ハルヲ、翔ぶ
「此處は、何處だ?」
青年は見知らぬ森の中で目を覚ました。全身ずぶ濡れで何が起きたのか理解が追いつかない。記憶を辿ろうとした彼の目の前に、黒髪の女性が現れた。艶やかで美しい長髪の次に目が行くのは、その豊かな胸だ。黒を基調とした見慣れない服装で、胸以外はスラリとした細身の彼女は何かを警戒するように周囲を探っている。呆気に取られていた彼と、彼女の鋭い視線が交錯した。
「あなた、どこから来たの?」
女性が言葉を発するが、彼は何を言われているのか理解できず当惑する。
「答えなさい。ここへ、どうやって来たのか」
女性の表情が険しくなった。と同時に、彼女は腰の得物に手を掛ける。
「ま、待つて下さい。私も此處が何處なのか、分からないのです」
「え?」
怪訝な表情を浮かべる彼女は、剣を抜くとその切っ先を突きつけた。
「怪しい動きをすれば斬るわ」
「ラリア、何かいたか?」
ガサガサと音を立てて、茂みの中から若い男性が姿を現す。こちらも黒を基調とした服装だ。
「何者だ?」
「それが、言葉が通じないみたいで」
「ふむ?」
やって来た男性は青年の顔を覗き込んだ。女性に剣を下げさせて、それから懐に手を入れると一本の首飾りを取り出す。
「これを着けろ」
青年にその首飾りを渡して、男性は着用を促した。青年は恐る恐る、その首飾りを身に着ける。
「言葉は通じますか?」
「は、はい」
女性に問い掛けられて青年は驚きの表情から、安堵の表情に変わった。青年に男性が問い掛ける。
「では質問だが、どうやってここに来た?」
「其れが、分からないのです。氣附ゐたら此處に」
「そのような、嘘を!」
女性が再び切っ先を向けようとしたのを、男性が制した。
「ラリア、落ち着け。この者からは害意を感じない」
「若君がそう仰るなら」
渋々と言った感じでラリアと呼ばれた女性は切っ先を下げるが、その視線は厳しい。
「質問を変えよう、元々、どこにいた?」
「華巌の瀧を見物に行つて、足を滑らせ瀧壺に落ちて……」
「ケゴンの瀧とは、何だ?」
今度は質問者の男性が当惑の表情を浮かべた。聞き慣れない単語に彼はラリアと顔を見合わせる。彼女も首を横に振った。
「滝壺に落ちて、それからどうなった?」
「意識を失つて、氣附ゐたら此處に」
「ふむ?」
男性は顎に手を掛けて、何やら考えている様子だ。
「だからずぶ濡れなのか。ラリア、先に家に戻って、この者を受け入れる準備をしてくれ」
「若君、そのような得体の知れない者を招き入れるのは危険です」
ラリアの警戒は強く、今にも青年に斬り掛からんばかりだ。その彼女に男性が何事か耳打ちすると、彼女はハッとした表情を浮かべ、それから頭を下げて茂みの向こうへと姿を消した。
「無礼な振る舞いを許して欲しい」
「いえ、自分自身でも何が起きたのか理解できてをりませんので、警戒されて當然だと思ひます」
「君は頭は良いようだから、話を聞かせて欲しい。起てるかね?」
言われて青年は立ち上がった。ほぼ同じような背格好の二人だ。
「それでは、ついて来てくれ。あまり離れないように」
言われるがまま青年は男性の後ろをついて行く。下駄履きで森の中を進むので何度も転びそうになるが、青年はどうにか茂みと木立を抜けて、一軒の家が見える所まで来た。家の前には机と椅子が並べられ、横にタライが置かれている。先程の女性の姿はなかった。
「この周辺には我々以外に誰もいない。まずは着替えたまえ」
「は、はい」
青年は濡れた学生服を脱ぎ、褌一つの姿になる。それから用意されていた服に着替えた。草色の短衣は彼も着慣れた作務衣に似ている。それと同じ色のズボンもまた、履き慣れた形状だ。下駄も乾かす必要があったので、用意された靴に履き替える。
「掛け給え」
「では、お言葉に甘えます」
青年は軽く一礼してから勧められた席に腰掛けた。卓を挟んでその対面に男性も腰掛ける。
「まずは、名前を聞こう。私の名は、イアールと呼んでくれ」
「アールさん、僕の名前は齋木治雄と申します」
「聞き慣れない響きの名だな」
「ええ、異國の名前は僕にとつても難しいです」
彼らが話始めると、青い髪の少女が茶碗を持って近づいて来た。二人の前で茶碗に注がれている液体も、治雄にとっては見慣れない赤い色をしている。
「出身はどちらで?」
「日本の、福井縣坂井郡芦原村です」
「ふむ、やはり聞き慣れない地名だな」
イアールは顎に手を掛けて考えている。治雄は不安な気持ちになっていた。そのような彼には委細構わず、青い髪の少女はタライを持って家に入ってゆく。
「考えられる可能性は一つ。君は次元の壁を超えて、ここに来たのだろう」
「え?」
真顔のイアールに対して、治雄は何をどう理解して良いのか戸惑うばかりだ。
「ここの説明をしよう。ここは夢魔の森と外の人々からは呼ばれている辺境で、普通の人であれば入ろうとも思わない地域だ」
イアールの説明は淀みなく進む。
「森の外には、セントリフティア皇国と呼ばれる国がある。聞き覚えは?」
「ありません」
治雄が首を横に振るのを見て、イアールは小さく溜息を漏らした。
「この世界の者ではないとして、君が元の世界に戻れる可能性は極めて低い。今後はどうする?」
「國に歸られないのですか」
治雄は気落ちして項垂れる。国元の母と兄弟、それに下宿先としていた叔父にも心配を掛けているだろう。特に日光の華巌の瀧に落下したのは、先年の自殺者と同じように見られる可能性も高かった。彼自身は足を滑らせただけの事故だったのだが、通学していた学校にも迷惑を掛けたかもしれない。さまざまな想いが脳内を駆け巡る。
「僕はこの世界で、どのやうに生きてゆけば良いのでせうか?」
「それを決めるのは私ではないな」
イアールは取り付く島もないような言い方だ。治雄はジッと目の前の茶碗を見詰める。白い磁器の茶碗には美しい花々が描かれていた。
「アールさん、まずはこの世界のことを教へて下さい」
「いいだろう、知っている限りで教えよう。その代わり、君の国のことも教えてくれ」
「はい」
治雄の返事を聞いて、イアールは家の玄関に視線を送る。治雄もつられて視線を移すと、先程の黒髪の女性が一人の少年を連れて出て来た。
「紹介しよう、私の妻のラリアと、息子のディオニウスだ」
「ラリアです。先程は失礼しました」
ペコリと頭を下げたラリアを、治雄は慌てて制止する。
「いえ、お氣になさらずに。誰でも自宅近くに不審者がゐれば警戒して當然です」
「お優しいのですね」
彼女が微笑むと周囲に華が咲いたような感覚に捕らわれる。治雄は赤面して俯いた。
「ところでハルヲ、君たちの国では丸腰で出歩けるのか?」
イアールに指摘された通り、治雄は寸鉄も帯びない。唯一の持ち物は肩掛けの鞄ぐらいで、その中身も本と筆記用具だ。
「ええ、母の世代までは刀を提げてゐましたが、僕らの世代では其の必要はありません。中には護身用に短刀を持ち歩く人もゐるやうですが」
「なんとも、羨ましい話だな」
イアールは感心している。
「こちらの世界では危険な生物が多くいてな、丸腰で出歩くなんて自殺行為だ」
「え、では、僕も何か武器が必要ですか?」
「そうだな、何か得意な武器はあるか?」
イアールに尋ねられて治雄は少し考え込んだ。
「刀はないでせうから、弓なら少々心得があります」
「弓か、矢の補充を考えると難しい武器だな」
今度はイアールが考え込む。そもそも初めに言われた刀という代物が何か不明だった。
「ところで、先程から出て来る、刀とは何だ?」
「刀とは、劔の一種で、片刃になつてゐて、刀身は反りがあるのですが……」
「片刃で、反りがある?」
イアールは更に困惑の表情になり、傍らのラリアの方へ振り返る。彼女も刀の存在は知らないので首を横に振った。
「こちらの世界には該当する武具はない。具体的にどのような武具か教えてくれ」
「分かりました」
治雄は刀、日本刀の説明を知っている範囲で行った。幼い頃、亡き父から手解きされた剣術の思い出と共に、日本刀の概略を二人に聞かせる。
「ふむ、聞くほどに不思議な武具だ。しかもそのような武具が千年近くも現役の主力兵器とは驚く」
「さうですか? 劔だつて千年以上の歴史があると思ひますが」
「こちらの世界は歴史が浅い。今年で皇国は建国して七百年ほどだ。その七百年の間にも、武器は棍棒から剣に替わり、そしてまた棍棒へと替わろうとしている」
「劔から棍棒に戻るのですか?」
「鎧の発達が原因だな。棍棒の衝撃を和らげようと、布や革などで衝撃を吸収する鎧が普及して、その鎧を切り裂く剣が発達した。すると今度は剣で切り裂けない金属鎧が発達し、その金属鎧の上から衝撃を加える棍棒が開発されて普及するというイタチごっこのような歴史だ」
「さうでしたか、我が國の歷史では鎧の発達はせいぜい銃器を防ぐ當世具足ぐらいでしたし、長らく戰争がなかつたので武具の發展が停滯してゐたのも大きいでせうね」
「戦争がなかった?」
「はい、凡そ二百年以上、大きな戰争はなかつたはずです」
治雄は学校で習う国史の授業を思い起こしながら、江戸時代の初期に発生した大規模反乱から、幕末の動乱時代までの太平を謳歌した年数を計算していた。
「羨ましい世界だな」
「ええ、僕もさう思ひます。流石に僕が生まれてからだけでも、大きな戰争を二回も起こしてゐますから」
「そうか、人の性とは言え、戦争はなくならないのだな」
イアールはどこか寂しさと憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「おっと、刀の話をもっと詳しく聞きたいのだが」
「詳しくと云つても、僕が産まれる前に廢刀令でほとんどの人が持ち歩くことがなくなりました」
「そうか、できれば君が扱い易い武器を用意してやりたかったのだが……」
イアールの心遣いに治雄は感謝していた。
「ないものねだりはしません。劔が一振り手に入れば充分です」
「そうか、では好きな長さを選んでくれ」
席から腰を上げたイアールが右手を前に伸ばすと、卓上には数本の剣が出現する。
「うわ、此れは何處から?」
「そのような事柄は気にせずとも良い。さあ、好きな長さの剣を選びたまえ」
「では、お言葉に甘えて」
治雄は眼前に並ぶ剣を手にした。重さはどれも驚くほど軽く扱い易い。
「握りがどれも片手持ちですね。僕としては両手で扱ふ方が慣れてゐるのですが」
「興味深いな」
イアールの感覚では大剣と呼ばれる重量のある剣以外は片手で扱うのが常識だったので、治雄の発言に刺激を受けた。
「では要望に合わせて、柄を伸ばした物を用意しよう」
イアールは卓上の剣を片付け、続けて柄の長い剣を卓上に出した。
「それでは此の二尺六寸の劔をお借りします」
「借り物ではない。それは治雄に贈ろう」
イアールは治雄が剣を素振りする様子を窺っている。治雄の振り方からおおよその実力を把握し、剣を贈るに値すると判断していた。
「それに、無料ではない。息子のディオニウスの稽古相手になって欲しいのだ」
「成程、それなら承服しました」
子供の剣術に付き合わされるのはここに来る前の治雄であれば不本意として断っていたかもしれない。しかし異世界で右も左も分からず食事や休養などの生活を考えれば、得体の知れない相手とは言え友好的に接してくれている家族に身柄を預けるのが得策と判断していた。治雄は律儀に頭を下げる。
「何處までお役に立てるか分かりませんが、お世話になります」
「ふふ、君ならそう言ってくれると思っていたよ」
イアールはそう告げて、チラリとラリアに視線を向ける。彼女は頷くと息子を連れて家へと戻って行った。
「さて、少しだけ手合わせを願おう」
「はい」
イアールに促されて、治雄は肩掛け鞄を席上に置く。贈られた剣を再び素振りして感触を確かめる。刀とは微妙に違うが何とかなりそうな感触だ。
「それでは、本気で来てくれたまえ」
イアールの手には、治雄が手にしている剣とほぼ同じ長さの剣があった。物の言い方に少しカチンと来た彼は、遠慮なく本気で打ち込む。
「想像以上だな」
治雄の剣は空を切った。地面を叩いた彼の背後にイアールが立っている。
「な……?」
「少し鍛えると、ディオニウスの稽古相手としては申し分ないな」
その余裕の態度に治雄は更に気を悪くして、振り向きざまに横へ薙いだ。
「その気性も良い。負けず嫌いだな」
「く……」
治雄の振った剣は再び空を切る。切っ先が僅かに届かないギリギリのところで見切られていた。
「これは參りました。學校ではそれなりに聞こえた腕でしたが、脱帽ものです」
「学校とは、何だ?」
イアールの質問に、治雄は呆気に取られた。
「學校といふのは學徒を集めて、教育を施す塲處です」
「ふむ?」
顎に右手を掛けて考え込む仕草を見せるイアールではあったが、剣を納めて治雄に着席を促す。
「それは訓練や稽古とは違うのか?」
「教育の基本は、讀み書き、算術と一般教養です」
「それぐらいは家庭でできるのではないか?」
「其れもさうですが、學校は多くの學徒に均一な内容を伝へることができます」
治雄の言にイアールは再び考え込む。
「今ひとつ腑に落ちないが、治雄に教育が必要なのは変わりない」
「其れは、如何いふ……?」
イアールが家の方へ視線を向けると、先程の青い髪の少女を伴ってラリアが出て来た。
「この娘は森で倒れているところを保護した。今は小間使いをしてくれているシンシアだ」
「シンシアです」
娘が頭を下げる。年の頃は十五歳ぐらいだろうか。治雄は何が始まるのか気になっていた。
「治雄はこちらの世界の文字は書けないだろうから、この娘から教わるといい」
「文字、さうですね。文語と口語が違ふのは我が國でも同じですから」
安請け合いした治雄ではあったが、後悔先に立たずと思い知るのであった。
明治期の雰囲気を出すための演出として、治雄の台詞のみ
・撥音と拗音を大文字
・旧仮名遣い
・漢字を旧字体
にしています。