2nd scene7 バッド・コンディション
「いいかい貴志君。十分に慣らしをするんだよ」
とある休みの日の昼下がり。
貴志はショップのガレージで、青いRX-7を前にして、ショップの店長と色々と話し合っていた。
店長は年のころは三十四、五くらい。
整備服と手に染み付いたオイルのシミが、携わった車の台数を物語っていた。
「わかりました。それで、何キロくらいすればいいんですか?」
「1000キロは最低してくれ、その間、何か問題が起こればすぐに連絡するように。いいかい、無理しちゃダメだよ」
「はい、わかりました」
店長の言葉に頷き、貴志は愛機のドアを開けて乗り込んだ。
そして、イグニッションキーを捻る。
RX-7は、エンジンに命の炎を吹き込まれて。目覚めの雄叫びを上げた。
その雄叫びは、明らかに以前のRX-7のそれとは違っていた。
相棒の貴志さえ威嚇するような雄叫び。
完全に、RX-7は変わっていた。
愛機の変わり様にビビる間もなく、店長が窓越しに貴志に話し掛けてきた。
まだ何か言いたいらしい、貴志は車窓を開けた。
「いいかい、僕は一度は断ったんだからね。それをどうしてもと言うから、君のFCをチューンしたんだ。だから、なにがあっても僕は君を助けてやれない、全ては君の責任で走るんだ。いいね」
貴志は物言わず頷き店長に礼をした。目は、全て察していると店長に言っていた。
店長はそれでも心配だった。
それもそうだろう、320馬力だったRX-7の馬力を460馬力まで、一気に140馬力上げたのだ。
それにともない、足回りや駆動系、はてはボディ剛性も見直し。
ほとんど全体を改造った(いじった)と言ってもよかった。
全ては。香澄と、コズミック‐7を追うために。
言うまでも無く、貴志の借金も一気に増えてしまった。
エンジンは、コズミック-7の20BのNAぺリに対抗して。13Bターボのブリッジポート加工が施されていた。
タービンも純正から社外製の高性能のものに交換した。
いわばエンジン内部に手を入れて、エンジンそのものがパワーを絞り出すようにしたのだ。
人に例えればドーピング同然の、安易なブーストアップでは安上がりで済むものの。エンジンに無理な負担がかかりすぎて信用がおけない。
だから、安全確実を狙い、手間と金をかけたのだ。
おかげで良い車に仕上がった。
乗りこなせれば、の話だが。
どんなにパワーがあって良い車も、乗りこなさなければただの鉄とプラスチックの集合体でしかない。
それを承知でこの車に挑まなければ、コズミック-7にも挑めない。
貴志はもう一度礼をして、クラッチを踏んでギアを一速に叩き込む。
クラッチが、重かった。
RX-7が、貴志にぼやぼやするなと言いたげに低く唸る。
そしてどうにかクラッチを繋げて、貴志と青いRX-7はショップを後にして、どこかへと走り去っていった。
店長は物言わず、RX-7が見えなくなるまで見送っていた。
どこかのショップでそんなことがあったとも知らず、彩女は職場の事務室でノートパソコンを睨みつけ、キーボードを叩いている。
体にフィットした紺色のスーツが、彼女のスマートな体系を物語っている。
彩女は画面に映し出される社長や会長の予定を、キーボードを叩く力より強い力で頭に叩き込みながら、しなやかな指で速く速くキーボードを叩いていた。
駅前ビルの最上階の一室。
社長室の隣の秘書課の事務室で、同僚と向かい合う形で机を並べて。彩女は自分の仕事に没頭していた。
画面の中に次々に叩き込まれる文字。
日本語、英語の入り混じった文章が。彩女によってノートパソコンに叩き込まれてゆく。
今の彩女はNSX使いの彩女ではなく、自分の働く貿易会社の秘書課のOLとして、働いていた。
その時、もうすぐ昼休みになろうかという十二時に十分前。
社長が部屋に入ってきた。
年のころは60近い。髪は黒いが、顔に刻まれつつある皺に自分の生きてきた年月が刻まれようとしている。
目は鋭く光り、その目で二人の秘書に一瞥をくれた。
「あっ」
と、彩女は声を出しかけ、やめて、改めて。
「社長、どういたしました?」
と、一礼し、社長に声をかけた。
同僚の秘書も一礼をする。
危ないところだった。
危うく社長を、お父さん、と呼ぶところだった。
血の繋がった親子でも、会社にいるときは上司と部下なのだ。
家にいるときのように、馴れ馴れしい態度は取れない。
それはともかく。
社長、彩女の父は咳払いをして。
「今日はスケジュールにあるように。これから私はお客様と一緒に昼食をとる。その後そのまま、お客様の会社に行くから。後の留守を頼んだぞ」
それだけ言うと、社長は部屋を出て行った。
社長は、いつも一人で行動していた。
秘書や、自分が目をかけている部下すら連れてゆくことはめったに無かった。
「誰かを同席させるのは、私が一人で動けなくなってからだな」
と、酒の席では必ず冗談めいてそんな事を言っていた。
でも、それは冗談ではなく、それが社長のやり方だった。
自分の仕事は全て自分でこなす。
まだ足は使える、足は自分を立ち上がらせて、歩かせる。
その足は、力強く、地を踏みしめていた。
それが出来なくて、どうして会社という重積が背負えようか。
ふたりの秘書は社長の後姿に礼をして、残りの時間を仕事に費やしていると、昼休みを継げるチャイムが鳴った。
彩女と同僚秘書はノートパソコンの電源をオフにして、椅子に座ったまま背伸びをし、お互いそのことに気付いて苦笑いを浮かべた。
椅子から立ち上がり、机から離れ、窓に近付き、窓越しに街を見下ろす。
人々や車が行き交う街は、まるでアリの巣のようだった。
建物の隙間を縫うように走る道路、その道路を行き交う人々と車たち。
小学生のころに見た、箱の中のアリの巣のようだった。
今ごろ社長も一匹のアリとなって、目的地に向かっているんだろう。
その時、後ろから同僚の声がする。
「千葉さん、何を一人浸っているの。早くお昼にしないと時間がなくなっちゃうわよ」
十歳年上の同僚秘書は、じれったそうに彩女に背を向けながら、ドアを開けようとしている。
彩女は別に慌てるでもなく、回れ右をして同僚秘書の後についてゆく。
一体私は誰の後を追っているのやら。
と、同僚秘書の後ろについて、彩女はふとふと思った。
ほんとうに、誰を追っているのだろう。
今更ながら、彩女はそんなことを思っていた。
ついでに、今の自分はさっきのアリの一匹になっている、とも。
それから数日が過ぎた。
その数日の間、靡木峠で、香澄はひとりで走っていた。
ひとりぼっち。
研ぎ澄まされた牙を持ち。
羊の群れに紛れた狼。
それ故に、群れを失った狼。
マシンは、香澄の気持ちを代弁するかのように、声高に月に向かって叫び、吼える。
おなじ月を違うところから龍は見て、歩いている。
隣には美菜子がいる。
龍が看護士を目指していたころから、変わらない風景。
一緒に、家に帰る。
それだけのことが、もう何年続いているんだろう。
その何年の間、なにがあった?
看護学生から、看護士になり。
美菜子は母親になり。
龍は、MR2を得て、失っても。
これだけは変わらなかった。
ずっと、一緒だった。
ふたりで同じ道を歩いて帰る。
ふたりに何があっても、ずっとずっと一緒だった。
不思議なようで、不思議じゃない。
いつもの風景。
十字路で、おやすみの声。
そして、またあした。
そんなふたりを見守る月に叫び、吼えるマシン。
その叫びが、響けば響くほど、香澄はひとりぼっち。
それでも、走りつづける。
走るしかないから。
走りつづける。
「え、もう終わり?」
貴志はRX-7の車内で素っ頓狂な声を上げる。
1000キロの道のり。
長いようで、走ってみれば短い道のり。
気が付けば、もう走りきっていた。
普段使わない高速道路も、たまに使ってみればなかなか便利なものだった。
その分お金はかかったけど、今さらお金をケチっても仕方がない。
そして、1000キロを走ったということは、このRX-7を存分に走らせられるということだった。
が、しかし。
「とと、危ない危ない」
貴志は思いとどまってアクセルを踏み込まず、そのまま家路につくことにした。
慣らしが終わったからと言って、すぐにアクセルを全開にするのは賢くない。
慣らし終わったエンジンの中は、予想以上に汚れているから、オイル交換をしてあげないといけない。
そうでなくとも、ロータリーエンジンはオイル消費量も多いから、コマメなオイル交換が要求されるのだ。
どちらにせよ、エンジンをいたわる気持ちがなければ、エンジンはすぐ機嫌を損ねてしまうから。無理はさせてはいけない。
ただでさえ、今まで無理をさせてきた。これから、さらに無理をさせるのだ。
余計なことで、余分な労力を使う事もないだろう。
と、貴志ははやる気持ちをかろうじて抑えながらRX-7を走らせ、家路に着く。
家に帰れば、両親と妹が待っている。
もう、遅い時間だから皆寝てるだろうけど。
家に帰ったら、すぐに寝よう。
寝て、数時間したら仕事だ。
その仕事が終わったら……。
でも、仕事中、あの人は来ないのかな?
マリーさんは、もう来ないのかな?
今は、考える事が出来る、マリーさんのことが。
心の中の囁きが、今は心を静めてくれる。
優しく、貴志の心を突き刺しながら、静めてくれる。
そのマリーは、リビングのソファーに腰掛け紅茶をすすり。バルコニーに通ずる窓ごしに夜空を見上げ、香澄の帰りを待っていた。
月が、夜空に浮かんでこの街を、いや、地球上の夜になったところで、ぽっかりを顔をのぞかせている。
と、思った。
その月はマリーからは見えなかった。
「ふぅ……」
ため息をつきながら、優がリビングにやって来る。
「香澄は、変わらないな」
と、言う優の言葉にマリーは無言で頷き、紅茶のカップを手前のテーブルに静かに置いた。
「そうね。カスミはどこまで行っても、カスミね」
マリーは夜空を自分の青い瞳に映しながら言った。
青い瞳は、水面の月のように揺れているようだった。
「でも、本部に帰った時、カスミはカスミでいられるのかしら」
優はマリーの隣に座り、天井を見上げる。
ぽつりと、優の口から出た言葉。
「心配はいらないさ。オレが、アイツを守ってみせる。何があっても」
優はマリーにそう言った。
優しく、心強く。
優という名の通りに。
「ユウ……」
マリーは優に振り返る。
揺れる青い瞳に優の横顔が映し出される。
優は、ふっと笑った。
「オレに惚れるなよ」
その言葉を聞いたマリーは顔を真っ赤にして。
「Papperlapapp」(ばかばかしい)
とドイツ語で言って、また窓越しに夜空を見つめる。
そんなマリーを見て、優はまた笑った。
「それはそうと、アイツら最近来ねぇな……」
視線を紅茶に移し、優はぼそっとつぶやいた。
マリーは幾分か息を殺し、優と同じように紅茶を見つめる。
「そうね。私たち、いつの間にか日本に来たばっかりの頃に、戻っちゃったみたい……」
「そうだな」
「イハラさんとミナモトさん、今頃どこで何をしてるのかしら」
「さぁ」
「また、あの時のようにみんなで紅茶を飲むときがあるかしら」
優は、何も言えなかった。
それは、アイツら次第だ。
と、言うのは言わなくてもいいことで。言ってはいけないと思った。
マズいことを口にしてしまった、と思ったところでもう遅い。優は、マリーもそうだが、二人が気がかりだった。
貴志は、良いヤツすぎる。龍は龍で、事故でマリーを心配させるし。
(まったく、オレは保護者じゃねーぞ、そこまで面倒見れるか)
と、つい思ってしまった。
月はふたりのいる大きな家の中でのことを察してか。
一段と光り輝いていた。
そうしているうちに、コズミック-7のエグゾーストが聞こえて。
ふたりはガレージに向かった。
香澄を笑顔で迎えるために。
翌々日の昼下がり。マリーは自分の部屋でパソコンとにらめっこをしている時。
一台の車が、やって来た。
その車は、凶暴な唸り声を発して、鼓膜に不快な振動を与え、脳に恐怖を送る。
ディスプレイを見、溜息をついている最中だっただけに。マリーは驚き、体が小刻みに震えてくる。
内蔵式電動モーターがいかれたカラクリ人形のように、肩を震わせ部屋のドアを開ければ、そこに香澄がいた。
音が聞こえた時、主人を待つ犬のように、香澄は部屋の前でマリーを待っていたのだ。
マリーは香澄と目を合わせ、頷いて、香澄を引き連れて、玄関に向かえば。
優が先に玄関を開けようとしていた。
マリーや香澄が一声かけようとするのを無視して、そのまま外に出て。音の主の前に進み出れば、その音の主を見て、舌打ちをして。
「そのセブン、前よりいい音をさせてるじゃないか。井原」
貴志のRX-7を見据えて、言った。
貴志は車から降りていて。優が姿を現すと、ぺこりとおじぎをする。
「こんにちは、潮内さん。どうですか、オレのFC? 変わったでしょう」
少し、震えるような声で貴志は言った。
RX-7の鼓動を体で感じで、RX-7が変わったことを感じていた優は、それを一瞥して。
「ああ、変わったな」
とだけ言って、貴志を見れば。
貴志は変わっていないように思えた。
自分を目の前にしてビビりが入っているのが痛いほどわかる。それでも、足を踏ん張り、わざわざ自分にRX-7を見せに来たのか。
といえばそうじゃなくて。
貴志がここに来る目的は決まっている。
「まぁ、気ぃ付けて走れよ」
貴志の肩を叩き、それだけ言うと、後ろにいたマリーと香澄の脇を通り抜けて。さっさと家の中に入っていってしまった。
後に残されたマリーは、はっとして、慌ててビルドインガレージのシャッターを開けてやった。
ボタンが押されて、シャッターが開いてゆく。
その、シャッターが開いた時。貴志の目の色が変わり、その視線が香澄に向けられたのを、マリーは見逃さなかった。
開かれたビルドインガレージの中で、息を殺して眠るコズミック-7。ノーズを外側に向け、いつでも飛び出せるぞ、と身構えてるようだった。
貴志はコズミックー7に一瞥をくれると、自分のRX-7をビルドインガレージの中に前から入って、コズミックー7の隣に停めた。
降りるときも、貴志はコズミックー7に一瞥をくれる。
香澄はそれを終始見守っている。
マリーは、その香澄と貴志を交互に見ていた。
貴志が外に出たのを確認し、マリーはシャッターを閉めるボタンを押した。
降りゆくシャッターは、二台のロータリーマシンに影を落とし、ガレージの中を闇の中へと変えてゆく。
一度ボタンを押せば、自動的に下がってゆくので、マリーはスイッチのあるところから離れて香澄のいるところまで戻り、貴志も続く。
これまでの間、香澄はこれまた主人を待つ犬のように、玄関でおとなしくマリーと貴志を待っていた。
「こんにちは。マリーさん」
「はい、こんにちは。イハラさん」
この時、やっと初めてマリーと貴志が言葉を交わした。
それと同時に、シャッターは閉まりきり。それを確認するとマリーは貴志を中に招き入れ、貴志はマリーの厚意に預かっていた。
香澄は、一度だけ閉ざされたガレージの方に顔を向け、貴志とマリーの後に続く。
二階のリビングに上がり、マリーは貴志にソファーに座るように促し、貴志はマリーに言われるままにソファーに腰掛ければ。香澄は、背の低いテーブルを挟んで真向かいのソファーに座る。
「今、紅茶入れてきますね」
と言って、マリーは厨房に向かった。
マリーが紅茶を入れる間、貴志は目の前の香澄に目をやった。
「香澄ちゃんも、わかったかい?」
その問いに、香澄は頷いた。
「ええ、わかったわ」
「そうか……。でも、そうだろうね、前と全然音違うから」
「きっと、マリーもわかってると思うよ」
その言葉に、貴志はどきっとしたが、何かを振り払うように。
「そうだろうね」
と、だけ言うと、後は無言になってしまった。
心ここにあらず、心がはるか彼方の空に飛んでしまった。と言う風に貴志は窓の外、青い空を見つめていた。
貴志のブラウンがかった瞳に、青い空が映し出され。脳裏にはそれとは正反対の闇夜の峠道が映し出されていた。
香澄は、そんな貴志を何の感情もなく見つめていた。
ほどなくして、マリーがお盆に紅茶をツーカップ乗せて戻ってきた。
「お待たせしました、さあ召し上がれ」
そう言うと、マリーは紅茶のカップをテーブルの上に置いて。自分は、香澄の隣の座った。
香澄の隣に座るマリーを見て、これでいいんだ、と心の中でそうつぶやき、いただきます、と言ってカップを手にして紅茶をすすった。
甘さと香りと、暖かさが口の中に広がり、それをかみしめる。
気のせいか、紅茶の暖かさが目に染みるのはなんでだろう?
「しばらくお店に行けなくて、ゴメンナサイね」
ふと、その言葉を聞いた貴志は慌てて。
「いえ、そんな。お仕事お忙しいでしょうし。そんなにお気を使わなくても、いいですよ」
と、言った。
でも、マリーは申し訳なさそうに貴志を見つめていた。
貴志はマリーの視線をかわせず、自分の心をなにかで包んで隠すような気持ちで、紅茶をすすった。
「僕も、しばらく紅茶頂きに行ってなかったので。お互い様ですよ」
「でも、こうして来てくれたじゃないですか」
マリーは笑顔で、微笑みながら言った。
貴志も笑顔をつくろうとしたが、どうにもぎこちないような気がしてならない。まるで自分の顔を石膏で固めてるみたいだ。
「だから、嬉しい。ありがとう、イハラさん」
その優しい声を聞いて、貴志は何故か香澄を視界に入れることに辛さを覚えて、マリーと顔を合わせている。
が、それもなぜか辛かった。
別に、二人から尋問を受けているわけでもないし。二人、特にマリーと会えて嬉しい気持ちは確かにあるのに。
それでも、そう思うなんて。
「い、いえ……。ま、まぁ、しばらく行ってなかったから行けないといけないかな、と思って。お邪魔させてもらったんです」
困ったように、そうと気付かれないように、応える貴志を香澄は優しい眼差しで見ていた。
サーモグラフィーで見てみれば、頬の温度が上昇している。
「貴志は、優しいね」
おもむろに、香澄が口を開いた。
それを聞いたマリーは。
「そうね、イハラさんって、優しい人ね」
香澄と同じことを言う。
貴志は面食らったように、それを気付かれないように。
「そうかな」
と、照れ笑いをしながら、紅茶をすすった。
「そうですよ、そうだから、来てくれたんですしね」
マリーがそう言うと、隣で香澄も頷く。
貴志は戸惑い、香澄とマリーを交互に目をやっていた。
「僕は、僕は、その」
「はい?」
というマリーの声。
「なに?」
という香澄の声。
どちらの声も、優しく、抱擁感のある声だった。
貴志は、一息ついて、言った。
「あれ、何を言おうとしているのか忘れちゃった。ご、ごめんなさい……」
これ以上ないというほど顔を真っ赤にして、紅茶をすすって誤魔化す。
その瞬間、マリーと香澄は笑ってしまった。
笑ってはいけない、そう思っても、笑ってしまった。
「もう、貴志。まだそんなトシじゃないでしょ」
「そ、そうだね。ごめん」
「そんなに謝らなくてもいいですよ。私もありますから、そういうこと」
優しい笑顔で、貴志にフォローを入れる。
貴志はマリーにまた、こめんなさい、と言ってしまって紅茶をすすった。
それが、紅茶をすすった最後だった。
紅茶を飲み終えた貴志は、ごちそうさまでした、と言って。
お邪魔しました、と言った。
マリーは、また来てくださいね、と言って。
香澄は、またね、と言った。
貴志は。
それじゃあ、さようなら。
と応えた。
帰るときに、何故か、コズミックー7は視界に入っても見ていなくて、脳裏にリビングで紅茶を飲んでいた時のことが映し出されて。
「オレは、優しくなんか、ないよ……」
と、脳裏に写るものにつぶやいた。
知らずに、ハンドルを握る手に、力がこもった。
そんな貴志の心を読み取ってしまったのか、いつの間にか空には雲がたくさん現れて、太陽を覆い隠していた。
空は、今にも泣き出しそうだった。
夜。
月あかる夜、と言いたいところだが、その夜は雨が降っていた。
雨雲が空に浮かぶ月や星星を覆い隠し、その代わりにたくさんの雨粒を地上に叩きつける。
雨雲は、地上のいたるところに雨水をしたたらして、ところによっては小さな小さな池や川を作り出す。
こんな日は、誰も外に出たがらない、と思っていたら。
靡木峠に数台の車が集っている。
こんな雨の日はタイヤが雨水で滑ってグリップが効かない、もちろんスピードも出せない。
だから走り屋連中は割り切って、低い速度でケツを滑らせてドリフトごっこに興じるしかなかった。
雨の日にスリップ事故が多いのは周知の事実だが、たいていの原因はその路面の滑りやすさにあるのだ。
濡れた路面でやたらアクセルやブレーキを踏むということは、氷の上でじたばたして、つるんと滑って転ぶことに等しいのだ。
そんな不安定な状況の中、走り屋連中は思い思いに愛車のケツを滑らせて遊ぶ。ちょいとアクセルを踏めばいとも簡単にタイヤは空回りをして、右に左にケツを振る。
ただし、ほとんど前には進まない。車は横を向いたまま、車線をまたぐようにコーナーを抜ける。
もちろん、これも技術が要求されることだが、低い速度で、とろりとろりと、ドリフトというより横を向いたままコーナーを抜けてゆく。
気の抜けたような、あくびするようなエグゾーストノートが山々にこだましている。
と、思っていれば。
一台、赤いのが突然割り込んできた。
喝を入れるように怒鳴る甲高いエグゾーストをぶちまけ、あくびするようなエグゾーストノートを一瞬にして飲み込んでしまった。
彩女のNSXだ。
赤いNSXは雨で滑りやすい路面だというのに、まるで乾いた路面を走っているかのように高い速度で靡木の峠道を駆け抜けてゆく。
それでも、やはり乾いた路面で走るよりかはゆるい速度だが。
雨で、軽いフロントが路面を掴みづらい状況の中で、彩女は卓越したブレーキコントロールとアクセルコントロールで上手くフロントに荷重をかけて。フロントが行きたい方向を向き、リアがそれに続き押し出すようにNSXを走らせていた。
こんな状況ではやたらアクセルも踏めないし、ブレーキもまたしかり。
濡れた路面を走る時は、乾いた路面を走る時より速度が遅いとはいえ、先述の理由のとおり神経質なコントロールが要求される。彩女はそれを当たり前のようにこなしていた。
NSXはあくびをする他車たちを払いのけるように、追い越し追い抜き、時には向こうから道を譲ってもらいながら走り。抜いた他車に水煙を浴びせ、その水煙の中、消えてゆく。
その、抜かれた他車のドライバーたちは、自分を抜いていったNSXに対して何を思うのか。
「さすがに、雨の日は香澄ちゃんは来てないようだね。無理も無いかな。でも、他のヤツらにしてみれば、鬼のいぬ間の洗濯って感じだね」
と、愛機に語りかけるように独り言をつぶやく。
あのハイパワーマシンでは、滑りやすい濡れた路面を走るのにパワーがありすぎて走りづらいだろうし、香澄がそれを嫌って走らないのも仕方無いかもしれない。
その間隙をついて、他の走り屋が靡木峠を一時「占領」しているように見える。
それもまた無理も無いことだろうけど。
それでも彩女の気持ちは揺れ動き、揺れ動く気持ちのままアクセルを踏めば。濡れた路面は彩女の気持ちを受け止めきれずに、気持ちと同様にタイヤは空転する。
その度に、彩女は舌打ちをする。
それでもNSXをコントロールする彩女のドライビングテクニックは、かなりのレベルのものであるとうかがい知れる。もちろん彩女の意識下にはそんな思いは無く、ただ納得がいかない。
「香澄ちゃん。弱虫なんだね、案外」
吐き捨てるようにつぶやく彩女。
あれから、再び意を決して靡木峠にやって来たというのに。
香澄はいない。
「雨だから? ふざけんな!」
自分は、雨でも愛機NSXを走らせられる、いわんや雑魚どもでさえ雨の中走っているではないか。
おそらく、龍も、貴志とやらも雨でも走るだろう。
なのに、香澄は走らないのか。
「卑怯者! 香澄の……、バカヤロウ!!」
彩女は怒鳴った、NSXと同様に怒鳴った。
室内に響きわたる、V6V‐TECの3.2リッターC32Bエンジンのエグゾーストノートさえ掻き消して。
それに合わせるようにタイヤは路面をつかめずに、彩女の気持ちと同様に空回り。無意味に昂ぶる気持ちを表すように、水煙は高く上がり、NSXのリアを覆い隠す。
そうだ、無意味だ、香澄がいつ何時靡木峠を走るかは自由なのだから。だから、彩女が怒ったところで詮無いことだ。
そう思えば思うほど、彩女の美しい顔は歪む。
一体何度顔を歪ませた事やら、顔に歪み癖がつくのではないかというくらい顔を歪ませた。
フロントガラスに叩き付けられる雨粒を、憎悪の面持ちで睨みつけ。
それをひたすらフロントガラスにぶつけて潰す。
そうしながら、そうしながら彩女はいつ来るかわからない香澄を待ちながら走るしか、方法が無かった。
「参ったなぁ、雨かあ」
貴志は力なくつぶやき、靡木峠に入っていった。
チューニングをして、慣らしも終わって、さあシェイクダウンだと思っていたら。あいにくの雨だ、これでは全開で走ることは難しい。
だから、今夜は様子見程度で、と思っていた。
なにも無理に飛ばさなければ大丈夫だろう、と。
他車が低い速度でケツを降って、ドリフトごっこに興じている中。貴志もそれに混じってRX-7を雨の中走らせる。
やっぱり、RX-7の13BTブリッジポートチューンエンジンはあくびをするような、気の抜けた声を出している。
濡れた路面は、RX-7のパワーをちゃんと受け止めてくれない。ちょっとでもアクセルを踏み込もうとすれば、すぐにスピンしそうだった。
おまけにエンジンパワーは460馬力になっているから、気が抜けない。例え車の方で気が抜けていても、ドライバーには気を抜かさせてくれない意地悪な状況だった。
さっきも、RX-7は思いっきり横を向いて後ろの車にドテッ腹を見せてしまうところだった。しかもその後ろの車は智之のシルビアだ。
「あちゃ~、カッコわりぃ」
よく知る智之にこんな無様なところを見せてしまって、貴志は顔から火が出そうな思いだったが、智之は。
「460馬力だろ、おい。よくそんなんで雨の中走るよな」
と、唖然としていたりする。
「ま、いっか。ま、いっか」
と、貴志はスピンせずにコース上にいるだけましと自分に言い聞かせる。しかし、慣らしが終わって本気の全開走行が出来るかどうかと試したかったのに、雨とはなんともついていない。
この雨の中、下手な運転をすれば一発でクラッシュだ。
せっかくの460馬力も、この濡れた路面では使い切れないどころか、かえって足を引っ張ってしまう。
まだ、貴志もこのパワーに慣れていないというハンディキャップもあるし。今夜は無理をせずにのんびり走って、本気で走るのは次の晴れた夜にしようと思った。
だが、そうは問屋がおろしてくれなかった。
東側駐車場に来て、そこで折り返そうとした時、どこかで見たことのある赤い車。
いつぞやの、あのNSXがそこにいた。
「あれは、あの時のNSXか!」
雰囲気ですぐにわかった、不思議な事だけど、わかった。
あのNSXだ、と。
どうしてまた、わざわざ雨の日に。と自分の事は棚に上げて、赤いNSXをまじまじと見つめる貴志。向こうもそれに気付いたのか、他車を押しのけるように貴志のRX-7に近付こうとする。
「なな、や、やる気か。あのNSX」
貴志はごくっと唾を飲み込んだ。
そりゃそうだ、パワーアップしたRX-7をまだ自分のコントロール下に置いていないばかりか、この雨だ。とてもじゃないが、まともに走らせる自信はまだなかった。
しかし、だけど、だからと言ってこのままNSXに道を譲るのだけは。自分でも許せない気がした。だって、智之から聞いた、龍の事故の原因となったNSXがすぐそばにいる。
あの後、香澄とのバトルに敗れて。それでもまたのこのことやって来るようなヤツに、どうして道を譲れようか。
「やって、やろうじゃないか!」
貴志はまた唾を飲み込み、すかさずNSXの前でコースに出た。それを見た彩女は。
「やるってのかい。青いRX-7の貴志クンとやら」
と、やや顔を引きつらせながら笑い、RX-7に続く。
聞いた話では、パワーアップの為にしばらくショップにRX-7を預けてたそうだが、ということはそれが終わっているということか。
「パワーアップした愛機を、この雨の中で、バッドコンディションの中で、どう走らせるのか。見せてもらおうじゃない」
彩女はうすら笑みを浮かべ、水煙の中のRX-7のテールランプを睨みつける。
RX-7は足元がおぼつかない酔っ払いのように、ふらついている。この雨ではせっかくのハイパワーも、宝の持ち腐れということか。
NSXはタイヤを空転させながらも、余裕でRX-7についてゆく。
「ついて、こられてる……!」
貴志は必死で逃げながら、喉に何かつまったようにあえぐ。
アクセルが踏めない、それどころか、RX-7がまっすぐ走ってくれない。
いつも通り、前に向かって走らせようとしても、RX-7は言う事を聞いてくれない。
いや、いつも通りは、もう今のRX-7には通用しないのだ。これからは、これからのRX-7に合わせなければ走れない。
「頼むよ、前に進んでくれよ、頼むから」
RX-7に、無意味とわかっても懇願せずにはいられなかった。
「ダメだね、まるでダメだね。なっちゃいないね、貴志クン」
彩女は水煙の向こうのRX-7と貴志をあざ笑った、意地が悪いと思いつつ、あざ笑ってやりたかった、そんな気分だった。
狼に追われる羊、ふとその言葉が彩女の頭の中に浮かんだ。
しかし、馬460頭分の力を持つ羊とは、どんな羊なのだろうか。追っているの狼の方は、それより少ない、馬315頭分の力だというのに。
雨というコンディションが、そんなデタラメであべこべな状況を生み出している。
「ほらほら、速く行かないと抜いちゃうよ抜いちゃうよ」
かつて、龍にやられたのと同じ事を貴志にする。自分から必死こいて逃げるRX-7にぴったりとくっついて、離れない。もしこれが乾いた路面であれば、RX-7にも手の施しようがあったかもしれないだろうが。
「ちきしょう、ちきしょう……」
ミラーから消えない光を、貴志は忌々しく睨み返す。
なんだって、よりにもよってこんな時に来てしまったんだ、と自分を問い詰めたい気分だった。
ふと目の前に赤い光が見えた、他の車がいるのだ、貴志はその車の後ろについた。
他車は後ろに気付いて、ハザードを点灯させて道を譲ってくれた。RX-7とNSXは共にそれを追い越してゆく。
その譲ってくれた車は、智之のシルビアだった。貴志は一度ならず二度までも智之に無様なところを見せてしまった。なんとも、格好悪いことだった。
しかし、そう思うのは貴志だけで、智之はそうは思っていなかった。
「貴志、それにあの女のNSX……! ヤバいんじゃないか」
いやな予感がする、ふと龍と彩女の時を思い出してしまった。そう思いながら、水煙の中消えてゆくRX-7とNSXを見送るしか術が無かった。
貴志は逃げる、彩女は追う。
雨の中、パワーが全く通用しない、全てが己のウデだけの。雨で濡れた路面というバッドコンディションで。貴志は折角のハイパワーを生かせず、それどころかまだコントロール下に置いていないRX-7にてこずりながら。
460馬力を叩き出す13BTブリッジポートチューンエンジンは、全力を出し切れないもどかしさから断末魔の雄叫びをあげているようだ。
そんなRX-7に対して、彩女はNSXの性能を雨の中存分に生かし。V6V-TECの3.2リッターC32Bエンジンは彩女に応えるように猛々しく吼えている。
二台とも他車に比べれば、そのスピードレンジは高いのだが。いかんせん両者の力量の差は歴然としていた。
貴志はコーナー進入では恐る恐るブレーキを踏んで、立ち上がりでも恐る恐るアクセルを踏む。おかげでRX-7はふらついている。
少しでも乱暴な操作をしようものなら、RX-7は前を向かずそっぽを向こうとする。挙動不審、どこに行くかわからない、危険な鉄の固まりとして。その中に身を置くことの怖さを、貴志は嫌と言うほど感じながら走っていた。
フロントガラスにぶつかり、潰れてゆく雨粒が視界の妨げになってもどかしい。
ワイパーも追いつかない。
だが、NSXはRX-7に追いつき迫ってくる。
ローパワーが幸いして、雨の中でも安定して走ることが出来る。それでも乱暴な操作をすればRX-7同様、NSXはどこに行くかわからないのだが。彩女は完全にNSXを自分のコントロール下に置いて走っている、このまま貴志やRX-7すら自分のコントロール下に置きそうな勢いだった。
いや、もう貴志もRX-7も彩女のコントロール下に、支配下に置かれていると言ってもいいかもしれない。
RX-7は水煙の中でただ足掻くばかりで、それ以上の事なんか出来そうも無いのだから。
彩女は口元を歪ませ、うすら笑みを浮かべ、RX-7のリアテールを見つめていた。
水煙でかすむRX-7のリアテールが、やけに儚げに見えるのは何故だろう。
もはや、勝負は見えていた。無理をせずに、ただRX-7の後ろにつけばいい、それだけのことで全ては自分の望む方向に行くのだから。
「もう、おしまいにしようよ。貴志クン」
彩女は貴志に聞こえているかのように語りかけた。
パワーを出し切れず、もがくように走るRX-7は瀕死の重傷を負って、それでも狼から逃げるしかない悲しい羊を思わせた。
NSXは、そんな羊をもてあそぶ狼として、じっくりと羊の死に様を見届けようとしている。
「なんだって、こんな事に……」
貴志はやるせない思いでいっぱいだった。
力溢れるはずのRX-7は、今は全くの無力で、なにも出来ない。だけど、甘えがあった自分がいたのもまた事実で。まさかあのNSXが来ていようとは思いもしなかった、なんて言い訳はもちろん通用しない。
「アマチャンだったよ、ホントに、オレは……」
貴志は歯を食いしばり、今の状況を甘んじて受け入れるしか術が無かった。
「もう、だめか……」
と、左手がハザードランプのスイッチに伸びようとしていた。
それは、彩女に対して負けを意味することだった。
もう、逃げられない。これ以上無理をしても、このコンディションではNSXには勝てない、それどころか自分自身が危なくて仕方が無い。
もし、ここでコントロールミスでクラッシュなんかしようものなら、香澄を追うために費やした時間と金はどうなる?
一体、なんの為にRX-7をチューニングしたんだ?
ここで気張ることなんか無い、また別の、晴れた日にリベンジをすればいい。
「だから、悔しいのは、今だけなんだ……」
その言葉と同時に、左手の人差し指はハザードランプを押して。
RX-7は、ハザードを点灯させて。
NSXは、RX-7を追い越していって。
貴志は、水煙の中消えてゆくNSXを見送って。
彩女は、貴志の方を振り向くことなくそのまま走りつづけて。
「そうそう、それでいいんだよ。貴志クン」
と、言った。
それはまるで、弟をいつくしむ姉のようだった。
「あっけないもんだね、ホントに」
彩女は、貴志のRX-7を抜いてからややペースダウンをして、このまま街へと帰ろうと思っていた。
もはや戦意喪失状態のRX-7のことなどかまうことも無い。
コンディションはどうあれ。勝ちは勝ち、負けは負け、だから。
あの青いRX-7のドライバーに同情する必要などないのだ。それでも、どうしてかあの青いRX-7のドライバー、貴志のことが気になった。
香澄が一目置くドライバー、ということだからだろうか。
それよりも、RX-7を追いかけている最中に感じた、儚げな雰囲気は、どうしてそんなことを思うのか。
おかしなことだった。
「あたしも、アマチャンだね」
と、自嘲気味に笑った。
背中のC32Bエンジンは、昂ぶりから開放されて落ち着きを取り戻し。クロージングに入っている。
このペースだと、RX-7が追いついてくるかもしれないが、かまいやしなかった。なんなら一緒に街に帰ったっていいし、いじけてNSXから逃げたっていい。
耳を澄ませば、あのあくびのような気の抜けたエグゾーストノートがまた山々に響きわたっている。
音から察するに、一体何台の車が走っていたのか?
その中で本気を出していたのは何台いたのか?
そう思うと、彩女はまた自嘲気味に笑った、笑うしかなかった。
笑いと共に、風船が破れたみたいに、張り詰められていた緊張感が一気に抜けていった。
そうこうしているうちにNSXは長い直線に入った、彩女は直線に入る前に龍を思い出したが、無理矢理引っ込める。
もうすぐ西側駐車場だ、もうすぐ西側駐車場だ、と言い聞かせる。
「帰ろ、と……」
と、無理矢理つぶやいた、その時。
何か、聞こえた、ような気がした。
空耳か、と思った。
まさかそんな、と思った。
まだ雨は降っているんだ、今夜中は雨は降りつづけるだろう。
だから、来るわけは無い、と思っていた。
なのに、それは空耳ではなかった。
張りのある、このまま帰ろうとしている自分に喝を入れるような雄叫び。
確かに聞こえた。
今も聞こえて、それはどんどんと大きくなってゆく。
もはや空耳と疑えないほどに。
これで空耳だったら彩女はクスリでもやっているんだろうが、もちろんそんなことはない。
スピードでハイにはなっても、クスリでハイになるようなことはしない。
だから、疑いようがなかった。
「来る……!」
一気に抜けていった緊張感が、とんぼ返りで自分の元に返ってきて、また張り詰められる。
音も近付いてくる。
その音の大きさが、今何を意味するのか、考えるまでも無かった。
その音の主が光と共に自分の前に現れたとき、それは確信へと変わった。
「香澄、ちゃん……!」
刹那、彩女に戦慄が走った。
心臓が高鳴って、我が身が光と音に突き破られるのではないか、と錯覚した。
それは、あくまで錯覚でしかなくて。
光と音は、水煙を上げながら、自分とすれ違っていった。
一瞬の事だった。
彩女は、ただ、それを見送っただけだった。
ミラーを覗いても、すでに光は消えうせ、音も徐々に小さくなってゆく。
それでも、その叫び声は自分に向けられているようだった。
「まさか、まさかそんな。自意識過剰よ」
そう、自分に言い聞かせた。
なら、冷静になって考えてみよう。
あの音と光は、一体誰に向けられているのか?
それを思った時、氷が背筋を滑り落ちてゆくような気分だった。
意気消沈として、貴志がRX-7を惰性で走らせている時。
ふと、何かの音が聞こえたような気がした。
甲高い、天まで突き抜けそうなNAサウンドの雄叫びが聞こえたような気がした。
まさか、あのNSXが折り返してきた?
と、思っていたが。
違う、NAはNAでも。何度も何度も聞いて、聞きまくった。
聞かされたあのサウンド。
コズミック-7のトリプルローター20Bのサウンド。
「香澄ちゃん。来たのか」
貴志はにわかに信じられなかった。
この雨の中、パワーなんかまったく使い物にならない。バッドコンディションの中、香澄はやって来た。
徐々に徐々に、近付いてくる。
昼間訪れたときに見た、あのコズミック-7が来たのだ。
貴志は目の前のコーナーのアウト側が、まだ対向車のヘッドライトに照らされていないのを確認すると、サイドブレーキに手を伸ばした。
そして、ハンドルをやや右に傾け、一気にサイドブレーキを引くと。RX-7は180度反転して、反対車線に移った。
その途端、後ろから急に光が灯り、それが室内のミラーから反射される。ミラーを確認してみれば、間違いない香澄だ、香澄はやって来たのだ。
「来たっ!」
貴志は生唾を飲み込み、ミラーに照らし出される後方車のヘッドライトを凝視して、すぐさま前方に視線と神経を集中させる。
コズミック-7が自分のすぐ後方にいる。
さっきやり合った彩女のNSXよりはるかに手ごわい相手だ。
なんせ彼女は人間ではないのだから。雨の中走ることくらい、どうってことないだろう。
だけど不思議な事に、恐怖心は無い。それどころか、なぜだかわからないが安堵感さえ感じる。
貴志は意を決し、アクセルを踏んだ。
後方のコズミック-7、香澄は、ヘッドライトの灯すRX-7のリアテールを見て、それが貴志のRX-7であるとすぐに確認した。
さっき、彩女のNSXとすれ違ったのに、そのすぐ後で貴志のRX-7に追いつこうとはさすがの香澄も予想だにしなかった。
もっとも、さっきまで彩女と貴志がこの雨の中やり合ってたなんてことは、もっと知らなかった事だが。
「いたんだね、ふたりとも……」
そっとそう呟くと、すぐさま前方のRX-7に標準を合わせた。
貴志のRX-7はコズミック-7を追うためにチューニングされている。一体何馬力出ているのかまではわからないが、やはりコズミック-7と同等のパワーを搾り出すようにされているだろうとは想像が出来た。
「貴志。雨って、難しいよ」
前方のRX-7、貴志にそう語りかけると。香澄は貴志のRX-7を追撃し始める。言うまでも無いが、容赦はしない。
コズミック-7はRX-7のすぐ後ろに着いて、ケツから追い掛け回していた。
コーナーでは、タイヤが濡れた路面のせいですぐに空転をしてくれる。しかし香澄は動じず、必要とあらばドリフトでコーナーを抜けてゆく。
カウンターを当てて、今にも180度反転しそうなほどの角度で、コーナーをクリアするコズミック-7。
トリプルローター20Bは、RX-7を威嚇するように吠え立てる。
ぼやぼやするな、速く走らないか、と。
それが、貴志の耳にも入り込んでくる。
「やっぱり、香澄ちゃんは雨でも速いか……」
貴志はうめくように呟いた。
自分はこの雨の中、パワーアップした相棒を持て余し、そのおかげでNSXに道を譲らなければいけない事態になってしまった。
だけど、そんなこと香澄には関係ない。
バトルの勝敗は走り屋の常。敗北したから情けをかけるなどと、それではかえって貴志を侮辱することになる。
だから、容赦しない。
貴志が一人の走り屋だというのなら、尚更なことだった。
「あたしゃ、なにやってんのかね」
彩女はさっきすれ違ったコズミック-7、香澄を見て。一瞬判断が鈍ってしまった事に腹立たしい思いをしていた。
この雨の中、もしやと思って香澄を求めてやってきたというのに、その香澄を見た途端なにを血迷い遠慮がちになっているのか。
もうすれ違っていくらか経ってしまった、これではすぐに反転して追いかけても追い付けっこなかった。
彩女は仕方なく西側駐車場でNSXを停めて香澄を待つ事にした、が、一つ気になることがある。
あの青いRX-7はどうしたんだろう?
その青いRX-7はすれ違った香澄を追いかけているんだろうか? とは想像はした。
今まさにその通り、RX-7とコズミック-7は追いかけっこをしている真っ最中なのだ、ただ前と後ろの順番が違うだけで。
だけどまあ、例えそうだとしても、どのような結果になるのかは、想像に難くなかった。
コズミック-7は濡れた路面をものともせず、空転するタイヤを、右に左にふらつこうとするリアを上手に制御して前のRX-7を攻め立てていた。
どの程度ブレーキやアクセルを踏めば良いのか、体内のセンサーがキャッチし、それをそのままコズミック-7に伝達する。
そうすれば、コズミック-7はこの雨の中でも無駄な動きをすることなく、前へ前へと進んでくれた。
RX-7を追いかけてくれた。
それに対し、貴志はやはりRX-7のパワーを制御しきれずに、雨でパワーが路面をすり抜けるように路面を掴ませられず、酔っ払いのようにふらついていた。
そのためせっかくの13BTブリッジポートチューンエンジンもあくびをするような、気の抜けた声しか出せなかった。
こんな事では、まったくお話にならなかったが。貴志はそれを自分の精神面だけでカバーしていた。
「スピンさえしなければ、それでいいんだ」
と、ただひたすらRX-7をスピンさせないように走らせていた。
それと、左手はシフトチェンジ以外でハンドルから離さないように。
水煙をコズミック-7に浴びせて、RX-7はただただひたすらスピンしないように走る。
「頑張ってるね、貴志……」
香澄は水煙の中のRX-7のリアテールを見つめたいた。
水煙でRX-7のリアテールはおぼろげに見える。
香澄はそれを見ても何も感じない、ただ、RX-7が劣勢に立たされているとしか認識出来なかった。
コーナーの度にどこへゆくのかわからない、酔っ払いのような動き。
それを貴志は必死でコントロールしている。
危なっかしくてしかたがなかった。これでは、割り切ってドリフトごっこをしている他車の方がまだましだった。
その他車を何度か抜き、すれ違った。
その中に智之のシルビアもあった。
智之は貴志がNSXとバトルをしていると思ったら、突然現れた香澄とバトルをしていることにただ驚くしかなかった。
一体なにがどうなっているのやら、と。
所詮自分たちは蚊帳の外なのだ、と思うしかなかった。
あいつらに関わってたら、とてもじゃないが持たない、だからせいぜいスターターがいいところだ。
「貴志。もう知らねーぞ、オレ……」
智之はすれ違った青いRX-7にぽそっと呟いた。
貴志を四輪の走り屋にしたきっかけは自分だけど、まさかこんなことになろうとは。
もうハタチをすぎた大人なのだ、
貴志は。たとえひょっとしてその性格からして童貞クンだとしても、自分で考えて判断する年齢の人間なのだ。
もう、これ以上のことは自分では面倒見られなかった。
智之は水煙の中消えてゆくコズミック-7とRX-7をミラーで見送ってやった、それしか自分に出来る事は無かった。
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