Act.48『次の遊びのステージへ』(完)
「私たちは本当にもう元の世界には戻れないの?」
私から枢機卿、エクルーズローダーへの最初の質問はそれだった。
少年は私を観察する眼差しで眺め、問い返した。
「戻りたいのか?」
返す言葉が、無い。
けれどそれで気付いた。
私は生まれ育ったあの世界に未練が無い。
だからこんな事態になっても「ビックリした」だけで、誰に対しても何に対しても、怒りや恨みといった感情が出てこない。
そう気付いたことに対する認識は「ああ、そうか。私はそういう人間だったな」という納得で、元々の自己認識とも合致していたから葛藤は無かった。
この事態に対する自分のスタンスが理解できたことで、色々なものがすとんと腹落ちする。
そんな私の反応を見て、少年は頷いた。
「そういう者が駒として収穫される。僕もそうだった」
「あなたも?」
「僕以外の枢機卿も、元はただの駒だ。戦功を積み、階位を上って今がある。君が現状についてもっと深く知りたいと望むなら、僕たちのように枢機卿になるといい。少なくとも駒でいるより多くの情報が手に入るようになる。それを理解できるか否かは、また別の話だが」
「理解できるかどうか?」
意味が分からない私に、少年が薄く笑って言った。
「*は君******て****。それ**が**********か*だ」
エクルーズローダー卿は間違いなく、ごく普通に喋っていた。
聞き取れなかったのは、私が“駒”だから。
納得して、頷いた。
「ほとんど聞き取れなかったし、推測もできなかった。これが、“足りない”から?」
「君は本当に適応能力が高い」
何色か分からない瞳が私をじっと見つめ、すっと指差した。
「そんな君に“それは猫ではない”と言ったら、どうする?」
彼が示す先には、私の肩に乗ったままの雪柳。
意味が分からず、問い返す。
「猫じゃなければ何だと?」
「君の親は猫など飼っていなかった。君の母親が存命だった時に世話していたのは、鉢植えの雪柳。つまり、植物だ」
「しょくぶつ……?」
「だが今、君のもとにいるそれは猫の姿をして、猫として在る。もう一度、問う」
一拍、間をおいてエクルーズローダー卿が口を開く。
「それは本当に、猫なのか?」
ええええぇぇぇ……???
「うちの雪柳はずっと猫だったし、今も猫だし、これからも猫ですけど?? ……というか、なんで私の親が猫飼ってなかったって断言できるの?」
言いながら胡乱なものを見る目になってしまう。
「まさか、覗き見……?」
「いや待て」
はじめて焦ったように早口で少年が言った。
「確認をとるために見ただけだ。それでも鉢植えの植物が動物の猫になった瞬間も、君が『***』に*わ**ところも見つけられなかったが」
「私が何って?」
またもや聞き取れなかった言葉が出てきたのが気になり、聞いてみたが、エクルーズローダー卿は首を横に振った。
「何度聞こうと意味はない。今はまだ、君は足りない。ただ、君はある時、第三者の介入によって生きのびたのだということだけ、覚えておくといい」
そして、話を戻した。
「ときに、観測者の認識によって事象が固定されてしまうことがある」
その視線は、私の肩に乗ったままの雪柳に向けられている。
「君がそれを猫だと認識しているのであれば、それは猫として在るだろう」
再度その存在について言われ、改めて考えてみたが、雪柳を引き取ったのは両親が亡くなった直後のことで、一番記憶が曖昧な時期。
葬式も諸々の手続きも、引っ越しから荷解きまで、手伝ってもらえるところは全部、そういうサービスを提供している人達に代金を支払って頼んだ。
彼らが雪柳を植物として扱っていたか、動物として扱っていたかなど、まったく覚えていない。
ならば両親が亡くなる前のことを思い出せばいいのだろうが、その記憶はキャビネットの上で扉を閉ざされたままの小さな仏壇と同じように、今はまだ触れることができない。
というわけで、私は開き直って質問した。
「雪柳が猫だと、何か困るの?」
エクルーズローダー卿は「それは難しい質問だ」と言い、私達の話し合いはいったんそこで終わりとなった。
聞きたいことはまだあるような気がするが、もう少しこの状況に慣れて、ちゃんと質問したいことを考えられるようになってからにしたいので、私としても異論はない。
ちなみに、彼の部下となった私は今後その指示に従って動かなければならないらしいが、拒否権もあるという。
そのあたりはナビが仲介して調整してくれるらしい。
「ナビゲーターは生活面から我々との調整まで、幅広くサポートする。活用するといい」
そう言ったエクルーズローダー卿がパチンと指を鳴らすと、私達は見慣れたマンションの部屋に戻ってきていた。
***
「道具屋の商品数が増えてる……」
これからここで生活していく、ということをとりあえず受け入れた私は、プレイヤー装備を解除すると、座卓の前に座って甘いカフェオレを飲みながら道具屋の商品を確認し、思わずつぶやいた。
こちらに来る前は無かったはずの商品が、当たり前のように増えて並んでいる。
これなら生活にも娯楽にも困ることはなさそうで、ありがたい、とは思うのだが。
生活を侵蝕してくる系道具屋の、最終形態……
「……便利だし、まあ、いいか」
深くは考えずに、意識を切り替えた。
生活の場であるマンションの部屋ごと連れてこられたから寝床はあるし、道具屋には暮らしていくのに必要な物が揃っている。
次に重要なのはこの部屋のセキュリティだ。
「ナビ、この部屋って安全? 雪姉さん置いていっても大丈夫なくらい安全?」
とくに二番目の質問が、私にとって最重要点だ。
ナビはいつも通り淡々と答えた。
「〈この部屋に干渉することが可能なのは所有者、Rxだけです。主様は例外として、Rxが許可したもののみが入室可能です〉」
「主様……? ああ、さっき聞いたな。そもそもここはその主様とかいうのが何かと戦うための拠点なんだっけ。ここ、一つの世界っていうより、何か変な所にある特殊空間っぽいよね。秘密基地的な感じなのかな? ……まあ、今はそれはいいや。それで、その例外の主様っていうのは、前触れ無しにプレイヤーに干渉してきたりする?」
「〈主様がプレイヤーに直接干渉したという前例はありません〉」
「ふーん?」
なんとも微妙な言い回しの答えだけど、たぶんプレイヤーを束ねる枢機卿の上にいるのが主様っていう存在っぽいから、プレイヤーに干渉する時は枢機卿を通すんだろう。
となると、ひとまずこの部屋は安全地帯と考えてよさそうだ。
これが確認できたなら、次に考えることは一つ。
ダンジョン攻略の続き。
「ナビ。私まだダンジョン探索してる途中だったんだけど、あの続きって行けるの?」
「〈当機のサポート機能である『転送』に登録された地点は、すべてリセットされています。続き、という地点への『転送』は不可能です。代替案として、希望されるダンジョンへの扉までご案内することが可能です〉」
「ダンジョンへの扉?」
「〈はい、Rx。希望されるダンジョンのカテゴリーを指示してください。指定されたカテゴリーのダンジョンへ入るための扉までご案内いたします〉」
ナビがそう言うのと同時に、目の前にボタンが並ぶ半透明のボードが浮かぶ。
ボタンに書かれているのは「緑」「土」「水」「炎」「風」「雷」「氷」の7種だ。
「ああ、これ、ダンジョンで習得できる魔法の種類?」
「〈はい、Rx〉」
「全部取得したら、特殊スキルが手に入れられるようになったりする?」
「〈現在表示されているダンジョンのカテゴリーは、Rxのランクに応じたものです。ランクアップによって入ることができるダンジョンは増えます〉」
「ふむ、そっちか。なるほど? あのヒトも階位を上げろって言ってたし、まずはランクアップが優先ってことね。じゃあ、ランクはどう上げるの? もう侵攻も迎撃戦も無いでしょ?」
「〈ステータス画面の左上に『ミッション』が追加されています。タップするとランクポイントを得られるミッションの一覧が表示されます〉」
「へー」
相槌を打ちながら、ナビが「侵攻も迎撃戦も無いでしょ?」という質問に答えなかったことを頭の片隅に置いておく。
ひとまずミッションのチェックが先だ。
「いろんなミッションがある。ダンジョンに出てくるモンスターを狩ったり、素材を集めて納品するのでもランクポイントが入るんだ。こっちでもゲーム仕様なんだねぇ……。ん? モンスター狩りやら素材納品でランクポイントが入る? ってことは、ダンジョンはただのプレイヤーの鍛錬の場っていうのじゃなさそう……?」
首を傾げて数秒。
試しに聞いてみる。
「ねえ、ナビ。そもそもランクって何?」
「〈その情報は当機のデータベースには存在しません〉」
「じゃあ、ダンジョンって何? 誰が造ったの?」
「〈その情報は当機のデータベースには存在しません〉」
「モンスターはどうしてプレイヤーと敵対してるの?」
「〈その情報は当機のデータベースには存在しません〉」
「モンスターを狩って得られるEが、通貨として認められるのはどういう価値から?」
「〈その情報は当機のデータベースには存在しません〉」
ふぅん、と頷いて、少し考える。
「今までナビがそう言うのは、プレイヤーに与える情報の選別をしてるせいなのかなぁと思ったりしてたけど。あのヒトと話した後だと、別の考えが浮かぶんだよね。……私のランクが“足りない”から、言われても聞き取れないし、理解できない情報。与える意味が無いから、ナビのデータベースに入ってない」
マグカップを持ち上げて、コクリと甘いカフェオレを飲む。
「あのヒトのことが個として認識できないのも、私じゃまだ“足りない”からなのかなぁ。それとも、ソレが駒から枢機卿にランクアップするための代償とか……? ……ふーむ。これは他の枢機卿と会ってみないと分かんないな」
つぶやいてカフェオレを飲み干し、立ち上がる。
「とりあえず今分かるのは、ダンジョンでモンスターを狩るのは無意味なことじゃない、っていう一つくらいか」
キッチンでマグカップを洗い、振り向くとキャットタワーの上でちょこんと座った雪柳と目が合った。
エクルーズローダー卿に色々言われたが、今も私はその黄金の瞳を世界で一番美しいものだと思っている。
雪柳は、どう考えているのだろう。
黄金の瞳でこちらを眺め、ぴんと立てた耳を私に向けている。
そしてぶらんと垂れた尻尾の先だけを、ゆらゆらと遊ぶように揺らしていた。
雪柳が何なのかも、今どうしてそういう仕草をするのかも分からない。
けれどそれでもかまわないと私は思う。
三年前の、あの辛くて悲しくて苦しくてどうしようもない時間をともに過ごし、私をここまで生きさせてくれた雪柳はもう、大事な家族だから。
「行ってきます、雪姉さん」
だから私はそう言って、まずは自宅の定位置をリセットされたナビの『転送』帰還ポイントに登録。
それからカテゴリー「緑」のダンジョンの扉へ案内を頼み、防塵マスクを追加したプレイヤー装備でマンションの部屋から回廊へ出た。
どこに居ようと、何を言われようと。
私は私にできることしかできない。
ならばそれを楽しもう。
さあ、次の遊びの始まりだ。
後日。
「主は君に興味を持っておられる。それは君が『ありえない残骸』だからだ」
“少年”、エクルーズローダー卿が初対面の時に告げたものの、当時の私では理解できなかった言葉を聞き取れるようになるのは思ったよりも早く。
そのせいでまた次のステージに強制突入することになるのだが。
今はまだ、誰もそれを知らない――――――
2023年9月14日、完結。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。