婚約破棄の出足を全部潰す悪役令嬢
大小様々な国家、組織の次期指導層である、錚々たる家門の子弟子女がつどい学ぶ、帝国貴族学院の卒業パーティの席において――
「この私、ラニューヴ大公ノヴァンは、フォルノラブル公爵令嬢エルシャードとの婚約をは」
「同窓の身ですから少々おかしいですけれど、わたくしからも卒業のお祝いを申しあげますわノヴァン殿下。これで、わたくしとの婚姻さえ成立すれば、殿下がつぎなる皇帝です」
高らかに何事かを宣告しようしたノヴァン大公の声より、はるかに張りととおりのよいアルトヴォイスが響き渡った。
美声の主は、ノヴァンからなにかを告げられるところであった、フォルノラブル公爵家のエルシャードである。
くせのない銀髪と蒼い眼をした、声だけでなく外見も流麗な娘であった。
「大帝ヴァルグムンドにより開闢されて200年、わが帝国が繁栄をつづけてきたのは、帝冠を巡って不要な争いをすることなく、国力の空費を避けてきたからですわ。……ね、ノヴァン殿下?」
この『帝国』は、乱世に終止符を打ち七つの玉座を統合した大帝ヴァルグムンドを開祖とするが、大帝の直系はその後永らえることなかった。
現在はヴァルグムンドの女系の血筋を継ぐ三公家から、一代ごとに皇帝を選出している。
ノヴァン大公の生家ラニューヴ公爵家は序列として第三位。三家筆頭のフォルノラブルと縁を結ばないのであれば、ノヴァンに次期皇帝の椅子はない。
「そ、そのとおりだが、それはそれとして――」
婚約者の言にうなずきつつも、ノヴァンは気を取り直して宣告をつづけようとしたが、またしてもはるかにとおりがよいエルシャードの声が押しつぶす。
「わが兄イルクレドは、帝位継承順一位でありながら、わたくしを皇后とするために身を引きました。わたくしは兄のためにも立派な皇后となり、そしてノヴァン殿下、あなたを英帝に押し上げる義務を負っている、その自覚を、つねに胸に刻んでまいりました」
「美しい心がけです!」
「立帝嗣ノヴァン殿下万歳! 立帝嗣妃エルシャード殿下バンザイ!」
「帝国に栄光あれ!」
いつの間にやら、帝国の周縁でほそぼそと存続している、衛星国の王子や公子たちが集まっていた。
ノヴァン大公の取り巻きである、伯爵や子爵の子弟たちはすっかりはじき出され、大公自身と、彼の裳裾をにぎっているストロベリーブロンドの少女だけになっている。
「気が早いですわよ、立帝嗣の儀は、ノヴァン殿下とわたくしが婚姻の儀を迎える日の朝になってからです」
小なりとはいえ一国の次期元首たちを、エルシャードはぱたぱたと手を振って静めた。
いっぽう、まだ自分は帝位継承順一位にはなっていないことに気づいたノヴァンは、間抜け面になる。
「……え、そうだったのか?」
「そうですわよ、ラニューヴ大公ノヴァンさま?」
現帝は、序列二位のレグサイガ公爵家当主でもあるズイモスであり、同じ公家から連続して皇帝を出さないことは暗黙のうちに合意されていた。
たいていの場合、フォルノラブルとレグサイガが交代で皇帝の座を占め、ラニューヴにお鉢が回ることは滅多にないのだ。
ラニューヴ公家のノヴァンが現在帝嗣候補第一位となっているのは、息子を皇帝とするよりも娘を皇后に押し上げたいという、現フォルノラブル公ダウィスの気まぐれと少々のひいきから転がり出た、思わぬ目であった、というのがこれまでの帝国内外の認識である。
ひざがぷるぷるとしてきたノヴァンだったが、そこで、いまはじめて気がついた、といったふうに、エルシャードがわざとらしく目を大きく見開きながら、大公のかたわらで立ち尽くしているピンクに向き直った。
「あら、たしかそちらは、ベリービッチ男爵令嬢ルクシュリアさま、でしたかしら?」
「……ベルンフィッチです」
「失礼、ルクシュリア・ベルンフィッチ男爵令嬢。あなたがいわゆる、ノヴァン殿下の『真実の愛』のお相手ということで、いいのかしら?」
「え……いえ、そ、そこまででは」
ノヴァンと事前に示し合わせていたのとは、まるで異なる展開に、しどろもどろになるルクシュリアに対し、エルシャードは平静な声で応じる。
「けっこうではございませんの、側妃になられれば。大帝ヴァルグムンドの愛娘、女帝エヴァーリーゼの血が1/16より薄まった場合、その血統は永久に帝位継承権を失うと法に定められていますから、至尊の栄光にあずかることはありませんけれど、第三位のラニューヴといっても公爵家の血が入るとなれば、きっと男爵閣下もおよろこびになりますわ」
「……お、お心づかい、ありがとうございます。わたしは、そんな、皇帝陛下の側妃だなんて、大それたことは」
ルクシュリアがそういうと、いままで朗々と響き渡っていたエルシャードの声が、可聴域ギリギリまで小さくなった。
「一度は皇后になれると思い上がっていたのに?」
「……!」
ルクシュリアは真っ青になり、強くこわばったその手が握っていた、ノヴァン大公の裳裾が音を立てて裂ける。
「え、エルシャード嬢、いきなりなにを言い出すんだ……」
こちらも声をひそめたノヴァンへ、エルシャードは冴えた双眸を据える。
「わたくしが、あなたがたの稚拙な陰謀に気がついていないとでも思っているのですか? もし予定のとおり寸劇を進めていたら、婚約破棄は成ったでしょう。そうなっていたら、フォルノラブルの面子に懸けて、ダウィスとイルクレドは、あなたを殺さないわけにはいかない」
視線で斬りつけられ、まるで本身の剣が己を貫いたかのように、ノヴァンは口をわななかせた。
エルシャードは、周囲には届かず、しかしノヴァンとルクシュリアからは聞き間違いようのない、抑えているが張りのある声でつづける。
「勘違いしてほしくないのですが、わたくしがあなたがたの計画をぶち壊しにしたのは、ノヴァン殿下と別れたくないからではなく、帝国の国体を守るためです。ラニューヴが滅びれば、残るのは実力が拮抗しているフォルノラブルとレグサイガ。いずれ帝国を二分する紛争は避けられません。二強一弱の三本目の柱、ラニューヴ公家にも、重要な役割というものがあるのです」
「……すまなかった、許してくれ、エルシャード嬢。私は、帝位継承を辞退するから、どうか、このことは内密に……」
ひざをガクガクさせながらノヴァンは涙声で泣きを入れたが、ここでエルシャードはふたたび高らかに声を張った。
「ノヴァン殿下、あなたはつぎの皇帝ですよ、もっと胸を張って背筋を伸ばさなければなりませんわ。ルクシュリア嬢との関係をお恥になることはありません、側妃のひとりやふたり、あなたは地上でもっとも尊貴な身になるのですから」
……これまで、ことあるごとに「婚約者が本体」「次期傀儡」「添え物」といわれてきたノヴァン大公の、一世一代の下剋上の試みは、こうしてものの見事に粉砕された。
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「ノヴァンのやつも、これで身のほどをわきまえるだろう」
帝国貴族学院の卒業式をすませて帰ってきた娘から婚約破棄未遂事件の顛末を聞いて、フォルノラブル公ダウィスは美髯をなでながらうなずいた。
「しかしエルシャード、ノヴァンなんぞにこだわらなくてもいいだろうに。帝国内は人材難だが、世界中を探せば、おまえにふさわしい男だってきっと見つかるさ」
そういう兄イルクレドに対し、エルシャードは首を左右に振った。
「わたくしがなりたいのは、どこかの国の王妃や元首夫人ではなく、この帝国の皇后なのです。現帝がレグサイガのかたである以上、ラニューヴ家の長男しかありませんわ。お兄さまとは結婚できませんし」
「おまえが男に生まれていれば一番早かったんだがな」
ダウィスも、イルクレドも、エルシャードの知性と政治への意欲を大いに認めていた。
自分がつぎの皇帝になるより、妹が女帝となるほうが帝国は強くなる――そう確信しているからこそ、イルクレドは継承順一位でありながら譲ったのだ。
ノヴァンが女遊びにかまけて政治から離れてくれるのは、むしろ都合がよいくらいだった。なぜお気に入りのベルンフィッチ男爵令嬢を側妃にすることで満足せず、婚約を破棄しようとしたのか。
もし言いがかりなり、でっち上げの証拠なりで婚約破棄が宣告されていたら、ノヴァンの立帝嗣はなくなり、いろいろと面倒が増えているところだった。
エルシャードがおどかしたような、報復にノヴァンを討ち取ってラニューヴ公爵家を滅ぼす、などということになりはしないが、泥を浴びせられたフォルノラブルとして、婚約破棄の無効を訴えたりもしない。
泥を被った衣は洗わず棄てる、それが貴族の生きかたというものだ。
「ところでエルシャード、ノヴァンは目に余らぬ限り放任するとして、おまえ自身はどうするのだ?」
父ダウィスに問われ、つぎなる女帝は覇者の笑みを浮かべた。
「いずれその気になるかもしれませんが、いまはなにも考えていませんわ。わたくしの恋人は、目下のところこの帝国そのものですから」
・・・・・
女帝エルシャードにはじまる帝国の黄金時代は、歴史書にぶ厚く記載されている。
帝国の剣イルクレド、帝国の良心ヴァリアルド、帝国の父ダウィスなど、フォルノラブル公家の面々はそれぞれ章が立てられ、また、彼らひとりひとりを題材とした書も多い。
帝国の金庫番ボドウェン、苦労人ハーシェズといった、レグサイガやラニューヴ公家の人々もそれぞれ歴史に残っている。
そんな中で皇帝ノヴァンは、ただ一行「女帝エルシャードの配偶者であり形式上の皇帝」とだけ書かれており、その行状に関する記録は伝わっていない。
了