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Students  作者: OKA
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2:白い校舎の中で


床に散らばる工作道具の数々。木工用ボンドが若干、制服についてしまった。ねずみ色のズボンの右ひざについた白いベトベトを人差し指でやさしくふきとる。

次は何をすればいいだろうか?土台の板が少なくなってきたので美術室から新しく材料を調達してくることにしよう。

「ちょ…、と、時見くん。」

俺が教室から出ようと腰をあげた瞬間、両肩を強く握られ拘束される。

いかにも何か言いたそうな声の調子。今度はなんであろうか?

「これ、ボンドで貼ったでしょ?」

どうやら彼女はボンドで木製の板と画用紙を貼り合わせた事に憤りを感じたらしい。

「ボンドは木製どうしの物をくっつける時に使ってよ!貴重なんだから。

あと、紙を木に貼る時は両面テープを使うものよ!こっちの方が汎用性がいいのよ!!ちぎって使う量を最小限にできるし………」

ああ、始まってしまった。貴殿院の隣で作業をすると色々疲れる。

できれば一緒に作業をしたくないのだが、既に列ごとで仕事は分担されてしまった。

「時見くんさっきなんて私に向ってくしゃみを飛ばしてくれたもんね。

なにかな?私になにか恨みでもあるのかな?私、そんなに嫌われているのかな!」

彼女の顔が段々と恐ろしくなっていく。拳を力強く握りしめ俺の目を睨みつけてくる。


あれは事故である。俺はわざと貴殿院にくしゃみを飛ばしたわけではない。

その時、俺はちょうど看板に店名を書く作業をしていた。

右手に極太のマジックを持ち、左手でずれないように看板を押える。

全神経を集中させ自分の顔面を文字が書かれていくその板に近づける。この状態になるとマジック特有の匂いが鼻を襲う。ツーンとしたその匂いを俺は必死に耐えながら作業をする。

だが、それにはやはり限界があった。

せっかく文字を書いた看板。当然、汚してしまうのはいけない。両手がふさがり手で口を覆う事が出来ない俺は、顔を左に向け我慢していたものを勢いよく噴射したのだった。

「ハックシュンッ!!!」

よく左横を見てみるとそこには静止した貴殿院が座っていた。

あれ?さっきまで他の連中と材料の買い出しに行っていたはず。

俺は誰もいないであろう場所に事を済ませたはずなのだが結果的に、いつの間にかあらわれた彼女の横顔に事を済ませていたのであった。


「時見く〜ん。職員室で長原先生が呼んでたよ。」

貴殿院の延々と続く愚痴を聞き流していると教室のドアが開き、俺の名前が呼ばれた。

ドアの前に立ち教室中を見回し俺を探す彼女。やがて、俺と彼女は目線が合った。

「飛馬は速いね〜。もう帰ってきたんだ。」

「うん。園歌ちゃんとミレアちゃんも、もうすぐ来ると思うよ。」

飛馬の両手にはスーパの袋が抱えられていた。その中身を見てみると

人参、じゃがいも、玉ねぎ、ピーマン、キャベツ、トマト、ブロッコリ、肉、卵など

様々な食品が入っていた。

「私は家庭科室でいろいろ料理を作っているから、もし2人が来たら私が家庭科室にいることを教えてくれるかな?」

やさしい口調で俺に頼む飛馬。貴殿院とは大違いである。

飛馬は勉強も運動もでき、見た目もかなり良い。ショートヘアの黒髪はサラサラとしていて彼女が動くたびに乱舞する。

貴殿院も黙っていればかわいい。と思う。普通にしていれば清楚であり、モテるのではないか?だが彼女の場合、愚痴をしゃべりだすと騒がしい。

次々に出てくる単語の一つひとつが鋭く、対話者の心を突き刺す。

よって、男子からの評価は黙っていれば…。

おっと危ない。デレデレと女の子の評価をしてしまっていた。俺は白鳥と藤林に伝言を伝えなければならな…い?

俺はようやく飛馬の発言のミスに気がつくことができた。彼女もどうやら気がついたようだ。

「あっ、ごめんね。時見くんはこれから職員室に行くんだもんね。

麻美ちゃん。悪いけれど2人に伝言頼めるかな?」

これでやっと貴殿院のそばから離脱することができる。

といっても、先生はいったい俺に何の用だろうか。窓側の列は妙に全般の仕事をやらされている気がする。買い出しでもさせるつもりなのか?

しゃがんでいた飛馬は立ち上がり、俺も再び腰を上げる。周りを見渡すと、みんな黙々と作業に励んでいる。塚原はなんだかんだいってクラスをまとめる人物である。本人はここにはいないのだが…。

「えっ、速さん?私はここでどうしてればいいの?」

「2人が来るまで作業を続けてて。ねっ?」

両手を合わせ頼む飛馬。貴殿院はというと急に焦り始めた。俺たちがいなくなることで話せる相手がいなくなってしまうからであろうか。彼女は1人にさせるともろいようだ。

俺たちは挙動不審の彼女を残し、教室を後にするのであった。

















俺が進む方向にはところ狭しく他のクラスの生徒が陣を取っていた。

四つん這いになり道具をつくる人や、両手に顔が見えなくなるほどの荷物を抱えた人、何やら意見のゆき違いでもめ合う人など職員室に通ずる廊下では、あさっての本番に向けて大急ぎで準備が進められている。

学校の生活というものはボーッと過ごしているといつの間にかテストの期間になっていた、という体験を飽きれるぐらいする。

なにか楽しいことは起きないだろうか?なにかおもしろい噂はないのだろうか?

そんなことを思っているうちにも刻一刻と時間が過ぎていく。

認めたくはないが現に俺が今、見ている光景もそんな流れゆく高校生活の1ページを刻むものであり、あっという間に本番当日がきてしまうのも事実。

そう。気がつくと9月も終わりに近づいており、あさっては文化祭。

俺自身、うちのクラスが何の出し物をするのか知らない。いいや、聞いていなかったといった方が正しいのであろう。

あれはこの前の始業式の時、ちょうど教頭の指導から解放された直後だった。


「お前ら〜!そういえばだな今月の下旬に文化祭があるんだが、今から何をやるか考えてもらいたいと思う。」

進路希望調査を書き終えやっと帰れると鞄を握り、椅子を片付けた瞬間のこの追い撃ち。体育館で数時間にも及ぶどうでもいい話に打ち勝った直後の出来事。当然、他のみんなも精神と体力が放出されている状態。そんな疲れ切った空気の中、担任は塚原を前に立たせ文化祭の出し物を決めさせた。

俺の記憶では喫茶店やお化け屋敷など無難なものが提案されたところまでは覚えている。だが、そこから先は眠ってしまい記憶が飛んでしまっている。

なんか異常に長原先生が騒いでいたような…。


「きゃぁっ」

「あっ、す、すみません。」

おっと、よそ見をして考えていたら女の子の手を踏んでしまった。


しかしここ連日、文化祭に向けての準備をみんな頑張っている。昨日から今日にかけて泊まり込みで準備をしている人もいると聞いた。

俺にはそんな熱心になることができない。決して、文化祭が楽しみではないという事ではない。

なんなのだろうか、この気持ちは。

よく、文化祭は当日よりも準備をしているときの方が楽しいという人がいる。

それはたぶん、当たっていると思う。

みんなで作業をして、助け合ったり、真剣に言い合ったりして完成へとつながるもの。

それは、どんなものでもいいと思う。それは、みんなで出した答えだから。

けれど、俺がいま感じている気持はこういうものではない。

なんというか、何か足りないような。寂しいような…。

…なんなのだろうか、この気持ちは。






「コンコンッ、失礼しまーす。」

やっと俺は職員室まで来ることができた。ここは3階の中央階段に対面した位置であり、下の階にはコンビニが設けられている。

「ギッ、ギッグ、グ、ガ、ガラガラ」

滑りが悪く、なかなか開かないドアをやっとの思いで開けた俺。担任が座るデスクを探し歩きまわる。長原先生は大抵、デスクの上が散らかっている。本人いわく、週に一度整理しているというがそうは見えない。

案の定、ひとつの場所だけ書類や本が山積みになったところがある。

「おっ、来たか。」

その山積みになっているかげから若干、担任の顔が見える。よく見てみると、

たばこを口にくわえていた。

「…先生、吸うんですね…。」

俺がこう言った瞬間、突然、担任は暴れだした。

椅子に座ったまま腹を押さえ両足をバタバタとさせ爆笑。

その巨体は激しく揺れ、デスクの上が連動して揺れる。この衝撃で山積みの書類が崩れる。が、とっさにこれに反応し山崩れは止まった。

「おっと、危なーい。」

よく担任の口元を見てみると何か食べているように見える。足元には駄菓子が詰まった袋。この二つの情報から俺はようやく答えを導きだしたのだった。

「お前を呼んだのはそこにある駄菓子をうちのクラスに届けて欲しいからだ。

みんなの頑張っている姿を見て、私が商店街で差し入れを買ってきたというわけ。

みんなで分けて食べるんだぞ。」

ほう。気がきいたことをしてくれるものである。袋の中を見てみると、ジュースも何本か入っていた。

俺はお菓子の詰まったビニール袋をしっかり握りしめ退散する。

「ありがとうございまーす。」

一応、お礼のあいさつをし軽くおじぎをする。担任はというと、まだ無邪気にシガレットを口にくわえたままだった。


「!?」

表面のガラスで光が反射するのがわかる。俺は意外なものを発見した。まだそんなに離れていなかったため、はっきりとそれを見ることができた。

散らかるデスクの上に浴衣姿の男女6人が写る写真を見つけたのだった。

そこには、今の俺と同じくらいであろう歳の長原先生、細田先生、白川先生、島田先生、それに君主先生とあと1人、見知らぬ女の人が写っていた。

「私たちは昔からの親友どうしでな、今に至るまでの長い付き合いだ。

 そこに写っているのは…高校生の時にお祭りで撮ったやつだな。」

コロコロとキャスタ付きの椅子を動かし上の空の表情の担任。シガレットをくわえたまま天井のちらつく蛍光灯を見つめている。

それにしてもまさか君主先生と長原先生が知り合いだというのは驚いた。というか親友。意外な事実である。


君主先生には俺がまだ本当に小さな時にお世話になった。

ずいぶん昔だが元々、俺はこの街に住んでいた。

そんなある日突然、大地震が起きた。街を壊滅状態に陥れ、犠牲者も多くでた。

俺が住んでいた家は消滅し、両親も亡くなった。

数年間、被災者用施設所に入り、そのあと母方の田舎に預けられた。

この施設所で初めて俺は君主先生と出会った。

粉々になった俺の心をあの人が治してくれた…。


「先生、この青い浴衣を着てる人は誰なんですか?」

写真に写る6人の中で5人の人物は把握している。だが、どうしても残りの1人がわからない。その人はやさしくほほ笑み、中央で他の5人に囲まれている。

俺の声が再び長原先生の耳をかすめたその時、空気が一瞬変わった。

担任の湯呑を持つ手が悲しく震えているのがわかる。

「………早く教室にもどりな。みんな…そろそろお腹がすくころだから。」

いつも騒がしいくらい大きな声の担任はその時、弱く、とても小さな声だった。


結局、その人が誰なのか聞ける雰囲気もなく俺は滑りの悪いドアを再び開けるのだった。

















自分の声が何重にも重なり反響こだまする。ここから見える景色はいつも見ている角度とは違って見える。檀上の上に立っていればあたりまえの事なのだが。

ずっと立っているせいか気がつくと脚全体が悲鳴をあげていた。額には無数の汗が浮かび、視界を遮ろうとする。手とマイクの間も湿り始めている。

目線を斜め上に向けると照明の明かりがまぶしく、機具をも溶かそうとする。

「あと少しで休憩入れるから、みんな頑張ってくれ!」

さすがに連続で練習をしているため、みんなの体も疲れてきている。

だが、この体育館を使える時間もあと少し。休憩を入れるといっても数分が限界か。他の団体と共同でこの場所を使わなくてはならない。

よって、本番と同じ雰囲気での練習は今しかできない。

大勢の人を前にして歌うのは緊張する。同じ場所で、同じ時期にやるはずなのにこの重圧には慣れることができない。

「ベースドラムがちょっと遅れてるから気をつけてくれ。よし、最初から通そう。」

自分の声と楽器の音色が調和する。共鳴しあうその音は俺たち以外に誰もいないこの静寂な空間に旋律を与える。

この音は果たしてみんなにどう響くのだろうか?みんなにどう伝わるのだろうか?

もうろうとした意識の中、毎回このような事を考えてしまう。

腕まくりをしている制服の長袖からも汗が流れる。それが床の木目と触れ合う瞬間を見つめる。やがて小さな円があらわれ水滴へと変わる。

「よし、ラストにもう一度最初から通そう!今の感覚で大丈夫だから。」

呼吸を整え再びマイクに口元を近づける。腹式呼吸と胸式呼吸を使い分ける。

ただ感情的に歌っていても喉を傷めるだけであり、常に意識をして歌うことが重要である。言葉の滑舌や低音から高音への変換点、声の強弱の長さなど様々な要素から構成されている。たとえ疲れている状態だとしても、これらのことができていなければ楽器との調和も崩れてしまう。

声と音が天秤でつり合った時、初めて曲は成り立つものだと思う。あくまで俺個人の意見なのだが…。

「よーし!みんなお疲れ。今から休憩とるからリラックスしといてくれ。」

熱気が漂う空間にみんなの笑い声が反響こだまする。俺はこの一段落ついた後でこういう風に会話するのが好きだったりする。なにかホッとした気持ちになるというか…。

みんなが休んでいるうちに飲み物でも買ってくることにしよう。

俺はタオルを首にかけ体育館の重たいドアを開く。


「ギギーンッ、ガッシャーン」

ドアの向こうの世界は既に薄暗く、夜をむかえようとしていたのだった。






フェンスに両手をかけそこを見つめる。かろうじて青色だと認識することはできるが、もはやその広大な水面(みなも)は暗闇に溶けようとしていた。

潮風が俺の頬を冷たくなでる。

自分の足は気がつくと屋上へと運ばれていたのだった。2階のコンビニで飲み物を買い、3階の自分のクラスに少し顔を出したまでは覚えている。

…俺は意識してここに来たわけではなかった。自分でもわからないなにかが勝手に体を屋上に導かせていたのだった。

「ピキピキッ」

コンクリートでできた地面の上に置いてあった飲み物の封を開ける。飲み物といっても水なのだが…。清涼飲料水を飲んでしまうと歌う時に変な感じになる。

妙に歌いづらくなり喉の奥が気持ち悪くなる。

「ゴク、ゴクッ、…、ふぅ。」

ペットボトルを垂直に傾けるのと同時に空を見る。そこには星が一つも存在しなく雲のかけらすらなかった。

再び顔を戻し景色を眺める。

正面には海。右側には大きな病院が見え、左側には店や住宅街が見える。

この学校は、どの教室からでも海を見える構造になっている。そのため別にここに来て海を眺める必要はない。

「ヒューン…、………、ザワーッ」

全身が潮風とともに海の方向へ引き込まれる。いきなりの突風で長袖のまくりが解けてしまった。乱れた制服を整え直す。

まだ夏の余韻があるはずだというのに、夜をむかえると急激に寒くなる。冬なんかもう最悪である。体育の授業などまさに生き地獄。冬の寒さに加えてこの海風が俺たち学生の体を容赦なく襲う。

「ー。ー。ザー。ー。ー。ザー。」

海があるであろうその正面からは細波の音が聴こえてくる。

とはいっても、俺は個人的には海は好きである。こうして対面しているだけでもなぜか安心できる…。

ここに来るのは夏休みにバンドの練習で学校に来た以来。あの時は日差しがかんかん照りで、この水面もとてもきれいに見えていた。

そうである。こうして俺が今、歌い続けることができるのもあの日、あいつと会えたから。


暗闇に溶けたその水面が、1人の少年の無垢な瞳に映る。

















「ミーンミンミンミンミンミンミンミィ〜。」

頭上には熱さの原因である太陽が俺の全身に濁流を与える。眼前には白い砂浜といたずらに溶けあう海が広がる。

透明に反射する水面は、うみねこの鳴き声とともに入道雲の挟間へと消えてゆく。

熱を吸収した金網に顔を近づけ下界を見下ろす。花壇に植えられた向日葵の隣を俺と同じ制服の人間が通り校門へと向かう。爽やかな青い風が背中を通りぬける。もう補習授業は終わったようだ。

「……………。」

沈黙したまま照りつけるオレンジ色の光を浴びる。

なぜ俺はいまここにいるのだろう?いったい何を期待しているのだろう…?

あたり前のように訪れる夏の季節の中、あたり前のように俺は歌っている。

それが本当に正しいことかどうかわからぬまま…。


俺が歌い始めたのは幼稚園の時。砂浜で1人で遊んでいた時だった。

歌と呼べるほどのものではなく小さな声で音程もバラバラ。それは今考えてみると孤独な自分をごまかすために、なぐさめるためにしていたものだと思う。

そう。その頃の俺には1人も友達がいなかった。

自分の伝えたいこととは違う感情を人にぶつける最低な人間だった。

…でも、そんな人間の歌を聴いてくれた人が1人だけいた。


海風になびくその長い黒髪は今でも覚えている。透明な肌が砂浜と同調し、とてもきれいな人だった。

その人は俺と一緒に歌を歌ってくれた。2人で目の前に広がる海を見つめながら時を忘れたかのように。


その人には、その日にしか会うことができなかった…。






「きーみーの声が聴きたいから、ぼくはうーみーを眺め〜。」

「!!!」

回想をしていると背後から歌が聴こえてきた。その声は空高く澄み渡り屋上の世界が青色に染まるようだった。

そこには白鳥がほほ笑みながら空に手をかざし、歌っているのだった。

「何でお前がここに。」

「…ちょっとのびのび歌ってみたくなって。」

彼女は夏休みの補習で学校に来ている。だが、さっきのチャイムで授業は終わったはず。意外な人物の登場で俺は若干、動揺した。

「塚原くんはこんなところで黄昏てどうしちゃったの?元気ないよー。最近。」


図星である。もう活動して3年経つが、いまだあの人の歌声に近づけない。あの歌は俺に勇気と夢を与えてくれた。

俺は普通の会話で相手に気持ちを伝えられない。どこか自分を隠してしまう。本当はちゃんと話したいのに言葉が見つからない。

だから俺はあの時に決めた。

歌でみんなに気持ちを伝えていこう。初めは下手かもしれない。でも、たくさん練習してたくさん努力して本当の自分を伝える。

あの人が俺に勇気をくれたように…。

でも、ここまで歌っても何かが違う。あの人がくれた歌声とは何かが違う。

声質や音程の問題ではない。

俺は果たして、みんなの心に何かを伝えることができるのか?今まで何かを伝えてこれたのか?

全部、ただの自己満足だったのかもしれない。勝手に自分が殻にこもって逃げてきた結果がこれ。都合のいいように自分を肯定化させる。

俺はなんて最低な存在なのだろうか…。


「今年の塚原くんの歌はどんなのかなぁ〜。」

灰色だった俺の瞳に再び色が戻る。海と空が体中を包み込む。

彼女のこの一言がいままでの俺を確かな存在にさせた。

こんな近くにいた。感じてくれる人が。


…俺はもう迷わない。1人でも俺の声を聴いてくれる人がいる限り…。







「あっ、麻美とミレアが待ってるんだった。私、もう行くねっ!」

あわてて走る白鳥。無邪気に笑いながら手をあげ、あいさつをしてくる。

空には淡く飛行機雲が姿を映す。

「いい曲だよな。」

「だよねっ!」

ゆっくりと閉ざされていく鉄の扉の隙間から階段を降りる音が聴こえてくる。

急ぎ足のその音は、いつまでも扉の中で反響こだましている。

「俺も行くか。」

そこには1人で呟いたことを笑う自分がいた。

夏の日差しはいつまでも俺の背中を照らすのだった。







…白鳥の歌は、あの人とまったく同じ旋律だった。

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