5:黄金色の住む道で
いけない、勉強中だというのに寝落ちしてしまった。
俺は4人掛けの円形テーブルに1人で座り、数学の教科書の上に顔を伏せて寝てしまっていた。
蛍光ペンで囲まれた数字や文字が通常の視界で見る何倍もの大きさで見える。顔を伏せていたせいでページが若干、クシャクシャになってしまった。おぼろけな目で下のカーペットを見てみると、消しゴムのカスが散乱していた。
教科書の下に敷かれているノート。見開かれているそのページの上側に公式が書かれている。その下には問題が書かれてあり、何度も書いては消した跡が残っていた。
俺が今、居る場所は学校の図書室。
周りを見渡してみるとまだ、俺以外にも勉強をしている人が確認できる。
だが、先ほどよりかは明らかに人数が少なくなっている。腰の高さほどの本棚の上に位置する窓の景色はすでに真っ暗。
これらの情報が示すことはただ一つ。そろそろこの場所に生活指導の教頭が来ることを表している。
あの人に捕まるとろくなことが起きない。捕まるというか、絡まれるというか…。
テストの日までもう残りが少ない。というか、明後日。
バイトの予定とうまく調整しなければならない。バイトを休んでしまうと収入がなくなり家賃が払えなくなってしまう。1人暮らしは大変である。
かと言って、勉強を怠ると赤点になり、合格するまで居残り勉強になる。
受験シーズンが近づくにつれてテストの問題が手強くなってきている。まったく、ありがた迷惑の特典であり、返品を希望したいものである。
「カチャカチャ、シュルルル」
シャーペン、消しゴム、蛍光ペンを筆箱にしまい、教科書とノートを閉じる。
勉強する保証はないが、ここで教頭に絡まれるくらいなら家に帰った方が妥当だと判断した自分。
椅子から腰を上げ、カーペットに散乱する消しカスを丁寧につまみとる。
背骨と骨盤の境目が痛むことをしゃがんだことで気づく。この木製の背もたれでは痛めてしまっても仕方がない。
あくびを連発してしまう程の眠気を堪え、鞄を握る。
「………?」
この空間を立ち去ろうと出口の方にあるテーブルを見た瞬間、俺はめずらしい光景を見るのだった。
そこには、必死に勉強をする彼女の姿があった。
私たちが座るテーブルの背後にあるドアから次々と生徒が帰宅していく。
みんな私たちと同じく、テスト勉強のためにここへ来ていたのであろう。帰宅していく彼らの手にはカウンタで借りた本が抱えられている。
私たちがここにいるのも、もう限界に近い。最終下校時刻を告げる放送が流れるまであと数分。
私の勉強に対する意欲と集中力もすでに限界値。周りを見渡し、この空間にとどまり続けているのが私たちだけであることに気づき、真向かいに顔を伏せて座る彼に声をかける。
「……………んっ、ぅ~~~。」
両腕を枕代わりにして顔を伏せたまま寝ぼけ声で唸る時見くん。
しばらくすると上体を起こし、大きなあくびをしながら体を伸ばすのだった。
暗闇の正面玄関から望む外の世界。
淡い月明かりがつくる下駄箱の影をただ1人見つめる。
手に握るビニール傘。
その透明な衣は、この空間の色にかき消されていく。
秋の訪れを告げる満月が与えるものは、定まらない光と冷たい景色。
たたずむ自分に出来ることはこの世界を見つめることだけ。
この光までもさえがやがて、厚い雲に閉ざされていく。
「遅くなって……ごめん。
ちょっと職員室で細田先生から数学を教えてもらって…。
………帰るか…。」
帰る時間を遅くしてしまったことを謝る彼の声。
何も見えないこの黒い世界でも、その声色はしっかりと伝わってくる。
「…っふ、そうだね。」
静かに微笑みながら答える自分。
再び外の世界を望んでみると、そこには黄金色の丸い月があった。
街灯が照らしだすのは少し湿った地面と俺たちの足先。
等間隔に広がるその光は、雨上がりの帰り道を冷たく包んでいく。
空には厚い雲が広がり、その挟間から少し黄金色が姿を覗かせる。
「白鳥が勉強なんて、めずらしいな。」
水たまりを避けながら坂を下っていく。
じとじとした空気。それは肌に不快な感触を残していく。
「………そ、そうかな…。」
隠すように、ためらうようにして答える彼女。その小さく、弱い声は何かに怯えているようだった。
耳を澄ましてみると虫の鳴き声が至る所から聴こえてくる。
何重にも響き続けるその音は、意識して聴いていると非常にうるさい。
過ぎ去っていく季節は、夏に聴こえた蝉の声を鈴虫の声に変えているのだった。
「………ねぇ、時見くん…。」
しばらく何も会話をせずに歩いていると彼女から質問された。
それは、俺がなぜ漫画家になりたいのかを尋ねるものだった。
「…また、急な質問だな。てか、よく知ってるな…。」
「この前、みんなで帰った時に言ってたもんね…。」
寂しく笑いながら手に持つ傘の先端で水たまりの表面を揺らしていく彼女。
その小さな水面に描かれていく波紋を見つめる俺はこの時、教室に自分の傘を忘れたことに気づいたのだった。
「…なんて言うんだろうな………。
なんか気づいたら自分が漫画を読んでいて、それが楽しいというか、面白いというか…。」
改めて自分の夢を語るというのはちょっと困ってしまう。人に伝えることは難しく、説明しているうちに段々と恥ずかしくなる。
曖昧な俺の言葉を真剣に聞く彼女。その表情は思いつめた様子であり、唇を噛みしめていた。
「どうしたら…、夢ってできるのかな………。」
突然、彼女の声が震えだす。歩く歩幅は段々と小さくなり、やがて坂の途中で止まってしまう。
「…ど、どうした突然?」
彼女の手首を持ち、体を引こうとするが、一向に動こうとしない。
ただ沈黙を守り、何度も首を左右に振る。
今日の彼女は何か、違っていた…。
黒い空からの土砂降りの雨が俺たちの体を打ちつける。
地面に膝をついたまま傘を握り締める彼女。開く様子はなく、容赦なく降り続ける雨に彼女の全身が簡単に侵されていく。
「………私、どうしたらいいのかな…?」
「………私、どうしたいのかな…?」
「………私、どうなりたいのかな…?」
繰り返し言葉を紡ぎだすその姿を俺はただ無言で聞くことしかできなかった。
「恐いんだ…。
みんなは進む方向が見えている……。
でも、私には見えない………。
ずっと見つめていても変わらない…………。
…私に見えるのは、暗闇だけなんだ……………。」
雨の音に彼女の行き場を失くした声が交る。俺は制服の上着で彼女の体が濡れないように雨除けをつくり、静かに声を受け止めていく。
「みんなと離れる………。
私だけ、みんなと………。
……時見くん…、私どう…したら……………?」
文化祭で俺の手を元気に引いた彼女の溢れる瞳はどこにいってしまったのだろうか。
その行方を求めるかのように1人、俺は空を見上げていく。
だが、黄金色を望むことはできず、激しい雨が額を打ちつけるだけだった。
「…ハッ、ハックシュンっ。」
傘を差していても大粒の雨が顔面に激突してくる。風の強さも相当なものであり、その衝撃は今この瞬間も私の体を凍てつかしていく。
本当は園歌ちゃんと麻美ちゃんとミレアちゃんの4人で一緒に帰ろうと思っていたのだが、校内放送で白川先生に呼ばれ、今の時間までかかり不可能になってしまった。
「……………。」
排水溝に流れていく雨の行方をじっと見つめる。
道端にあるそれはただ静かに大量の水を飲み込んでいく。
激しく打ちつけられても何も語らず、ひたすら耐えていく。
子供の頃の自分はテレビドラマを見て、いつもこんなことを思っていた。
雨の日の景色はどこか切なくて、きれい。
登場する場面の数々はどれも憧れの世界。
雨の中、捨てられた仔犬に哀愁を寄せる不良少年。
主人公が雨の中を彷徨い、追いかけ続けたさきで恋人と抱き合う。
突然の雨で傘がなく、学校から家まで走って帰ろうとしたその時、後ろからやさしく傘を差し出す幼なじみ…。
いつかこんな雨の日が来るのではないかと期待していた。だが、いつまで経ってもそんな世界は現れはしない。
服や靴はびしょびしょに濡れ、独特なに臭いが充満して、やけに体が動きにくくて…。
どれもこれも私の感情に負の要素しか与えてくれない。どんどん気分が沈んでいき、何も考えたくなくなる。
「ザーーーーーーーッ…」
聴こえてくるのは地面と水がぶつかる音。
何の変化もなく絶え間なく続くその中を、昔の自分の思考が馬鹿ばかしいと嘆き、1人歩いて行く。
切ない、きれいなんてありなんかしない。
日常で繰り返される雨の存在は、どれも同じ。期待していた望みを空虚の塊で埋めていく。
私が黄昏に身を任せたその時、誰かの声が聞こえてきた。
「……………よお。」
足下にあった視線を声のする方向へと向けていく。
私の横にはいつの間にか塚原くんが歩いていた。
彼の吐息が冷たい雨と同化し、おもむろに消えていく。
「…すごい…雨だな。」
「………うん。」
傘から流れ落ちていく雫。
その一粒を見つめる瞳の先には、数えきれない雨が行く手を阻む。
そんな今日の雨も、いつもと同じものだと…思っていた。
「塚原くん、今日は帰るの遅いね…。
勉強してたの?」
頬に雨が打ちつける中、私は彼に聞いていた。
明後日からテスト週間に入る。三年生になってからテスト内容が一層濃くなったような気がする。
ニ年生までなら普通に授業を受け、復習を少ししておけば大丈夫であったのだが。
受験が近づくにつれて教室や図書室で勉強をして帰る生徒たちも徐々に増えてきている。
「…いや、バンド仲間と話しててな。」
何かをためらった後、静かに口を開く彼。
私はこのバンドという単語を聞いて、文化祭の時の事を思い出す。
調理室で料理総括の一通りの仕事を終えた後、麻美ちゃんとミレアちゃんと一緒に体育館へ向かった。
その目的は当然、塚原くんのライブである。
今年の曲は、音楽はどんなだろう?
大勢の観衆が見守る中、その旋律は確実に時間を止めていく。
聴こえてくるのは今までに感じたことのないもの。
初めて聴いたはずなのに、いつの間にか口ずさんでいた。
…なぜか、懐かしい………。
あんな感覚は生まれて初めて。
彼の何かが私たちに伝わってきた瞬間だった。
「…飛馬は、放送で呼ばれてた…な。」
冷風が前髪を揺らす中、そんな不思議な体験を思い返していると、彼が質問してきた。
しばらく黙りこんだ後、私は視線を合わせぬまま口を開く。
「…進路の…ことでね。」
私の発言に対し、彼が顔を曇らせる。
「…お前、成績いいだろ。どういう意味だ………。」
雨の中でも彼の声ははっきり聞こえ、私の心の内さえも見透かそうとする。
「………。」
「………。」
やがて、沈黙が生まれ声が消えていく。
「………。」
「………。」
水たまりに映る、繰り返される波紋。
「………。」
「………。」
止まらない余韻はいつまでも、その水面を揺らしていく…。
「………。」
「………。」
なかなか辿り着かない。
「………。」
「………。」
こんなに遠いはずはない。
「………。」
「………。」
耐えきれない私は彼に質問していた。
「走り続けて行き着いた先にあるのは一つの分かれ道。
片方は目指す場所に続く栄光の道。片方は永遠に続く奈落の迷路。
どちらの道が、どちらに続いているかはわからない。
走り続けてきた道を引き返すことはできない。
もし、こんな道があるとするなら塚原くん………どうする。」
私が立ち止まるのと同時に彼の足も止まる。
「………絶対に、迷うだろうな。」
彼の答えは私とまったく同じものだった。
誰でも迷うのは当然。
選択を間違えた瞬間、目指す場所には永遠に行けなくなる。
道を引き返してしまうと、永遠に前に進むことはできない。
恐怖と不安を避けて道を進むことは絶対に出来ない。
「でも、これだけは言える…。」
私の淀んだ表情を見た彼は再び歩き出す。その瞳の奥には深い希望の欠片がしっかりと輝いている。
空を見つめながら傘についた水滴を振り払う彼。
それを見て、私は先ほどまでの雨が嘘のように止んでいることに気がつくのだった。
月を見つめ、彼は私の瞳を見つめ、強く言い切る。
「…走り続ける。たとえ、どちらの道に選ばれようともな。」
この言葉に導かれたかのように私の足は再び目覚め始めた。
この揺るぎない気持ち…。
雨上がりの空の果て。そこには切なく、きれいな黄金色があった。