こういう客もいる
スフィナの一日は日の出よりも早く始まる。
貴族仕えのころ、それが当然であり、それが仕えるものの義務と思っている。
スフィナが仕える主人の寝顔をじっとみつめ、満足すると裸の姿から服を着なおし、主人のために朝食をつくる。
その間、思い出すのはここ最近の主人との情事。初体験からもう数日が経っていた。
あの時、スフィナはかなりの勇気をふり絞っていた。主人のために、この魂のすべてに至るまで捧げる覚悟はあったが、それでも、生前はまだこの体と同じ、十代後半の乙女であったのだ。恥じらいはあるし、恐怖もあった。 同僚が次々に貴族の玩具にされ、場合によっては意思疎通すらできない状態で捨てられるのを何度もみてきたスフィナにとって、性行為というものは未知であり、恐怖であったのだ。
きっと、主人から求められていれば、あの時言い出すこともなかっただろう。しかし、主人は本当に優しく、決して関係を楯に迫ることはなかった。だからこそ、主人が地下に行こうとしたとき、その目的を察し、そして、その対象が自分に向けられなかったことが悲しかった。あれほどすべてを捧げると言っておきながら、自分は役に立てていない、と。
自分から言い出すのは本当に勇気がいることだった。どれだけ思いが強くても、恐怖はずっとこびりついている。言い出せない可能性もあったかもしれない。しかし、恩人のひとりたるテヴァの言葉が助けとなり、ついに、2度目の人生で初めてスフィナは体験した。
その感覚を、感情を思い出すだけでスフィナの顔は熱を帯び、頬が緩んでいく。
どうしようもなく幸せだったのだ。人間として満たされていく感覚。そして、主人をこれほどに感じることができる感覚。
恐怖は、あっという間に消えてしまった。
勿論これが主人のおかげであるのはわかっていた。主人の気遣いをひしひしと感じたのだ。それはそれで大切にされているようで嬉しかったが、主人に仕える者として、それが良いこととは思わなかった。
主人は言っていた。自我がある人間は相手し辛い、と。その理由は相手への気遣いのせいで快楽に集中しづらいからだろう。それではいけない。主人には心から満足してもらいたい。
だから、ここ最近スフィナは自分から奉仕を申し出ていた。もっともっと主人に喜んでもらえるように、勉強を怠ることはできない。とはいえ、こういった知識はどこから仕入れるのがいいのかはわからない。主人にきくわけにはいかないし……今度、テヴァが戻ってきたときにでもまた教えてもらおうと考えをまとめながら、スフィナは朝食ができたことを愛しい主人に伝えた。
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ここ最近、スフィナは益々の活躍をみせている。何を頼んでも二つ返事。
今では買い出しや夜の世話もするようになってきた。受付の仕事も大分板がつき、グウェンは本当に必要な確認以外はほとんど作業に集中できる環境になっていた。
理想的な環境といえるだろう。
そんな日が数週間ほど続いたある日。
「ご主人様」
修復作業をしていると、横合いからそっとスフィナが声をかけてきた。
「どうした?」
「少し、特殊なお品を依頼された方がいらっしゃいまして。ご主人様に判断をお願いしたいのです」
「わかった」と頷き、グウェンは受付に向かった。
そこにいたのは、商人然とした小太りの男だった。
カウンターには銀製の装飾品のようなものが置かれている。何かの像にもみえるし、儀式的な道具にもみえる。
「いらっしゃいませ。当店で修復をご依頼とのことで」
「君が店主かね? ああ、そうだ。これを直してもらいたい」
「ふむ……すこし、長引きそうですし、どうぞそちらのテーブルにおかけください」
ぱっと見でも修復が難しそうなものであるのはわかった。そのため、互いに椅子に座り、腰を落ち着ける。
すっと、スフィナがお茶をだしその後はグウェンの傍に控える。
「それで、こちらの品について、少し拝見しても?」
「かまわん」
グウェンは品を手に取ると、くるりと回したり、中を覗いたりする。
形は、高さ1プルメール、縦横5プルメール(1プルメールはおよそ指の第一関節。メールという女騎士が測量の際に好んで指と剣を用いたことから、ロングソードの長さを1メール、指の第一関節を1プルメールとして現在の測量の基準となった)の黒色の土台の上を銀で作られた牙のような装飾が緩やかに曲線を描いて伸びている。しかし、装飾の一部が折れてしまっている。土台には複雑な文様の描かれた円があるが、擦れたのか一部消えてしまっている。
総じて、怪しい儀式道具か、もしくは何かの偶像の可能性もあった。
「申し訳ございませんが、当店ではお受けできません」
「なに?」
「こちら、かなりのいわくつきの品とお見受けいたします。使われている素材によっては修復自体は可能かと思いますが、修復することで受ける当店の危険性を考えますと、難しいかと」
「いわくつきなんかではない。これは、ただの銀装飾だ」
「それでは、この術円の跡はなんなのでしょう?」
グウェンがそう言うと、商人然とした男は言葉を詰まらせた。
「この術円は明らかにアリアカ方程式によって描かれたものです。軽く解読をさせていただきましたが、どうやら何かに干渉するもののようで。勿論顕術というのは、なにをとっても対象に干渉するものでありますが、その中でも人間の行動に干渉するもの、というのがわかりました。これについて、ご存じだったのでは?」
そう詳説すると、いよいよ商人然とした男はどう答えればよいかと口を開閉していた。
初めは「なぜ、そこまで」などとうろたえていたが、やがて、諦めたのか「……ああ、知ってたよ」
「私は、この国の考古学研究員だ。それはある遺跡で出土したものだ。形からして何かの副葬品だったか、儀式で使われていたと考えている」
「なるほど。ですが、出土品というなら、そのままの形にしておくのが良いと考えますが」
「通常はな。だが、お前も言ったようにこれは術円に秘密がある。出土品としての価値より、修復することで当時の文化や宗教を考察する価値の方が高いと踏んだのだ」
「ふむ……」
「嘘だと思うか? ここに研究計画書もある」
と、鞄から分厚い書類を取り出してくる。
中身を確認すれば、なるほど、確かに正式な書式で出土品の修復について認可されている。
しばらく読んでいたグウェンであったが、「確かに、認可されていますね」と書類を返す。
「なら――」
「修復自体はお受けできます。ですが、ひとつ。お伺いしておかなければならないことがあります。この術円はどのような術効を持っているのでしょう? 修復した結果、私どもに被害が及ぶ危険性があるならば、それを事前に知っておかなければお受けすることができません」
「……問題ない。専門家に鑑定してもらったところ、明確ではないが、気分を一時的にあげる術効があるのではないかということだ。危険性はないとも言われている。それは計画書にもかかれていただろう?」
「お客様の口からおききしたかったので。ですが、そうですか。それでしたら、問題ないのでしょうね。わかりました、お引き受けしましょう。それでは詳細な内容と、使われている素材について。それとお見積りについて。その後、契約書をまとめますが、今回はものがものでありますので、もう一枚、お願いする契約書がございます」
それから、しばらくの商談がつづき、やがてまとまると研究員の男は店を去っていった。
期限は多めに見積もって2週間ほど。依頼料はしぼりとれるだけしぼりとった。
というのも。
閉まった扉をみつめながらグウェンがつぶやく。
「何か、隠しているな」
「そうなのですか?」
「ああ。初めの対応からして研究員であることを隠していたのがおかしい。その後のあまりに整然とした書類も違和感がある。だったら、初めから研究員として修復を依頼すればよいだろうに」
「どう、なのでしょうか。わたしには少し横暴なきらいのあるお客様、という印象くらいしか」
「いや、勘のようなものだ。あまり気にしなくていい。ただ……スフィナ、君はそれには触れないように。術円は時折暴発することもある。経年劣化によってはこうして術円の咳式が変わり、全く想定していない顕術が発現することもある」
「はい、かしこまりました」
そうして一度、依頼品は保管部屋にしまわれた。