アリスお嬢様
イリヤの腕の中は、とても心地が良い。
例えるなら、大きな揺り籠中でフワフワのお布団を堪能するような。そんな心地よさ。
私は、そうやって心を満たしてくれる彼女を信じてみようと思い、口を開いた。
「私ね、ベルじゃないの」
自分の声と共に、心臓の音が聞こえてくる。
これは、どっちの音?
ドクドクと、まるで耳元で鳴り響いているかのように、はっきりとリズムを打っている。なのに、それが自分のものなのか相手のものなのかの判断がつかない。
言葉を発しても、イリヤは離れずに私を抱きしめ続けている。むしろ、先ほどよりも強い力で抱擁されている気がするわ。
その力強さに安堵していると、イリヤが耳元で話しかけてきた。
「……それは、どのような意味でしょうか」
「え?」
一瞬、その声が男性のものに聞こえた。とても低く、身体の芯に響く重みのあるものに。
驚いて顔を上げると、悲しげな表情をしたイリヤと目が合う。
その表情を見た時、夕陽が沈みきって夜を運んできたことを知った。
「イリヤは、旦那様にベルお嬢様のお世話をするという契約をしております。もし、貴女様がベルお嬢様でない場合、イリヤは貴女様のお世話ができません」
「それは……」
「でも、イリヤはこのままお世話を続けたいです。こうやって温かさを共有して、互いの存在を確かめ合える貴女様が好きだから。フォンテーヌ家を立て直そうと奮闘する貴女様が、好きだから。……だから、イリヤは」
薄暗くなった部屋の中、淡々とした声だけが響いている。
先ほどまでうるさいほど鳴っていた胸の鼓動は、全く聞こえない。それよりも、彼女の声が熱を帯びているような温度で、私の中に入り込んでくる方に意識が向く。
私は今、何を言おうとしていた?
頭がボーッとして、考えられない。
抱きやすいようベッドの端で、その体温に寄りかかることで精一杯だった。
「イリヤは、貴女様が誰だろうと関係ありません。筆跡が違くてもなんでも、お嬢様はお嬢様です。……それじゃダメでしょうか」
イリヤは、私がベルじゃないことをわかっていたの?
私が言っても、全然驚いてないよね。むしろ、なんだかとても冷静になったように感じるわ。
考えてみたら彼女、私のことを名前で呼んだことなかったわね。最初から「お嬢様」だった。それに、私がベルとして起きた時に「第二人格のあなた」って呼んでた。
もしかして、イリヤは最初から気づいてたの? サインを欲しがったのは、確証が欲しかっただけ?
何もわからないけど、不思議と不安はない。
「……困らせてごめんなさい。私、これからもイリヤと居たい。アインスやアラン、ザンギフにフォーリーたち。それに、お父様お母様。みんなが温かい、ここに居たい」
「そう言っていただけると、嬉しいです。きっと貴女様は、目覚める前とても冷たい場所に居たのでしょうね」
「冷たい場所?」
自分の意思を伝えると、やっとイリヤの表情が柔らかくなった。
私はそれに安堵して、彼女の胸に頭をゆっくりと預ける。怒られるかな? って思ったけど、すぐに手で後頭部を優しく押さえて引き寄せてくれた。
「貴女様を見ていると、いくら努力しても認めてもらえない、哀れみを向けられる、やって当たり前。そんな環境で1人頑張っていたような気がします」
イリヤって、こういうところが鋭いよね。
たしかに、私は1人だったわ。
シャロンとアレンが居たけど、いつも負い目を感じられていた気がする。
もちろん、彼らは彼らで懸命に私に寄り添おうとしていたのは、わかっていたわ。でも、どこかその間には線があったの。
特に、シャロン。彼女は、私を決して内側に入れることはしなかった。
アレンだって、いつも一歩引いて見ていたし。私が笑うだけで顔を真っ赤にしていたから、照れ屋さんだったのかも。どっちにしろ、懐かしい記憶ね。
「……1人ではなかったわ。私には、シャロンとアレンが居てくれたから」
「え……? シャロンとアレン?」
「あ……」
懐かしさの余韻に浸っていると、それが言葉として出てしまったらしい。イリヤの身体がピクッと動いて、私から離れていく。
アリス時代の誰かの名前を出すつもりはなかった。
身体に吹き込む隙間風を感じつつ、自身の発言に後悔をする。
イリヤの知り合いだったらどうしよう。
メイドって、メイド協会の資格がないとなれないわよね。そこで知り合っていたら……情報交換とかで、働くお屋敷を知っていたらどうしよう。
ベルお嬢様じゃなくなったら、私はイリヤと一緒に居られなくなる。さっきそう言われたばかりなのに、私ったら。
「あ、えっと……。その。な、なんでもなくて」
「……まさか、貴女様は「わ、私はっ! 私は、ベルです!」」
「……」
「ベルなの。ベルだから。フォンテーヌ家を頑張って立て直すから! お仕事ちゃんとする! イリヤの言うことだって聞く! だから、だから……側に居て」
「……お嬢様」
「もう、寂しいのは嫌なの……」
視界が、涙で歪んでいく。
こんな至近距離にいるのに、イリヤの顔が見えない。
今、貴女はどんな顔してるの? 気づいちゃった顔してる?
やっぱり、イリヤはベルじゃなきゃダメ?
言わなきゃ良かった。言わずに、このまま生活していれば良かったのに。私の馬鹿。
私は、寒くなった自身の身体に薄い掛け布団をかけようとする。でもそれは、イリヤの手によって止められてしまった。
「失礼しました、なんでもありません。お嬢様は、これからもイリヤの……フォンテーヌ家のお嬢様です」
「……ベルで居て良いの?」
「でないと、契約違反になってしまいますので。ベルお嬢様で居てください」
「……本当に良いの?」
そう問いかけると同時に、バサッと薄手の掛け布団が宙を舞う。そしてそれは、私の身体を包み込んで寒さを無くしてくれた。
もらった布団の端を掴んで、私はイリヤに話しかける。
「これからも、一緒に居てくれる?」
「はい。……そのかわり、何時ぞやは悪魔の子という話を信じてしまったイリヤをお許しくださいますか」
「え?」
「貴女様は、決して悪魔の子ではございません。それは、今まで近くで見てきたイリヤも証明します」
「イリヤ、私に気付いて……」
「さて、何のことでしょうか」
パトリシア様のお茶会に行く前、アランがアリスの話をしていた。きっと、そのことを言っているのだわ。
ということは、イリヤ。
私が誰なのか、貴女にわかってしまったのね。なのに、貴女は私の側に居てくれると言うのね。
「……ありがとう」
「でも、イリヤはちょっとびっくりして半分も話を理解してないかもしれません」
「ふふ。イリヤの正直なところ、好きだわ」
「イリヤも、新しいお嬢様が少し泣き虫なこととか、変に意地張ってお仕事頑張っちゃうところとか、それに、結構食いしん坊なとこ「わあああ! 止めて止めて!」」
急に止めてちょうだい!?
私って、そんな泣き虫なの? 意地張ってるつもりないし、食いしん坊の自覚もない。本当にそうなの?
どこに視点を合わせたら良いのか分からず、私はキョロキョロと目を動かしつつイリヤの口を両手で塞いだ。その拍子に、布団が肩から落ちたけど気にしていられない。
……ああ、笑ってる。イリヤ、笑ってるわ。
「……イリヤの意地悪」
「お嬢様の好きなところ、まだありますけど言います?」
「結構!」
なんか、顔が熱い。
これは何?
イリヤってば、余裕そうな顔して布団かけ直して! それに、さりげなく頭撫でて……恥ずかしい!
「……お嬢様」
「何よ」
「今の話、他の方にしましたか? アレンに会っていましたよね」
「してないわ。アレン、私のこと忘れてるかもしれないし。それに、信じてくれないでしょう?」
「あ、え? え、不憫……」
「……?」
花瓶? なんのこと?
イリヤってば、頭抱えてどうしたのかしら。なんだか、聞けない雰囲気だわ。
でも、すぐにいつもの彼女に戻った。なんだったの? 急に花瓶が欲しかったの?
「……まあ、信じますよ。シャロンとアレンをセットで言えば、知っている人なら誰だって。特にシャロンと言う名前は、関係者しか知り得ません。ましてや、子爵令嬢であるベルお嬢様が知っている名前ではないです」
「関係者の間では有名だったってこと?」
「まあ、そんな感じです」
「イリヤもシャロンを知ってたなんて、世間は狭いね」
やっぱり知り合いだったのね。
というか、イリヤ世代のメイド執事有能すぎない!? イリヤもなんだかんだ言って色々できるし、黄金世代ってやつだったのかも。
横の繋がりって怖いわ。
「……」
「イリヤ?」
「……あ、失礼しました。今のお話は、ここだけのものにしてください。でないと、お嬢様の命の危険があります」
「命の危険?」
「ええ。今、グロスター家が大変なことになっているのです」
「あ……」
イリヤの言葉で、お父様が亡くなったことを思い出した。一気に気分が急降下する。
「イリヤが調べられる範囲で、情報をかき集めてきます」
「……今までしてくれてなかったの?」
「申し訳ありません。あまり気持ちの良い事件ではございませんので、お嬢様のお耳に入れないつもりでした」
「……」
「そんな頬を膨らませないでくださいまし。可愛いとしか映りませんよ」
「……馬鹿。イリヤの、馬鹿」
「はい。イリヤは、馬鹿です。馬鹿だから、お嬢様をぎゅーして差し上げます」
「……うっ、うっ」
イリヤは、再度泣き出した私を優しく抱きしめてくれた。
それは布団越しなのに、とても温かく感じる。
良かった。
言って、良かった。イリヤが良い人で、シャロンたちが有名な人で良かった。
私は、突然終わってしまった過去の自分と向き合えるのね。その機会を、貴女はくれるのね。
私、自分の家族を愛しているの。きっと、私を殺したのだって理由があったはず。私は、その理由を知りたい。なぜ、お父様が亡くなったのかも。
「イリヤは、お嬢様をお守りします。改めて、誓わせてください」
「ありがとう。……ありがとう、イリヤ」
「……アリス、お嬢様。あの人に代わってお守りします」
イリヤが私をそう呼んだのは、後にも先にもこの時だけだった。
そして、自分のことで精一杯すぎて、イリヤが泣き出しそうになっているのに私は気づけなかったの。
彼女が「あの人」と呼んだのも全く疑問に思えないほど、精一杯すぎてね。
「スープ、冷めてしまいました」
「……いただくわ。冷めても、ザンギフが作ったのなら美味しいもの」
「イリヤもお嬢様にそう言ってもらえるよう、料理の腕を磨きます」
「……それはちょっと」
ふふ。
それにしても、イリヤはやっぱり面白い。私、彼女のいるところに来て本当に良かったわ。




