シンシアの章①
ハルヲ・サイキ、旦那様が先頃、森の中で助けて来た青年だ。
この一ヶ月、私が付きっきりで読み書きを教えているが、思ったよりも上達が早い。それにしても……。
「シンシアさん、今日こそは笑って頂きますよ」
毎日のように私を笑わせようとして来る。その気持ちは嬉しいけれど、私には笑いたくても笑えない事情があるのだ。ハルヲの話を半ば聞き流しながら私は片付けを行う。彼が話しているのは、身分の高い者が庶民的な物を食べ、それを屋敷に帰ってからお抱え料理人に所望したところ似ても似つかぬ食べ物が出されたという筋書きのようだ。
「ううむ、それはいかぬ。秋刀魚は目黒に限る」
「面白いですね」
素直な感想を述べる。しかしハルヲは悔しそうな表情をしていた。
「顔が笑ってませんよ?」
この人は、どこまでお人好しなのだろう。私のような無愛想な女なんて放っておけばいいのに。
「悔しいなあ、ラリアさんには笑って頂けたのに」
「奥方様はお優しいですからね」
私の何気ない一言にハルヲは愕然とした表情を見せた。
「愛想笑いだったのか」
彼は表情豊かな青年だ。もっと昔に出会っていれば、私は彼に夢中になっていたかもしれない。面白い話の他にも私の知らない多くの事柄を知っている。けれど今の私にそのような感情は必要ないのだ。
「そろそろ旦那様がいらっしゃいますよ」
「坊ちゃんの剣術の相手ですね。それでは行って来ます」
律儀に頭を下げて彼は行く。その背中を見送って、私は職務に戻った。私の職務は家事全般だ。奥方様のラリア様は手足に不安を抱えていらっしゃるので、旦那様が私に家事全般の職務を与えて下さった。本来ならば森で朽ち果てるだけだった私を救って下さった旦那様への感謝を、少しでもいいから返したい。
「シンシア、少し手伝って欲しいの」
洗濯をしようとしていた私に声を掛けたのは奥方様だ。
「はい、何なりと仰せ付け下さい」
かつては屋敷のメイドたちに言われていた言葉を、今は私が使っている。あの日、あの時、あのような出来事さえなければ、私はここでこのように暮らしてもいなかっただろうし、ハルヲと出会うこともなかっただろう。
「それでは、大鍋を外へ運んで欲しいの」
「はい、畏まりました」
奥方様は力仕事ができない。だから私が代わりに大鍋を運ぶのだ。煮込み料理が入った大鍋を私が家の中から外へ運び出している間、ハルヲは若君の剣術稽古の相手になっている。旦那様が扱う剣技とは違う扱いでハルヲは剣を振るうが、その剣筋は素人の私から見ても美しい動きだった。
「彼の剣技は不思議だけど、理に適った動きをしているわ」
奥方様もかつては剣を握っていたという。手足の不安がなければ今にも剣を手に稽古へ交じりたそうな表情だ。
「特に足捌きね。最小限の動きで相手の剣を躱す技法は、とても参考になるわ。本当に洗練された動きよ」
「左様でございますか。私めにはよく分かりません」
大鍋を野外の竈に移動させる。今日の具材は森の中で採れるキノコや山菜、一昨日に旦那様とハルヲが捕獲した猪肉だ。ハルヲは自らが心得があると述べたように、弓の腕前は旦那様が唸るほどだったとか。
「さあ、盛り付けの準備をしましょう」
陽が中天にさしかかる頃、食卓には四人分の食器が並べられる。剣術の稽古を終えた旦那様たちが食卓に着いた。
「アールさん、前々から疑問でしたが、彼女はいつ食事をしているのでしょうか?」
ハルヲが聞いたのは私のことだ。
「ハルヲ様、お気遣い有り難く存じます。私めは皆様とは別の時間に頂いております」
軽く頭を下げて、食事の支度を調える私に、ハルヲはそれでも怪訝な表情を向けていた。
「そんなに心配なら、洗濯に行くシンシアの護衛を頼もうかしら?」
奥方様の提案に、旦那様も頷く。
「そうだな、森の中は安全とは言えないからな」
食事を終えた後は、食器類を洗うのも私の職務だ。空になった大鍋に食器を入れて、近くの川まで運ぶ。その大鍋をハルヲが持ってくれた。私は洗濯物を手にして森の中を進む。
「君は森を出ようとは思わないのかい?」
川縁に到着して食器を洗い始めた私に、ハルヲが問い掛けてきた。私は食器を洗う手を止めずに答える。
「思いません」
「僕は、森を出ても良いのだろうか?」
「ハルヲ様は、広い世界を見て来て下さい」
洗い物の手を止めて振り返った私の眼前には、浮かない表情のハルヲがいた。
「旦那様はここを長く空けることができません。それに奥方様の身の回りの世話をするには私が必要です」
私は事実を並べ、それから希望を述べる。
「ですから、ハルヲ様が外の世界で見聞したことを、私たちに聞かせて欲しいのです。落語、でしたか? いつもして下さるように」
エプロンで濡れた手を拭き、私はハルヲの手を握った。
「お願い、できますか?」
「は、はい!」
昔、母から教わった通り、手を握って瞳を見つめて願い事を伝える。こうすれば、断る殿方はいないと。
「お任せ下さい。不肖、この齋木治雄、必ずやご期待に応えます」
鼻息が荒い。ハルヲも単純なのね。
「それと、ハルヲ様の故郷のことを教えて下さい」
私は手を離すと、職務である洗い物を再開した。
「何が聞きたいかな?」
「ハルヲ様のご家族はどのような方ですか?」
「ええと、僕の家は豆腐屋なんだ」
「豆腐?」
聞き慣れない物の名前に私は戸惑う。
「豆腐というのはだね、大豆の煮汁を固めた食べ物で、美味しいのだよ」
「見当もつきません」
ハルヲの声が弾んでいる。きっと話を聞いてくれる人が欲しかったのだろう。今の私のように。
「そうか。では森を出たら大豆を探して、豆腐を作ろう。それをあなたに召し上がってもらう」
「私よりも旦那様や奥方様に召し上がって頂くのが先です」
「強情だね」
何が強情なのだろう。使用人が主人を優先するのは当たり前だ。私だってずっとそうされてきた。
「母の作る豆腐は絶品だった。それを油で揚げたものもあるけど、毎日でも買いに来る人がいたぐらいだから」
「そんなに美味しいのでしょうか?」
「ああ、滑らかな舌触りと、大豆の香りがたまらないぐらいさ」
ハルヲの語る豆腐は、とても興味深い食べ物だ。
「そのお豆腐屋さんは先祖代々のお仕事なのですか?」
「先祖は違う職業だった。御一新で僕の家は、落ちぶれてしまったのだよ」
「御一新?」
また聞き慣れない言葉だ。本当にハルヲと話していると興味が尽きない。
「僕の国はかつて、侍と呼ばれる者たちが支配していた」
「侍、ですか?」
再び聞き慣れない言葉が続く。ハルヲにとっての常識は、こちらの世界では通じにくい。
「騎士と言えば良いのか、軍人であると同時に領主でもある」
「概ね理解しました」
私は自らの家の歴史を思い起こす。私の家も地方領主だった。
「その領主が将軍と呼ばれる最高権力者に毎年のように謁見するのだけど、その領主たちを泊める宿の経営をしていたんだ」
「普通の宿屋とは違うのですか?」
「ああ、一般の旅人は宿泊させてはならない、領主専用の宿だよ」
「それで経営が成り立つのでしょうか?」
ハルヲの語る宿屋は荒唐無稽だ。領主専用の宿泊施設で利益なんて出るはずもない。
「当時は領主から運営資金が出ていたから、採算度外視だった。それよりも人足を集めたり、荷駄馬を手配したりと、街道筋の運送業務に携わる機会が多かったと母から聞いている」
「不思議な制度ですね」
私が知っている領地経営や宿泊制度と異なる部分が多過ぎて理解できない。
「その制度が御一新によって終わり、祖父は宿屋を廃業した」
「つまり領主の専用施設ではなくなったのですね?」
「ああ、それで引き続き街道筋の運送業務を行おうとして、郵便制度などの新しい制度に圧迫されて長続きせず、結局は母が豆腐屋を営むようになったんだ」
「郵便制度?」
どうしてハルヲの話には聞き慣れない言葉が何度も出るのだろう。もう最初に聞いた言葉を忘れてしまったわ。
「郵便制度はいいよ。手紙をほぼ定額で国内のどこへでも送ることができるからね」
「そのようなこと、可能なのでしょうか?」
手紙を送るのは貴族同士の間で、庶民はそもそも読み書きすらおぼつかないというのに。
「僕の国でも昔は飛脚が運ぶ距離に応じて料金を決めていたのだけど、郵便制度ができてからは戦地からでも家族に宛てて手紙を出せるようになって、とても便利になった」
「ハルヲの国では、庶民も読み書きができるの?」
「その読み書きを教えるのに、学校制度があるのだよ」
ニコニコと笑いながら彼は言った。彼の国は本当に不思議な国だ。
「ねえハルヲ」
「何だい?」
私は食器類を洗い終えたので、それらをハルヲに示した。彼はそれを察したようで、手早く片付けを手伝ってくれる。
「ああ、それでは鍋の中に食器を入れるね」
「私は洗濯を始めるから、話の続きを聞かせて下さい」
タライに水を張り、洗濯物を浸す。
「僕はシンシアさんの話が聞きたいな」
「私の身の上話はつまらないですよ?」
「僕が聞きたいんだ」
強情なのはどちらなのかしら、私は何から話そうか考えた。考えがまとまる前にハルヲから尋ねて来る。
「シンシアさんは良家の出身だよね?」
「良家と言って良いのかしら、古い家柄ではあるけれど、分家よ」
父が勲功を挙げて特別に分家を認められた。
「分家を出せるのは、家に勢いがあるからだよ」
「そうなのかしらね」
ハルヲは私の過去を知ってどうしたいのだろう。彼はきっと、私の過去を知れば私を嫌いになるだろう。
「そうだよ。シンシアさんの物腰からは良家の育ちが出ているからね」
「そんなはずないわ、だって私は……」
私が言い淀む理由は何だろう。ハルヲに嫌われたくないと思っている。全てを話してしまえばこれ以上は詮索されないだろうに、彼に嫌われたくない私の気持ち、それに気付いてしまった。今なら、まだ引き返せるなどと考えていたせいか、私は近づいて来るそれに気付くのが遅れた。
「何か、いる」
「どこだい?」
私は茂みを指さしたが、ハルヲはキョトンとした表情だ。ガサガサと音を立て風で揺れるようにしか見えない茂みの中から、白い影が飛び出した。私たちの目の前に現れたのは白狼、としか私は知らない。以前も私に襲い掛かって来たことがあった。その時と比べれば小さな個体だが、襲われた時の恐怖心が脳裡に浮かんで私の身体は硬直したまま動けない。
「シンシアさん!」
ハルヲが私を突き飛ばさなければ、私は首筋を噛まれていただろう。着地して振り返った白狼の口には白い腕が一本。その腕は凍り付くと白狼の口の中で砕け散った。白狼は低く唸りながら跳躍に備えて身を低くした。次は避け切れない。横にいるハルヲもまだ剣を抜いていない。私の命もこれまでだろう。
「早く逃げて!」
ハルヲが私を庇おうとするのが分かった。けれど素手ではどうにもできないだろう。彼の剣は腰に提げられたままだ。白狼が力を溜めるように姿勢を低くした。ハルヲは剣の柄に手を添えたが、今から彼が剣を抜いたとしても到底間に合いそうもない。私か彼のどちらかが白狼の牙で蹂躙されてしまうだけだ。覚悟を決めた私の目の前で白狼が跳躍する。ハルヲは身動き一つしない。
「はっ!」
「え?」
私は目を疑った。白狼が跳躍すると同時にハルヲが剣の柄を握ったのまでは把握している。次の瞬間、白狼は頭から真っ二つに切り裂かれて地面に転がっていた。
「大丈夫かい、シンシアさん?」
ハルヲが声を掛けて来る。どうやら私は助かったらしい。彼の右手にはいつの間にか剣が握られ、その刀身は赤く濡れていた。目の前の光景から類推すると、ハルヲが白狼を切り裂いたのだろう。へたりこんでいた私は無事を伝える。
「ええ、大丈夫よ。けれど、右腕を持って行かれてしまったわ」
私の右腕は肘から先がなかった。ハルヲに突き飛ばされた時、白狼の口は私の右腕に噛みついていたのだ。
「こ、こんな大ケガで大丈夫なんて……?」
驚愕の表情のハルヲに、私は淡々と告げる。
「旦那様に伝えなければなりません。それにしても困りましたね」
「何が困るんだい?」
「洗い物と洗濯物が、持ち帰れなくなってしまいました」