春の匂い
ようやく空気から冬の気配が拭い去られ、緩んだ季節がやってきた、そんなある日のことである。
私は電車に乗っていた。気の重い仕事である。早朝の新幹線に乗り、在来線に乗り継ぎここまでやってきてもなお、憂鬱な気分には変わりがなかった。
電車は郊外の駅に止まった。一人学生が降り、一人若い女が乗ってくる。当然見知らぬ顔である。縁もゆかりもない人たちの生活の一コマを、私は窓からぼんやりと眺めながら、しかし心はこれからの仕事のことでいっぱいであった。
電車はまた住宅地を貫く線路を動き始めた。相変わらず私は上の空で窓の外を見つめている。無数の家やアパートが私の目の前を通り過ぎていく。私はそれらを見つめながら、やはり何も見てはいなかった。
ふと、甘い匂いが舞い込んできた。花のような、軽やかな匂いである。その匂いで私は我に返った。窓の外はいつのまにか田園風景となっていた。まだ稲のない田んぼと、畦道と、咲き始めた桜の木が遠くに見えた。向こうの座席の開け放たれた窓から、ぬるいような風がゆっくりと吹き込んでいる。私は匂いの正体に気がついた。先ほど乗った女の、化粧か香水の匂いである。その匂いが窓の外の風に巻き込まれるように私の元へと届いているのであった。
景色は相変わらず、田んぼと、畦道と、咲きはじめの桜である。そしてその空気が流れ込み、女のほのかな匂いを纏って緩やかに私のところへと漂う。それはまさに春であった。なんとなく陽気で、穏やかな春であった。
相変わらず重くのしかかる気分の中を一瞬吹き抜けたその香りはしかし、すぐにどこかへ通り過ぎていってしまった。
永遠に次の駅につかなければ良いのに。私は切実にそう思った。