嬉しい誤算
「……クリス?」
「サレン様……!」
日が落ち少しウトウトとし始めた頃、サレン様の目が覚めた。弱々しい声だけど、眠る直前だった私は反射的に反応できたわ。あと数秒遅かったら、眠っていたかもしれない。
サレン様は、額に汗を滴らせながらこちらを見ていた。立ち上がった瞬間、側頭部に鋭い痛みを感じたけど今はそれどころじゃない。
素早くベッドへ近づくと、
「来ないで!」
「……サレン様?」
「あ、……ごめんなさい。でも、来ないで」
と、何故か口を押さえながら、最後の力を振り絞るように鋭い声を上げた。
その衝動に、全身の力が入り立ち止まる。……と、同時に頭痛が増していく。
頭を押さえながらサレン様を見ると、絶望的な表情になってこちらを見ていた。その理由がわからない私は、一歩でも近づこうと思いゆっくりを歩みを進める。
「……汗だけでも拭かせていただけませんか?」
「ダメ! それだけはダメ……」
「汗のにおいが気になるなら「違うの。……とにかく、……近寄らないで」」
「……サレン様」
近づくなと言われたら、これ以上は近づけない。私は、彼女の専属侍女でも両親でもないから。
こんな時も、隣国の公爵令嬢という立場が邪魔をする。これでは、アリスお嬢様の時から何も学べていないようなもの。
どうにかして、汗だけでも拭きたい。でも、どうやって?
何も思いつかない。それどころか、意識が朦朧として……。
そういえば、サレン様の侍女にあてがわれたサンダル伯爵のご令嬢とリンルー伯爵のご令嬢を最近見ないな。以前はよくサレン様のお世話をしていたのに。帰省しているのかしら?
「クリス、……窓を開けて! すぐに……」
「……はい」
後で調べてみよう。お給金の問題もあるから。
倒れないよう別のことを考えながら、私はサレン様の指示通り窓を大きく開け放った。
風が心地よい。このまま、風のゆりかごに揺られて眠りたい。そう思ってしまうほどに、心地良かった。
そんな私を見て安心したのか、サレン様は再度「触らないで」と言い残し気を失われた。
どうしたら良いかわからないけど、とりあえずジャックを呼びましょう。怪しい行動をしたら、頭痛薬だけいただいて帰ってもらって。
私は、フラつく足取りでサレン様の部屋を後にし、ジャックの居るであろう医療室を目指す。
でもそこにジャックはいなかった。それだけじゃない。
騎士団をとっ捕まえて探させたのだけど、宮殿にはもちろん、王宮にすらジャックの姿は見当たらなかった。無論、彼の持っていた医療バッグも同様に。
***
「イリヤ、シエラの復帰スケジュールを作ってみたのだけど見てくれる?」
「はい! ぜひ拝見させていただきます。アレンも見る?」
「わ、私も見て良いのですか?」
「もし良かったら、見てください。意見は、たくさんあった方が良いので」
自室に戻ると、扉の前ではロベール卿が背筋を伸ばし誰かを待っていた。……イリヤに用事かな? と思ったら、どうやら私を待っていたらしいの。「どうされましたか?」って聞いたら「エルザ様のお話が終わるまでご一緒させてください」ってことだった。
もちろん、快く承諾したわ。
だから、今私のそばに付き人が2人居るような感じになっているの。
……それは良いのだけど。100歩譲って、良いのだけど!
「僕がお茶を淹れる!」
「やめろ、お前に茶の味がわかるか!」
「アレンこそ、味音痴の癖に!」
「お前の作る飯を不味く感じるから、俺は味音痴じゃない!」
って、ことあるごとに喧嘩するのはやめて欲しいわ。
というか、ロベール卿はイリヤの作った料理を食べたことがあるのね。気絶したのかが気になるわ……。
とにかく、そんな感じで私はイリヤにスケジュール案の書かれた紙を3枚手渡した。本当は1枚に収めるつもりだったのだけど。いつの間にか3枚になっていたの。
だって、復帰後は車椅子なわけでしょう? だから、車椅子の移動距離・範囲、乗ったままでもできることを細かく洗い出したのよ。両手が使えるかわからないから、右手だけ使える場合と左手だけ使える場合、もちろん両手使えるバージョンも考えた。
それを見たイリヤは、楽しそうに頷きながら読んでいる。その横からロベール卿も覗いている光景は、完全に姉弟ね。……なんて、言ったらまた怒られそう。
2人とも黒髪だから似てるっていうのも否定できないけど、そもそも根本が似ているのよね。
「車椅子を使ったプランはとても良いと思います。車椅子で生活していたお嬢様だからこその視点が、盛り込まれていますし」
「本当? じゃあ、このまま……」
「でも、シエラは車椅子には乗らないとアインスから聞いています」
「え、そうなの?」
「はい。アキレス腱は、ブッチしてもしばらくすればある程度くっ付きますから。激しい運動はできませんが、歩行程度でしたら可能だそうです」
「そうなの。……良かった」
そんな2人を意味もなくボーッと眺めていると、イリヤがいたずらっ子のような顔をしながら視線を合わせてきた。「姉弟みたい!」なんて思考がバレてしまわないよう、話を聞きつつも一瞬だけ目をそらしてしまう。そんな私を、イリヤはただただ笑っているじゃないの。……ロベール卿もだわ、恥ずかしい。
私は、その空気に耐えられなくなって席を立ち、自ら窓を開けた。
……と、同時に、
「イリヤが開けます!」
「俺が開ける!」
「イリヤの仕事です!」
「いつもやってんだから、俺に譲れ」
と、またもや喧嘩? が勃発してしまう。この2人は、仲が良いのか悪いのか……。
そんな2人を見て呆れている最中に、次々と窓は開放されていく。ちょっと寒いけど……この空気じゃ言えないわね。……と思ったら、すぐにイリヤが真っ赤な膝掛けを持ってきてくれた。どうしてわかったのかしら?
「お身体を冷やさないようにしてくださいまし」
「ありがとう、イリヤ」
「いえいえ、僕はなんせお嬢様の専属メイドですからっ!」
「そうね、いつもありがとう」
「ふふんっ」
あー……。これって、ロベール卿にもお礼行ったほうが良いわね。
イリヤが煽るから、今にでも殴り合いの喧嘩が始まってしまいそうな空気がある。どうして、この2人はいつもこうなの? 後で、シエラにいつもこうなのか聞いてみましょう。
でも、アレンはいつも負けず嫌いだった。それは、とてもよく覚えている。
他人との競争ではなく、いつも自分と戦っているような感じだったけど。例えば、昨日の自分はお茶を出すときの温度が3度温かったから、今日は誤差を出さずに完璧なお茶を出そう……みたいな。向上心が強いっていうのかしらね?
そんな彼は、競り合う相手を見つけたのね。そう考えれば、今のばちばちな空気も救われる。……いえ、無理だわ。
「ロベール卿もありがとうございます」
「いえ、ご一緒させていただいている身なので、当然です。それより、ベル嬢は赤がお好きなのですか?」
「好きですが、どうしてです?」
「膝掛けが深紅だからです。とてもよく似合っていますよ」
「ありがとうございます。実はこれ、婚約者のサヴィ様からいただいたものなのです」
「……サヴィ?」
「サルバトーレ様のことね。お嬢様の婚約者の」
「あ……。あいつ……いや、あの方か」
「ロベール卿も、サヴィ様をご存知なのですか?」
再度椅子に座りながらロベール卿に聞くと、なぜか複雑そうな顔をしていた。その意味がわからない私は、首を傾げるしかない。
ロベール卿は、サヴィ様がお嫌いなのかしら? 誤解されやすそうだけど、話せば面白い方なのにな。
そう思いつつ、私はイリヤからシエラ復帰スケジュール案を受け取る。
これは、後で書き直しね。……こんな嬉しい理由で、書き直しするとは思っていなかった。今までの時間が無駄になっちゃったけど、それを打ち勝つ喜びだわ。シエラが、立てるようになるなんて。
そんなことを考えていると、ロベール卿が重ための口を開いた。
「……ダービー伯爵は、黒い噂が耐えないお方です。どうか、気をつけてくださいね」
聞き間違いじゃなければ、確かにそう言ったの。
これまた意味のわからない私は、ただただ首を傾げるしかできない。
理由を聞ける雰囲気では、なかったのよ……。