バラには、かすみ草を添えて
客間のドアをコンコンと叩きながら、イリヤはアインスに向かって「旦那様には正体を隠してあるから、秘密でお願い」と言った。それだけで中で待つ客人の正体ががわかったのか、アインスはなんとも言えない、けど、とても嬉しそうな顔をして頷いたの。
私は、それを隣に立って見ていることしかできない。
「イリヤ。私、邪魔じゃない?」
「なぜです? アレンからお嬢様のお知り合いだと聞いていますので、ひと目だけでもお会いしたらどうでしょう?」
「アレンが? 誰かしら。私、そんな顔広くないんだけど……」
「どんな感じでお知り合いだったのかまでは聞いていませんが、害を加えるようなお方ではないですのでご安心ください」
「……わかったわ」
棒立ちになっていると、イリヤが心配してくれたのか話しかけてくれた。その手は、私の右手を握り安心感を与えてくれる。それに微笑んでいると、隣に居たアインスも左手を握ってくれた。……どんな状況? でも、嫌ではない。
だって、この手は私だとわかって繋いでくれているものだから。
少し経つと、中からアレンが顔を出した。
手を繋いでブンブンと振っている私たちの姿に唖然としながらも、扉を大きく開けて中へと招き入れてくれる。でも、その視線はなぜかイリヤに向けられているわ。どうして、そんなに怖い顔をしているのかしら……。
怖くなった私は、ゆっくりと繋いでいた手を離して客間へと入った。すると……。
「アドリアン!」
「やはり、エルザ様でしたか。お久しぶりでございます」
「ああ、アドリアン! 会いたかったわ、急にごめんなさいね。……少し太った?」
「ははは。相変わらず、エルザ様ははっきりと言いなさる。今日は、ご体調がよろしいようですな」
「ええ。だってアドリアンが見つかったって聞いたら、居ても立っても居られないじゃないの」
私に続いて入ってきたアインス目掛けて、何かが飛んでくる。
びっくりしつつも目で追うと、そこには1mmも想像していなかった人物の顔があった。
そう。この国の王妃であるエルザ様が、なぜか領民の着るような簡素な服姿でアインスの両手を握りしめている。よく見ると、部屋の中には彼女の付き人が2名いるわ。
ああ、懐かしい。私の知り合いで、アインスの旧友だって言っていたのはエルザ様のことだったのね。
「エルザ様。まずは、私の新しいご主人を紹介させてください」
「あら、私ったらごめんなさい。……初めまして、アドリアンを受け入れてくださってありがとうございます。私は、エルザ。エルザ・マルティネスと申します」
「は、初めまして。ベル・フォンテーヌと申します……」
「可愛らしい主人だわ。でも、不思議ね。なぜか、初めましてって気持ちになれないの」
「……そう言っていただき、光栄でございます。おもてなしもできずに、申し訳ございません」
「良いのよ、こうやってお忍びで来たのだから」
エルザ様にカーテシーされた私は、慌ててお辞儀を返した。
私を見てふふっと笑うその顔は、5年前にお茶をしていた時にそっくり。思わず、私も笑顔になってしまうわ。
エルザ様は、以前からお身体が弱いの。だから、アインスと親しいのかしら?
「貴女が受け入れてくださったアドリアンは、私の専属侍医だったの。でも、あんなことになっちゃって……。ずっと会ってお話したかったのよ」
「そうでしたか。では、お茶のお代わりをお持ちしますね。ここは、客人の少ないお屋敷です。どうぞ、お時間の許す限りごゆっくりなさってください」
「ありがとう、ベルちゃん。ああ、可愛いわ。とても良い目をしてる」
「エルザ様の美しいブルーの目には敵いません」
「……」
そうそう。アリスの時も、こうやって「アリスちゃん」と呼んで可愛がってもらったのよ。
エルザ様は、男の子しか産んでいないから娘が欲しかったんだって。そう、何度か私に話してくれた時があったけど……。今もそうなのね。
なんて懐かしがっている最中も、エルザ様が私の手を握りながら「ベルちゃん、ベルちゃん」と親しげに話しかけてくる。
彼女の瞳は、いつ見ても美しい。以前も、同じようなことを言った気がする。美しさは、時間が経っても美しいわ。世の心理ってやつかも。
すると、黙って見ていたアインスたちが次々と口を開いた。
「エルザ様が人見知りしないとは、やはりお嬢様は大物ですなあ」
「イリヤもちょっとびっくりしています」
「まあ、ベル嬢はお優しいから」
「あら、アレン。最近外によく出ると思ったら、ベルちゃん目当てで来ているの?」
「なっ!? そ、そんなことは……」
「アレン、顔真っ赤〜」
「うるさい! イリヤは黙れ!」
「ふふ。ロベール卿は、シエラの様子を見に来ているのですよね」
「え! シエラも居るの?」
どうやら、知らなかったらしい。ってことは、単純にアインスに会いに来ただけってこと?
アインスったら、エルザ様と知り合いだなんてすごいわ。お父様に自慢……いえ、内緒だった。危ない、危ない。
私が簡単にシエラについて話すと、またもや手を握られ「ありがとう! ああ、これで今日はよく眠れるわ」と彼女は喜ばれた。
よく見ると、お化粧で隠れているけどクマが見えるわ。エルザ様は心優しいお方だから、きっとシエラが居なくなって心を痛めたに違いない。以前、グロスターで管理していた領地の領民たちの待遇にも心を痛めていたお方だから。
「では、エルザ様。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
「ありがとう、ベルちゃん。アドリアンをお借りするわ」
ここは、自分の思い出に浸って良い場面ではない。
それに気づいた私は、エルザ様から数歩離れてお辞儀をする。そして、イリヤを従えて入り口へと向かった。
今から、お茶のお代わりと、お茶菓子……何かあったかしら? 先週買ったクッキーは、いつの間にかお母様が食べていたのよね。新しいのがあったけど、どこかしら。
なんて考えていると、エルザ様が私の背中に向かって、
「貴女は、バラにどんなお花を添えるの?」
と、急に質問をしてこられた。
その声に、前へ向いていた足が止まる。もちろん、イリヤも一緒に。
これは何? どんな意味があるの?
イリヤ、アインス、アレンの順に顔を合わせて見るけど、誰1人としてその意味がわからないらしい。首を傾げて、私に向かってお手上げポーズを取っている。
考えてもわからない私は、王妃を待たせる方が失礼だと思い正直に答えた。
「……かすみ草を。かすみ草を、1本添えます」
身体の向きを変えそう答えると、エルザ様の瞳にうっすらと涙が浮かんだ気がした。でも、気のせいかもしれない。
私は、声を発しないエルザ様に向かって再度お辞儀をし、ゆっくりと客間を退出する。
***
「エルザ様、今のはどういう意味ですか?」
お嬢様の去った客間では、誰も言葉を発しようとしない。だから、私が第一声を口にした。……が、それでもエルザ様は扉を食い入るように凝視している。
何分経っただろうか。
ハッとしたように、エルザ様は周囲を見渡し、
「え、何か言った?」
と、心底驚いたような顔して聞いてこられた。
どうやら、聞いていなかったようだ。それに苦笑しつつ、再度先ほどと同じ質問を彼女にしてみた。
「……特に意味はないわ。ええ、意味はなかったの」
「お嬢様が何か御無礼なことをしましたかな」
「いいえ! そんなことないわ。それに、たとえされていても私は気にしない」
「エルザ様はお優しい」
「……そんなことないわ。それよりアドリアン、最近の話を聞かせてちょうだい。私、貴方の日常の話が一番好きなの。面白いし、刺激的だし」
「懐かしいですなあ。以前はよく、薬の調合を失敗した話を聞いていただきましたね」
「ええ! アドリアンの頭が鳥の巣になった話は、今もはっきり覚えているの」
「やや! あれは……」
どうやら、エルザ様はベルお嬢様……アリスお嬢様を肌で感じたらしい。しかし、ご自身で「そんなことない」と言い聞かせていると言ったところか。これは、教えるにしてももう少し落ち着いてからの方が良さそうだ。
しかし、そんなに親しかったのかな? エルザ様に宮殿外の交流があるとは、私も知らなかった。知っていれば、アリス・グロスターという人物が生前どのような環境に置かれていたのかわかったのに。
私はアリスお嬢様のことを考えつつ、エルザ様をソファに座らせ、昔話に花を咲かせる。付き人も、5年前から変わっていない。私に向かって優しく微笑んでくれているのもありがたい限り……おや?
先ほどまで居たのに、ロベール卿が居ないぞ。さては、ベルお嬢様についていかれたな。あの方は、本当にベルお嬢様のことがお好きなようだ。お嬢様の話を聞く限り、生前に仲が良かったようだが……。今はどうなのだろう? まあ、私が口を出すところではないな。