていたんだ。
龍だったらこういう時どうしたろうか?
ふとそう思ったとき、貴志の速さにつられるわけじゃあるまいが、心臓の速度が速まった。
「あいつ、こんなこと毎晩やってたの……」
再び氷が背筋をすべるような、あの嫌な感覚が襲ってきた。
まったく、とんでもないヤツらだよ…、と思わずにはいられなかった。
直線を抜けて、西側駐車場まであとコーナー一つと言う時。コズミック-7と、香澄とすれ違った。
香澄はすれ違いざまに、こっちを見ている貴志と彩女と目が合った。
ふたりとも、RX-7とNSXはミラーの中で赤いテールランプを光らせて、闇の中に消えてゆく。
香澄はそれを見送ると、前に向き直って、コズミック-7のアクセルを踏んだ。リアがスライドする。それをスライドするに任せて、カウンターを当ててコーナーをクリアしていった。
コズミック-7は、香澄の気持ちを代弁するように声高に叫ぶ。
そのまま、雨雲を突き抜けそうな、遥か宇宙まで届きそうな甲高い雄叫びを上げる。
パワーが雨に濡れた路面にスルーされるのもいとわず、コズミック-7は香澄のドライビングによって走る。
走りつづける。
闇をヘッドライトで切り裂き、静寂をエグゾーストノートで突き破る。
フロントガラスには雨がぶつかり潰れてゆく。
香澄は振り向かない。
ただ、前だけを見続ける。
後ろに二台いるけど、振り向かない、前だけを見る。
また、あの時に戻ってきたのかなと思った、けど。
「龍……」
香澄はぽそっと呟いた。
戻っていない、龍がいない。
あの、黒いMR2が走っていない。
「龍は、走らないのかな…」
と、言っても龍は走るわけでもなく。
それ以前に、自分の車がないのだ。
どだい無理な話だった。
コズミック-7に聞いても、コズミック-7が応えるわけもない。
ただ、20Bは叫び続ける。
龍を呼びかけるように聞こえても、それは自分がアクセルを踏むから叫ぶのであって、本来エンジンには感情なんてないのだ。
いや、機械には感情なんて無いのだ、だけど自分も機械だ。
なのに、感情に近いものを組み込まれ埋め込まれている。
そのせいか、龍がいない、走っていないということに妙に違和感を感じてしまっている。
こういう時、どうすればいいんだろうか、わからない。
今までいて当然と思っていた誰かが、いなくなるなんて香澄には初めてだった。
「龍、私は走っているよ。貴志も、彩女も。走っているよ。龍は走らないの?
もう走らないの……」
どんな気持ちで走っているのかまでは知らないが、確かに彩女と貴志は走っている。
だけど龍は走っていない。
かつて、前を走っていたMR2を思い浮かべて、ヘッドライトの中に思い浮かべて。
MR2の赤いテールランプが、雨の中うっすらとゴーストのように浮かび上がる。
三人と三台は、このまま走り続けた。
コズミック-7は、後ろの二台を置いてけぼりにするように。
後ろの二台。NSXはRX-7にストーカーのように付きまとわれ、RX-7はNSXにストーカーのように付きまとい。
駐車場を出てすぐ、すれ違うたびに貴志は頑張ってると思った。
彩女は苦戦しているようだ。
コーナー区間では引き離せても、直線に出れば追いつかれる。
この繰り返しだった、出来の悪い再現フィルムを繰り返し見せ付けられるような気分だった。
「いい加減、しつこいんだよ……!」
後ろの貴志に毒を吐いたところで状況は変わることは無く。雨の中、あの時の事を再現している気分だった。
体感速度がなぜかすごく遅く感じるのに、心臓の鼓動と呼吸のタイミングは異様に上がっている。
体温の上昇も、早い。
体がホットだ、なのに、心は雨で冷やされたのか異様に寒い。
「三文ヒーローアニメじゃあるまいに!」
彩女は、貴志の変わりように上手く対応出来ずに、ただ悶えながらNSXを走らせるしか今は術が無かった。
とてもじゃないが、落ち着けなんて言えっこなかった。
「もうホントに。勘弁してよ…」
我知らず、思わず泣き事を吐いてしまった。
それすら気付かず、彩女は貴志から逃げるのに精一杯だった…。
「ついて、いける、なんとか……」
貴志とて、楽をしてるわけじゃないのは言うまでも無かった。
パワーアップした愛機をどうにか走らせ、どうにか言う事を聞いてもらいながらの走行に全身に、冷や汗をかきながらのドライビングだった。
だけど、目の前で見え隠れする赤いNSXの赤いテールランプが、希望の光に思えてアクセルを踏んでいた。
道を譲ったのは正直悔しい、悔しいけど、そんな事言ってる場合じゃない。
香澄が走るというのに、自分が走らなくてどうする。
と、自分に言い聞かせ。
ひたすら、ひたむきに走る。
それだけだった。
それ以外のことなんて考えたくなかった。考えてしまったら、自分はタダの腑抜けに成り下がってしまいそうで怖かった。
だから、走るしかなかった。その度に誰かを置いてけぼりにしていると言う事すら心の片隅からも放り投げてしまって…。
すると、香澄は二台とすれ違った。
RX-7がNSXになんとかついて行ってるのを見て、香澄はやや微笑んだ。
「貴志は頑張り屋さんなんだよ」
香澄は優しげに微笑んで、かつて自分をコーナーで抜いたあのバトルが思い出していた。
香澄は貴志のひたむきなところが好きだった、でもそのひたむきさを別の場所にもっていけばどんなに良かったか……。
いや、詮無いことか……。
だって、選ぶのは他ならぬ貴志自身だ。
もう、仕方が無いことかもしれない。
その香澄。香澄の駆るコズミック-7を目にした彩女は、どうして貴志がここまで頑張るのか、今更のようにはっとして唇をかみ締めていた。
「そうか、そうなんだよね、そうだよねえ……」
彩女は大きくため息をついた。
そしてNSXは一抜けたと、そのまま帰っていってしまった。
貴志はそれを見て。
「え、やめるのか?」
と、あっけにとられ。あの彩女がそのまま帰ってしまった事が理解出来ず。仕方なく香澄に的を絞ろうか、と思った、が。
NSXが抜けた途端、気も抜けたのか、急に疲労が全身に襲い掛かってきた。
目がかすみ、まぶたが異様に重い。ハンドルを握る手に力が入らない。
そこまで自分は気力も体力も使い果たしてしまったのか、と思わずにはいられなかった。
「なんか、すっげえ、しんどい」
貴志はそれだけをようやく、口から漏らし。今夜は諦めてそのまま帰ることにした。
もう、今夜は十分走った、もういいだろうと自分に言い聞かせて。
彩女と貴志が先に帰るのを見た香澄は。急に、人間風に言えば心にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちだった。
まだ、走りつづけるかと思っていたのに。
いや、それとも「疲れた」のかもしれない。
ともかく、ふたりが先に帰ってしまって、まるで置いてけぼりにされたみたいだ。
走っているときは確かに置いてけぼりにしていたけど、変なところでしっぺ返しを食ってしまったものだ。
これもまた、初めての事だった。
だけど、香澄はそのまま走りつづけた。
帰る帰らないは個々の判断で、自分までそれに従って帰る事は無い。
だから、走りつづけた。
あくびをするような他車すらも、本当にあくびをしながら皆帰っていってしまって、それでも香澄は走り続けた。
雨のちらつく中、誰もいない峠で、コズミック-7はひとりぼっちで雄叫びを上げながら走りつづけた。
でも、永遠に走りつづけることは不可能で、ガソリンが残り少なくなってきてしまった。
これでは、仕方無い。
だから香澄もようやく家路についた。
その途中の信号待ちで、ふと思った。
彩女はともかくとして、貴志までが先に帰るなんて。
香澄は寂しそうに雨のしたたる空を見上げた。
空から落ちてくる雨粒はフロントガラスにあたって、潰れて散ってゆく。
それをワイパーが払いのける。
それを見ながら、香澄はぽそっとつぶやいた。
「やっぱり、私は人間じゃないってことなんだね。龍……」
今なにをしているかわからないが、香澄は龍に語り掛けたい気持ちだった。
龍はまた、走り出すんだろうか?
わからない……。
何も、わからなかった。
わかっているとすれば、これから毎日ドイツに帰る日が来るまで、走りつづける。
それだけだった。
龍はどうするのか、わからなかった、が。
わかりたい気持ちがあることに、香澄は違和感を感じていた。
それと同時に、龍の血の暖かさが思い出された。
龍の血は、確かに暖かかった。
もう一度、龍の血に触れてみたい。
あの、暖かな血に、人間が生きているという何よりの証に触れてみたい。
香澄はまた、ぽそっとつぶやいた。
「マリー。やっぱり私、問題が起こってるんだね……」
scene7 バッド・コンディション 了
scene8 カム・バック に続く