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資料の中の「アリス・グロスター」


『本日より、新米が加わりました。挨拶をお願いします』

『ご紹介いただきました、アレンと申します。よろしくお願いします』


 気づけば、グロスター伯爵のお屋敷で働く日が来ていた。

 紹介所から借りた新品の執事服に身を包んだ俺は、グロスター伯爵に仕える使用人の前に立って挨拶をする。しかし、その挨拶はあまり意味のない気がする。


 なぜなら、そこにグロスター一家が居ないからだ。せめて、紹介所へ買いに来た伯爵は居ても良いだろう……。

 居るのは、使用人が十数名のみ。伯爵家なら、もっと使用人が居てもおかしくないのに。それに、伯爵だって居やしない。執事学校では、雇われた初日は全員が顔を合わせるのが基本だと習ったのにな。まあ、教科書通りに事が進まないことくらいわかってた。



 『今すぐ、彼女を保護しましょう! じゃなきゃ、アリス・グロスターは死んでしまいます!!』



 あの時、俺の発言に誰も声をあげなかったし、否定も肯定もなかった。

 強いて言えば、ずっと俯いていたクリステル様が俺の顔を見たくらい。それ以外の変化はなく、ただただこれが「大人の世界」なのかもしれないと漠然と思ってしまったのが記憶に新しい。


 しかし、陛下に向かって怒鳴り散らしてしまったことは、誰も咎めなかった。勢いでの発言だったため、すぐに謝ったのが功をなしたのかもしれない。次からは気をつけよう。せっかく、陛下がこうやって俺を信頼して仕事を任せて下さっているのだし。


『はい、じゃあ仕事に戻りましょう。アレンと言ったわね。私は、ハンナ。メイド長よ』

『ハンナメイド長、よろしくお願いします』

『わからない事があったら、いつでも聞いてね』

『ありがとうございます』

 

 なんだ。気を張っていたが、良い人そうじゃないか。

 ハンナメイド長は、他の人が仕事に戻っていく中、俺に笑顔を向けてくれている。他のメイドたちも同様に。これは、歓迎されているということで良いのか? 確か、グロスターの資料には「外部の人間は歓迎されない」と記載されていたのに。まあ、何もせずに嫌われるよりずっと良いか。


 その時は、そう思っていたんだ。



***



 グロスター伯爵のお屋敷で働き始めて5日が経った。

 特に、予想していたようないじめはなかったし、与えられたお部屋も思ったよりも快適だった。無論、ロベールの屋敷の自室のようにくつろげるようなスペースはなかったが、それでも想像していたより10倍は良かったんだ。


 問題があるとすれば、グロスター伯爵を始めとする一家とほとんど遭遇しないことかな。彼らは、毎日のように晩酌をする。しかも、人間が狂ったかのようなそんな印象を与えながら。

 メアリー料理長に聞けば、日常茶飯事らしい。「特に旦那様はからみ酒だから近づかない方が良いよ」と教えてくれなきゃ、きっと酌をしにノコノコ出て行ったと思う。危なかった。


『っ……あ、……!』

『だ……え……、ろ!』


『……?』


 そんなある日のこと、いつもの日課である廊下の床と窓掃除をしている時のことだった。

 どこかの部屋から、罵声が聞こえてきたんだ。しかも、1人じゃない。これは、聞く限り少なくとも3~4人は居る。しかも、何かが割れた音も聞こえるぞ。

 俺は、手に持っていた雑巾をそのまま、声のする方へと歩いて行った。


 すると、途切れ途切れに聞こえてきていた話の内容がどんどんあらわになっていく。

 どうやら、厨房から聞こえてきているらしい。とてもよく響く。


『この役立たず! あいつに食わせてこいと言ったんだ!』

『でも……お嬢様は後で召し上がると……。それに、先にお着替えが』

『あいつの予定なんてどうでも良いだろう! 言われたことだけやれ!』

『お前も、あいつと同じ目に合わせるぞ!』


 その内容は、脅迫じみていた。

 声の主も、なんとなくだがわかる。あれは、執事のマリーナさんとドイットさん、それに、ハンナメイド長だ。彼女たちを怒らせるなんて、どんな失敗をしたのだろうか? 特に、ハンナメイド長は、いつもニコニコしてるのに。


 大変そうだから「手伝いますよ」と声をかけようと思った。

 執事学校で習ったんだ。仕事中にイラつく同僚が居たら、忙しさに対するストレスが大半だって。新人のうちは、そういうところがないか常にアンテナを張り巡らしてサッと行動すると、一目置かれるらしい。

 だから、声をかけようと思った。そうすれば、アリスお嬢様の専属に近づけるかもしれないだろう? でも、厨房に後一歩というところで、俺は立ち止まった。今の今までまともに挨拶していない、グロスター伯爵夫人の声も聞こえたからだ。


『そうよ、あなた来月結婚するのでしょう? お相手は、お隣のマロー伯爵だってねえ』

『な、なんで相手を知って……』

『先週、ベッドの中で教えてくれたのよ。マロー伯爵が、ね』

『な、な……そんなこと!』

『ははは! 腑抜けた顔!』

『傑作じゃないの! ふふふ、奥様に敵うお方なんて居ないのよ』

『そんな、マロー様……嘘』


 なんだ、これ?

 ご結婚されるといえば、メイドのジューンさんだよな。確か、来月で屋敷を去ることが確定している……。

 俺の解釈違いじゃなければ、グロスター伯爵夫人が寝取ったってことか? ジューンさん、あんな幸せそうに結婚の話をしていたのに。

 便乗するように言葉を吐くハンナメイド長やマリーナさんやドイットさんは、どうしちゃったんだろう。夫人の前だから、言いたいことが言えないのかも。


 その場の空気を乱せば、少しは良くなるかな。

 そう思った俺は、厨房前まで来ていた身体をゆっくりと後退させ、走ってきたかのような演技で厨房へと一気に滑り込む。


『わっ!?』

『ア、アレン!?』

『あら、新人さんね。大丈夫? 怪我はないかしら。可愛いお顔に傷ができたら悲しいわ』

『奥様、私が確認します』

『いいえ、私がするわ。下がっていなさい』

『失礼しました!』

『アレン、だったかしら?』


 勢いよく入ったためか、予定外の転倒をしてしまった。地味に腰が痛い。

 しかし、それが結果として良かったらしい。グロスター伯爵夫人を先頭に、ジューンさん以外の人たちが大慌てで俺の方へと寄ってくる。


 そして、少々大袈裟すぎるほど身体をぺたぺたと触られ、傷の確認をされた。

 これは恥ずかしいぞ……。女性に尻を触られるなんて、姉さんがふざけて叩いた時しかない。しかも、こんな人のいるところでなんて……。え、これはなんだ? 拒否……できないか。したら、怪しまれるかもしれない。

 それにしても、なんだこの気持ち悪さは。早く、その手を退けて欲しい。吐きそうだ。


『ふふ、可愛い』

『……?』

『そうだ、アレン。お願いしても良いかしら?』

『は、はい! なんでも……』


 夫人の行為によって頭が真っ白になった俺に、周囲の目まで気にしている余裕はなかった。彼女に頼まれごとをされなかったらきっと、恥ずかしい姿を晒したままだったかもしれない。

 夫人が小声で何かつぶやいたが、唐突に襲ってくる吐き気によって聞き逃してしまった。再度聞くのも失礼だし……もう一度聞き逃しがあったときにちゃんと聞けば良いか。


 改めて背筋を伸ばして一礼すると、夫人は俺に向かってニコニコ顔をしながらこう言った。


『あのね、ジューンが私の娘に食事を運びたくないって言うの。酷いわよね、雇い主の子なのに』

『それは……酷いですね』

『ち、違『でしょう? だから、こんなこと頼むのは申し訳ないのだけど、この食事を娘の部屋まで持っていってくれないかしら?』』

『はい、承知しました! このトレイですね』

『ありがとう、可愛いアレン。後で、ご褒美をあげないとね』

『お仕事をしているだけなので。それより、持っていっちゃいますね』


 話している最中、後ろに居たジューンさんが何か言おうとしていた気がする。けど、雇い主が話している時に口を開くのは、マナー違反だ。そう、執事学校で習っている。だから、彼女の言い分は聞かなくて良いだろう。

 餓死しかけた彼女に食事を運ばないなんて、どういうことだ? ジューンさんには注意しておいた方が良さそうだ。


 それよりも、これは願ってもない展開だろう。食事を運び、お嬢様に気に入られればこのまま専属になれるかもしれない。聞くところによれば、彼女には専属がいないらしいし。

 俺は、幸先の良い出来事に心を踊らせながら、夫人とハンナメイド長がニコニコとしている中、厨房を去った。


『……』


 その姿を、悲しげな目で見ているジェーンさん。

 終始俺を睨んでいたマリーナさんとドイットさん。

 そして、俺の身体を舐め回すように見ていた夫人とハンナメイド長。

 それぞれの立ち位置を知らない俺は、ただただ浮かれているだけの世間知らずだったんだ。


 そもそも、アリスお嬢様を閉じ込めて虐待していたのはこの母親じゃないか。



***


 


 アリスお嬢様は、王宮でお会いした人物とはかけ離れていた。それどころか、ご令嬢としての品格のかけらもないお姿でお部屋にいらっしゃった。

 こんな時間にベッドでボーッとしているなんておかしいし、お着物だってネグリジェのまま。誰も、彼女のお世話をしていないのだろうか。これじゃあ、お食事どころの話ではない。


 桶に湯を張って、お顔を綺麗にして差し上げないと。お髪に櫛を通して、着替えは……俺がして良いものじゃないが、お嬢様が嫌がらない程度にお手伝いだってできる。

 しかしいつの間にか、そんな日常をすっ飛ばした状態になっていた。


『……大丈夫です。わ、私は……アリスお嬢様の味方、ですか、ら……』

『……』


 ベッドに居た彼女は、食事を運んできた俺に向かって飛びついてきた。その衝撃により、持っていたトレイを落としてしまったがそれは些細な問題に過ぎない。それよりも、次の瞬間にお嬢様が床に散らばった食事を狂ったかのように貪っているお姿に唖然としてしまう。

 正気を失い涎をぽたぽたと垂らしながら、ぶつぶつと何かをつぶやいて死に物狂いで食べているんだ。止めに入っても、邪魔だと言わんばかりに押し返されて敵わない。

 そのやりとりを数回繰り返すと、食事を邪魔されたと勘違いしたお嬢様が、俺を押し倒してきて……。


 気がつけば、正気を失ったお嬢様に押し倒されていた。

 床には、持ってきた食事がばら撒かれている。視線の数センチ奥には、陶器が割れてメインの肉料理と混ざってしまっていて……でも、そんな状況はどうでも良い。肉料理のソースにまみれた手が、俺の首を掴んできてうまく息が吸えないのもどうでも良い。

 それよりも、今は彼女の心に寄り添いたいと強く思った。


 だから、腕を伸ばして目の前の頭をゆっくりと撫で上げながら、その身を抱きしめる。


『う、ううわああああああん。ああああああ』

『よしよし、大丈夫ですよ』

『あああああああああ』

『少しずつ、治していきましょうね。側にいますから』

『ああああああん、あああああ』


 すると、今まで必死になって首を締めていたアリスお嬢様は、大きな声をあげて泣き出した。俺の腕の中で、醜態を晒して泣いている。

 過去の出来事が、彼女の心に大きな傷をつけてしまったんだろう。今まで、その傷を癒す人が居なかったのも悲劇だった。

 その姿を見れば見るほど、陛下に渡された伝令書の内容が鮮明に蘇ってくる。


 資料の中に居た彼女が、俺の目の前に居た。王宮でお会いした「アリス・グロスター」ではなく、誰からも愛されていない「アリス・グロスター」が。

 そう考えるだけで、胸が張り裂けるように痛み出す。


『お嬢様、お嬢様……』

『うう、うぁ、ああ……』

『ごめんなさい。ごめんなさい、お嬢様……』


 これだけのことをされておきながらも、先ほど夫人に身体を触られた時よりずっとずっと気持ち良かった。あの時の吐き気はしないし、むしろ、俺の体温で安心してくれるならもっと触って欲しいとまで思った。この違いはなんだろうか。


 考えても、答えは出ない。


『お嬢様』

『……?』

『私、お仕事頑張ります。伯爵と夫人に認められるように頑張って、お嬢様の専属になりたいです。お許しくださいますか?』

『……』


 床には、夥しい残飯の数々が。お皿やグラスが粉々に砕け散って、その惨劇をより強烈なものとしていく。カーペットに広がったソースの汚れだけじゃなく、服にも皮膚にもドロッとしたものがこびりついていた。でも、どうでも良い。


 今は、差し出した手に縋り付いてきた彼女を支えたい。

 資料の中に居る彼女を、外の世界に連れ出したい。

 そして、初対面の時にできなかった挨拶をやり直して、またあの笑顔を見たいんだ。彼女が望むなら、俺が保護したって良い。とにかく、彼女をこれ以上悲しませたくない。


 アリス・グロスターとの再会は感動とは程遠いものだったけど、これで良かったのかもしれない。

 資料を読んだだけじゃわからなかった、そして、王族のためだけに動くことへ疑問を持っていた俺に、やるべきことを導いてくれたような気がするから。




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