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2nd scene6 ぬくもり

 龍は朝起きた時に、雨が地面に叩きつけられる音で目が覚めた。

 雨が降ると、休みの日はなんとも思わないけど、仕事の日だとなんだか憂鬱な気分になる。

 正直仕事に行く気がしないが、だからと言って休むわけにはいかない。

「何考えてんだ、しっかりしろオレ」

 自分がどんな仕事をしているのかというのを、頭に猛烈に無理矢理意識させて、体を奮い立たせる。

「うおおお!」

 覚めない眠気を控え目に叫んで取っ払う。

「全く、なっちゃいないぜ」

 と言うと、朝食を作って、食べ終わると歯を磨き、着替えて仕事に出かけた。

 ふと、MR2のキーを捜しそうになった。

 勤務先の病院では、白衣を身をまとって仕事に集中した。

 他の事なんか考えたくも無かった。

 空を覆った雨雲は、そんな龍のネジをキリキリ巻くように、激しく地面に雨粒を叩きつけている。

 龍も雨の音に負けじと懸命に仕事をする。

 途中、同僚の美菜子が話しかけて来たりするが、龍はあまり取り合わない。

 そんな中、龍が病院の待ち合い室を歩いていると。

「あいて!」

 と、男の子の患者が龍の足にぶつかった。

 院内を走ってはいけないという注意書きがあるのだが、男の子はそんなのどこ吹く風と走りまわっていたようだ。

 しかし、病院に診察に来ているのに走りまわるのは子供の持つ元気さというか何と言うか。

 小さな子供だったので、龍は別になんともなかったが。目一杯ぶつかった子供はどこか打ったらしく、泣き出してしまった。

「あらら。ボク、大丈夫?」

 龍より先に美菜子がひざまづいて、男の子に手をかけてやった。龍も適当な言葉をかけて美菜子に続く。

「うん、大丈夫、だと思う。お兄ちゃんごめんなさい」

 涙が流れ落ちる目を両手で抑え、ものがつまっているような感じで男の子は言った。

「大丈夫、大丈夫。どこもなんともないよ。それと、あんまり手で目をこすっちゃダメだよ」

 龍は子供を安心させようと、優しい言葉をかけてやった。

 ポケットからハンカチを出して。目をこする手を優しくどけて、ハンカチで涙をふいてやった。

「これくらいで泣いちゃダメだよ。このお兄ちゃんなんか、もっともっと痛い転びかたしても泣かなかったんだゾ」

 美菜子は悪戯っぽく、ちらっと龍を見て言った。

 余計な事言うなよ、と喉まで出かかった言葉を飲みこんで。龍は口をつぐんだ。

「うん。ありがとう。お兄ちゃん。お姉ちゃん」

 男の子はそう言うと、立ちあがって母親のいる席に戻っていった。

 席では母親の女性がはらはらした表情でこっちを向いてていて、龍と美菜子に一礼をした。

 龍と美菜子も、母親の女性に礼を返し。美菜子は男の子に手を振ってやった。

「全く、ちゃんと躾けとけよな」

 ナースセンターに戻った龍は開口一番に言った。

「そうは言うけど。けっこう大変なんだよ~。あたしあのお母さんに同情するな」

 しみじみと言う美菜子は、いつもの美菜子ではなく。一人の子を持つ母親の顔になって、何かを思い出したようにくすくす笑っている。

「まぁ、源も子供を持ったらわかるよ」

 龍は「はぁ……」、と小さく返してため息をついた。

「子供ねぇ。つーか、これからのことなんて、ピンと来ねぇや……」

「そう言えるのも、今のうちだけだよ。いつの日か四の五の言いどころじゃなくなる時が来るからね」

 と言う美奈子の言葉は、妙に説得力があるように龍は感じた。

 突然の結婚、そして出産。龍のみならず、皆驚いていたのだから。一番驚いていたのは、当の本人だというオチがつきはするものの。

 でも、今のところは先のことを考える必要性を龍は感じなかった。

 と言うか、余裕がないとでも言えばいいのか。

 それから時間が過ぎて行って、いつのまにか終業の時間が迫り、それに気付かずにいると終わりがやって来た。

「お疲れ様でしたー」

 と言う声が、あちこちで飛び交う中。龍と美菜子は病院を出た。

 もう、雨は止んでいた。

 折りたたまれた傘を手に、龍と美菜子は帰りの道を歩く。

 空には月と星空が浮かんでいた。

「明日は晴れそうだね」

 空を見上げて美菜子は言った。

「そうだな」

 下を向いて応える龍。

 道が乾いている。ひょっとしたら靡木峠の道も乾いているかな、と思った。

 でも、そうだとしても、関係が無い事だった。

 もう、MR2は無いのだ。

 それでも、夜の闇に染まった靡木峠とMR2の運転席を思い浮かべると、体がざわざわと騒ぎ出す。

 見えないものを見ようとして。

 見えているものをさらに見ようとして。

 見えてるものを見落として……。

 フロントウィンド越しに見える景色は、激しく流れていて。

 静寂と暗闇を、エグゾーストノートとヘッドライトで切り裂いて駆け抜けた。

 龍の頭の中では、靡木峠を疾走する自分の姿がひっきりなしに浮かび上がってくる。

 そして、あの前を走るコズミック-7も。

 そうかと思うと、バックミラーにコズミック-7のノーズが覗いていた。

 すると。

「またここに来るよ」

 あの時の、香澄が言ったあの言葉が頭に中にひらめいた。

 でも、それに応えることは出来なかった。

 応えられなかった。

 今の龍には、何も応えることは出来なかった。

「オレは来られないよ」

 我知らず、小さく声に出してしまった。

「え、何言ってるの? 源」

 何を言おうとしたのか、自分に話しかけたのか知りたくて、美菜子は龍に慌てて聞きかえした。

 だけど龍は何も言わなかった、言えなかった。


 それからしばらくして、とある休日の昼下がり。

 空は今日も曇天。雨こそ降らぬものの、曇った空のせいで空気はしっとりと濡れているようだった。

 そんなときに、一体誰が龍のアパートを訪れたのかと思いきや。

「久しぶりね、元気だった?」

 と言う、聞き慣れた声。

 香澄だった。

 いつも通り、クールな面持ちだ。

「な、香澄。車は? 音しなかったぞ」

「うん。マリーに自転車借りたから」

 それを聞いて、なるほどと思った。

 しかしコズミック-7とのセットのイメージが強い香澄が、自転車にのるというのは。いまいちピンとこなかった。

「ところで、なんか用なのか?」

「別にないけど、全然峠に来ないし、紅茶も飲みに来ないからどうしてるかと思って。マリーも心配してるよ」

 マリーの名前を出され、龍は少しぎくっとした。

「マリーさんは、オレの事故のこと知ってるのか」

「うん、知ってるよ。凄く心配してたから顔出した方がいいと思うよ」

 その言葉に、龍は溜息をつく。

「そうか、マリーさんにすまないな」

 と、素直に謝る龍。

 マリーの名前が出たからというのもあるが、今日の龍はどこか違っている。

「なんだか、いつもの龍じゃない感じがするよ」

 と言う香澄の言葉に龍は少し頬を引きつらせた。

「いつものオレってどんなんだよ」

 と言った後。

「用がないなら、とっとと帰ってくれないか。また今度行くからさ」

 冷めた表情で香澄に言った。

「そんなつれない事言うの、龍って」

 どこか寂しそうに応える香澄。

「つれないもなにも、オレとお前はそれ以上の関係じゃないじゃないか。それ以外の場所で顔合わせる理由なんか……」

 言っている途中で、龍ははっと言葉を詰まらせた。

 香澄が、目を潤ませている。

「な、わ、わかったよ。入りな」

 そう言うと、慌てて隠すように香澄を部屋に入れた。隣近所にあらぬ疑いをかけられてはたまらない。

 部屋の真ん中のちゃぶ台の前に座って、ちゃぶ台の上にある煙草を一本取り出し火をつける龍。

 香澄は丁寧に正座をして龍の向かいに座ると、くすっと笑った。

「ひっかかったね」

 そう、目を潤ませたのは機能を使った演技だったのである。

 なかなかあざといことをする。

「んな……。お前いつそんなん覚えたんだよ。潮内のオッサンに、いらんこと教えてもらったのか?」

 呆れ顔で龍はうなだれる。

「そうじゃないけど、そうでもしないと追い返されそうだったから」

 一本取ったと言いたげな香澄。

「ねぇ、これからどうするの?」

 顔を元のクールな顔に戻し、龍に問う。

「別に、どうするなんて考えてないけど」

 渋々と龍は香澄の問いに応える。

「もう走らないの?」

「わからん」

「わからないって、どうして」

「どうしてって言われても、わからないものは、わからないさ」

「わからないなんて、そんなことは無いでしょ。どうして? 自分がこれからどうしたいのか、が自分でもわからないの?」

「ああ。わからないよ」

「自分のしたいこと、好きなこと、それがわからない」

「そうだ」

「どうして。それだと自分が何を考えてるのかわからないみたいじゃない」

「そんなこともあるんだよ、人間は」

 香澄の問いに龍はだんだんとイライラしてきた。

「人間。だから」

「そうだ。お前にはわかんねーだろーな」

「ええ、わからないわ」

 素直な香澄の反応に、龍はあっけにとられはしたが。すぐに気を取りなおして。

「とにかく、オレはこれから先のことなんて考えられないんだ、考えたくてもな」

「そんなの、おかしいじゃない。脳がきちんと機能しないないみたいで、何の為に脳があるのかわからないわ、それじゃ」

 龍は黙っている、香澄は続けた。

「これからも走るのか、やめるのか。それさえも考える事が出来ないなんて。簡単なことじゃない。それが出来ないの、あなたの脳は?」

 その言葉に、龍はとっさに大声を出しそうになったが。ぐっと抑えて。

「ああ、まぁな」

 と力無く応え、煙草の煙を吐き出す。

 灰皿に吸いかけの煙草を押しつけ火を消す。

「龍」

 香澄は龍を心配そうに見つめている、なんかキツいことを言ったが、なにも悪い意味で言ったわけでは無く。ただ素直な疑問をぶつけただけなのだ。

 ぶつけられる龍はたまったものではないが。

 よほど堪えたらしく、うつむいたまま微動だにしない。

 こんな龍を見るのは初めてのことだ、最初会ったときは気合も根性も溢れていたのに。それが今は別人のようだ。

 MR2を失った事が、龍に大きな精神的ダメージを負わせたのがよくわかる。これが走り屋と呼ばれる人間なのかと、香澄は思った。

「まぁ人間と言っても、オレは人間らしい生き方はしなかったがな。夜な夜な峠で車走らせるなんて、まっとうな人間のすることじゃないし。ホントなら今ごろは家族をつくっていてもおかしくない、というかそうすべきトシなのに、そうしようとしない。そんなオレが人間だなんて、ちゃんちゃら可笑しい話かもな」

 自嘲気味に、香澄に言い聞かせるように静かに語る龍。

 その龍の心の中には、美菜子の顔が思い浮かんでいた。

 彼女こそ、人間らしい生き方をしている。

 誰かと愛し合い、結ばれて、家庭を築き、母親になった。

 これこそ、人間、いや命ある者の本来のあるべき姿だ。

 でも、そんな彼女は言ってくれた。

 良い車と出会えたんだね、と。

 それが、何故か浮かんでは消して浮かんでは消してを繰り返していた。

 すると、なにを思ったのか。香澄はちゃぶ台の上に両手をつき、ちゃぶ台の上に乗り上げる格好で、自分の顔を龍の顔に接近させた。

「な、な……」

 龍が何かしらの反応をするより先に、唇と唇が触れた。


 柔らかな感触がした。ぬくもりを感じた。

 まるで本当に、人間とキスをしているようだった。

 この状況でそれがわかる冷静さが、龍には不気味だった。

 香澄は目を閉じて、龍は目を見開き。

 この感触を龍は脳に、香澄はAIに刻む。

 それは一瞬なのか永遠なのか判断するいとまもなく、香澄はわかっているけど、お互いの唇が少し離れた。

 お互いの眼前にはお互いの顔が大写しになって、鼻先同士が時折こすれたりする。

 龍は小刻みに震え、いきなりの展開に魂を抜かれたようにじっとしている。

 心なしか、顔が青いようにも見える。

「ねぇ、どうだった?」

 そんな龍などお構い無しに、香澄はさっきのキスの味の評価を龍に求める。

 半開きの、さっき目を潤ませたときよりももっと潤んだ目で。

 黒い瞳が龍を捕らえて離さない。

「……。お前」

 龍は、応えようにも応えられない。

「そうだよね。嬉しくないよね。やっぱり、キスの相手は人間じゃないと」

 龍の顔色を見て、寂しそうに香澄は微笑んだ。

「ねぇ、龍。ごめんね」

 と言うと今度は右手の平を、龍の左頬にあてがった。

 龍の頬の温かさが、香澄の右手に伝わってくる。

「おい、今度はなんだよ」

 龍は香澄の思わぬ行動に戸惑いを隠せない。

 あのバトルの時よりも、龍は香澄に狼狽していた。

 なんで、香澄は龍を戸惑わせることをするのか、全く理解出来なかったが。今度はもっと理解できないことを香澄はした。

 龍の頬に圧力が加わる。香澄が右手の親指に力を入れて爪を押しつけているのだ。

「いて! なにすんだよ」

 針で刺されるような痛みがちくりとすると、赤い血が龍の頬から、ちょっとだけではあるが滲み出る。

 それが香澄の親指にも付着する。

「おい香澄、お前何を考えてるんだ? 何をするつもりだ?」

 龍の心はしだいに恐怖にそまりつつあった。

 香澄は、少しとはいえ龍を血が流れるまで傷つけたのだ。

 まさか、AIがいかれて暴走をしているのだろうか?

 だとしたらこのまま握りつぶされて、命まで奪われかねない危険に侵されるのではないか?

 という恐怖心が龍を襲う。

「大丈夫、怖がらないで。私を信じて」

 母親がわが子に優しく語り掛けるように、優しい眼差しで龍を見つめる香澄。

 しかし流血の事態を招いておいて、私を信じてもなさそうなものだが。香澄がそう言うなら、それを信じるしか選択肢がなかった。

 香澄は視線をうつして、龍の頬からにじみ出る赤い血を、親指に付着した赤い血をまじまじと見つめている。

「赤いね。血って、やっぱり赤いね。それに、ぬくもりがある……」

 龍が呼吸して、吐き出される吐息が、香澄の唇を撫でている。

 煙草の臭いもするはずなのだが、香澄にはそこまでわからないのはご愛嬌。

「だ、だからなんなんだよ。何が言いたいんだ」

 血など龍は仕事がらよく目にしているし、なにより当たり前のことじゃないか。

 それを何故、龍を傷つけてまで、そんなことをするのか。

 皆目見当もつかなかった。

 それが、怖かった。

 龍の気持ちを察したのか、香澄は静かに手を離して、顔は離さず、龍を瞳に捕らえなおして。決まってるじゃない、と言いたげに可笑しそうに微笑んだ。

 龍は頬の傷の痛みを感じながら、そのまま動かないで。香澄の瞳に捕らえられたままだった。

「やっぱり龍は人間なんだね。犬や猫に車の運転は出来ない。車の運転ができるのは、人間だけ」

 金縛りのままの龍、構わず続ける香澄。

「だから、赤くてぬくもりのある血が流れるんだね。その時に痛くて、いて、って言うんだね」

 龍は黙って、香澄の言葉を聞いていた。

 そんな龍に香澄はさらに言い聞かせるように言った。

「だから、私とキスしても、嬉しくないよね。やっぱり、キスの相手は、人間がいいよね」

 言い終わって、しばしの沈黙が空気を重くした。

 龍は、その間胸のうずきを覚え、それを抑えようとしていた。

 香澄が何を龍に言いたかったのか、少しわかったような気がした。

 だけどそれとは別に、胸がうずいて。それを抑えないと、それこそ香澄に殺される事態を招きかねないと思っていた。

 いい加減、終わりにしたいと思った。

 自分と香澄は、こんなことをする仲ではない筈だ。

「香澄」

 とっさに何か香澄に言いたくなって口を開いたが、香澄は割り込むように言葉を発した。

「私はアンドロイド、ってことなんだね」

 龍は、何も言わなかった。

 ただ、血が止まって乾いて固まってゆくのを感じていた。

 香澄が龍のアパートを訪れてから、今の時間までそれほどの時間は経っていなかったが、なんだか龍は長く感じた。

 香澄はそんなことはなかったが。

 香澄は外にいて、もう帰ろうとしている。

「それじゃあね」

「ああ。見苦しいところ見せちまって、悪かったな」

「ううん。私も、自惚れていたわ」

「じゃ、な」

「また来るよ」

 そう言うと香澄は回れ右して自転車の方へと歩いてゆく。

 龍はドアを閉めて、そのままうなだれてため息をついた。

「また来るよ、か。言われる場所が違うじゃねーかよ」

 と言うとまたさらに大きなため息をついた。

 手を香澄が傷つけた頬にあてがった。

 もう、血は固まってた。

 香澄は自転車を走らせながら、夜のことを考えていた。

 もちろん、靡木峠に走りに行く。

 貴志はまだ来ない、彩女は何故かあれから来ない。

 一人で走らなければいけないが、それでも走る。

 問題はその後だ、絶対マリーは驚くだろう。

 下手をすれば優さえも。

 だけど、これは全て自分の意思でしたことだ。

 決してバグではない。

 センサーも香澄が異常が無いと言ってくれている。

 でも、それでもマリーは許さないだろうし悲しむだろう。それは許されることではないから、許されないのをわかってやった。

 ただでさえ、車の事でマリーの気をもませているというのに。だけど、自分にとって大きな意味のあることをしたのだ。

 それが、正しくなくても。

 もしアイザック・アシモフが自分のやっていることを目の当たりにしたら、ひっくり返ることは間違い無い。

 もっとも、もうすでに三人ひっくり返しているか。

 などとつまらない冗談まで考えてしまった。

 我ながら、良く出来ている事だ。

 世の中は、なかなか難しい。

 正しい事が、必ずしも答えを出してくれるとは限らない。

 望む望まないに関わらず、不正解を選んで、答えを導き出さないといけないこともある。

 今まで、正しいことを教えてもらった、でも今回は敢えて成り行きにまかせて不正解を選んだ。

 それが功を奏した。

 これは、マリーが教えるにも教えられない事だった。

 それを言えば納得してもらえる、とはやはり思えなかった。

 不正解を選ぶという事は、そういうことなのだから。


「えっ!」

 夜のチェック。

 マリーは香澄が昼間取った行動に驚きを隠せなかった。

 データにはきっちりと、龍に何をしたか、が記されていた。

「か、カスミ、あなた、一体どうして?」

 マリーは恐る恐る香澄を見た。車で走るのは、何とか我慢出来た、しかし今回のことはあまりにも、我慢出来るものではなかった。

 ベッドに座る香澄はよそ見をして、マリーと目を合わせようとしなかった。

 すっとぼけた表情で、窓から見える星空をただ眺めていた。

「カスミ、カスミ!」

 何も応えようとしない香澄に苛立ち、マリーは声を張り上げた。そんな事は、全く初めてのことだった。

 まだAIの意識体でしかないころも、そんなことはなかったのに。

 だが、香澄はマリーとは目を合わせようとせず、そのまま呟くように言った。

「見たとおりよ」

 そう言うと、それからは何も言おうともしなかった。あらかじめ、マリーがどんな態度を見せるのか想像はついていた。

 予想通りだった。

 マリーは再びディスプレイに目を移し、他に香澄の異常行動がないか調べたが。

 他には見当たらなかった。

 もちろん、香澄のAIプログラムにはバグは見当たらなくて、異常がなかった事はマリーも調べてわかっていたものの。

 それで、この一連の行動は一体どうした事か?

 マリーは困惑を抑えきれなかった。

「これは、これは」

 本部がこれを見ればなんと言うだろうか?

 そう思うと恐ろしくなって、キーボードを叩く指の速度が落ちて。

 全身から力が抜ける。

 あろうとことか、人とキスをして、その後で人を傷つけるとは。あってはならないことだった。

 一体全体、何がどうなったのかさっぱりわからないのが、マリーには何より恐ろしかった。

 当の香澄は、微動だにしない。

 問題が起こった?

 マリーはそう思った。

 香澄のAIプログラムに、何も異常がないのに、異常行動を取った。

 何故、どうして?

 香澄は応えてくれない。

 と思ったら、香澄がおもむろに口を開いた。

「見てのとおり、私は私よ。何も変わってはいないわ」

 それからチェックを終えて、マリーはリビングで優とふたり話し合っていた。

 もちろん香澄の事だ。

 香澄のチェックを終えて、香澄を寝かしつけた後。いてもたってもいられずにガレージにいた優を引っ張り出して、事の次第を話さなければいけないと思っていた。

「そうか、香澄がな」

 優はタバコを吹かし、口を真一文字に引き締める。

 さすがの優も、このことには動揺しているようだった。

「まだ本部には連絡してないわ。データは取ってあるけど、怖くて……。私どうしたらいいか」

 マリーはうろたえ、優にすがるように言った。

「カスミは、ミナモトさんに何をしたかわかる? キスをして、その後頬を傷つけて血の温度を測っているのよ」

 マリーは頭をたれて目を閉じ、右手の人差し指と中指で頬を三度こつこつと叩いた。

「キスの相手はやっぱり人間がいいよね、ですって? 何をわかりきったことを。アンドロイドが人間とキスをして、どうしようって言うのよ! ミナモトさんの様子を見に行くからと言って、あんな真似するなんて。どうしちゃったのかしら」

 腕を組み、リビングをぐるぐる回り、首を横に振り振り歩き回る。

「まぁ、落ち着けよ、動物園の熊じゃあるまいに」

 ソファーに座って、隣に座るように促すが。マリーはききいれない。

 優は溜息をつき。

「香澄のおかげで高い給料もらって、このでかい家に住まわしてもらって、好きなことさせてもらっているのも。もうすぐ終わるかもな」

 憮然と吐き捨てた。

 それを聞いたマリーは、ぴたっと動きを止めて両腕をぶらんと垂らした。

「そうね、機械としての原理原則を破ったんですもの。それは十分ありえるわね。

でも香澄も重々承知していたはずなのに」

「オレ達の教育不行き届けなのさ、先にあいつに教える事を教えときゃ、こんなことにはならなかったかもな」

 優の言葉に、マリーは何も言えなかった。

「香澄は、オレ達に聞いても答えてくれそうもなさそうだから、自分で行動を起こしたんだろうな。それだけ、香澄にはわからない事だらけだった、ってことか。それを前もってオレ達が察してやれば」

「やめて!」

 マリーは優の言葉を途中でさえぎった。

「なんと言おうと、香澄はAIプログラムの意識体と機械の体で出来たアンドロイドなのよ。私達が予想し得ない行動を起こす事なんて、あってはならないことだわ! やっぱりどこか異常が出ているのよ。私がそれを見つけそこなったに違いないわ。もう一度」

「やめろ!」

 今度は優がマリーの言葉をさえぎった。

「香澄は正常さ、そうでなきゃ、とうに源を殺していたさ。それがわかった時点で、香澄には異常はもとから無かったんだ。お前がわからんわけがなかろう」

「で、でも」

「認めたくないのはわかるさ、オレだってそうだ。しかし、これはれっきとした事実なんだ。オレたちに出来ることは、その事実があったことを認めて。本部に連絡する。それしかない」

 優の言葉を聞いて、マリーは目に涙が溢れてくるのを禁じえなかった。

「せっかく故郷くにに帰れたと思ったが、仕方無いな……」

 マリーは、その言葉が何を意味するのか、すぐに理解出来た自分が恨めしかった。

「今まで散々お目こぼしをもらってたが。もう、ないな……。こうなれば、もうオレ達には何もしてやれん」

 マリーは、魂が抜けてしまったかのように優を見つめて。

 そのまま優の胸に飛びつき、わっと泣き出した。

「カスミは、カスミは…。どうなってしまうの。私達もどうなってしまうの……」

 マリーの嗚咽がリビングに響き渡り、優はその名の通り、優しくマリーの頭を撫でてやった。

 香澄ですら、解体したことはあっても、頭を撫でた事はないというのに。


scene6 ぬくもり 了

scene7 バッド・コンディション に続く

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