とある元メイドの手記
私は、後数日で死ぬらしい。誰かに言われたわけじゃないけど、そういうのって自然とわかるでしょう?
流行り病に身体を侵され、とうとうベッドの上から移動できなくなってしまったの。それに、視界がどんどん狭まっていく。特効薬のない流行り病は、私の身体を徐々に蝕んでいった。今はもう、側に置かれている、思い出深い傘も持てないほど体力が残っていない。
だから、最期の力を振り絞ってあの出来事を記録しようと思う。
手にペンを持てる今なら、書き切れる気がするの。ハウスキーパーさんにもらったノート1冊が、目の前にあるけど……これで足りるかしら? 自信がない。
別に、あの時の彼の犯罪を露見させようという目的はないわ。ただ、あの出来事そのものだけを見て、彼の行ないを判断して欲しくなくて記録するの。
その違いがわかるように、そして、最後まで書き切る時間がない気もするから、最初にこう記載しましょう。
『本当の悪魔は、殺された長女を除くグロスター一家そのものだった』……と。
***
その日は、記録的豪雨が続き庭に大きな池ができるほどの天候だった。
グロスター一家に派遣メイドとして雇われ早3年。私、エルレ・バーニーは、このお屋敷で働くことの限界を感じていた。
薬中の主人に、男同士の性行為に興奮を覚える夫人、使用人を殴り倒して満足する長男。それに、薬中のメイド長、色欲に狂った執事2名、料理に死なない程度の少量の毒物を混入して相手の顔色を楽しむ料理長。とにかく、そんな狂った人たちしかいないんだもの。
一度働いた場所には最低でも5年は居なさいって言われていたけど……その言葉を誰かに嫌味として言われても良いから、ここを辞めたかった。私は、3年も頑張ったと思う。
しかも、ここのお屋敷には黒い噂が絶えなくてね。
数年前まで、長男だけじゃなくて長女も居たとか。しかも、みんな口を揃えて「あの口うるさい奴が居なくなって人生が楽しい」と言うの。ってことはきっと、長女だけは常識人だったんだと思う。
ここからが本題でね。その長女、毒殺されたらしいのよ。しかも、このお屋敷のダイニングで。使用人たちが「夜な夜なダイニングの片付けをしていると、「呪ってやる」って恨み言葉を吐きながら幽霊が出る」って言ってるのを聞いたことがあるけど……。本当に毒殺されたのなら、そう言う茶化しはダメだと思う。
だから、私は「仕事に戻る」と言ってそういう笑い話には極力参加しないようにしてる。
今日だって、ほら。
雨音に紛れて旦那様たちがどんちゃん騒ぎしている声が……あら、珍しい。聞こえないわ。まあ、この豪雨の音じゃね。
「あら……」
「お久しぶりです、エルレ嬢」
「お久しぶりです、シャルル様。珍しいですね、今日は何をしに?」
廊下の窓を拭いていると、後ろからドミニク・シャルル様に話しかけられた。
この方は、この領地を統治している侯爵の使い人なの。3年前、私が赴任した頃は結構通っていらしたのだけど……最後に見たのは1年くらい前だわ。辞めたのかと思っていたけど、お元気そうで良かった。
奥様の愛人だ、なんて噂が一時期流れたけど、彼はそんな意思の弱い男性じゃないと思う。鋭い眼光が、それを私に主張してくる気がするのよね。
私は、持っていた雑巾を後ろ手に隠し、笑顔で彼の顔を見た。
最後に見た時は、とても傷心しきっていた感じだったのよね。今日は生き生きしていて嬉しい。やっぱり、顔が整っている人にはニコニコしていて欲しいもの。
「今日は、ちょっと掃除をしに」
「あら、私がやりますよ。どこか、汚れがありましたか?」
「大丈夫ですよ、私じゃないと届かない場所で」
「なるほど、それは身長の低い私じゃできませんね。羨ましいですわ、背が高いって」
「そんなことありませんよ。背が高いと、床の汚れに気づかない時が多くて困ってしまいます」
「ふふ、でも良い着眼点です。シャルル様は、お掃除の達人でもあったのですね」
そう言われてみれば、彼の手が濡れている気がする。少しだけ赤く見えるのは、何かしら? そんな掃除道具があった記憶はない。
でもきっと、彼は貴族だから。高級な掃除道具を使っているのでしょうね。一度で良いから、私も使ってみたいわ。お皿の油汚れが一瞬にして綺麗になるような、そんな魔法のような……。
こうして会話している間も、まるでお屋敷全体が眠っているかのように静かだわ。ザーザーと雨がガラス窓を叩く音と、私たちの会話しか聞こえて来ない。
それに、久しぶりに彼の顔を見て舞い上がっていたけど、どうしてシャルル様はそんな領民のような格好をしているの? しかも、真っ黒な。
よくよく見ると、目下に黒い点もあって……彼に、泣きぼくろはないはず。だって、以前は淡い恋心を抱いてたんだもの。気づくわ。
「……シャルル様、その格好」
「おかしいですか?」
「い、いえ。ですが、そういうのは私のような領民が着るようなものかと」
「そうです。まさに、そのイメージで制作しました」
「……制作?」
「はい。この日のために、前々から準備していたんです」
「……シャルル様?」
気のせいかもしれない。
雨がひどいから、そう見えただけかも。
よくよく見ると、彼は興奮しているようだった。まるで、一仕事してきたかのような……そんな印象を私に与えてくる。やっぱり、奥様と身体の関係があったってこと? でも、今日奥様はこの雨の中ウキウキで「会合だ」と言って出かけている。だから、その路線は違うと思う。
ジョセフ坊ちゃんは、何をしでかしたのか王宮の牢屋に入っているらしいし……。
「シャルル様?」
「貴女には、とても感謝しています。何度も、毒入りの食事について教えてくれたり、屋敷に広まる馬鹿馬鹿しい噂を気にしなかったり」
「……シャルル様、どうされたのですか?」
「きっと、アリスが生きていたら貴女と気が合ったと思います。生きていたら……」
やっぱり、おかしいわ。
シャルル様は、アリスお嬢様のお名前を呼ぶと同時に瞳から涙をこぼされた。それが、真下にあった泣きぼくろのようなものに落ちて……そこを境に、赤く染まった液体に姿を変えてくる。
それを見た瞬間、泣きぼくろではなくて血だと気づいた。でも、あんなところに小さな点のように血がつくってどんな状況? お怪我をされてるような見た目ではないし……。
私の脳内には、認めたくないあるひとつのことがぐるぐると回っている。
まるで、否定して欲しいという気持ちを待っているかのように。
「噂通り、アリスは殺されたんです。裏カジノの連中に唆されて、薬やアルコールに狂った馬鹿な家族によって……。なんであいつらがアリスを殺さなきゃいけなかったのか、そんな理由はどうでも良い。俺には、アリスを殺した連中だってことがわかりゃあそれで良い。せっかく、あいつを助け出すためシャルルに養子として迎え入れようと準備してたのに、その最中にあいつは……。あいつは、毒を飲んで苦しみの中死んでいった。死んだんだよ、アリスは! 大人の汚ねえ事情によって!」
「シャ、シャルル様。お、落ち着いてください」
「あいつの死顔を見たか? 俺は見た。まるで空気を欲するように大きく口を開けて、苦しそうに顔を歪めて。しまいには、全身土塗れで! 口の中にも、ミミズやネズミの死骸がぶち込んであった! あれが、人間のやることか!? 必死に伯爵の仕事を1人で背負って、不遇の中でも笑ってたあいつだけがそんな最期って……」
「アリス様というお嬢様が、本当にいらっしゃったんですね。私、その時期はまだここに居なかったので、皆様のお話の中でしか存じ上げませんでした」
「……悪い。お前が知らないのは、わかってる」
シャルル様の口調が変わった。
まるで、今までの話し方が演技だとでも言うように、自然に。でも、その流した涙は嘘偽りのないものだった。なぜか、そう思ったの。
それと同時に、私「も」ここで殺されるんだなって理解した。
「……シャルル様は、このお屋敷に掃除をしに来られたのですね」
「ああ。今やっと、終わったところだ」
「まだ終わってませんよ。私が残っています」
この人は、愛する人を突然失ったのね。
それも、とても理不尽なやり方で。
確かに、みんなの話を聞く限り「アリスお嬢様」は不幸体質だったと思う。頑張っても報われず、誰にも振り向いてもらえない。そんなご令嬢だと思っていた。
でも今、シャルル様の話を聞いて少しだけホッとしたの。だって、少なくともシャルル様には想われていたってことでしょう? 部屋もなく肖像画もなく、話でしか存在しないアリスお嬢様が生きていた証を、彼1人で背負っていたのかしら。
だとすれば、この怒りを私には止められない。
何も知らないもの。事情も、何も。安い言葉すら、声に出せる資格がない。
「……殺すつもりはねえ」
「でも、貴方の掃除はまだ終わってません」
「俺は、違法の裏カジノの関係者をぶっ潰せればそれで良い。おこぼれをもらって楽しんでた使用人もいなくなれば、それで……もう、アリスのような奴を出すことはねえし、あいつが笑い物にされて何度も殺されることもない」
「では、なぜ私にその話を? 殺すつもりがないのであれば、私に話しかけずにいればよかったのに」
「なんでだろうな……。そういう強気な態度に、アリスを重ねたのかもしれねぇ。ただ、この出来事を忘れろとは言わねえから、お前は生きてくれよ。できれば、死んだあいつの分も笑って生きてほしい」
「……私が犯人をしゃべらないとでも?」
「しゃべったら、その時はその時だ。俺ぁ、他にも裏カジノ関係者を何人も殺してる。処刑は免れねえが、アリスの居ないこんな場所で息をしてる理由はねえ」
彼の悲痛を聞いた私は、雑巾を床に置いていたバケツの中に放り投げた。ポチャンと、自分が思ったよりも大きな音が廊下に響き渡る。でも、それはすぐに雨音によってかき消されていく。
裏カジノが、隣国との間で行われているという話は聞いたことがある。
だから、下手に元老院が法律を作れないとか、そうじゃないとか。でも、裏カジノだなんて領民である私には縁のない話。このお屋敷に何度かその名を聞いたけど、あまり真剣に耳を傾けたことはない。
でもそうね。今法律ができても、過去の事案を照らし合わせて裁判をするなんて聞いたことがない。だから彼は、自身の手でその関係者を殺めて行ったのね。元老院が動かない分、彼が手を血に染めたのね。
それを、私は非難できない。
法律の整っていないことが、彼を罪人にしてしまったなんて皮肉すぎるでしょう。
「では、私はこれから支度をしてお屋敷を去ろうと思います。どうせ、これがなくても辞めようと思って荷物をまとめているところでしたので」
「そうか。なら、俺はそれを待ってから後処理をしよう」
「できれば、遺体は見たくないので使用人の部屋まで一緒について来てくれますか?」
「ああ、そのつもりだ」
私は、バケツも雑巾もそのままに、彼と一緒に荷物をまとめに部屋へと行った。
そして、本当に彼は私を殺さなかったの。最後は握手をして、「逃げ切ってくださいね」と言って別れた。
雨はひどかったし足元はぬかるんで歩きにくかったけど、シャルル様からいただいた傘が私の心を軽くしてくれる。その温かさが、今の今まで働いていたお屋敷が静まり返る原因になったことは数年経って振り返っても思えなかった。でも、彼は確実にグロスター一家を根絶やしにしたのは事実よ。
先日の新聞に隣国で奥様が処刑されたと書かれているのを見つけた時、真っ先にシャルル様の計画のうちだったんだろうなって思ったもの。きっと、そのうちジョセフ坊ちゃんも……。まあ、私が考えることではないか。
***
書き終わったかな。
書き残しはないかな。
そうだ。最後にメイドの仕事をせず屋敷を去ったなんて恥ずかしいから、バケツは片付けたことにしたい。そこだけ、書き直そう。
……あれ、ペンはどこに行ったのかな?
今まで書いていたノートも目の前にないし、なんならベッドも無くなってなぜか二本足で立っている自分が居る。彼からもらった傘だけが、私の手に握られていて……。
ああ、そっか。
私は死んだのね。いつ死んだのかな。最後まで書いたかの記憶がない。
最初に結論を記載しておいて良かった。
どうか、シャルル様が悪者になりませんように。
どうか、こちら側にシャルル様が来ていませんように。もし、来ていなければ、彼が来ても全力で止めてみせる。彼には、幸せになる権利があって良いでしょう。私が好いた方なんだもの。とても芯の強い、私の初恋の人……。
そうだ、この傘を持ってアリスお嬢様を探してみようか。
彼女には……恋のライバルには、ちゃんと挨拶をしないとね。