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朱童子

作者: Phantommaster

「──ああ、あなたなら出来ます。

 ──師を、我が師を殺して下さい。

     師は鬼と化してしまいました」



 鎮守の社は、篝火に燃えていた。

 年に一度の祭礼であるこの日のために作られた舞台では、白い水干装束に身を包んだ男が緩やかに神楽を舞っている。

 例年に比べれば格段の舞だった。

 緻密さの中に力強さが漲り、風格が周囲に神韻とした空気を作り上げている。あまりの見事さに、宴はもうかなりの酒がまわっていながら、小声一つすら洩らす者もいない。

 見入る村人達の後ろから男の動きを見つめていた朱髪は、その舞が能ではないことに気づいていた。草深いこの辺りの田舎人には無理であろうが、幼少の頃を都で過ごした朱髪には、その違いがわかる。そして、男が踏むのが破邪の印であることもだ。

 やがて、床を打つ高らかな足音と共に舞は終わりを迎えた。

 汗一つかいた様子も見せずに、男は舞台を降り、白砂の道を鳥居へと向かった。

 朱髪は鳥居の外へと走り出した。男の動きは滑らかでありながらも速く、なかなかに追いつけない。

 人を掻き分け、ようやく追いついた時には社から随分と遠ざかっていた。祭礼の炎もすでに弱く、もう月明かりの方が強い。

「陰陽師様──」

 小刻みに息を吐き出しながら、男を呼び止め、朱髪は頭を上げた。

 その姿が、ひどく艶めかしい。

 まだ十三、四という少年である。

 それでありながら、妓女を越えた色香がある。いや、この艶は女とは別種のものだ。白粉も使わず、紅を塗っただけで妖しくも映えるこの中性的な美貌は、少年の頃にほんの一時期だけ訪れるものだった。そしてそれは、一過性の熱病にも似た、奇妙な危うさを持っている。

「陰陽師様──」

 朱髪は、もう一度声をかけた。大人になる前の高い音声は、か弱そうでありながらも、鎮守の森に響いて行く。

「陰陽師様、お願いがございます・・・・」

 三度に渡る悲痛な呼びかけに、ようやく男は振り返った。

 いきなり現れた異相に、朱髪は一瞬たじろいだ。

 男の顔は面に覆われていたのだ。

 先刻までの舞で使われていた翁の面が、白髭を長く垂らし、黒ずんだ木肌を晒している。神体として祀られて来た長い年月が、そこに刻まれていた。

「何の用だ。神事の最中に、呼び止めるものではない」

 面の向こうから男の声がした。面越しでくぐもってはいたが、強く明瞭だった。

 調子からすると若者のようである。翁の面のせいで、年輩だと思いこんでいた朱髪は意外に思った。そして、値踏みをするように面の細い眼を覗き込む。年期の浅い陰陽師では呪力に問題があるかもしれない。

 やがて、朱髪の前で男は面を外した。

 長い髪が烏帽子から頬にかかり、男はわずらわしそうに片手で梳き上げる。

 月光に照らされた男の顔に、朱髪は言葉を失った。

 美しい──それも怖いくらいに・・・・

 夜気の中に唐突に現れた妖しいまでの威容は、朱髪を畏怖させるのに十分だった。

 ちょうどその時、風に吹かれたのか、社の篝火が消えた。男を照らすものは月光のみとなり、松明の赤みを失った肌は凄とした蒼さに包まれてゆく。

 弾かれたように、朱髪は男の胸に倒れ込んだ。まるで魅入られたように。

「やっと会えた・・・・。あなたのような方を探していたのです。

 助けて欲しいのです・・・・。私は鬼に捕らわれてしまいました・・・・

 ──ああ、あなたなら出来ます

 ──師を、我が師を殺して下さい

     師は鬼と化してしまいました」



 銅葺きの門柱には青錆が浮かび、頭上からは梁が半ば朽ち果て垂れ下がっていた。

 見事な造りの門であるだけに、寂れた姿が痛ましい。

 寺門をくぐり抜けた後も、広い庭に雑多な草が生え、人の手が入れられていないことが一目瞭然であった。かつてはかなりの名刹であったのであろうが、時の流れに揉まれる内に、このようになったのであろう。

 朱髪に導かれ寺の本堂へ向かう途中で、刹羅は歩を止めて、鬱然とした墓標の群に眼を遣った。さすがにこの領域のみは草も刈られ、掃除も行き届いている。

 土御門刹羅というのがこの男の名だ。

 業は陰陽師。呪を司る者である。

 人にかけられた呪いを祓うのが陰陽師だと、彼等は言う。しかし、呪い方を知らなければ呪いを祓うことは出来ない。そして、その術を使わないと信じている人間はいない。

 刹羅もその一人。しかも、土御門の一族であった。

 土御門家は、大陰陽師安倍晴明の血を受け継ぐ家系であり、陰陽道の本家として陰陽師全体を束ねている。その一門とあれば、当然呪術者としての地位も高い。であるのに、刹羅はなにゆえに、このような田舎まで都落ちしているだろうか。

「どうしました、刹羅様? 墓に何か気がかりなことでも?」

 じっと墓域を見つめる刹羅に、朱髪は訝しげに聞いた。

「卒塔婆が倒れている。何者かが、掘り返したようだな」

 刹羅が静かに答えた。朱髪は身を竦め、恥じ入った様子で、

「狗か何かが、屍体を掘ったのでしょう。何しろ、私一人では手がまわりません。お恥ずかしいかぎりです・・・・」

「いや、埋めてはある。卒塔婆が倒れているだけだ。だが、数は多い」

「・・・・そうですか。埋めるのに気を取られ、立て忘れたのでしょう」

「ならばよいのだがな」

「何か不審なことがあるのでしょうか?」

「いや、よい」

 不安気な朱髪を慰めるでもなく、刹羅は会話を切った。そして、再び歩き始め、

「それで、お前の師はいつ頃から鬼となったのだ?」

 鬼と化したという朱髪の師について尋ねた。

 その問いに朱髪は眼を伏せ、身体を震わせた。そして、言葉と言葉の間を置きながら、呟くように話していった。

「いつの頃からだったのでしょう・・・・。

 強いていえば、師の愛撫が痣となって翌朝に残るようになった時からでしょうか。

 とはいえ、これも今から思えばの事に過ぎません。師にとって私は最初の稚児だったらしく、最初はどう扱ってよいのか戸惑っていたようです。しかし、慣れれば筋骨逞しい師のこと、饗が増せば力が余り、乱暴になるのも不思議ではないと思っていました。

 ただ・・・・」

「ただ、なんだ?」

 朱髪は顔を上げ、刹羅に向かって眼で会釈をした後、着物の襟元を広げた。

 むしろ病的に白い肌が、陽光に晒される。屋外ではなく、夜の燈火のためにあるような肌だった。

 その肌理の細かい首筋から肩にかけて、赤黒い痕があった。

 歯形である。それも、明らかに人の噛んだ痕である。

 さらに朱髪が袖を外すと、その痕は腋や腰にも現れた。それは、新しいものほど広くかつ深く、まだ血の滴りが思い出せるほどに痛々しい。朱髪は傷に触れないように、着物を元に戻して、

「これも、最初は変だとは考えませんでした。いえ、夜の褥を共に過ごす間柄であれば、当然の事だと思っていたのです。

 しかし、やがて血を見るようになり、しかも、師は噛み切る寸前になるまで、自分が歯を立てていることに気がついていないのです。その時の師の顔は、まるで・・・・」

「鬼のようであったか」

「はい・・・・」

 朱髪の答えは小さく、語尾は消えゆくように打ちひしがれている。本堂へ向かう足取りにも翳りみられ、淡々と歩く刹羅との間も広がり気味であった。

 慌てて足を速める朱髪を待ちながら、刹羅は再び問いを発した。

「どうして逃げなかった。喰われるのが怖いのであれば、逃げればよかろう」

 その言葉に朱髪は、責めるような表情をした。

「出来ると思いますか?

 この細腕には、とても鬼から逃げられるだけの力はありません。

 それに、私は金で買われてきた稚児なのです。寺を出れば逃亡者として、世間から追われ続けるでしょう。たとえ逃げ切るたとしても、待っているのは野垂れ死にです」

「だから、私に退治しろというわけか」

「はい。術師の方に師を倒してもらい、それと同時に、師が鬼であったことを証明してもらおうと考えていました。そうすれば、私も京に戻ることができます。それに・・・・」

 朱髪はいきなり声の調子を落とした。涙ぐんだかのように、かすかにしゃくり上げ、

「それに、師があのようになったのには、私にも咎のあることなのです。師は私との愛欲の地獄にとらわれ、それゆえに鬼と化しました。人を取り殺し、ますます凶悪な鬼となってしまっては、死んだ後も無間地獄が待っているだけでしょう。

 そのためには、今の内に決着をつけなければなりません。できれば、私の手で・・・・」

 いつのまにか朱髪の手には、一柄の短刀が握られていた。寺宝なのであろうか、黄金造りの仰々しいものでだった。刀身の光沢は、切れ味の冴えを感じさせる。

 しかし、刹羅はあっさりと、

「無駄だ。鬼は普通の刀で斬れない。たとえどんな名刀であったとしてもな」

「駄目ですか・・・・?」

「ああ。それに、たとえ鬼斬りの太刀であったとしても、お前では無理だ。あの太刀は使い手を選ぶ」

「そうでしたか・・・・」

 落胆したようでありながらも、半ばほっとした様子を見せる朱髪に、刹羅は言った。

「後は、お前の師を見てからの話だ。鬼としての業が浅いのであれば、打つ手があるかもしれない。駄目なら、討ち果たすしかなかろう」

「お願いいたします。出来る限りの、お礼はいたします。もしも・・・・」

 そう言って、朱髪は刹羅の腕に縋った。潤んだ瞳で胸元から見上げ、紅の唇から微かに吐息をつく。柔らかい髪は細く、陽を受けて朱色に輝いていた。朱髪という稚児名は、これからつけられたのであろう。

 朱髪は腕を抱く力を増して囁いた。

「もしも、刹羅様さえよければ、お礼に私を差し上げても・・・・」

 語尾は淫靡な笑みとなった。

 刹羅が、微かに笑った。

「考えておこう」

 西日は急に赤みを増したようだった。



「いったいこんな破れ寺に何の用だ?

 ここには、あんたが求めるようなものは何もないぞ。さっさと都に帰ることだな」

 朱髪の師、覚文は上背のある堂々とした体格の壮年の僧だった。

 刹羅を睨み付ける眼光も鋭い覇気がこもっており、気の弱い者なら射すくめられそうなほどである。

 堂を訪れた刹羅に挨拶すらなく、そのまま追い返そうとする態度には、偏屈を通り越した悪意の棘があった。何がこの僧にこういう態度を取らせているのか。

「そう邪険に扱う必要はなかろう。旅の術者が、一夜の宿を求めただけの話だ」

「ふん。最近、盗賊も多いからな。めったな人間を泊める事は出来ないさ。それに、俺は都の人間が嫌いなんだ」

 そう言いながらも、覚文は刹羅の頭から足の先までを見回していた。この地にも、呪術者が訪れないわけではないが、京の人間は珍しいのだろう。好悪は別として、遠方から来た者に興味はあるようだった。

 覚文は刹羅に何かを感じ取ったのか、

「あんた、なんでこんな田舎まで来たんだ? どうも、木っ端祈祷師ってわけじゃなさそうだが」

「他人の事だ」

「ふん。事情ありの様子だな。雰囲気からすると、追放でもされたか。大方ろくでもない呪いでもかけたんだろう。人を取り殺すようなやつをな」

 覚文の悪口を受けても刹羅は動ぜず、涼しい顔で訊いた。

「宿を頼んでいるのだがな。泊めるの気があるのか、無いのか?」

「まあ、よかろう。最近夜も長くなって、退屈していたところだ。話相手にするのも一興かもしれん」

 覚文は刹羅を促して本堂の中へと導いた。三十畳はあろうかという広い空間に、人の倍ほどの高さの不動明王が本尊として飾られている。覚文はその前に刹羅を座らせ、正面に自分も胡座をかいた。

「病持ちらしいな」

 煙草盆を引き寄せて煙を上げる覚文に、刹羅はつまらなそうに言った。

 覚文は不意を突かれてしばらく手を止めた後、煙草の火を消した。そして、さも不思議そうに、

「良く判るな。さすがは、都の陰陽師だ。医者の代わりも出来るらしい」

「そんなことはないさ。やけに顔の色が青いのと、それに盆の上に薬が置いてある」

「ほう、よく見ている。だったら、少しくらい労ってくれてもいいんじゃないか?」

「酒毒の病に、同情する必要はないさ」

 刹羅の言葉に、覚文は一つ手を打った。

 そして、笑った──のだろう、口の端を持ち上げた。

 そこから、人のものとは思えないほど鋭い犬歯が、顔を覗かせている。他愛のない笑みにしては、あまりにも凄絶すぎた。

 覚文は愉快そうに立ち上がり、本尊の後ろから大振りの酒徳利を持ち出して来た。中から茶碗に酒を注いで刹羅にすすめ、自分は手酌で立て続けに数杯飲み干してゆく。

 刹羅は一口の酒で唇を湿らせて、

「思ったよりは悪くない」

 と言って残りを一気に干した。呼応するかのように覚文が吼えた。

「これも薬のうちさ。こんな田舎暮らしじゃ、酒でもないとやっていけん」

 覚文は手で口を拭い、舐めるように刹羅の顔を眺めた。酒が回ってきたのか、顔全体に赤みが増してきている。

「だが、陰陽師さん。気に入ったよ、あんた。それに、綺麗だしな。

 惜しいな、もう十年若ければ愉しめただろう。朱髪みたいに女っぽいのもいいが、あんたみたいな毅然としたものいい。どんな味がするのかね。試してみたい気もするが」

「精気が過ぎるのも、身を細らせている原因だな。破戒にばかり現を抜かしていると、長生きは無理だ」

「いいねえ、その冷たさ。

 実はな、最初心配だったんだよ。朱髪があんたに惚れたんじゃないかってね。だが、大丈夫のようだな。あんたの方が、他人に惚れる人間じゃなさそうだ」

 そう言って、覚文は薬を開けて飲んだ。脂に光る黒い塊だった。

「ああ、これは病気の薬じゃない。強精剤だよ。これを飲むと力が湧く」

 説明して覚文は黙った。強い薬なのか、すぐに息づかいが荒くなる。異様な光を両眼に湛え、覚文は堂全体に響く大声をあげた。

「朱髪! 来い!」

 反響が消え去る頃、堂の脇から朱髪の姿が現れた。

 淡い青藍の薄着を身に纏い、髪を下ろして首の後ろに束ねている。燈火に透かされて肢体の線が浮かび、足取りに合わせて揺れる袖の動きが、幻めくような感覚に陥らせる。

 柔らかな動作で朱髪は、刹羅の横に座った。香を焚いてきたのか、体臭と混じり合った強い芳香が、三人のいる空間に流れ渡る。

「刹羅様、一献戴いて下さい」

 酒器を傾けつつ、朱髪は刹羅に寄り添った。媚びを含んだ眼で刹羅を見上げ、何がおかしいのか、口元に意味不明の笑みを浮かべている。

 二人を見る覚文の表情が険しくなった。苛立たしげに、床を指で弾く。

 やがて、覚文は鋭い声を上げた。

「朱髪、こちらへ来い!」

 朱髪は言葉に逆らわずに立ち上がり、対座へと移動した。覚文は太い腕で強引に朱髪を引き寄せ、もう一度乱暴に酒をあおった。

「お客様に、おもてなしをしていただけですのに・・・・」

 そう言った朱髪の細い腕を、覚文は逆手にねじ上げた。朱髪の顔が苦痛に歪み、みるみるうちに紅潮してゆく。

「痛・・・・い・・・・」

「知っているのだ、お前がこの陰陽師に惹かれていることくらい」

「そんな・・・・。お師様、またお薬を・・・・」

「それがどうした。お前が買って来たのだろうが」

 覚文は薬袋を手にとって、残りの薬を口に含んだ。湿った咀嚼音と共に、苦み走った煙たいような臭気が舞う。強引に嚥み下した大量の薬は、覚文の血流を危険なまでに増し、燃えるように赤くなった顔には、青白い血管が早鐘のような脈を打って蠕動していた。

 ふいに、コキリ、という小枝が折れるような軽い音が響いた。

 朱髪の眼が焦点失い、喘ぎながら床に沈んだ。手首の骨が折れ、考えられない方向に曲がっていた。

 朱髪は、苦痛のために声を出せないまま、刹羅を見た。

 その姿を、さも面白そうに眺めた後、

「残念だったな、朱髪。お前をこの陰陽師に抱かせてやるわけにはいかん。

 お前は俺のものだ。骨の随までな・・・・」

 覚文は朱髪を抱きかかえ、着物に手をかけた。絹を裂く、冴えのある音と共に、朱髪の肌が顕になってゆく。覚文は朱髪の乳房に歯を立て、顎の力を込めた。口元から血が流れ、太い喉元に向かってゆっくりと長い筋を作り上げて行く。

 覚文の瞳が刹羅を捉えた。倣うかのように朱髪が首を起こし、縋る眼を向けた。

「刹羅様・・・・お約束です・・・・どうか・・・・」

 覚文が朱髪を抱く手を弛めた。そして、血に染まった歯を剥き出しに刹羅に訊いた。

「約束とはなんだ?」

 その問いに刹羅は答えず、沈黙のまま値踏みをするように覚文を見据えた。

「約束とはなんだ、答えろ!」

 声を荒げる覚文の恫喝も空しく、天井へと消えて行く。やがて刹羅は、自分に言い聞かせるように、冷厳と宣告した。

「手遅れのようだな」

「どういう意味だ?」

「人に戻すのは、無理だということさ」

 くくく、と覚文は笑った。さも、興味深げに。

「面白い男だな、俺が人でなければ、なんだというのだ?」

「鬼──」

「鬼? 俺が鬼か? なるほど鬼かもしれん。何しろ、破戒坊主だからな」

 覚文は足下に倒れる朱髪の頬を、強く殴った。再び血が飛び、こぼれた酒に混じって不気味な色彩となる。

「しかし、まだ殺生戒は破っておらんぞ。このように可愛がっても、殺してはおらん。人も殺さず、鬼になるのは無理ではないのか?」

「喰らいたくはないのか?」

「喰らいたい? 何をだ?」

「人だ。そこにいる弟子を喰らいたいと思ったことがあるだろう?」

「ああ、最愛の稚児だからな。喰らいたいほど可愛いさ」

 そう言って覚文は、残りの酒を朱髪にかけた。傷にしみるのか、朱髪の顔が歪む。もう覚文は自分の嗜虐性を押さえようとはしていなかった。

 刹羅の瞳が静かな光を湛えた。そして、魂を染めるような声で訊いた。

「血を啜り、肉を噛みたいのではないか? 人の味を舌に乗せたいのではないか?」

 不意に静寂が訪れた。

 覚文は真剣な表情で、朱髪と刹羅を交互に見ている。力を失った朱髪は、潤んだ瞳で刹羅に視線を馳せた。

 堂内に入り込んできた秋風が、数葉の枯葉を舞わせている。格子窓からは青い凶星が禍々しい光を放っていた。

 やがて、覚文は感心したように、素直な声をあげた。

「なるほど、考えてみれば、確かに喰らいたいと思っていたようだ。ただ、これでも仏者の端くれのつもりでいたからな。それに、朱髪を殺すわけにもいかないんで、噛んで血を啜る程度に押さえてたんだろう。

 確かに、そのころから、何か自分が変わった気もしていたようだ。世間がやけに馬鹿馬鹿しくもなった。それも、鬼なったせいか」

「・・・・鬼となるのがいやではないのか?」

「何故だ? 人など窮屈でしょうがないではないか。このままでは、一生このうら寂れた田舎寺に籠もっていなけりゃならん。鬼なら鬼で別の生き方もあろうさ。それに・・・・」

 覚文の口元から長い牙が覗いた。それは、明らかに鬼のものだった。わずかの間に、何時これだけ伸びたのか。覚文が己の鬼の性に確信を持ってきている証拠だった。

 刹羅の肩に手をかけ、覚文は語を継いだ。

「それに、鬼となればもう人を喰うのに遠慮はいらん。朱髪は喰うわけにはいかないからな、まずはお前から喰ってやる。

 最初に見た時から、なにか身体を疼かせるやつだと思っていたが・・・・。なるほど喰いたかったわけか。ようやく腑に落ちたよ」

「にわかに変化した小鬼に、私が喰らえるかな?」

「なんだと?」

 覚文は刹羅を掴んだ手に力を込めた。すでに鬼の手を化したそれは、非常な威力をもっている。人の身体など、簡単にバラバラになってしまう。

 しかしながら、刹羅は虫でも払い除けるように、平然とその手を外した。

 焦った覚文は、牙を向けて刹羅に襲いかかる。

 刹羅は、その顔を右手で受け止めた。たんに掌をかざしただけだというのに、覚文は身動き一つ出来ないでいる。

 覚文の大振りの頭を、五本の指で軽く掴んで、

「お前が焦がれた都の技、土御門の呪力を見せてやろう」

 どこか楽しげに刹羅は言った。

 言葉と同時に、覚文の眼球が鬱血して飛び出し始めた。息が詰まったように長い舌を出し、喉の奥から血を吐き出してゆく。

「我が式神、騰蛇の味はどうだ? 十二神将の中でも、一番の凶将だからな。苦しみも酷かろう」

 言葉が終わらないうちに、覚文の首が崩れた。

 そのまま床に倒れ込んで行く。

 身体は鬼火に焼かれながら塵となっていった。

 それでも不思議と身体の一部が残った。それは、覚文の鬼になりきれなかった部分であるのかもしれなかった。

「お師様・・・・」

 跡形も無くなった師の亡骸に朱髪が縋った。

 肩を震わせるその姿が、しおらしく、それでいながら婉然とした様を失わない。

 しかし、力無く涙を流す朱髪の背中に、刹羅は冷然と言った。

「何故、人胆などを飲ませた?」

「・・・・刹羅様、どうしたのです? 怖い声をなさって・・・・」

「とぼけなくてもいい。やつが飲んでいたのは人胆だ。あれは人の内蔵から作るもの。そんなものを大量に飲ませていれば、その内に鬼になっても不思議ではない」

「そんな、知らなかった・・・・。あれが、人から造られたものだなんて・・・・」

 恐怖に青ざめ、朱髪は刹羅の足下で泣いた。師の名を呼びながら、自分を責める。

 だが、刹羅の態度は変わらなかった。

「このような村に、人胆を売りに来る薬売りなどいまい。だとしたら、造るしかない。幸いここには、材料もある。墓を掘るだけだ。

 確かそれをやったのは、朱髪、お前だったな」

 朱髪の嗚咽が止んだ。

「初めから知ってたんだね。人が悪いや・・・・」

「何故、師を鬼にした?」

「前に言った通り。そのまま逃げたら、逃亡者だからね。あの人を殺して、ここの財産を処分して、京に帰ろうと思ってた。

 それと、復讐・・・・」

「稚児としての生活がいやになったか」

「ふ・・・・。最初のうちは、いやだったけどね。そのうちに慣れた。今では、男に抱かれるのも悪くないと思ってる」

 そう言って、朱髪は立ち上がり刹羅に寄り添った。

「特にあなたみたいな人にはね。ねえ、一緒に京に帰ろう?」

「騙されるのは好きではない」

「そ、じゃあいいや──」

 衝撃が刹羅の胸に走った。両手に短刀を握った朱髪が、刹羅の心臓目がけ渾身の力でて刀身をえぐり込んでいる。師を刺すと言った黄金造りの寺宝だった。

「馬鹿だね。騙されたままだったら、殺されずにすんだのにさ」

 嘲る朱髪の首を、刹羅の手が掴んだ。

 あたかも、何事も無かったかのように。

 朱髪の顔を驚愕が覆った。まったく変化のない刹羅の姿が、恐怖となって朱髪を襲っている。

「な、なんで・・・・?」

「言ったろう、その刀では斬れないと」

「そ、それは、鬼のこと・・・・ま、まさか!」

 朱髪が手から、短刀が床に落ちた。

 刹羅の水干には明らかな刃の痕があったが、一滴の血も流れてはいない。凄絶な鬼気を身体から立ち上らせ、刹羅は言った。

「教えてやろう──

 長い年月の間に呪力の衰えを感じた土御門の一族は、祖先播磨守晴明の故事に倣い、力の復活を願った。白狐を母として生まれた祖と同様、怪に子を産ませたのだ。

 しかしながら、彼等は一つだけ間違いを犯した。怪に鬼を選んだことだ。それ故に生まれた子は、人よりもむしろ鬼に近かった。

 彼等はその力を恐れ、封印をほどこして追放した──それが私だ」

「あ、あ・・・・お、鬼・・・・」

 震える朱髪に刹羅は妖しい笑みを浮かべた。

「つれない事を言う、お前も鬼ではないか」

「え・・・・?」

「折れた腕はどうした? 乳房の傷はどうした? どうやって、その細腕で刃を柄まで突き刺したのだ?

 屍体を暴き辱め、人を鬼とし、鬼と交わる。鬼にならなければ、不思議なほどだ」

「そ、そんな、僕が鬼・・・・」

 刹羅は呆然とする朱髪を押し倒した。そして、息吹を感じられるほどに顔を近づけ、

「報酬にお前をくれると言ったな・・・・。約束を守ってもらおう」

 いきなり朱髪の顔が苦悶に歪む。

 鮮血を流すその口に、刹羅は自らの唇を重ねた。朱髪の肌から血の気が失せ、それに合わせて、刹羅の喉が鳴る。

 瞳孔の輝きを失い、朱髪の痙攣が消えた。

 刹羅は身体を離し、名残惜しむかのように口に着いた血を舐めた。

「よそうとは思ったのだがな・・・・。鬼が二人もいては、邪気が強くて血が騒ぐ・・・・。

 しかし、鬼の血の味は久しぶりだ・・・・」

 朱髪が最後の血を吐き、断末魔のくぐもった声が漏れた。

 その姿を哀れむかのように、時期遅れの蟋蟀がか細い音色を奏でていた。

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