6:夢の記憶
「ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ」
脇に挟んである体温計から機械音が鳴り響く。
その先端に指先で触れてみる。自分の体温が異常なせいか、それほど熱い感覚には思えない。
頭の下に敷かれている氷枕。冷たいはずのそれも自らの体の熱さのせいで本来の役割を果たしていない。
「園歌~、入るわよ。」
部屋の片隅にあるドアから母親が私の様子を覗く。そのエプロン姿の人は両手に小振りの鍋を持ち、私に近づいてくる。
「お粥、食べれる?」
使われていない勉強机の上にその鍋を置き、私の手から計測済みの体温計をとる。
「…下がらないわね。
我慢しないで病院に行った方がいいわよ。」
「大丈夫。ちょっと寝てれ…ば、ゴホッ。
…ッ。ゴホッ、ッ。ゴホッ…」
咳が止まらない。繰り返されるその共鳴を心配する母親が声をかける。
何を言われても首を横に振り、肯定を促す。
私の意見をようやく聞き入れた母親は、私の頭の下に敷かれていた氷枕を新しいものに交換する。
その表面に指先を触れてみると今度は冷たさが認識できた。
「明日、熱が下がらなかったら何を言おうとも病院に連れていくからね。
お粥を食べたらそこに置いた市販の薬でいいから飲んでおくのよ。わかった?」
声を荒げて言うものの、母親の目は最後まで私を心配するまなざしだった。
ドアが開き、私の部屋から母親が出ていく。
「カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ…」
聴こえてくるのは目覚まし時計の秒針の音。
変化なく、一定の間隔で刻まれていく。
そんな聴き飽きた音を聴きながら、私は白い天井を見つめるのだった。
あの雨の夜の日、私はどうしてしまったのだろうか。
図書室にテスト勉強をしに行って、時見くんと会って、一緒に帰って…。
あんな土砂降りの中で傘も差さずに彼に変な事を聞いてしまった。
………、……………。
気がつくと、自分の体を制服の上着で覆う時見くんが立っていて…。
「…ゴホッ。ッ…ホ、ゴホッ…」
時見くんに会ったら謝らなければ…。
雨の中、ちゃんと傘を差していれば私が熱を出すことはなかったし、彼が濡れることも避けられた。
テスト期間を終えてから数回しか私は学校に行っていない。本当はテスト期間中すでに調子が悪かったのだが、休むわけにもいかず強引に行ったのである。
その副作用とも言えるべき代償がこのありさまであることは云わずと知れたこと。
週末には体育祭がある。
この体の状態ではまず、学校に行くことすらできない…。
「…ゴッ、ゴッホ、…ゴホッゴホ…」
このまま起きていても、この体の熱さは私を襲い続けるだろう。
寒気がして、鼻が詰まり、体が重い…。
眠りにつくのは限りなく難しく、眠ろうとすればするほど眠れなくなっていく。
「カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ…」
目を閉じて時計の音に耳を澄ましていく。
何回聴いても、何十回数えても、何百回待ち続けても、
その音は変わらない。
「……………。」
意識が薄れていく。
体がやわらかく、解き放れていく。
視界が消え、どこかの世界に引き込まれていく。
ゆっくりと、静かに…。
眠りに落ちた私の体に今もなお、秒針の音が鳴り響き続けていく。
青空の中を自由に飛び廻る、うみねこたち。
その白い翼に真夏の太陽の日差しが差し込み、影をつくりだす。
その黒い模様は限りなく広がる青い海面に映り、入道雲とともに幻想に溶けた景色をつくりあげていく。
「…スサーーー…」
幼い私は自分の足下に広がる砂浜の一部を両手で抄くっていた。
温かいその砂はキラキラと光り、貝殻の欠片が混ざっている。
爪に砂が入り込んでも私は気にせずに夢中で戯れていた。
…波の音以外に、何かが聴こえる。
何度も同じ旋律が流れ続ける。
幼い私は音がする方向へと走っていく。
砂浜に残されていく小さな足跡を、すぐさま小波が消していく。
「………。」
幼い私が辿り着いた場所には1人の女の人が立っていた。
その手には首飾りが握られている。
聴こえてきた旋律の正体は、この首飾りの中に埋め込まれているオルゴールの音だった。
それを静かに見つめ続ける女の人。
その黒く、長い髪が海風に揺らされていく。
私の頭をやさしく撫でるその人。
深く微笑み、どこまでも続く海と空を見つめている。
その瞳には、美しく、儚い青色の世界しか映っていなかった。
「また、会えたね…。
…これも、偶然という名の必然…ね。」
夏の景色がゆっくりと崩れ落ちる。
夢が終わりを迎える合図。
幼い私の前から女の人の姿が消えていく。
すべての映像が、跡形もなく閉ざされていく。
…世界が、沈んでいく。
「カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ…」
何も変わらない時計の音。
何も変わらない天井の景色。
再び現実の世界に目を覚ました私が感じるとるものは、そんな不変の空間。
夢の中にいることをあそこまではっきりと認識した上で見る夢は初めて。
普通なら夢と現実の境界は目が覚めるまで分からないはず…。
「ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ」
体温計の音が鳴り響く。再度、自分の体温の具合を確かめる。
「…よし。」
体温が平常に戻ったことを確認する。これで、明日から学校に行くことができる。
とは言っても安静第一。私は完全に体調を回復させるために二度寝をすることにした。
再び部屋の明かりを消し、布団を顔まで覆いかぶせていく…。
「は~い、ちょっと早いけど終わりにしようか。
まだ書いてる人がいるから号令はなしでいいでーす。」
細田先生の声とともに、今日の数学の授業も終わりを迎える。時計を見てみると、チャイムが鳴るまで数分ある。
周りを見渡すといつもの光景が広がる。
ほとんどの生徒が机に顔を伏せて眠っている。
案の定、私の隣の席に座る麻美も眠っている。
まあ、私が意識を取り戻したのも、つい数分前なわけであるのだが…。
「スーーーーー、グゴ~~~ォ。」
気持よさそうな顔をして眠る彼女を起こさないように私は席を離れる。
もうすぐお昼の時間を告げるチャイムが鳴る。
いつものように私はご飯を一緒に食べる仲間を集めるのだった。
「速さん!今日も一緒にお昼、食べようねっ。」
麻美の前の席に座る彼女に私はいつも通り声をかける。しかし、返された言葉はいつもと違うものだった。
「ミレアちゃん、ごめんね。今から用事があるから…。」
申し訳なさそうに頭を下げる速さん。丁寧な対応に私は動揺する。
しばらくすると、彼女は教室を走り去り、どこかへ消えて行ってしまった。
「園歌~!一緒にお昼食べ………。」
私は後ろを振り返り、園歌の声を求めていた。
しかし、そこにあるのは誰もいない机と椅子。
その隣の席には、黒板を必死に見つめながら2人分のノートを書き写す時見くん。
「…白鳥の…ノートも書いておこうかなって…な。」
私の視線に気づいた彼は、やさしく笑う。だが、その瞳は曇りがかっていた。
「キーーーン、コーーーン、カーーーン、コーーーン…」
窓越しに見える紅葉を終えた灰色の樹木。
そんな殺風景を望む私にチャイムの音が反響する。
その薄汚れた窓ガラスには、虚ろな自分の顔が映るのだった。
「うはぁ~~~あっ、と。今日も疲れたわね~。」
両腕を組上げ、眠り足りなさそうな顔をしながら体を伸ばす麻美。
「…、今日は絡んでこないわねミレア…。お弁当もあまり食べてないわね…。」
私は目の前にあるお弁当箱の中身を見る。彼女が言うとおりの光景がそこには広がっていた。
たこさんウィンナ、たまご焼き、から揚げ…。
数々の定番のおかずに手をつけず、私はごはんしか食べていなかった。
「…べっ、別にぃ~。」
麻美の悟り深い瞳が私の瞳に映りこむ。
白を切るごとく、メインディッシュのハンバーグを一気に口に運ぶ私がいた。
しかし、それは到底一口では食べきれる大きさではなかった。
「…た、体育祭って今週末だっけ?」
いつもなら速さんと園歌がいる。しかし、今日は2人がいないため私と麻美の2人きり。考えてみると、こうして4人でお昼を食べないのは初めてのことではないだろうか。
話題は無いのに等しく、いつもと違う雰囲気に耐えきれなかった私は無理やり話題をつくるのだった。
「あ~。考えただけでダルいわ。まだ木曜日があるのよね…。」
苦虫を噛み潰したような反応をする麻美。両手で支えられていた彼女の頬は段々と下へ滑り落ちていく。
彼女がこの反応をするのも無理はない。
今日と木曜日は体育の授業がある日。当然のように授業の内容は体育祭の種目練習に染色されていく。
「いい加減にクラス対抗のリレの練習はやめてほしいわよ。
おかげさまで筋肉痛のまま本番当日をむかえそうだわ…。」
顔を両腕で塞ぎ、机上に叫びこむ麻美。
彼女のだだをこねる様子を微笑ましく私は見つめるのだった。
中間テストが終わり体育祭が近づく。今週末でこの体育祭も終わり、本格的な大学受験期間が近づく。
あっという間に時間は流れ、気がつくと目の前にあるのは将来を決める季節…。
私は積み重なり続けていく日々の中で、何が幸せなのかわからぬままに過ごしているのではないか。そう思うことが最近多い。
幸せとは何か。なぜ、それを求めようとするのか。
私の頭ではそんな哲学的な問題を解こうとしたところで、何もわからない。
考えても。
悩んでも。
思いつめて苦しんでも…。
何もわからない。
そう。何も…。
結局、わからないままでも時間は過ぎていく。
答えのない問題に正統な理由を求めてきた結果、得られたものは何もない…。
……………………………。
…懐かしい声が聴こえる。
可憐に笑う女の人が私と手を繋いでくれている。
傷ついた私の手のひらをやさしく包み込む自分以外の手。
理由もなく笑うその人は、私には輝いて見えていた。
純粋で。
無垢で。
透明で…。
そうだ。
思い出した。
私は何を躊躇していたのか。
幸せとは何か。なぜ、それを求めようとするのか。
そんなことはどうでもいい。
大切なのは、それを考えることではなく、生みだすこと。
私はあの時に教えられていたんだ。
笑顔で過ごすことの大切さを。
そこには何も理由がないと決めつける人がいるかもしれない。
でも、少なくとも私は違う。
夢の記憶が、あの人と過ごした幸せな一日を、こうして蘇らせているのだから…。
「…ちょっ、…ちょっと…ちょっとミレアっ!
私の話を聞いてんのっ!」
私の両肩を激しく揺らす麻美。
三時間目の体育の疲れのせいか、私は彼女の話を聞いている途中で眠ってしまったらしい。
「数学の授業中に眠らないから、お昼の時間帯に眠くなるのよ!
ちゃんと眠らないとお昼ご飯が食べ終わらないわよ~!」
私の耳元に彼女の騒がしい声が聞こえてくる。この理不尽な説教に対し、私は嫌味を言う。
「まぁ~、どこかのダレカさんとは勉強に対するハートがちがいますからね~。」
私の発言を聞いた麻美は異様な笑い声をあげる。
「ふふっ、ふははははははははは。」
それに対抗するべく私も真似をして笑う。
「フフッ、フハハハハハハハハハ。」
私のたまご焼きを素手でつまみ食べる麻美。
負けずと私も彼女のお弁当のポテトを強奪する。
「マァ、所詮、冷凍デスネっ!」
「悪かったわねっ!!!」
こうしてふざけ合うのが私には合っているのだろう。
深く考えたところで幸せが何かはわからない。
でもこうして…。
純粋に笑うことが。
無垢に笑い合えることが。
透明に笑い誇ることのほうが…。
私は好きだ。
「失礼します。」
開きにくいドアをノックし、中へと進む。
「…速、来たわね。
悪いわね、お昼時に呼んで。
でも、もう時間がないから…。」
白川先生はの手には書類が握られている。
「…速、あなたがこの書類にサインをしたら、もう日本で走れないかもしれない。」
先生の瞳は私を確かめるものだった。
「大丈夫です。私、決めましたから。」
自信にあふれた声で私は伝える。
決めた…道を。
「私、学校をやめます。」
「………そう、行ってきなさい。」
高みへ