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今から30年前の話

作者: 矢上唯一


(1)

「すると、お婆ちゃんは二週間置きに、二人の娘さんちを、行き来してはるんですか? それはまた、たいへんですね」

「……」

 厳しい残暑もようやく終わった九月の末、京都の山科から右京の嵯峨野まで、矢部の運転するタクシーに乗って来たのは、七十過ぎかと思われる一人の老婆であった。

「向こうへ着けば、迎えがいますので」

 と言っていた見送りの中年女性は息子の嫁で、これから行くところも、また、嫁の家という。

「そやけど、お婆ちゃん、一所に年がら年中いるよりは、息子さんちを行き来するのも、変化があって楽しいどっしゃろ?」

「そんなこと、おへん。迷惑かけてしもうて」

 矢部の語りかけに、老婆はポツポツと、実状を話すのであった。体が自由なうちは、孫の守りに来てくれとしきりに頼まれていたが、この頃のように不自由になると、行くところ行く所で嫌やがられて、邪魔になって、迷惑のかけどうしで、と嘆く。

「それでは初めから交替ではなかったので?」

「そうどす。もとは、長男の家にいまして……。次男の家にはときどき手伝いに行っていまして。そうこうするうちに、次男の家にも、平等にとなりまして…」

「そうですか。不自由になったさかいに、平等に、というわけですか。勝手やな。しかし、お婆ちゃん、気兼ねしてはあかんし。迷惑をかける、と思うさかいに、自分が辛くなるのやで」

「そうどすやろか」

「そうやがな……」

 この件に関しては、矢部は一家言を持っていた。五条通りをまっすぐ天神川へ向けて突っ走りながら、老婆へ語り込んだ。

「……体弱くした者は人の迷惑など考えることあらへんし。自由の利かない者の面倒をみるのは、健康な者の義務なんやで。それを自分が悪いみたいに恐縮して気に病んでしまうと、それが仇になって、こんどは健康な者が自分の義務を忘れて、得手勝手に自分たちの迷惑と、錯覚してしまうのや。自分たち健康な者の絶対的義務を忘れてしまうようになるんや。そやさかいにな、不自由になった自分の面倒を看るのは、あんたらの義務や、と胸を張って威張っとかなあかん。そしてな、言うてやりや。うちを大事にせなんだら、死んで化けて出てやるで、とな。とにかくビクビクしてたらあかん。若い者や健康な者は、年寄りや病人を助けなならんさかいに、若さと健康が授けられているのや。それをよう自覚して、なんぼでも迷惑かけてやり。ええな、健康なら遠慮もしてええが、病気や体の自由が利かんようになったあとでは、もう一切の遠慮をしてはあかんのやで」

 老婆は、矢部の話に幾度も笑った。

「そうどすな」

 と、分かったように相槌を打っていた。ところが、いよいよ目的地に着くと、老婆は急にうろたえ出した。

「呼ばんといて。大きい声を出さんといて。ええから、ええから、放っといて。私、一人で、行きますさかいに」

 しかし、老婆は介添なしでは歩けなかった。

 みると、門の内側には庭掃除をしている女性がいた。しかし、気付かないのか、または、関係のない者か、知らぬ顔であった。クラクションを鳴らすと、老婆がオロオロと泣き声でそれを制する。矢部が車を降りて、老婆を座席から助け出すと、なおも、老婆は哀願するように言うのだった。

「私があとで、責められます。もう、お願いやから、やめておくれなはれ」

「もおうし、誰か手伝いに来なはれ。お婆ちゃんが来ているのに、どうして、出て来なはれんのですか!」

 老婆の体を半抱きにして門まで行き、大声で叫ぶと、最前から庭の植木に水をやっていた女性が、

「あらあら、お婆ちゃん」

 と駆け寄ってきた。

「分かっていながらどうして出て来ないのですか!」

「すみませんね。用事がありましたもので」

「さっきからそこにいたでしょう。どう思ってはりますのん? 年寄りを大事に出来へん者が、植木を扱う資格があると思ってはるんですか。恥を知りなさいよ、恥を!」

 老婆の哀願に応じるよりも、腹の立つほうが先だった。

 年寄りのたらい回しを直接目の当たりにして、矢部は一日ハンドルの手が重かった。


 タクシー運転手の矢部は、すでに五十才になっていた。五十にしてやっと結婚した。再婚ではない。初婚である。

 昼の勤務を終えて、大急ぎで帰宅すると、奇妙な巡り合わせで、奇妙な結婚生活を始めている十七才年下の女性を、大急ぎで職場へ送り届けなければならない。そのあとで今度は自分の食事にかかる。その次は、掃除とか、洗濯とか、またはヒラメのトイレ清掃とか…。

 矢部は忙しかった。年来の願望である、独身病者の救援活動も、ようやく方向が見えてきたときに、またまた、同じく年来の願望であった女性との出会いが実現して、そのために、というか、お蔭というか、息付く暇もない毎日であった。この日も「ヒラメ只今! ワカメも只今!」と駈けもどると、またしても異様な悪臭である。

「また、ヒラメのトイレやな。だいぶん臭ってるよ」

 ヒラメ、とは、女性が同伴して来た飼い猫の名前である。そしてヒラメにあやかって、彼女へ矢部が「ワカメ」の名を贈った。その呼び名を特に嫌やがる風でもないので、そのまま「ワカメ」で通していた。

 そのワカメはすでに出発に備えて着替えをしている。そして出発の間際まで、テレビの前から動こうとはしない。

「仰山ウンチをしてることやろうな」

 どういうわけか「私の分身」という猫の世話いっさいが矢部の仕事であった。トイレの片付けなど、たゞの一度もワカメがしたことはない。それでも臭気を指摘して、テレビを見ている間にトイレの清掃をしておけばよいのに、と暗に言うのだが、ワカメの返事はいつも、

「うん」

 で、終わりであった。そしてテレビへ顔を向けたまゝで、

「田川さんていう人から電話があったよ」

 と告げる。

「タガワさん? さあ、誰やろう。なにか用件は?」

「また、あとで電話します、て言うてはった」

「男? 女?」

「女の人! て言うのは嘘。歳取った感じの男の人」

 矢部には時々、未知の人から電話がかかってくる。『独身病者救援会』という奉仕活動を試みている関係で、そのポスターを見て、電話が入ってくるのだった。急ぎの用であれば、ワカメが折返し矢部のポケットベルへ連絡することになっている。「あとで……」ということであれば、緊急を要するものでもないのであろう、と考えて、ワカメを勤務先の病院へ送った。



(2)

「あんたは困っている人を助けようと言うのやろ? それで救援会いうのをやっているのやろ? それなら、儂を助けんかい。とにかく、いま、困ってるんや。とにかく、二十万、貸してや。あとで返すのやさかいに」

 電話の主は元気がよかった。いくら、金貸しをしているのではないといっても、電話の男は引き下がろうとしない。

「ポスターを良く見てもらえば分かると思いますが、私がやっているのは、病気になって身寄りがなく困っている人へ……」

 声の様子では、五十代ぐらいであろうか。説明を試みると、

「やかましいやい。そんな屁理屈を聞きに電話代を使っているんじゃないわい。困っているのは儂でも同じや!」

 と罵る。そして、また続けるのである。

「なぁ、頼むさかい、助けてや。恩に着るし。儂、ホンマにいま、お金が必要なんや」

 業を煮やして矢部は本気で理屈を言った。

「困っている者は誰でも皆同じと思わないで下さいよ。何に必要なお金か知らないが、身障者ならともかく、五体満足な者なら、自分に必要なお金は自分で働いて工面するものです。それが出来ないような者は、はっきり言って死ぬより他にはないですな」

 電話の相手も、どうやら本気で腹を立てたらしい。

「今から貴様の所へ行く。待っておれ!」

 まさか、と思っていると、ほどなくチャイムの音が聞こえた。おおかた、や~さん、とか、やっちゃん、とか言われて、いゝ気になっているヤクザなノータリン(脳足りん)であろうと身構えながら玄関に出ると、案に相違して、訪れたのは隣り組の組長であった。

「老人会の旅行の件ですけどね……」

「老人会?」

 矢部は面食らった。いくら歳を取ったとはいえ、まだまだ五十である。老人会に入るほどの歳ではないと思っているのに……。

「実は今度、深草の老人会で慰安旅行に行きますねん。それで、お願い、というか、ちょっと相談がありまして……」

「え? では、二十万円というのが?」

「二十万円? いえいえ、とんでもない。お金の話ではありませんし。実は……」

 実は、旅行に付き添う看護婦の件で相談したいと言うのであった。それと言うのも、矢部の愛妻ワカメが伏見中央総合病院勤務であるために、ワカメを通して打診してはもらえまいかという話であった。

「唐突で申し訳おへん。お宅の奥さんが大きな病院の看護婦さんと聞きましたし、それに、日当を払えば看護婦さんが添乗してもらえると人からも聞きましたもので、それで、どんなものかと、相談してみようと思いまして…」

 組長もそこそこの老人である。老人特有に話がねばい。

「そういうことでしたら……」

 と、組長を室内へ招き入れようと思って、矢部は当惑した。何しろワカメと二人暮らしである。布団は万年床、衣類は散らかり、掃除も滅多には出来ないときているので、歩けば埃が立つ。とてもではないが「まあ、どうぞ」と招き入れる訳にはいかなかった。

「それでは、旅行へ行かれる方々の人数と日程、目的地。それに、看護婦への日当金額を出して下さい。看護婦はたとえ一名希望でも、受託するときは二名送ることになりますし。つまり、日当は最初から二人分として考えておいたほうがいいでしょう。もし、一人分の予算であれば、二人の看護婦に一人分の日当を二分して与えることになり、看護婦に不満が出ますから。口頭ではあきませんし、必ず便箋でもいいですから、書類で理事長宛に看護婦派遣依頼書を作成して下さい。ええ、原稿が出来ましたら、見せて下さい」

 心苦しくはあったが、玄関先で話をしたのであった。組長を見送ると、矢部は一人で室掃除にとりかかった。

 矢部は一応、ワカメと夫婦生活となっているが、正式な婚姻届はなかった。婚姻届のためには結婚式を挙げなければならないであろうが、二人とも、その方法を知らなかった。普通に式場で相談して式を始めるとなれば、何百万という金が必要であろうし、第一、無理算段して式を挙げても、招待する者がいないのである。格好の付かないことおびただしい。どうしたものか、思案のないまま打ちすぎていた。

「形式なんか、いらない」

 ワカメも結婚式には興味を示さない。さらに戸籍の編入という形式へ対しても関心はなく、

「今のままでいいし。わたし、形式は嫌いやし」

 と、いう。世間通常の家庭生活に育まれた者であれば、こういうことはないであろう。矢部にしても、ワカメにしても、世間の形式からは外れていた。形式から外れて生きている者が、世間の形式に合わせて大金を注ぎ込むのはバカ気ていると思うのだった。

 時代が時代とはいえ、やはり底墓とない寂しい蔭がつきまとう。ワカメに世間通常の人妻としての家事万端に喜びが見いだせないでいるのも、矢部には、その寂しい蔭の所産と思えた。

 一通り掃除を済ませると、今度は食事の準備である。外来の準夜勤務をもっぱらとするワカメは、深夜の二時頃に帰宅する。一晩中、息付く間もない夜診と急患の殺到で、食事もトイレにも行くことの出来ない激務に疲れはて、空腹に唸りながら帰って来る。そのワカメのためになにか作っておいてやらなければならない。キャベツをきざんで、卵のスクランブル焼きを作って、さて、それから、と考えていると、再びチャイムが鳴った。先ほどの組長が、また何か思いだしたのかとドアを開けると、そこには別の老人が立っていた。






(3)

 入口に立っていたのは、愛想のいゝ表情をした七十才ぐらいの年寄りであった。

 あれ、と驚く矢部の顔を見て、

「どや、儂を知ってるやろ」という。

 その声で分かった。電話で金の無心をした挙げ句、腹を立てて「今そっちへ行く」と怒鳴った男である。声と実物はまるで別人だった。電話では、五十才位のヤクザな男と思いこんでいたが、実際は全くの老人であった。それも、いたって愛想のいい好々爺といった表情である。いくらか安堵はしたものの、それでも矢部はとぼけて、

「さあ、どこでお会いしましたやろ?」

 と、はぐらかした。

「若いのに、忘れやすいのやな。まあ、えゝ。ちょいと上がらしてもらうしな」

 丁度、掃除をしたばかりである。先ほどのように、まごつくこともなかった。

「上がるのはかまへんけど、しかし、お金のことなら、あきまへんで」

「くどいな。儂はくどいのは大嫌いや。今日はあんたと一杯やりたいだけや」

「一杯?」

 老人はニヤッと笑って、肩掛けカバンから、ウイスキー瓶を取り出した。

 老人は、田川龍造と言った。すぐ近くの伊達町に住んでいると言う。田川は老人会の世話役もしているとかで、毎年、積み立てをして慰安旅行に行くという。

「ああ、そうか。こっちの組長がここに来たか。いや、儂は組長やない。しかし、顔をあわさんでよかったな。ちよっと都合が悪いんや。それというのも、今年は深草の各町が合同で出かけることになっとるのや」

「なるほどね。それでお金が足りない、と言うわけですか」

「こら、勝手に先走るなよ。先走って線路を間違うと、大事故やぞ」

「はあ?」

「知らへんやろ。昔な、電車が走るときには先走りという者がいたんや。『電車が来まっせ、電車が通りまっせ。伏見行きどっせ、蹴上行きどっせ』いうてな」

「先走り、て、ホンマに先に走っていたのですか? 電車の前を? それは面白い」

 話が本題から外れていた。外れついでに用件を忘れて帰ってくれれば助かる、と調子を合わせてみたが……。

「そんな話はどうでもえゝがな。儂も見たことはないのや。そんな歳やないし。それよりも、実は慰安旅行の積み立てで、えらい目にあってな」

 やはり……。田川老人はおそらく、一大決意で借金の申し込みに来たのに違いないと予測した。しかし、いくらウイスキーを下げて相好を崩し、おもしろおかしく話をしようと、金の件だけは相手にならないつもりであった。

 俚諺にも言われるように、金は親兄弟でも他人。相手が友人であれば、なおのこと貸してはならない。金を貸せば貸した金と友人の二つを失う。もし貸さずにおれば、二つとも失わずにすむ、と。

「まあ、年寄りの愚痴と思うて聞いてや」

 当座の金がなく困窮している者は、そのために犯罪に走るかもしれない。それでも貸さないのか? それは余りにも冷たいではないのか? という問い詰めに対しても、矢部は貸さないことにしていた。夜逃げすることになろうと、殺されることになろうと、逆に殺すことになろうと、元はたかが金である。にもかかわらず、人の金を当てにして当座をしのいで生きているより他にないような者であれば、いっそ殺すなり、殺されるなりして、片のついたほうがマシというものであろう。……。

 頭の中であれこれと、自立性がなく借金ばかりしている者たちのことを考えながら、田川老人の話を聞いていた。

 田川老人は積み立てていた旅行会費を更に大きく増やすために、銀行預金ではなく、株の先物取引に当てたと言う。ところが降って湧いた中東情勢の緊迫化で暴落し、預かっていた旅行費用は雲散霧消、自分の蓄えさえもなくなったという。せめて老人会の穴埋めだけはしなければと、狂奔したのだが、あと二十万円がどうしても、足りないと言う。

「近い内に、などというのんびりしたものやないねん。明日やねん、明日。明日は、寄り合いがあるねん。儂は疑われておるし、何とかせなならん。そやけど、どうにもならん。ほとほと困り果てているときに、あんたの看板が目に止まって、それで電話をしたというわけや」

 家族を訊ねると、息子が二人いるという。二人ともよそへ行って、今は独り暮しという。

「奥さんは?」

 もう死んだ、と答えが返ると思っていると、ちがった。

「体が弱うなって、女房の役せんさかいにな。それで、息子に預けてるのや。また、どこぞ達者な女を見つけて再婚しようと思うとるが、きょう日、女は婆さんでも勝手やさかいにな。家があって掃除洗濯してくれるのなら行こうか、などと、けつかるわ。ホンマに阿呆くさいで。何で儂が掃除洗濯せなならんねん。それをしてほしいから、達者な女を女房にしようとするのやないか。ホンマに今の世の中、狂っとるわ」

 矢部はワカメを思い浮かべて失笑した。掃除洗濯を女の仕事としておれるのは、男の稼ぎで一家が食える時代の話である。いまは、夫婦で働かないと世間並な生活水準にはたどりつけない。一人の働きにt対する報酬はあくまでも一人分であり、畢竟、家事も分担しなければ、やってはゆけない。当然、家事の出来ない男がいるように、女にも、家事の出来ない者が現れるはず。たとえば、ワカメのように。それでも矢部は、ワカメを女房の役をしない女として追い出すつもりはない。この時代の風潮を良いか、悪いかという以上に、矢部にとっては、ワカメは五十年目にして漸く出会った唯一無二の女性であるのだから。

「もう、諦めた。どうなとなるやろう。しかし、分からんな。あんたの仕事は何やねん?」

 田川老人は自分で作った水割りを飲みながら、矢部をしげしげと見つめた。

「私は、タクシーが仕事で……」

「そんなことを聞いとるんと違ゃうやろ。あの看板は何やねん?」

 それは看板ではなくポスターであったが、それを一々訂正しても意味はない。それより、確かにそのポスターは、田川老人に怪訝がられてもしかたのないような代物であった。それをどう説明したものか……。




(4)

 矢部の試みている『独身病者救援会』とは、身寄りがなく病気で入院している者へ、物心両面で無償の援助を行なおうと言うもので、一種の福祉活動であった。

 しかし、これにはいろいろな面で問題があった。まず第一に、病院では外部からの看護活動はいっさい認められない。それを認めると、認可されている看護基準を満たすことの出来ない病院として、ランクを落とされる、という病院サイドの得手勝手な問題があった。

 次には、厳密に家族のいない独身者という者は滅多にいない、ということである。それでも、中には身寄りがなく入院して、困りきっている者もいるはず、と矢部は自分のかっての入院生活から推して、救援を必要とする天涯の孤独者を想像する。

 さらに次の問題は、矢部自身、仕事と家事に追われて、いつでも、連絡のあったときに駆けつけることが出来ず、さらに数えれば、協賛する者がいない、と言う孤立化の問題もあった。

 病院内にポスターが貼れないために、病院の近くに二~三枚貼っているだけであったが、それでも、ときどき電話が入った。そのほとんどは、矢部の期待する天涯の孤独者ではなく、子供や兄弟がいた。たゞ誰も来てくれずに困っている、というものであった。そういうとき、矢部は家族の名前と電話番号、住所などを聞き出して、直接、家族へ看病に行くように説得を試みる。二、三度連絡をしても、来ないようであれば、あとは破れかぶれ、電話口で思いっきり猛烈に相手を罵り倒す。言うても分からず、病人への配慮のない冷酷なエゴイストたちへ対しては、せめて罵倒してやるよりほかに仕様がなかろうというものである。

「例えば、こんな風に言いますねん。……」

 田川老人へ概略の説明をした後、多分にこの男も弱者への配慮を知らないまま自分勝手な健康と御都合だけで生きてきたであろうと想像され、少しは当てこすりをしてやるつもりで罵倒の言葉を披露した。

「……病人が苦しんでいるときは、家族の者は自分の都合を主張するものではありません。忙しいとか暇がないとか、そんな言い訳は通用しませんよ。仕事の一日二日休むのがなんですか。収入の十万二十万減るのがなんですか。家のローンが払えないのなら、止めればいいでしょう。家の問題ではないのですよ。

 もし、子供さんの大学費用がなくなると言うのなら、大学を止めさせればいいでしょう。生きるか死ぬかで苦しんでいる病人がいるときに、その看病もしないでノウノウと学校へ行っていていいものか、どうか、子供さんに考えさせなさい。病人より、自分の将来の方が大事だというような子供さんなら、言うては悪いが、そんな子供さんは社会に出て来て貰っては困りますよ。人の迷惑になるのです。病人や弱者のために自分を捨てることの出来ないような我侭得手勝手な者が知識や技術を身につけて人の世に出て来れば、人類にとって、全くの災いにしかならないのです。そんな者に、なんで高等教育を施す必要がありますか? 病人を放置してまで、金をかけてやる必要は全くありません。

 もし、私の話に腹を立てるような御一家であれば、あなたたちは金輪際人間をやめなさい。あなたたちのような御家族こそ、人類の敵と言うのです。少しでも恥じる思いがあれば、今すぐに考え直しなさい。考え直す気がないのなら、私があなたたちの取るべき道を教えます。

 いいですか、今夜、いまからただちに、家族全員、車に乗って大阪へ行きなさい。西のドン突きまで行って、そこから海へ車もろとも飛び込みなさい。飛び込むのがいやなら、ホースを排気管につないで窓に入れて、隙間を目張りしなさい。そして、エンジンチョークを引いてそのまま、眠りなさい。そう、一家心中して下さい。人間の尊厳など、あなたたちにはありません。死んでもらうより他にはないのです。人間が人間として尊いとされるのは、ただ一重に弱者・病人を扶けることにおいてのみ、成り立つと言うことを知りなさい。それを理解できない者に、人間の尊厳はありません。死んでもらうより他にはありません」

 老人はアハハと笑って聞いていた。妻が病弱になって家事が出来ないからと家から追い出し、別の健康な女性を後釜に、と考えるような男である。しかも、歳を取りすぎている。矢部の罵りが自分のような者にこそ向けられていると、察するには頭が硬すぎるであろう。人のこととして聞いているから、面白がって、

「そうや、そうや、アハハ」ですまされる。

「まあ、大概の結末は、バカ、アホ、気違い、お前こそ死ね、で終わりです。でも、ほとんどの人はこうまで言わなくても、分ってくれます。しかし言葉では分かっても、ほとんどの人は行動につながりません。せめて、自分の身内や町内の人に対してぐらいは、と思いますが、人々の関心はいつでも、健康な者と、健康なわが家の事だけです。健康な自分たちが、仕事や行楽、健康維持などで四苦八苦している。この上、社会のお荷物である病人のために、なんで自分たちが犠牲にならなならんか、というわけです。なにしろ、何百年、何千年という長い年月をかけて出来上がった強者本位のエゴイストな人間の性ですさかいに、少々なこととでは……」

 矢部は酔うほどには酒は呑まない。老人は矢部の話を聞くよりも呑むほうに忙しく、相づちもいい加減であった。

「じゃ、また来るし。そとは美しい満月やで」

 持参のウイスキーを空にして、田川老人は千鳥足で帰って行った。


 田川老人からは、その後、何の連絡もないまま二ヶ月が過ぎた。

 十一月の中旬、深草の老人会慰安旅行に、ワカメが看護婦として同行した。数少ない自分の休日を使っての付き合いであった。

「あれほど二人分の日当をと言うていたのに、たったの一万五千円とはな……」

 憤慨する矢部に対して、

「それでも、桃山の町内会旅行よりはいいし。あそこは一万円よ。それを二人で分けたのやし。今度は一人七千五百円でしょう。それが一日分で、二日あるのやし、よく出したほうやと思うわ」

 と、ワカメが弁護する。矢部としては、なにもワカメが行かなくても、他の者に行かせて、たまの休みを家事に専念してくれれば、と思うのだった。

「洗濯はまかせたし。ほんならヒラメ!行って来るわ」

 ワカメは前日に脱ぎ捨てたストッキングやパンティを放置したままで、機嫌良く出かけた。

「歳とって、なお、意気盛ん。これからは年寄りの時代ですからな。働いて、遊んで、旅行にも行って、ますます、社会のお役に立ちますし」

 組長の代理で原稿を持ってきた男の怪気炎を思い出す。人はこれを賞讃するであろうが、矢部は逆だった。鼻持ちのならない年寄りと思った。

 旅行へ行く者たちは、言わずと知れたこと、健康な老人ばかりである。彼らは常からゲートボールとか、カラオケとかで遊び回っている。寄り合いがあれば決って、次の行楽行事の計画である。それを悪いとは言わないにしても、自分たちの健康を享受することだけに専念している様は醜悪であった。

 矢部は思う。なぜ、町内にいるはずの病弱者や独り者を皆で訪問して、不自由な者たちとともに過ごすことに喜びと意義を見い出そうとしないのか、と。





(5)

 ワカメが老人会の慰安旅行に、添乗看護婦として出かけた翌日のことであった。ワカメの代わりに、虚しくヒラメを抱いて三十分間の休憩をとったあと、再びタクシーの仕事に戻ると、珍しくもアパートの近くで客を拾った。

「嵯峨野へ、行ってくれるか?」

 歳のわりには若い声。

「あれ、田川さんでは?」

 紛れもなく、それはかの田川老人であった。

「あゝ、あんたか。悪いところで会うたな」

「御挨拶で。しかし、おかしいな。どうしてですか。慰安旅行には行かれなかったので?」

「あんな奴らと付き合う暇はないし……」

 かっての威勢はなかった。

「お金の件はどうなりました?」

「儂の借金になったし。もう、儂も終わりや」

 それにしては……、

「嵯峨野とは、また、遠うくへ行かはるのですね」

「……ん」

 なぜか多くを語ろうとしない。しばらく沈黙したあと、老人はぼそぼそと、張りのない声で、独り言のように呟き出した。

「……貧すれば鈍するじゃ。

 ……行くところもない。

 ……来る者もおらん。

 ……そうなりとうはない。

 ……なれば、哀れや。

 ……金があって、元気でいれば、

 ……思い出しもせなんだものを。

 ……このごろ、

 ……病気の婆さんが、

 ……しきりに思い出されてな。

 ……夢にまで見て、

 ……涙が出る。

 ……。……」

 矢部は心で喝采を叫んだ。

 そうなりとうはない。なれば哀れ、と老人は言うが、それは違う。そうなることで、初めて見い出せるのである。人間の宝を!

 それこそが、金よりも、何よりも価値有るものと認識していないために、そこへたどりついた自分を逆にみじめと思う。健康と名誉と財産だけを価値あるものと信じ込んでいるために、それらを超える人間の宝に、真理に、今まで気付かずにいたからである。よしんば、誰かに教えられ、指摘されても、震えるような感動を覚えることもなく、人ごととして今日まで過ごして来たことであろう。かく、徹底的に追いつめられ、打ちのめされて、はじめて弱者とともにいることを喜びとすることが可能となったのである。それを自分の哀れと思ってはならない。それこそ、誉れとしなければ……。

 矢部はこの考えを噛み砕いて、平易な言葉で伝えようと努力したが、老人は上の空であった。言えば言うほど、逆に自分の惨めさを指摘されている、とでも、感じているようであった。

「まあ、ええがな。人は笑うやろうが、もう、儂も歳やし、放っといてんか。それより運転手さん、婆さんを乗せるさかいに、待っといてくれるか?」

 着いたところは、矢部の記憶に残っているいつかの、あの盥回しの老婆の家であった。

「田川さん、ここのお婆ちゃんですか? 知っていますよ。私は……」

「そうか。ほんなら、ちょっと待っといてや」

 十五分ほど待ったあと、田川老人は歩行困難な老婆の肩を支えて矢部のタクシーに戻ってきた。後から付いてきた中年の女性が愛想良く話しかけていた。

「お婆ちゃん、よかったわね。名残り惜しいけど、でも、お爺ちゃんとこに戻るのが一番やし。また、いつでも遊びに来よし。大歓迎やし」

 白々しい。女性の顔を思わず見た。女性も矢部に気付いたようであった。冷たさがその表情に流れた。それでも、意に介さぬようになおも言う。

「お父さんも水臭いわ。困っていたのなら、早く言うてくれれば、そのくらいなら何とか、工面してあげられたのやけど……。なにしろ、お婆ちゃんに少しでも楽して貰おうと思うて、家の改築に使うてしもうたしね」

 老人はそれに耳を貸している様子もなかった。老婆を一人で支えて、座席へ送り込むと、自分も横にすわった。女性はそれを見ているだけであった。口だけが動いて、手を動かすことは忘れている。

「ところで、お婆ちゃん、覚えていますか? いつか、山科から、お乗り下さったでしょう。いろいろお話をしましたけど……」

 再び深草へ車を走らせながら、矢部が話しかけた。すると、

「そうどすか……。ヘェ、すみまへん。申し訳おまへん……」

 と、不自然に詫びるのであった。

「アホ!」

 いきなり老人が叱責した。老婆はいよいよおびえて「すみまへん」という。

「……お前のそういうところが、嫌われるのや。謝る必要もないのに、なんで謝るか」

「……」

「何かと言えば、すぐに、すみません、や。すみません、言えばえゝかと思って」

「……」

「すみませんと、謝る理由を言うてみろ。なんで、謝ったのか、言うてみろ!」

「……」

「怒れば黙りこくるし、いい加減にせい。ものを言うことを知らんのか」

「まあ、まあ、田川さん。お婆ちゃんは、精神的に参っているのですよ。誰でも人間は虐げられると、好むと好まざるとにかかわらず、卑屈になるものです。それを叱っては泣き面に蜂で、可哀想ですやんか」

 二人を取りなしたつもりであったが、矢部の言葉が、またも逆に作用した。

「こいつは狡いんじや。人に哀れんでもらおうとしておる。それとも、儂がお前を虐めたとでも言うのか。言うてみろ。儂がどんなことをした。おまえのそういう態度が、いつも人に悪い印象を与えるのや。もう少し、明るくなれと何度いうたらわかるのか」

 やれやれ。優しい思いに動かされて、愛情と労りを注ぐべく、迎えたのではなかったのか。これでは、弱いものを嗜虐して満ち足りようとしているのに等しい。

「わたし帰りますし。タクシーを呼んでおくれなはれ。早よぉ」

 いきなり、老婆ははっきりとした声で言った。

 田川老人がまたしても、老婆を叱責する。

「お前はタクシーに乗っとるやないか。なにをとぼけたことをいうか!」

 その語調は怒気を含んで、凄味さえおびていた。行きがけのロマンチックな期待は、どうやら思い違いであったと、矢部はいたく落胆した。嫁というあの女性の冷淡さや、この老人の態度など、普通ではないと思える。しかし矢部は知っている。これこそが強者崇拝、弱者蔑視、敗北恐怖の脅迫観念から抜け出せずにいる世間一般の単純な例に過ぎない、と。




(6)

 毎月七日は、矢部とワカメの結婚記念日であった。十二月の七日、本年最後の記念日ということで、矢部はケーキを買って、ささやかな祝宴を準備した。

「僕たちは幸せかな?」

 一年の数を現わす十二本の蝋燭に火を灯しながら、ワカメにたずねると、

「うん、幸せ」と、珍しく素直に応える。

「……不幸な夫婦をわたし、幾つも知ってるもん」

 ワカメに対して多少の後ろめたさもあった。未だ、結婚式の予定は立たないままである。それが必要か、否か、それさえもわからない。

「式を挙げたいとは思わないけど、たゞ……」

「たゞ、なに?」

「写真だけ欲しい」

「写真?」

「まだ若い内に、ウェディイングドレスを着た写真だけ、撮っておきたい」

 そのためには、どうすればよいのであろう。世間の仕組みがなにも分からない矢部は、困惑を紛らわすようにワカメを抱きよせた。接吻を贈ろうとした。すると、無粋な電話のコールに、二人は引き離された。

「矢部さん、儂や。田川や。どうしたものかな。あんたやさかい、相談できるのや。婆さんがな……。言うこときかへんで……」

 話の様子で、ワカメが横から、受話器を横取りした。

「田川さん、伏見中央病院に昨日来ていた方でしょう? あのお婆ちゃんの事でしょう?」

 ワカメにはかねて話していた。田川老人とその老夫人の様子を。そこへ昨日、どうも話に聞いていた老夫婦らしいという患者が来院したのである。もちろん、病気は老婆で、付き添ってきた老人は元気ゲンキで、看護婦に誰彼かまわず秋波を送るという。

 ワカメが電話口で、いろいろと指示していた。

「……言うことを聞かないのではなくて、病気なんえ。昨日も言うていたように、お婆ちゃんは病気やさかいに、いますぐに入院させよし。いいわね? ベットの手はずもしているし。ほんならあした、必ず、お婆ちゃんを連れて来るのよ。わかったわね?」

 職業柄か、ワカメの話ぶりは意外と優しい。

「たしかに、あのお婆ちゃんは痴呆症になっていたしな」

「それだけやないわよ。ひどく叩かれているのよ。放っておいたら、あのお婆ちゃん、殺されるわよ」

 とにかく、明日、矢部も田川老人を訪ねることにした。説得が通用するか、矢部には自信がない。たとえ言葉で納得しても、弱者を労り、助けることは、感情のその前の段階の、情緒とでもいうところから身についていないかぎり、現実に実行はむずかしいと思われる。何よりも、相手の状況を愛情で理解するためには、高度な理性が必要とされる。理解力のない頭脳や、硬直した頭脳では、認識の百八十度転換が要求される価値観の変更は難しい。

「病気か事故で死なないかぎり、誰でもかならず歳をとる。そのとき、人は最悪の弱者となるものや。それから逃れようとして、金や地位を確保しょうと懸命なのかもしれない。しかし、基礎の認識が弱者蔑視であるかぎり、一部の成功者はともかく、大多数の人々は、蔑視していたところの弱者の哀れな末期から逃れることはできない。一人二人の成功者がいることで、良しとするか、否か……」

「もう、そんな理屈はいいから! とにかく明日、行ってよ。あのお婆ちゃん、なんとかしてあげないと、可哀想よ」

「では、僕はあの爺さんへの説得に挑戦しょう。腹の立つ婆さんを、役に立たない婆さんを、美しさも楽しさも何もない婆さんを、それでも掛替えのない自分の宝として愛するように、愛さずにはおれなくなるように、何とか、考えを変えさせることに挑戦してみよう。さあて、僕に出来ればいいけれど……」

 ケーキは半分残っていた。火の消えた蝋燭が一本、根元まで露呈していた。蝋燭を見つめている矢部、というより、蝋燭に見つめられている矢部であった。

                          (了)書きかけ原稿の仕上げ 91・5・30)


書きかけの原稿を 91・5・30 に仕上げる

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