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2nd scene5 トリプルローター vs. V6V-TEC

 あのNSXだ。

 あのNSXが、龍が事故ってから初めて峠に姿を現したのだ。

 何しに来たんだろうと思うまでも無く、自分を求めてやってきたのだ。

 そうでなければ、わざわざみんなの非難を浴びてまで、靡木にやって来る事なんか無いからだ。

 いい根性をしている、と言うべきか。

 靡木峠はNSXの出現で、にわかに慌ただしくなった。

 その通りに、靡木峠の走り屋たちは、みんな異口同音にNSXの悪口を連発しはじめたのだった。

 とにかく、招かれざる者がやってきた。

 が、彩女にはそんなのはどうでもよかった。

 これまで意味も無く街をぐるぐる回って、ムダなガソリンを使ってしまったが。あまりにも下らなすぎて、素直に靡木峠に行くことにしたのだ。

 彼女のフローチャートもまた、選択肢を無くして順繰り巡りを繰り返し、やっと進む方向がはっきりと見えはじめたようだった。

「いる、いるじゃないか! やったよ!」

 すれ違った車が、あのFD3Sであることを確認すると。彩女は歓喜の声を上げた。

「さぁ、今夜こそ本命とバトルだよ……」

 愛機NSXに優しく言い聞かせて、テンションを高く高く、ハイに持って行く。

 エベレストの頂上はおろか、大気圏を突き抜けて宇宙空間まで行けそうな気分だった。

 そんな彩女の思惑など知るわけも無く。香澄は走りながら、あのNSXはどうするんだどうと思い、自分はどうしたらいいか考え。東側駐車場で車を停めた。

 エンジンを切らず、適当な場所に停めて車を降りた香澄は駐車場の出入り口の方を向いて、NSXがやってくるのを待っている。

 その間コズミック?7は、飼い主に従順に従うように、低いアイドリング音を奏でながらじっとしている。

 周りのみんなは、やっぱり遠巻きにして香澄とコズミック-7を眺めるだけだった。

 いつのまにか智之もいたりする。

 はたして、NSXがやってきた。

 ウォーミングアップに峠をニ、三往復して。車もドライバーも気合充分と言っ

た感じだった。

 そんなNSXに、みんなはあーだこーだと好きなように悪口を言い合っていた。

 NSXは。いじめっこから、いじめられっこへといった具合だった。

 適当な場所に停まったNSXの周りは、誰も寄りつこうとしない。NSX専用空間が出来たみたいだった。

 でも、それは香澄も同じだった。

 共に誰も拒んでいないのに、むしろ香澄など過去の実績からして後ろを引っ張っているくらいだ。

 彩女は彩女で、狭く窮屈な思いをしなくてすむ程度にしか思っていなくて。コズミック-7と香澄に目をやると、すぐに車から降りて香澄のもとに歩み寄った。

 香澄は彩女がこちらにやってくるのを見て、彩女を待った。

 そばで飼い主に危害を加えないか警戒しているみたいに、コズミック-7がアイドリングで低く唸っている。

 NSXは、そんなコズミック?7に睨みを効かせながら。何かあればすぐ飛び出すぞと言わんばかりのアイドリング音で低く唸っている。

 闘いは、すでに始まっていた。

「あなたが、ここの最速のFD使いなの?」

 そう、香澄のもとまでやってきた彩女は言った。

「自分はそう思っていないけど。そうよ」

 香澄の言葉を聞いた彩女は、くすっと笑った。

 自分ではそう思っていないのに、そうだとはっきり応える香澄が可笑しかった。

「へぇ、自信満々じゃない」

「自信じゃなくて。事実だから」

「まぁ、言うじゃない。けっこうけっこう」

 彩女は今度は声を出して笑った。

 ここで龍を挑発した時とまんま同じだった。

 それを見ていた、智之をはじめとする走り屋たちは。沸沸と怒りが湧いてくるのを抑えきれなかった。

「おいお前! いいかげんにしないか! こないだ龍に散々アオられたくせに。そんなお前が香澄ちゃんに勝てるわけが無いだろう!」

 誰かが張りさけんばかりの大声で彩女に怒鳴ると、他のみんなも同じように彩女を攻撃しはじめた。

 が、彩女は平然としていた。

 露ほどにも感じていないようだった。

 それどころか、含み笑いを浮かべた後。

「五月蝿い! 外野は黙ってな!」

 ぱしん、と。ハリセンで思いっきり引っ叩くような、はりのある声で逆に一喝を食らわせたのだった。

 彩女の美しい顔が、一瞬にして恐ろしい形相の般若の面に早がわりしたみたいで、みんなビビッてしまったくらいだった。

 それこそ、ハリセンで引っ叩かれたように。

 というより、ドスで刺されそうな殺気と迫力が、彩女の体全体からにじみ出て。その量はフェロモンを凌ぐ勢いで、みんなにまとわり着いていた。

 しかし、大の男がそろいもそろって、たった一人の女にたじろいでしまうとは。たかが知れた連中だと、彩女は呆れたように溜息をつきながら思っていた。

 こうなるのも、彩女の美貌あってこそと言ってもいいかもしれない。

 彩女は良くも悪くも、美しさと強さと兼ね備えた女性だった。

 龍との一件があったとは言え。彩女のそういう基本的な性格が、なりを潜めることは無かった。雑魚ごときに屈する彩女ではない。

 ふと、あいつならそんなことなかろうにと。龍を思い浮かべる。

 もっとも、貴志は気が弱いから。みんなの仲間入りをはたすかもしれない。彩女は貴志のことを知らないけれど。

 まぁ、そんなことは今はいいとして。

 みんな彩女の迫力に押され口を開かず。あたりは水を打ったように、しんと静まりかえっていた。

「ごめんね、いきなり大きな声だしてさ」

 自分に苦笑いしながら、彩女は言った。香澄は気にしていない様子だった。

「別に……。随分と嫌われてるね、と思って」

「まぁね、嫌われちゃったね。でも、別に痛くも痒くもないし。かまいやしないさ」

「どうして? 人に嫌われて悲しくないの」

「別に、あんなヤツらに嫌われても、好かれても関係無いもの。あたしは、あなたとバトルが出来たらそれでいいから」

「でもその前に、龍とバトルしたでしょ」

 その言葉に、彩女はうっと紅を塗った口をつぐんでしまった。

 つまりなにか、それでわかった筈じゃないのかと言いたいのだろうか?

 なかなか意地の悪い事を言うコだよと、半分驚き半分感心していた。

「でも、私とバトルがしたいから、また来たんだよね。いいよ、バトルしましょ」

 その言葉に、彩女は心の堰が一気に解放されたようだった。

「いいのかい。じゃ善は急げってね。そこのあんた! そうあんただよ! 悪いけどスターターしてくれないかい?」

 彩女は智之を指差し、スターターに指名した。

 鋭い切れ長の目が、イヤとは言わせないと言っている。逆らったらそのままそのしなやかな指で小突かれそうで、智之は逆らえなかった。

 それはみんなも同じことで、次から次へと彩女の主導のもとバトルの準備が進んで行った。

 いつの間にか、彩女は姐さん風を吹かして、みんなそれに吹き飛ばされていた。


 香澄が停まった間隙をついて峠を走っていた走り屋たちは、いきなりのバトル開始の知らせに、慌てて車を待避所や駐車場に戻って停めていた。

 スターターに指名されてしまった智之は、そわそわしながら香澄と彩女が車に乗りこむのを待っていた。

 もしヘマなどしようものなら……。考えただけでもなんか怖い。

 そんな智之などお構い無しに、香澄と彩女はまだ向き合って、愛機のアイドリング音をBGMになにやら話していた。

「そういえば、香澄ちゃんって言うんだね。あたしは千葉彩女、よろしく」

 と愛想良い笑顔で香澄に握手を求める彩女。

「私は一条香澄。香澄でいいわ」

 と、香澄は彩女の求めに応じ握手する。

「そんな、あなたみたいな可愛いコ呼び捨てになんか出来ないよ。香澄ちゃんて呼ばせてもらうよ」

「そう。でも龍は呼び捨てにしてるよ」

「そうなんだ。彼氏でもないのに」

 彩女は悪戯っぽく笑う。

「私がそれでいいって言ったからよ。でも貴志は『ちゃん』付けてるけどね」

「貴志……。誰?」

「青いFCのドライバーよ」

「ああ、あの。で、彼は今夜は来ていないみたいだね」

「FCをチューニングするために、ショップに預けたって聞いたわ」

 それを聞いて、なるほどと彩女は頷く。

 どうやら、その貴志という人のよさそうな顔をしたFC使いは、本気で香澄と走ろうとしているようだと思った。そうでなければ、FCのパワーアップなどする筈ないからだ。

 これは手強いライバルになりそうだ。なかなか、顔に合わない強さをもったヤツかもしれない。

 だけど、やっぱり本当なら。龍もいなければいけない筈なのに。

「でも、香澄ちゃん。クールだね。あたしもクールな方だと思うけど、香澄ちゃんには負けるわ」

 その思いを振り払うように、彩女は言った。

 大声を上げたときも眉一つ動かさず、ポーカーフェイスな香澄を見ていて、そこはかとなく冷たいものを感じつつあった。

「うん、生まれつきなんだ」

 と、やっぱりクールに応える香澄。

 しかし完全にクールなわけではない、マリーや優にはいつも笑顔をみせているが、もちろん彩女はそんなこと知らない。

「まぁ、もったいない。香澄ちゃん可愛いのに……」

 残念そうに、手を頬に当てる彩女。

「覚えときなよ、女の子は笑った方が可愛いんだよ。こんな風にね」

 と、とびきりの笑顔で言った。

 これには香澄も意表をつかれ、思わず笑みをこぼしてしまった。

「そうそう、そんな感じ」

 香澄の笑うのを見た彩女は、本当に嬉しそうに笑っていた。

「ふふ。おかしな人ね、バトルの前なのに、バトルの相手に笑いかけるなんて。あなたみたいな人初めてよ」

「ふふん。いつも目を逆三角にしている誰かとは、違うのさ」

 得意そうに軽くウィンクする彩女。

「それじゃあ始めようか。言っとくけど、容赦しないよ!」

「ええ、もちろん」

 お互いの愛機の説明を終えると、二人は意気揚揚と愛機に乗りこみ。智之の合図で道路に出て並んだ。

 なんだか楽しい、こんな気持ちでバトルをするのは初めてだった。

 アクシデントの後だというのに、いつの間にかそんなこと忘れていた。

 それが良いか悪いか別にして、二人は素直にそう思っていた。そして、いつも目を逆三角にしている誰かのことを思いつつ。

 智之のカウントが始まる。

「ごー! よん! ……」

 そのカウントの間、闘いの前の雄叫びを愛機に上げさせる。

「さん! にー! いち! ZERO! GO!!」

 智之の両手が振り下ろされて、コズミック-7とNSXは智之を間に挟み、一気に飛び出した。

 トリプルローター、20Bペリのコズミック-7。V6V-TEC、C32BのNSX。

 究極のNAマシン同士のバトルが始まった。

 コズミック-7は闇を切り裂き、曲がりくねった靡木の峠道をマッハの勢いで駆け抜けてゆく。

 その後ろから、NSXが同じようにマッハの勢いで追いかけている。

 NAマシン特有の、天まで突き破りそうな、甲高いエグゾーストノートを峠中にぶちまけながら。

 でも、香澄はまだ本気じゃない。


 本気になれる区間ではないから。ここでは、おしとやかにしている。

 そうすれば、コズミック-7も聞き分けのよい、良い子になってくれる。

 彩女はコズミック-7の脅威的なスタートダッシュに度肝を抜かれていた。

 あの、馬鹿力、としか表現のしようのない。一気にワープしてしまいそうなダッシュ。

 だけど、それ以上に驚いたのは、その速さだった。

「なんで、どうして……」

 思わず彩女はうめいてしまった。

 理解出来ない事が、目の前でおこっている。

 少しずつ少しずつ、コズミック-7のテールが小さくなっている。

 信じられなかった。

「そんな、馬鹿な」

 彩女は絞り出ように、コズミック-7のテール向かってうめく。

 とりわけ、コーナーが速いわけじゃない。

 立ち上がり加速はともかく、コーナーの突っ込みは完全にNSXが勝っていた。

 でも、それだけだった。

 コズミック-7はどう考えても、峠向きじゃない。

 なのに、どうして峠向きにセッティングされたNSXが後塵をあびている。

 スタートダッシュがよかったから、前に出る事が出来た。

 それだけじゃない。

 徐々に、徐々に。コズミック-7はNSXを離している。

 香澄はルームミラーすら覗こうとせず。

 コズミック-7を前へ前へと走らせている。

 コズミック-7は走ってくれる、前へ前へ、速く速く。

「このまま、離されるわけにはいかないんだよねぇ。香澄ちゃん……」

 彩女は、持てる力を振り絞りNSXを走らせる。

 NSXは彩女の思い通りに走ってくれている。

 アクセルを踏んだ分だけ速く走ってくれて、ハンドルを曲げた分だけ曲がってくれて、なのにコズミック-7から離されている。

 龍とバトルした時と同じ、昂揚感が体の隅から隅まで駆け巡って、あの時のようにジャンキーになれそうだった。

 それでも、離される。

 それが、彩女を完全にジャンキーにせず。

 あくまでも、なれそう、止まりだった。

 あの可愛くてクールな顔のまま、香澄はあのモンスターを駆っている。

 そう彩女は思った。

 龍と、まだあまりよく知らない貴志というヤツが追っているのは、そんなドライバーなのだ。

 そんな彩女の思惑など知らず、香澄はコズミック-7を駆る。

 彩女にバトルを挑まれて、それを受けて。

 彩女のNSXとともに、香澄のコズミック-7は闇の中を駆け抜ける。

 コズミック-7がスピードを下げて、アウトにラインを振る。

 当たり前だ、コーナーが来ているのだ。

 コズミック-7が一番いやがる、低速のヘアピンのコーナー、右だ。

 ここでは、無理はさせられなかった。

「いける?」

 それを見て、彩女は右足に力を入れようとする。

 彩女の右足に踏まれたアクセルは、床に少しだけ近づき、NSXはかすかに雄叫びを上げた。

 コズミック-7のテールが眼前に迫ってくる。

 NSXは、チャンスと、コズミック-7に並ぼうとする。はずだった。

 彩女の右足が、アクセルから離れた。

 NSXのテールのブレーキランプが点灯して、コズミック-7の少し後ろで前のめりになって。フロントをロックさせてしまった。

 煙りが少し上がった。

 ミッドシップで、前より後ろが重いNSXが前のめりになってもたかが知れているのだが。前が軽い分、いともたやすくフロントがロックしてしまう。

 それがわかって、彩女の背筋に氷が走ったような冷たさが走った。

 体から汗がにじみ出る。


 香澄は、少し後ろのNSXなどお構い無しに、コーナーをクリアする。NSXを後ろに従えて。

「どうしたの、なぜいかないの?」

 香澄は彩女に語りかけるように、少し小声でつぶやいた。

 立ち上がりで、20Bのハイパワーが、コズミック-7を足で思いきり蹴飛ばすように加速させる。

 NSXを引き離す。

 彩女は、さっきより小さくなったコズミック-7のテールを苦々しく見すえている。

 唇が、そんな、と言いたそうにぱくぱくと動いた。

 香澄は、ふと貴志のことを思い出した。

「貴志なら、ここで私を抜いていたわ」

 と言った後、ふと何か思いついて。

「でも、危ないものね」

 とも言った。

 そりゃ、危ない。こんな狭い道で、抜きつ抜かれつなんて。

 でも、それを当たり前のようにすることの怖さ。

 その怖さを必死で抑えて、香澄を追っている二人。

 そこまでして、何故自分を追う?

 それが知りたくて走っている、でもまだ知らない。

 そうしている間に、それが当たり前になって、それを受け入れるでもなく拒否するでもなく、ずっとずっと走りつづけて。

 てっきり、二人も同じだと思ってて。

 そして彩女も同じだと思って。

 NSXはコズミック-7を追ってくる。

 それを駆る彩女はどうして、あそこで抜かなかったんだろう。

 ふとふと考える。

 でも、その考える時間は少なくなってゆく。少なくしている、そういう風に走らせている。

 道端のギャラリーや他の走り屋達は、ヘッドライトで闇を切り裂きハイスピードで走り去ってゆく二台のマシンに歓声を上げている。

 思わず耳を塞ぎたくなるほど、がなり立てられるエグゾーストノートに、タイヤの悲鳴。

 それが傍観者の心を突き破る。

 圧倒的なスピードも一緒に。

 まずはスピードありき、エグゾーストノートやタイヤの悲鳴はその産物に過ぎない。

 そのスピードは、傍観者達を突き放すに充分過ぎるくらいだった。

 突き放された傍観者達は、ただ指をくわえ見るしか術が無かった。

 でも、だれも傍観者にしたつもりはない。傍観者になるかならないかは、自由なのだから。その代わり、見向きされなくなる。

 その存在が無くされてしまう。

 彩女はひたすら、そうなるまいと香澄を追う。

 コズミック-7は、NSXを置いてけぼりにしようとしている。

 NSXはコズミック-7を必死に追いかけている。

 手をいっぱいに伸ばして、そのテールを掴み取ろうとしているみたいに。

「どうして、どうして」

 彩女はコズミック-7のリアテールを睨みつけながら、何度も何度も、どうしてどうしてと繰り返す。

 追いつける筈なのに、追いつけない。

 まるで蜃気楼を追いかけているみたいだった。

 NSXのヘッドライトに照らされるコズミック-7は、まるでNSXなどいないかのように、一台で走っているかのように。

 コズミック-7の目は前にしかなくて、後ろなんか全く見えていないみたいに。

 アクセルを踏めるだけ踏んで、スピードも出せるだけ出して。

「今夜のあたしは絶好調なんだ、なのになんで追いつけないんだよ!」

 我知らずに、前のコズミック-7に向かって叫ぶ。

 さっきまでの余裕はどこへ行った?

 求めていたコズミック-7とバトル出来て嬉しいんじゃなかったのか?

 それ以前に、笑顔はどこへ行った?

 女の子は笑った方が可愛くなるんだよ、と。

 香澄を笑顔にさせたあの笑顔は?

「ほんと、馬鹿みたいだね。あたし……」

 もう、コースは残り少なくなってゆく。

 それまでに、なんとかしなくては。そう思っても、なんともできなかった。

 そういえば、自分がスピンしたのはどこだっけ?

 その後、龍がクラッシュした場所は?

 それを思った時、彩女の心臓が少し早めに動き出した。

 NSXは確実に路面を捉えて、流れるように走っている。

 タイヤが路面を確実に掴み取り、コーナーをキレイにクリアして、パワーを路面に伝えてくれる。

 何もかも彩女の意のままだった。

 C32Bのエグゾーストノートが、気分をハイにしてくれる。

 彩女はアクセルを踏んで、NSXを走らせる。

 踏める、NSXが彩女にアクセルを踏ませてくれている。

 このまま、このまま走れば。コズミック-7についてゆける。

 直線ではかなわないだろうが、その後のコーナーでも充分にチャンスはある。

 直線の前のS字を上手くクリアすれば。少しは引き離されても、コーナーの突っ込みで差を縮め、そのままインを突く。

 さっきのようなポカはしない。

 そのためには、アクセルをより多く踏み込む必要があった。

 大丈夫、NSXはアクセルを踏めると、彩女に教えてくれている。

 なら、アクセルを踏んでやる。

「悪いけど、最後に笑うのはあたしなんだ。あたしじゃなきゃいけないんだよ!」

 彩女は、今度は思いっきり叫んでやった。

 そして、笑った。

 怖気のするような、冷たい笑顔だった。

 美しい顔が、さらにそれを引き立たせる。

 赤いマニキュアの塗られた親指の爪を、知らずにハンドルに食いこませる。

 握り潰さんがばかりにハンドルを握り締めて。

 もし、NSXに感情があったら彩女のその冷たい笑みに怯んでパワーダウンしてしまうのではないかというくらい、美しくも、冷たい笑みで彩女は笑っている。

 その目はしっかりとコズミック-7のテールを捕らえて離さない。

 だが、コズミック-7はそんな彩女などお構い無しに走っている。

「可愛い顔して、とんだ食わせ者だったんだね、香澄ちゃん」

 そう言いながら、右コーナーをクリアした。

 左コーナーが迫り、そこを抜けるとまた右コーナーで直線に出る。

 コズミック-7はキレイなラインでS字を抜けてゆこうとする。

 彩女は、アクセルを踏み込んでコズミック-7に迫ろうとする。

 左コーナーをクリアし、右コーナー。

 直線でのスピードを稼ぎたい彩女は、アクセルをさらに踏み込もうとする。

 が、右足が動かなかった。

 何故か、右足がこれ以上アクセルを踏もうとしなかった。

 刹那。彩女の冷たい笑みが凍りついた。

「な、なにしてんだよ。踏まないといけないだろ!」

 彩女は右足に叫んでも、右足はアクセルを踏んでくれなかった。

「踏まないと置いてかれてしまうんだよ!」

 必死に、右足に命令をだしても、右足は言う事を聞かない。

 右足まで、凍り付いてしまったみたいだった。

「ああ、香澄ちゃんがいっちゃうよ」

 右コーナーを先にクリアしたコズミック-7は、ありったけのパワーを路面に叩きつけて、轟く咆哮をぶちまけながら直線を駆け抜ける。

 遅れてクリアしたNSX、彩女はやっと氷が溶けた右足が言う事を聞いてくれた。

 右足は床までアクセルを踏みつけ、NSXもコズミック-7程ではないものの、ありったけのパワーを路面に叩きつけ、咆哮を轟かせ直線を駆け抜ける。

 でも、コズミック-7はもう、その姿を消そうとしていた。


「まけたの、あたし……」

 彩女の両肩から、がっくりと力が抜ける。

 あやうくハンドルから両手を落としそうだった。

 何も言えず、惰性で駐車場まで戻ってくると。香澄はすでにコズミック-7を停めて、車から降り立っていた。

 力なくさえずるNSXのサウンドが、彩女に対し何か言いたげに呟いているみたいだ。

 それに背中をおされて、彩女はNSXから降り立った。

 バトルを見守っていた他の走り屋やギャラリーが、彩女に冷ややかな視線を送っている。

 たとえ彩女が美人であろうと、この時はそんなことは一切の助けにならなかった。

 やけに冷たい夜風が彩女の頬を撫でてゆく。

 長い髪がそれに少しなびき、ゆらゆらと揺れる。

 ふとコズミック-7に目を移せば、コズミック-7は勝ち誇るでもなく、鼻歌を歌いながら静かに勝利の余韻に浸っているみたいだ。

 香澄は、静かにじっと彩女を見守っている。

 ほのかに優しく微笑みかけているような気がした。

 もし香澄がいなければ、彩女は今何を言われてるのだろうと思うと、ぞっとしないでもなかった。

 香澄のおかげで今こうして自分が立っていられる。

 そう思わずにはいられなかった。

「ねぇ、ちょっといいかな?」

 おもむろに香澄は口を開いた。

「え、なに?」

 彩女は不意に驚かされてしまって、ちょっと唇が震えてる。

 しかし、香澄が何か言うのは予想していたろうに、可笑しいことだ。

 が、次の言葉に彩女は言葉が出せなかった。

「あなたは、本当に私と走りたかったの?」

 じっと彩女を見つめる香澄は、優しげな顔はしているものの、その心の中はどうやらそうでもないらしい。

 目が、冷たく感じた。

 まるで、氷の中に閉ざされた瞳に凍てつかされているようだ。

 心が凍りつきそうなのを堪え、やっと応える彩女。

「いきなり何を? 決まってるじゃないか、そうでなきゃなんで」

「じゃあ、どうしてあそこでアクセルを抜いたの?」

 氷の矢が彩女の身体を貫いたような感覚。

 触れてほしくなかった。

 やはり、駐車場になんか立ち寄らずにそのまま帰ればよかったか。

 怖くて声が出せない。

 出したくない。

 そんな彩女に変わるように香澄は声を発した。

「彩女は、龍を見たの?」

 彩女は、唇をきゅっと引き締めて、何かをおしとどめたようだった。

 沈黙が駐車場に重くのしかかる。

 ここで今声など出そうものなら、今この時が全てぶち壊されてしまいそうだ。

 沈黙の重さに耐えなければ、押しつぶされてしまいそうだ。

 でも、沈黙に耐えられない。

 思わず、出さずにはおれなかった。

 すると。

「私は、見えなかった……」

 香澄は夜空を見上げ、呟くように吐き出すように言った。

「私には、龍は見えなかった」

 それから、なにか紐でも解けたように、みんなばらばらと峠から去ってゆく。

 香澄も、峠を去り、家路に着いた。

 帰路、香澄のAIが言葉をつむぐ。

(帰ろう。家へ帰ろう。家に帰れば、笑顔で迎えてくれる人がいる。だから、帰ろう)

 流れてゆく景色。ゆっくりと流れてゆく。

(家に帰ろう。私には帰る家があるから。彷徨うことなんかないんだ。来た道を戻れば、ほら、家がある。)

 言葉とともに、MR2、RX-7、NSXが浮かんでくる。走っている。香澄のAIユニットの中を、走っていた。

 最初精密なポリゴン映像だったものが、くっきりと3D映像となって、AIユニットの中を駆け巡ってゆく。

 マシンのエグゾーストノートも、その叫びも、はっきりと聞こえる。

 香澄の目の前を駆け抜けてゆく。

 目の前を走り去っていったマシン。そのあとに、優とマリーのふたり。

(家には、私を笑顔で迎えてくれる人がいる。ふたりは、私を出迎えてくれた。

笑顔で。見える。ふたりの笑顔が、今、はっきりと見える。私も、笑った)

 香澄は笑った。

 ふたりも笑ってくれた。

 家に帰り着き、ふたりが出迎えてくれていた。

 優は「んふ」と笑いそうな顔をして、愉快そうだ。マリーは、香澄が無事戻ってきたことに安堵して、穏やかな顔をしていた。

 コズミック-7はガレージにおさまり、ひとときの眠りについた。三人はドアを開け、中に入って、ドアを閉めた。

 ドアが閉められるとき、暖かさを感じた。

 でも、ガレージのシャッターが閉じられる時。

 冷たさを感じていた。

 香澄は、後ろを振り返り、ガレージの中を思った。

 暗闇の中で、静かに眠るものを。

 そして、冷たさも。

 冷たくなって、そのまま眠ってゆく。

 香澄は、暖かい部屋の中で、冷たくなってゆくような気持ちになった。

 今、暖かさと冷たさを、感じていた。

 暖かいもの、冷たいもの。

 今の香澄に、見えているもの。

 見えないもの。それは、見ようとしても、見られないもの。

 香澄は、見ようとしたけど、見えなかった。

(どうしてなんだろう)

 でも

(わからない)

 暖かさの中で、その理由が知りたかった。

 でも、知る事は出来なかった。

 知りたければ、走るしかないから。

 だけど香澄は、走っても知る事は出来ない。

 だって、今彼は走れないから。

 だから、香澄も、走れなかった。

 AIがつむぐ言葉など知らず、夜は明ける。 

 空は曇天。

 しとしとと雨が降っていた。


scene5 トリプルローター vs. V6V-TEC 了

scene6 ぬくもり に続く

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