7:片隅に置かれたもの
目を閉じ、両手を合わせる。
線香の煙が顔に当たる。
その深い沈静な香りは体をゆっくり、包み込む。
静かに目を開き、目の前にある小さな赤い炎を見つめる。
細い棒の先端についたそれは次第に、灰色へ変わり崩れていく。
仏前で手を合わせたまま、一つの写真を見つめる。
位牌の横にあるその写真には、男の人が写っている。
にこやかに笑うその顔を、私は無表情で見つめる。
「速、そろそろ時間よ。」
襖が開き、母親の声が聞こえてくる。
「…体育祭、…行けなくてごめんね…。」
母親のいるリビングには食器や小物が散乱し、ダンボールがいくつも置かれている。
「ううん…。全然…。」
私は、その小さな声を労わるように言葉を返す。
自分の部屋で学校のジャージに着替え、玄関に向かう。
いつもなら制服を着るが、今日は違う。
洗っておいたシューズに足を入れていく。
「………、…。」
玄関の片隅。そこには磨かれたこの靴とは対照的なものが置かれている。
小さくて、傷ついていて、ボロボロで。
それは何年も、この場所に潜み続けている。
「…ガチャ、……………、ガチャン」
片隅に置かれた幼児用の靴。
玄関の前で、それを久しぶりに見たような気がした私は。
ゆっくりと扉を開き、学校へ向かう。
家を早く出たせいか、誰も歩いていない。
いつもなら、この道は多くの学生で溢れている。
「…ヒューンッ」
風が冷たい。
この通学路は海と隣接しているため、海風が吹いてくる。
普段は気にならない風なのだが、今日は一段と寒い。
うみねこの鳴き声も、今日はどこか寒そうだ。
この道は、あらゆる季節を私に見せてくれた。
春には、学校に咲く桜が見え。
夏には、蝉の鳴き声が聴こえ。
秋には、鈴虫と丸い月が訪れ。
そして冬には、冷たい海風が、こうして私の肌を凍てつかせる。
繰り返される日常の中、ふと、その瞬間を見てみると、そこには広がっている。
いつも、景色が同じに思えても、何かが変わろうとしている。
いつも、過ごしている時間が同じに思えても、何かが変わってきている。
いつも、自分が同じに思えても、何かが変わっていく。
「…ヒューーーンッ」
海風は勢いを増し、私の体を一瞬で包む。
首に巻いてあるマフラがほどけていく。
反応に遅れたせいで、それは後方に流されていく。
「…っ!」
マフラを追いかけようと後ろを振り向くと、そこには誰かが歩いていた…。
「…んっ、と。」
その男子は私のマフラをしっかりと受け止めていた。
「…今日も、寒いな。」
静かに笑うと、彼はマフラを私に渡す。
「…あ、ありがとう。」
彼と歩くのは雨の夜、一緒に帰った時以来。
首にきつくそれを巻いた私は、彼と通学路を歩いて行く。
私は、この街を離れる。
正直、みんなに伝えようかどうか迷った。
でも、ちゃんと伝えないといけないと思った私は…。
「…お前がここを離れるって言ったときは、…驚いたよ。」
白い砂浜と青い海を望みながら、私たちは、まっすぐな道を歩いて行く。
苦笑いをしながら、彼は言葉を紡いでいく。
私は、両手をポケットに入れたまま静かに答える。
「…うん。」
空から海へと風が通り抜ける。
それは水面を揺らし、そこに映るこの街を揺らしていく。
「…荷物の準備はもう…、できたのか…?」
まっすぐな道を進んでいくと、大きな坂道がある。
何かを心配するように、彼は声を紡いでいく。
私は、吐き出した白い息を見つめ、ゆっくりと答える。
「……うん。」
吐息は白さを失いながら、どこかへと消えていく。
行方を知らせないその軌跡は、ただ上へと昇り続ける。
「…体育祭が終わったら、もう…行くんだな…。」
坂道を越えた先に、静かな商店街が広がる。
寂しげな表情で、彼は声を紡いでいく。
私は、道の傍らに咲く小さな露草を見つめ、強く答える。
「………うん。」
表面に雫を溜めたその露草はしっかりと。
冬の訪れを受けとめている。
まっすぐな道。大きな坂道。静かな商店街。
この先にあるのが…。
私の…、私たちの学校…。
「…俺は委員会に用があるから…ここで。」
私たちは校門の前で立ち止まる。
私は、彼に何も言えずにただ、黙り込んでいた。
「…………。」
最終競技のリレで私は、彼からバトンを受け取る。
彼に何か声をかけたいと思いながらも、声が出ない。
「…ふっ。また、…後でな。」
くすりと彼は笑うと、白い校舎の中へと姿を消していく。
手を上げ、あいさつをするその姿。
その彼の仕草は、いつもと変わらなかった。
「……………うん。」
私は、しっかりと頷く。
「…ちょっと体、温めようか…な。」
まだ本番まで時間がある。
心臓の音が加速していく。
胸の鼓動を抑えるために私は一人、誰もいない校庭を走ることにした。
「………?」
歩き出そうとしたその時、足下に違和感がした。
見てみると、靴の紐がほどけてしまっていた。
私は、しゃがんでしっかりと紐を結び直す。
「………。…?」
紐を結ぶ瞬間、何かが頭の中をよぎる。
私の手に重なる暖かい何か…。
それは、どこかで見たような、どこがで体験したような…。
そんな、感覚…だった。
これは秋雨の夜、塚原くんと帰る直前のこと…。
「…カコン、…カコン、…カコン、…カコン、…カコン…」
階段を上がる。
勉強のために残っていた生徒たちが帰宅していく。
私は、その暗闇の道を歩いて行く姿を階段の踊り場から見つめる。
微かな月明かり。
頭上にある窓からはもう昼間の暖かな光は差し込まない。
雲に姿を隠す黄金色が見える。
「………。」
私は白川先生を探している。
放送で呼び出され職員室に行ったが、そこに先生の姿はなかった。
夏休みの時も一度、私は先生に呼び出されたことがある。
あの時は家に連絡がきた。
学校で話したいと言われ私は夏休みのある日、学校へと向かった。
あれは補習通いの麻美ちゃんとミレアちゃんに会った日…。
「………。」
あの時も今と同じように職員室に向かったが、やはり先生の姿はなかった。
……………。
結局あの日、先生がいた場所は学校の屋上。
なぜ、そこで私を待っていたのかわからない。
先生はその時、何も話さなかった。…いや、話すのをためらっていたように見えた。
「………。」
そして今、私はあの時と同じように屋上へ向かっている。
階段と上履きが擦れ合う音を聴きながら、その場所へと向かう。
甲高いその音は、こうして一人で歩くと大きく聴こえる。
一歩、また一歩と段差を上がる音。
それは私の存在を証明するもの。
…やがて、屋上の扉の前に到達する。
「…、ギッギーン…」
その鉄の扉は力をいれないと開けられない。
油が注されていないためか開くと鈍い音がした。
扉の隙間からの冷たな夜風が私の体を揺らす。
「…。」
フェンスの前に誰かいる。
その人は大きな傘を差したまま、じっと立っている。
冷たい風の中。
どこかを見つめ。
無言のまま。
何かを待つように。
「…白川…先生…?………。」
私は意味がわからなかった。
なぜ、傘を差しているのか。
私に気づいていないのか、先生は無言のまま。
扉の前にいる私は先生に近づいていく。
冷たい地面の感触が上履きを通り抜ける。
その感触は私の身体を染めていく。
「…。…?」
先生の隣に近づいたその時。
何かの音が聴こえた。
耳を澄まさなければわからない些細な音。
それは次第に強くなる。
そして…。
「ザ―ーーーーーーーーーー…」
最初、それはただの通り雨だと思った。
だが、いつまで経ってもやまない。
突然の雨。
先生は雨がくることを知っていたかのように平然と立っている。
…大きな傘を差して。
私は暗闇の屋上から街を望む、先生の瞳を見つめる。
「…、濡れるわよ…。」
先生は優しく私の身体の上に傘を差し出す。
ようやく先生の声を聞くことができた。
私たち2人は黄金色が消えた世界で一つの輝きを見つめる。
校門の前を通り過ぎる父親と子供。
父親に傘を届けにきたその子供は大きな傘の下、父親と手をつなぐ。
雨の中に続く帰る場所を求め、その2人は歩いて行く…。
私の父親はもう、この世界にいない。
私が幼い時に父親は、…、………。
最後に見た姿はリビングで包丁を胸に刺して横たわる死体。
私と母親の2人は。
…見捨てられた。
父親は仕事ができ、生活には困らなかった。
真面目で、無口なその人。
毎晩、会社に泊まり込み、家に帰ってくることは滅多になかった。
私と遊んでくれたことなんて一度もない。
自分が他人扱いされていているようで私は父親が嫌いだった。
…ある日突然、父親の人格が変わった。
会社に行かず、煙草をふかし、酒を呑み荒らす。
母親に暴力を振い、私を怒鳴りつけ、あらゆる全てを破壊していく。
物を、家族を、絆を…。
父親は、少しの失敗で会社を解雇された。
新しい職に就きたくても何も見つからない。
職が見つかっても採用されない。
失敗した人間。
その人間を批判する噂が流れていく。
それは、私までを侮蔑するものへと変わっていく。
私は料理を覚え、必死に勉強した。
私が陸上選手になりたいと思った理由。それは…。
変えたかったから。
見返してやりたい。
母親を、私を…隔てていくその視線を。
…悔しい。
母親は何も悪くない。
私は何もしていない。
なぜ、こんな思いをしなければいけないのか。
父親なんて…、…いなければ……、…。
……………。
「…カッコ悪いですね。…夢の理由が、こんなんじゃ………。」
降り続く雨。
私は未熟な自分の心を嘆く。
こんな理由が今までの私を動かしてきた。
最近、私は記録が更新できない。
どう、自分を追い込んでも。
壁を、越えられない。
「…一本の道を進んだ先にある希望の道と、奈落の道…。」
先生は私に視線を合わせず語りかける。
その小さな囁きは雨の音に消されてしまいそうだった。
大きな傘に数えきれない雨が降りそそぐ。
湿った空気が風に混じる。
黄金色が見えない空の下。
私の瞳には何も映っていない。
「夢に理由なんて関係ない。大切なのは、揺るぎない…気持ち…。」
先生の強く言い切る声。
その声はやさしく、一途で、真剣だった。
私に伝えようとする何か。
右手に大きな傘、左手に大きな封筒。
濡れないようにして左手にあるその封筒を先生は。
私に渡す。
「先生は、希望の道に進んでいるかと思った…。でも、私はもう一つの道を進んでしまっていた………。」
唇を噛みしめ、傘を握る手が震えている。
…悔しそうに。
その顔は初めて見るものだった。いつもの表情は消えている。
封筒の中を見てみるとそこには。
大量の書類が入っていた。
………。
「速…、あなたには…そう、なって欲しく…ない…。」
雨の中に、その声は消えていく。
先生の崩れた声…。
空は、完全な黒色。
………。
………。
………。
書類に書かれていた内容。それは、海外遠征についてだった。
これは、海外に長期で滞在し、技術と実力を向上させることを目的にしている。
日本だけでなく、あらゆる国から未来の選手を目指す人が集結する。
これに参加できるのは、ほんの一握り。
…世界で自分が通用するか確かめられる…。
…でも私は、これを断る。
今の自分の実力では到底、通じるわけがない。
記録を出せずに参加しても無意味。
何も、得られない。
弱い、自分…。
なぜ私は走るのか?
その理由は、変えたいから。
その理由は、見返したいから。
その理由は、悔しいから。
どれも、憎しみからできたもの。
私は、走らないほうが…いいんだ。
憎しみからできたものなど、夢でも何でもない。
今までなぜ、走ってきたのか?
何を期待してたのか?
…、…ただの自己満足か…。
勝手に箱庭をつくり、その中に夢のようなものを描いていた。
自分には何もないのに、誇らしげに。
馬鹿ばかしい。
今まで全てが幻。
…私。
どうしようも…ない奴だ…。
………。
……。
…。
…一人、雨の帰り道の記憶。
あの時、私は気づいていなかった。
もしかしたら…、…奈落の道を進もうとしていたのかもしれない。
…、白川先生が私に伝えてくれた。
…、塚原くんが私に教えてくれた。
本当の、…走るという意味…を。
そして、今、私は…。
バトンを強く握りしめる。
風を越えて、一つの場所を目指す。
みんなが繋げてきたもの。
そう、だから…。
私は今、走っている。
「速さ~~~ん!!!ファイトォ~~~!!!」
ミレアちゃんの声が聴こえる。
私は間違っていた。
憎しみが今までの私を走らせてきたのか?
…いいや、違う。
純粋に走ることが好きだから。
だから、走れてこれたんだ。
「がんばれ~~~ッ、!!!」
麻美ちゃんの声が聴こえる。
走ることは、こんなに楽しい。
なんでこんなに楽しいのかと思うぐらいに。
それは、なぜかって?
そんなの。
理由なんてない。
「飛馬ぁ~~~!!!もうすこしだ~~~ぁ!!!」
時見くんの声が聴こえる。
夢に理由なんて関係ない。
先生は私に伝えていた。
なのに。
私は気づけなかった。
…別の道を進もうとしてしまった。
「全~~~部っ、抜いちゃえ~~~ッ!!!」
園歌ちゃんの声が聴こえる。
…走り続ける。たとえ、どちらの道に選ばれようともな…。
塚原くんは私に教えてくれた。
一本の道の先にある分かれ道。
希望の道と奈落の道。
それは、…自分の気持ちで進むものだと。
「行っけ~~~~~ぇ!!!!!」
…塚原くんの声が聴こえる。
中途半端な決意。
曖昧な感情。
私は、すべてを捨てる。
大切なのは、揺るぎない気持ち。
その先にあるもの。
それは………。
白い線。
そこは始まりの場所であり、終わりの場所。
…鳴り響く雷管の音。
けれど、私は。
この線を越えてもまだ。
走り足りない…。
父親のプレゼント。
それは、小さな紐靴。
運動会に少女はそれを履いていた。
「………。」
小さな自分の手。
何度も結ぼうとするが。
少女は紐を結べなかった。
「…、貸してみなさい。」
父親は、その紐をしっかりと結ぶ。
少女と手を重ね。
暖かな、手のひらで。
「…誰よりも速く、お父さんのところに、来るんだぞ。」
父親は、結び終えると少女から離れていく。
真面目で、無口なその人は。
にこやかに笑い、少女を見つめながら…。
「…、転ぶなよ…。」
少女は走った。
…また、その優しい笑顔を…見るために。
玄関の片隅に置かれたその靴は今日も、彼女を見守っている。